吾妻鏡入門第十二巻   

建久三年(1192)壬子十一月

建久三年(1192)十一月小二日辛未。御堂供養來月可被遂行之。導師下向之間雜事以下。爲行政。盛時等奉行。今日有沙汰。海道驛家事。國々被差定奉行。足柄山越兵士。沼田太郎。波多野五郎。河村三郎。豊田太郎。工藤介等可沙汰之由被仰含云々。

読下し               みどう くよう らいげつ これ  すいこうさる  べ
建久三年(1192)十一月小二日辛未。御堂供養來月之を遂行被る可し。

 どうし げこうの かん  ぞうじ いか   ゆきまさ  もりときら ぶぎょう  な     きょう   さた あ
導師下向之間の雜事以下、行政、盛時等奉行と爲し、今日沙汰有り。

かいどう  うまや   こと  くにぐに  ぶぎょう  さ  さだ  らる
海道の驛家の事、國々の奉行を差し定め被る@

あしがらやまごえ  へいし    ぬまたのたろう  はたののごろう  かわむらのさぶろう とよたのたろう  くどうのすけら  さた すべ  のよし
足柄山越Aの兵士は、沼田太郎B、波多野五郎C、河村三郎D、豊田太郎E、工藤介F等沙汰可し之由、

おお  ふく  らる   うんぬん
仰せ含め被ると云々。

参考@國々の奉行を差し定め被るは、守護或いは宿場管理者が任命されたのかもしれない。
参考A
足柄山越は、神奈川県南足柄市矢倉沢に史蹟足柄関所跡。
参考B沼田太郎は、静岡県御殿場市沼田。足柄峠への通り道。
参考C波多野五郎は、波多野五郎義景で、神奈川県秦野市寺山に城址あり。
参考D河村三郎は、河村三郎義秀で、神奈川県足柄上郡山北町山北駅の南に城址あり。
参考E豊田太郎は、神奈川県平塚市豊田本郷。
参考F
工藤介は、工藤介茂光の子らしい。先祖に木工助藤原。伊豆の武士。

現代語建久三年(1192)十一月小二日辛未。永福寺の完成式の開眼供養を来月行うよう決めました。
指導僧が京都からやってくるので、その旅行中の雑用などを、民部大夫藤原行政と平民部烝盛時が担当するよう、今日命令がありました。
東海道の宿駅については、それぞれの国の担当を支持して決められました。
足柄山を越える際の警備の兵士は、沼田太郎、波多野五郎義景、河村三郎義秀、豊田太郎幹重、工藤介が、担当するように言い含めましたとさ。

建久三年(1192)十一月小五日甲戌。夘剋。新誕若公御行始也。入御藤九郎盛長甘繩家。被用御輿。女房大貳局。阿波局等。奉扶持之。供奉人。相摸次郎。信濃三郎。小山三郎。三浦兵衛尉。梶原源太左衛門尉。下河邊四郎。佐々木三郎等也。終日御坐。供奉人等中有献盃。盛長献御釼。又御共男女同有贈物。女房二人各小袖一領。相摸次郎以下各色革一枚也。亥剋還御云々。

読下し               うのこく  しんたん  わかぎみ  みゆきはじめなり  とうくろうもりなが  あまなわ  いえ  にゅうぎょ
建久三年(1192)十一月小五日甲戌。夘剋、新誕の若公、御行始也。藤九郎盛長が甘繩の家へ入御す。

おんこし  もち  らる    にょぼう だいにのつぼね あわのつぼねら これ  ふち たてまつ
御輿を用い被る。女房 大貳局@、阿波局等、之を扶持し奉る。

 ぐぶにん    さがみのじろう  しなののさぶろう  おやまのさぶろう  みうらのひょうえのじょう  かじわらのげんたさえもんのじょう  しもこうべのしろう  ささきのさぶろうらなり
供奉人は、相摸次郎、信濃三郎、小山三郎A、三浦兵衛尉、 梶原源太左衛門尉、下河邊四郎、佐々木三郎等也。

しゅうじつ おらる   ぐぶにん ら  なか  けんぱい あ    もりなが ぎょけん けん   また  おんとも  だんじょ  おな    おくりものあ
終日御坐る。供奉人等の中へ献盃有り。盛長御釼を献ず。又、御共の男女に同じく贈物有り。

にょぼうふたり おのおのこそでいちりょう  さがみのじろう いか おのおの いろかわいちまいなり いのこく かんご   うんぬん
女房二人、 各小袖一領。 相摸次郎以下、 各 色革一枚也。亥剋還御すと云々。

参考@大貳局は、加々美信濃守遠光の娘。局は専用部屋(局)を持ち、部下も持つ。この人が後に運慶の大威徳明王像を作らせた。
参考A小山三郎は、後にも先にもこれ一回きりの出演なので、四郎朝政の間違いではないだろうか?

現代語建久三年(1192)十一月小五日甲戌。卯の刻(午前六時頃)新しく生まれた若君(後の実朝)の、お出かけ始め式です。藤九郎盛長の甘縄の屋敷へ参られました。輿を使いましたが、官女の大二局と阿波局がお世話をしました。
お供は、相模次郎北条朝時、信濃三郎南部光行、小山三郎、三浦平六兵衛尉義村、梶原源太左衛門尉景季、下河辺四郎政義、佐々木三郎盛綱達です。一日中おられました。お供の人達へは酒が用意されていました。藤九郎盛長は刀を差し出しました。又、お供の男女へもお土産が有りました。官女二人には、それぞれ小袖を一着、相模次郎朝時以下には、それぞれ染めた皮一枚です。亥の刻(午後十時頃)に帰りましたとさ。

建久三年(1192)十一月小十三日壬午。二階堂池奇石事。猶背御氣色事等相交之間。召靜玄重被直之。畠山次郎。佐貫大夫。大井次郎運巖石。凡三輩之勤。已同百人功。御感及再三云々。

読下し                 にかいどう  いけ  きせき  こと
建久三年(1192)十一月小十三日壬午。二階堂の池の奇石の事

なお  みけしき  そむ  ことら あいまじ  のかん  じょうげん  め   かさ    これ  なおさる
猶、御氣色に背く@事等相交る之間、靜玄を召し重ねて之を直被る。

はたけやまのじろう さぬきのたいふ おおいのじろう がんせき  はこ   およ  さんやからのつと  すで  ひゃくにん こう  おな   ぎょかんさいさん およ   うんぬん
 畠山次郎、佐貫大夫、大井次郎 巖石を運ぶ。凡そ三輩之勤め、已に百人の功に同じ。御感再三に及ぶと云々。

参考@御氣色に背くは、気に入らない。

現代語建久三年(1192)十一月小十三日壬午。永福寺の池の庭石の配置について、まだ気に入らないところがあるので、静玄を呼んで、なおこれを直させました。
畠山次郎重忠、佐貫大夫四郎広綱、大井兵三次郎実春が、石を動かしました。三人の働きは、百人力なので、とても感心されておりましたとさ。

建久三年(1192)十一月小十五日甲申。貢馬五疋上洛。御厩舎人家重相具之云々。

読下し                  くめ ごひき じょうらく   みんまやのとねり いえしげ これ あいぐ    うんぬん
建久三年(1192)十一月小十五日甲申。貢馬@五疋上洛す。御厩舎人A家重 之を相具すと云々。

参考@貢馬は、年貢として馬を提出する。
参考A
御厩舎人は、調教師兼厩舎管理員。厩務員。

現代語建久三年(1192)十一月小十五日甲申。京都朝廷へ献上する馬五頭が出発です。厩務員の家重が是を連れて行ったんだとさ。

建久三年(1192)十一月小廿日己丑。永福寺營作已終其功。雲軒月殿。絶妙無比類。誠是西土九品莊巖。遷東關二階梵宇者歟。今日御臺所有御參云々。

読下し               ようふくじ  えいさく すで  そ  こう  おえ   うんけんげつでん  ぜつみょう ひるい な
建久三年(1192)十一月小廿日己丑。永福寺の營作已に其の功を終る。雲軒月殿、絶妙比類無し。

まこと  これ  さいどくほん  そうごん  とうかん にかい  ぼんう  せん  ものか   きょう  みだいどころ ぎょさん あ   うんぬん
誠に是、西土九品@の莊巖。東關二階の梵宇に遷す者歟。今日、御臺所、御參有りと云々。

参考@西土九品は、西国浄土の阿弥陀の九品。阿弥陀の印に上中下品かける上中下相で九種類ある。

現代語建久三年(1192)十一月小二十日己丑。永福寺の工事が終わりました。
雲に届くような軒も、月の様に綺麗な建物も、その素晴らしさは比べる物がありません。本当にこれは、西国浄土の阿弥陀の九品の荘厳さは、関東での二階建ての寺に移って来ているにちがいない。
今日、御台所政子様も見物に来ましたとさ。

説明上品は、親指と人差し指で輪を作る。中品は、親指と中指で輪を作る。下品は、親指と薬指で輪を作る。上相は、弥陀定印。中相は、説法印。下相は、来迎印がある。

建久三年(1192)十一月小廿二日辛夘。於鶴岡宮有御神樂。是御堂供養不可有魔障之由御祈祷也。相摸守爲御奉幣御使也。

読下し                 つるがおか  をい  おかぐら あ     これ  みどう くよう   ましょう あ  べからずのよし  ごきとう なり
建久三年(1192)十一月小廿二日辛夘。鶴岡宮に於て御神樂有り。是、御堂供養の魔障有る不可之由の御祈祷也。

さがみのかみ ごほうへい  おんし  な  なり
相摸守、御奉幣の御使と爲す也。

現代語建久三年(1192)十一月小二十二日辛卯。鶴岡八幡宮でお神楽を奉納しました。
これは、永福寺の開眼供養式典に邪魔者が現れないようにとのご祈祷です。相模守大内惟義が、代参をしました。

建久三年(1192)十一月小廿五日甲午。白雲飛散。午以後屬霽。早旦熊谷次郎直實与久下權守直光。於御前遂一决。是武藏國熊谷久下境相論事也。直實於武勇者。雖馳一人當千之名。至對决者。不足再往知十之才。頗依貽御不審。將軍家度々有令尋問給事。于時直實申云。此事。梶原平三景時引級直光之間。兼日申入道理之由歟。仍今直實頻預下問者也。御成敗之處。直光定可開眉。其上者。理運文書無要。稱不能左右。縡未終。巻調度文書等。投入御壷中起座。猶不堪忿怒。於西侍自取刀除髻。吐詞云。殿〔乃〕御侍〔倍〕登〔利波天〕云々。則走出南門。不及歸私宅逐電。將軍家殊令驚給。或説。指西馳駕。若赴京都之方歟云々。則馳遣雜色等於相摸伊豆所々并筥根走湯山等。遮直實前途。可止遁世之儀之由。被仰遣于御家人及衆徒等之中云々。直光者。直實姨母夫也。就其好。直實先年爲直光代官。令勤仕京都大番之時。武藏國傍輩等勤同役在洛。此間。各以人之代官。對直實現無礼。直實爲散其欝憤。屬于新中納言。〔知盛卿〕送多年畢。白地下向關東之折節。有石橋合戰。爲平家方人。雖射源家。其後又仕于源家。於度々戰塲抽勳功云々。而弃直光。列新黄門家人之條。爲宿意之基。日來及境違乱云々〕今日。永福寺供養也。有曼陀羅供。導師法務大僧正公顯云々。前因幡守廣元爲行事。導師請僧施物等同于勝長壽院供養之儀。布施取被採用十人。又導師加布施銀釼。前少將時家取之。將軍家御出云々。
 先陣隨兵
  伊澤五郎信光   信濃三郎光行
  小山田三郎重成  澁谷次郎高重
  三浦左衛門尉義連 土肥弥太郎遠平
  小山左衛門尉朝政 千葉新介胤正
 將軍家
  小山七郎朝光持御釼
  佐々木三郎盛綱着御甲
  勅使河原三郎有直懸御調度云々。
 御後供奉人〔各布衣〕
  武藏守義信    參河守範頼
  遠江守義定    上総守義兼
  相摸守惟義    信濃守遠光
  越後守義資    豊後守季光
  伊豆守義範    加賀守俊隆
  兵衛判官代義資  村上判官代義國
  藤判官代邦通   源判官代高重
  修理亮義盛    新田藏人義兼
  奈胡藏人義行   佐貫大夫廣綱
  所雜色基繁    橘左馬大夫公長
  千葉大夫胤頼   野三左衛門尉義成
  八田右衛門尉知家 足立左衛門尉遠元
  比企右衛門尉能員 梶原刑部丞友景
  左衛門尉景季   後藤兵衛尉基C
  梶原兵衛尉景茂〔景時子〕 景定〔朝景男〕
  畠山次郎重忠   土屋三郎宗遠
  工藤庄司景光   加藤次景廉
  梶原平三景時   因幡前司廣元
 後陣隨兵
  下河邊庄司行平  和田左衛門尉義盛
  小山田四郎重朝  葛西兵衛尉C重
  工藤左衛門尉祐經 野三刑部丞成綱
  小山五郎宗政   佐々木五郎義C

読下し                 はくうん と   ち    うま いご はれ  ぞく
建久三年(1192)十一月小廿五日甲午。白雲飛び散り。午以後霽に屬す。

そうたん  くまがいのじろうなおざね と くげごんのかみなおみつ  ごぜん  をい  いっけつ  と    これ  むさしのくにくまがい  くげ  さかいそうろん ことなり
早旦、 熊谷次郎直實 与 久下權守直光、 御前に於て一决を遂ぐ。是、武藏國熊谷@と久下Aの境相論の事也。

なおざね ぶゆう  をい  は   ひとり とうせんの な   は      いへど   たいけつ  いた    は   さいおう ちじゅうのさい  たりず
直實武勇に於て者、一人當千之名を馳せると雖も、對决に至りて者、再往知十之才に不足。

しきり  ごふしん  のこ    よつ    しょうぐんけ たびたび じんもんせし  たま  こと あ   ときに なおざね もう   い
頗に御不審を貽すに依て、將軍家、度々尋問令め給ふ事有り。時于直實申して云はく。

こ   こと  かじわらへいざのかげとき なおみつ いんきゅう   のかん  けんじつ  どうりの よし   もう   い     か
此の事、 梶原平三景時、直光を引級するB之間、兼日にC道理之由を申し入れる歟D

よつ  いま  なおざねしきり かもん あずか ものなり  ごせいばいのところ  なおみつ さだ   まゆ  ひら  べ     そ   うえは   りうん  もんじょ よう な
仍て今、直實頻に下問に預る者也。御成敗之處、直光 定めて眉を開くE可し。其の上者、理運の文書要無し。

とこう   あたはず  しょう   こといま  おえ      ちょうどもんじょ ら  ま     おんつぼ  なか  な   い   ざ   た
左右に不能と稱し、縡未だ終ずに、調度文書F等を巻き、御壷の中に投げ入れ座を起つ。

なお  ふんぬ  たまらず  にし さむらい をい  みづか かたな と もとどり はら    ことば  はき  い

猶、忿怒に不堪、西の侍Gに於て、自ら刀を取り髻を除い、詞を吐て云はく。

との 〔 の 〕おんさむらい〔 へ 〕  のぼ  〔 り は て 〕   うんぬん
殿〔乃〕御侍〔倍〕〔利波天〕と云々。

すなは みなみもん はし い    したく  かえ    およばずちくてん   しょうぐんけ こと おどろ せし たま
則ち南門を走り出で、私宅に歸るに及不逐電す。將軍家殊に驚か令め給ふ。

あるせつ    にし  さ   が   は       も     きょうとのほう   おもむ か   うんぬん
或説に、西を指し駕を馳せる。若しや京都之方へ赴く歟と云々。

すなは ぞうしきら を さがみ   いず   しょしょ なら    はこね   そうとうさんら   は   つか
則ち雜色等於相摸、伊豆の所々并びに筥根、走湯山等へ馳せ遣はす。

なおざね  ぜんと  さへぎり  とんせいのぎ   と    べ    のよし  ごけにん およ  しゅうとら の なか に おお  つか  され    うんぬん
直實の前途を遮て、遁世之儀を止める可し之由、御家人及び衆徒等之中于仰せ遣は被ると云々。

なおみつは  なおざね  いぼ  おっとなり
直光者、直實の姨母Hが夫也。

そ  よしみ  つ    なおざね せんねん なおみつ だいかん な    きょうとおおばん  きんじせし    のとき  むさしのくに  ぼうはいら おな  やく  つと  ざいらく
其の好に就き、直實、先年 直光の代官と爲し、京都大番に勤仕令める之時、武藏國の傍輩等同じ役を勤め在洛す。

こ   かん おのおの ひとのだいかん もつ   なおざね  たい ぶれい  あらは
此の間、各、人之代官を以て、直實に對し無礼を現す。

なおざね そ  うっぷん  ち       ため  しんちゅうなごん 〔とももりきょう〕 に ぞく  たねん  おく をはんぬ
直實其の欝憤を散らさん爲、新中納言〔知盛卿〕于屬し多年を送り畢。

あからさま かんとう  げこう の おりふし  いしばしかっせん あ
白地に關東へ下向之折節、石橋合戰有り。

へいけ  かたうど  な     げんけ   い     いへど   そ  のち また  げんけに つか   たびたび せんじょう をい  くんこう  ぬき     うんぬん
平家の方人と爲し、源家を射ると雖も、其の後又、源家于仕へ、度々の戰塲に於て勳功を抽んずと云々。

しか   なおみつ  す     しんこうもん  けにん  れつ   のじょう   すくい の もと  な     ひごろ さかい  いらん  およ    うんぬん
而して直光を弃て、新黄門Iの家人に列する之條、宿意之基と爲し、日來境の違乱に及ぶと云々。

参考@熊谷は、埼玉県熊谷市熊谷。
参考A久下は、埼玉県熊谷市久下。
参考B
引級するは、えこひいきをする。
参考C兼日には、前もって。
参考D道理之由を申し入れる歟は、自分の方に道理がある事を頼朝に申し入れている。
参考E
眉を開くは、眉をしかめるの反対で喜ぶ。
参考F調度文書は、手継ぎ文書を備え付けて置く事を調度文書と言う。
参考G
西の侍は、西の侍所。
参考H姨母は、おば(母の姉妹)。
参考I
新黄門は、新中納言の唐名で知盛を指す。

現代語建久三年(1192)十一月小二十五日甲午。白い雲が飛んでいましたが、昼頃から晴れました。
朝早くから、熊谷次郎直実と久下権守直光が御前で対決をしました。これは、武蔵国熊谷と久下との境界の訴訟です。熊谷直実は、武勇は一人で千人にも当たることで有名ですが、こと裁判については、言葉のやり取りに充分な力がありません。言ってる事がちぐはぐにおかしいので、将軍頼朝様から何度も質問がありました。
そんな時、直実が言うのには、「このことについて、担当の梶原平三景時が、直光をえこひいきをして、あらかじめ自分が正しいと行ってあるんじゃないの。それで今、直実は質問攻めにあっているんだ。裁決は、直光がきっと有利になってしまうだろう。これじゃー、証拠の文書も必要ないし、どうしようもない。」とまだ終わっていないのに、証拠の文書を坪庭にぶん投げて、席を立ってしまいました。
なおも、怒りは収まらず、西の溜まり場「侍所」で、自分で刀を抜いて髷(まげ)の髻(もとどり)を切ってしまい、言葉を吐き棄てました。「殿の侍に出世したけれど」だとさ。直ぐに門を出て、自宅へも帰らず行方をくらましてしまいました。
将軍頼朝様は、とてもびっくりしてしまいました。ある者が言うのには、「西へ向かって馬を飛ばしていたんで、もしかしたら京都へ行くつもりなのかもね。」だとさ。すぐに雑用を相模や伊豆のあちこちと箱根神社や伊豆山神社へ走らせました。直実の前へ行って、世捨てを止めさせるようにと、御家人や坊さん達に伝えさせましたとさ。
直光は、直実のおばの連れ合いです。その縁戚の関係で、直実は以前に直光の代理として、京都朝廷警備の「大番役」を勤めていた時に、武蔵国の同輩達が同様の役で京都におりました。その時に、連中は代官だと馬鹿にして、直実に対して無礼な態度をしました。直実は、その鬱憤を晴らそうと、新中納言平知盛の家来となり何年か過ごしました。にわかに関東へ帰る時に、石橋山の合戦がありました。平家に属して、源氏に敵対しましたが、その後は源氏に仕え、何度も戰塲で手柄を立てたのでした。
そう云う訳で、直光から離れて中納言平知盛の家来になったのが、恨み合いの元となり、年中縄張り争いをするようになったのです。

きょう  ようふくじ くようなり    まんだらぐ あ    どうし  ほつむだいそうじょうこうけん  うんぬん
今日、永福寺供養也。曼陀羅供有り。導師は法務大僧正公顯と云々。

さきのいなばのかみひろもと ぎょうじ な    どうし  しょうそう  せぶつら しょうちょうじゅいん くようのぎ に おな   ふせとり  じうにん  さいようされ
前因幡守廣元行事と爲す。導師、請僧の施物等勝長壽院供養之儀于同じ。布施取は十人を採用被る。

また  どうし   かぶせ   ぎんけん  さきのしょうしょうときいえ これ と
又、導師の加布施は銀釼。前少將時家之を取る。

しょうぐんけ ぎょしゅつ   うんぬん
將軍家御出すと云々。

  せんじん  ずいへい
 先陣の隨兵

     いさわのごろうのぶみつ       しなののさぶろうみつゆき
  伊澤五郎信光    信濃三郎光行(南部光行)

     おやまだのさぶろうしげなり     しぶやのじろうたかしげ
  小山田三郎重成   澁谷次郎高重

     みうらのさえもんのじょうよしつら  といのいやたろうとおひら
  三浦左衛門尉義連  土肥弥太郎遠平

     おやまのさえもんのじょうともまさ  ちばのしんすけたねまさ
  小山左衛門尉朝政  千葉新介胤正

  しょうぐんけ
 將軍家

     おやまのしちろうともみつ ぎょけん も
  小山七郎朝光御釼を持つ

     ささきのさぶろうもりつな おんよろい つ
  佐々木三郎盛綱御甲を着く

     てしがわらのさぶろうありなお ごちょうど   か    うんぬん
  勅使河原三郎有直御調度を懸けると云々。

   おんうしろ ぐぶにん 〔 おのおの ほい 〕
 御後の供奉人〔各、布衣〕参考布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。

     むさしのかみよしのぶ       みかわのかみのりより
  武藏守義信(大内)  參河守範頼

     とおとうみのかみよしさだ      かずさのかみよしかね
  遠江守義定(安田)  上総守義兼(足利)

     さがみのかみこれよし        しなののかみとおみつ
  相摸守惟義(大内)  信濃守遠光(加々美)

     えちごのかみよしすけ        ぶんごのかみすえみつ
  越後守義資(安田)  豊後守季光(毛呂)

     いずのかみよしのり          かがのかみとしたか
  伊豆守義範(山名)  加賀守俊隆

     ひょうえのほうがんだいよしすけ   むらかみほうがんだいよしくに
  兵衛判官代義資   村上判官代義國

     とうのほうがんだいくにみち      みなもとのほうがんだいたかしげ
  藤判官代邦通    源判官代高重

     しゅうりのりょうよしもり         にったのくらんどよしかね
  修理亮義盛(関瀬)  新田藏人義兼

     なごのくらんどよしゆき        さぬきのたいふひろつな
  奈胡藏人義行    佐貫大夫廣綱

     ところのぞうしきもとしげ        たちばなのさまたいふきんなが
  所雜色基繁     橘左馬大夫公長

     ちばのたいふたねより        のざのさえもんのじょうとおもと
  千葉大夫胤頼(東)  野三左衛門尉義成

     はったのうえもんのじょうともいえ   あだちのさえもんのじょうとおもと
  八田右衛門尉知家  足立左衛門尉遠元

     ひきのうえもんのじょうよしかず    かじわらのぎょうぶのじょうともかげ
  比企右衛門尉能員  梶原刑部丞友景

     さえもんのじょうかげすえ       ごとうのひょうえのじょうもときよ
  左衛門尉景季(梶原) 後藤兵衛尉基C

     かじわらのひょうえのじょうかげもち 〔 かげとき  こ 〕  かげさだ 〔 ともかげ おとこ 〕
  梶原兵衛尉景茂  〔景時が子〕 景定〔朝景が男〕

     はたけやまのじろうしげただ     つちやのさぶろうむねとお
  畠山次郎重忠    土屋三郎宗遠

     くどうのしょうじかげみつ       かとうじかげかど
  工藤庄司景光    加藤次景廉

     かじわらのへいざかげとき      いなばのぜんじひろもと
  梶原平三景時    因幡前司廣元

  こうじん  ずいへい
 後陣の隨兵

     しもこうべのしょうじゆきひら     わだのさえもんのじょうよしもり
  下河邊庄司行平   和田左衛門尉義盛

     おやまだのしろうしげとも      かさいのひょうえのじょうきよしげ
  小山田四郎重朝   葛西兵衛尉C重

     くどうのさえもんのじょうすけつね  のざのぎょうぶのじょうなりつな
  工藤左衛門尉祐經  野三刑部丞成綱

     おやまのごろうむねまさ       ささきのごろうよしきよ
  小山五郎宗政    佐々木五郎義C

現代語今日は、永福寺の完成式典です。両界曼荼羅の供養が有り、指導僧は法務大僧正公顕だそうです。前因幡守大江広元が仕切りました。指導僧とお供の坊さん達へのお布施は、勝長寿院のときと同じです。お布施を運んだのは十人を選びました。又、指導僧へのおまけのお布施は、銀作りの刀で、前少將時家が手渡しました。

将軍様のお出ましです。
前の警固の騎馬の武士は、
 武田五郎信光   南部三郎光行
 稲毛三郎重成   渋谷次郎高重
 三浦左衛門尉義連 土肥弥太郎遠平
 小山左衛門尉朝政 千葉新介胤正
将軍様
 小山七郎朝光が刀持ち
 佐々木三郎盛綱が将軍の鎧着
 勅使河原三郎有直が弓矢持ちだそうな。
後ろについていくお供〔それぞれ礼装の狩衣〕は、
 大内武藏守義信  源參河守範頼
 安田遠江守義定  足利上総介義兼
 大内相模守惟義  加々美信濃守遠光
 安田越後守義資  毛呂豊後守季光
 山名伊豆守義範  加賀守俊隆
 兵衛判官代義資  村上判官代義国
 藤原判官代邦道  源判官代高重
 関瀬修理亮義盛  新田藏人義兼
 奈古蔵人義行   佐貫大夫四郎広綱
 所雑色基繁    橘左馬大夫公長
 東六郎大夫胤頼  小野三郎左衛門尉義成
 八田右衛門尉知家 足立左衛門尉遠元
 比企右衛門尉能員 後藤新兵衛尉基C
 梶原三郎兵衛尉景茂〔梶原平三景時の子〕 梶原兵衛尉景定〔梶原刑部烝朝景の息子〕
 畠山次郎重忠   土屋三郎宗遠
 工藤庄司景光   加藤次景廉
 梶原平三景時   大江広元
後ろの警固の騎馬の武士は、
 下河辺庄司行平  和田左衛門尉義盛
 榛谷四郎重朝   葛西兵衛尉清重
 工藤左衛門尉祐経 小野刑部丞成綱野
 長沼五郎宗政   佐々木五郎義清

建久三年(1192)十一月小廿九日戊戌。新誕若君五十日百日儀也。北條殿沙汰之給。女房不候陪膳。江間殿令從之給。被進御贈物。御劔。沙金。鷲羽也云々。武州 上州 參州 相州 因州 常胤 朝政 朝光 重忠 義澄 宗平〔中村庄司〕 行平 知家 遠光 盛長 C重 義盛 景廉 景時 朝景 景光等。送給十字云々。

読下し                 しんたん  わかぎみ  いかが  ももか   ぎなり  ほうじょうどの これ さた   たま
建久三年(1192)十一月小廿九日戊戌。新誕の若君の五十日百日の儀也。北條殿之を沙汰し給ふ。

にょぼうばいぜん そうらはず えまどの これ  したが せし  たま   おんおくりもの すす  らる   ぎょけん  さきん  わしのはねなり うんぬん
女房陪膳に不候。江間殿之に從は令め給ひ、御贈物を進め被る。御劔、沙金、鷲羽也と云々。

ぶしゅう じょうしゅう さんしゅう そうしゅう いんしゅう つねたね  ともまさ  ともみつ  しげただ  よしずみ  むねひら  ゆきひら  ともいえ  とおみつ
武州、上州、參州、 相州、因州、常胤、朝政、朝光、重忠、義澄、宗平、行平、知家、遠光、

もりなが  きよしげ  よしもり  かげかど  かげとき  ともかげ  かげみつ ら   じうじ   おく  たま    うんぬん
盛長、C重、義盛、景廉、景時、朝景、景光等に、十字@を送り給ふと云々。

参考@十字は、蒸し饅頭。但し、餡子は入ってない。詰め物入りは、隠元禅師(1592-1673)が宋から伝えたという。

現代語建久三年(1192)十一月小二十九日戊戌。新しく生まれた若君(後の実朝)の、五十日百日の儀式です。北条時政殿が負担しました。女官が給仕をせずに、北条義時殿が手伝いをしました。若君への贈り物は、刀と砂金と鷲の羽根です。
武州大内義信、前上州藤原範信、三州源範頼、相州大内惟義、因州大江広元、千葉介常胤、小山朝政、結城朝光、畠山重忠、三浦介義澄、中村宗平、下河辺行平、八田知家、加々美遠光、藤九郎盛長、葛西清重、和田義盛、加藤次景廉、梶原景時、梶原朝景、工藤景光達に、饅頭を送ったんだそうです。

十二月へ

吾妻鏡入門第十二巻   

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