吾妻鏡入門第十二巻   

建久三年(1192)壬子十二月

建久三年(1192)十二月大二日庚子。本學院宰相僧正公顯皈洛。已應兩度之屈請。可謂多生之芳契歟云々。

読下し               ほんがくいん さいしょうそうじょうこうけん きらく
建久三年(1192)十二月大二日庚子。本學院の 宰相僧正公顯 皈洛す。

すで りょうど の くっしょう  おう   たしょうのほうきつ  いひ  べ  か  うんぬん
已に兩度之屈請@に應じ、多生之芳契Aと謂つ可き歟と云々。

参考@屈請は、頭を下げ、屈んで懇請する。
参考A多生之芳契は、とても有難い事。

現代語建久三年(1192)十二月大二日庚子。本学院の宰相僧正公顕が京都へ帰りました。
もう既に二度も、頼みを聞いてくれたので、とてもありがたい事なんだそうだ。

建久三年(1192)十二月大五日癸夘。依御堂供養事令群參。未退散。而今日被召聚武藏守。信濃守。相摸守。伊豆守。上総守〔足利〕。千葉介。小山左衛門尉。下河邊庄司。小山七郎。三浦介。佐原左衛門尉。和田左衛門尉等於濱御所。各着北面十二間。將軍家自奉懷新誕若公出御。此嬰皃鐘愛殊甚。各一意而可令守護將來之由。被盡慇懃御詞。剩給盃酒。女房大貳局〔近衛局〕取杓持盃云々。仍面々奉懷若公。献御引出物。〔各腰刀云々〕申謹承之由。退出云々。

読下し                みどうくよう   こと  よつ  ぐんさんせし    いま  たいさん
建久三年(1192)十二月大五日癸夘。御堂供養の事に依て群參令め、未だ退散せず。

しか    きょう むさしのかみ  しなののかみ  さがみのかみ  いずのかみ  かずさのかみ  ちばのすけ  おやまのさえもんのじょう  しもこうべのしょうじ
而して今日武藏守、 信濃守、 相摸守、 伊豆守、 上総守、 千葉介、 小山左衛門尉、 下河邊庄司、

おやまのしちろう  みうらのすけ  さはらのさえもんのじょう  わだのさえもんのじょうら を はま  ごしょ  め   あつ  られ
小山七郎、 三浦介、 佐原左衛門尉、 和田左衛門尉等於濱の御所に召し聚め被る。

おのおの ほくめんじうにかけん つ    しょうぐんけみづか しんたん わかぎみ いだ たてまつ しゅつご
 各、 北面十二間に着く。將軍家自ら新誕の若公を懷き奉り出御す。

こ   えいじ   しょうあい こと はなは   おのおの いちい    て しょうらい しゅごせし  べ    のよし  いんぎん おんことば つくされ
此の嬰皃への鐘愛殊に甚し。 各、 一意にし而將來を守護令む可し之由、慇懃の御詞を盡被る。

あまつさ はいしゅ たま   にょぼうだいにのつぼね 〔このえのつぼね〕 しゃく  と  さかづき も    うんぬん
 剩へ盃酒を給ふ。女房大貳局 〔近衛局〕 @を取り盃を持つと云々。

よつ  めんめん  わかぎみ  いだ たてまつ おんひきでもの 〔おのおの こしがたな うんぬん 〕     けん つつし たてまつ のよし  もう    たいしゅつ   うんぬん
仍て面々に若公を懷き奉り、御引出物〔 各、 腰刀と云々。〕を献じ謹み承る之由を申し、退出すと云々。

参考@杓は、銚子でお雛様の三人官女の向って右側の人が持っている両側に継ぎ口がある柄杓。左側の薬缶は片口。

現代語建久三年(1192)十二月大五日癸卯。永福寺の完成式開眼供養の行事で、御家人達が皆鎌倉へ集って来ましたが、未だに帰らず残っています。
そこで今日、武蔵守大内義信、信濃守加々美遠光、相模守大内惟義、伊豆守山名義範、上総介足利義兼、千葉介常胤、小山左衛門尉朝政、下河辺庄司行平、小山七郎朝光、三浦介義澄、佐原左衛門尉義連、和田左衛門尉義盛達を、名越の浜の御所へ呼び集めました。
それぞれ、北の十二間の部屋に座りました。将軍頼朝様は、自ら新しく生まれた若君(後の実朝)を抱いてお出になりました。この子への可愛がりようは、特別のようです。
皆、一様に将来必ずお守りして欲しいと、丁寧なお言葉を尽くしました。そればかりか、酒が振舞われました。官女の第二局〔近衛局〕が、お銚子や盃を取って酌をしてして回りましたとさ。それなので、それぞれに若君を抱いてみては、「謹んで贈り物〔それぞれ大刀〕を献上しましょうね。」と言った後に、帰って行きましたとさ。

建久三年(1192)十二月大十日戊申。女房大進局。先日拝領伊勢國三ケ山事。依被申子細。重被遣政所御下文。民部丞行政奉行之云々。

読下し               にょぼう だいしんのつぼね せんじつはいりょう いせのくに みかやま  こと  しさい   もうされ    よつ
建久三年(1192)十二月大十日戊申。女房 大進局@、 先日拝領の伊勢國三ケ山の事、子細を申被るAに依て、

かさ   まんどころ おんくだしぶみ つか さる   みんぶのじょうゆきまさ これ ぶぎょう   うんぬん
重ねて政所 御下文を 遣は被る。 民部丞行政 之を奉行すと云々。

参考@大進局は、建久2年(1191)1月23日条で伊逹爲家の娘。頼朝のご落胤を産み政子に睨まれ建久3年(1192)4月11日7歳を連れて京都へ行った。
参考A子細を申被るは、ぐずったので。

現代語建久三年(1192)十二月大十日戊申。幕府女官の大進局が、先日戴いた伊勢国三ケ山の領地の事でぐずったので、ちゃんと文書を与えられました。
民部大夫藤原行政(二階堂)がこれを担当しましたとさ。

建久三年(1192)十二月大十一日己酉。走湯山住侶專光房進使者。申云。直實事。就承御旨。則走向海道之處。企上洛之間。忽然而行逢畢。既爲法躰也。而其性殊異樣。只稱仰之趣。令抑留之條。曾不可承引。仍先譖嘆出家之功徳。次相搆誘來于草庵。聚同法等。談浄土宗法門。漸令和順彼欝憤之後。造一通書札。諌諍遁世逐電事。因茲於上洛者。猶豫之氣出來歟者。其状案文送進云々。將軍家太令感給。猶廻秘計。可留上洛事之由。被仰云々。〔專光状案云〕遠訪月氏之先蹤。近案日域之舊規。出有爲之境。入無爲之道者。專制戒之所定。佛勅有限。抑靈山金人之出王舎城。入檀特山。猶爲報摩耶之恩徳。令安居刀利天九十日。花山法皇之去鳳凰城。臨熊野山。又爲救皇祖之菩提。令參籠那智雲三千日。皆表知恩報恩理之故歟。爰貴殿不圖赴出家之道。可有遁世之由有其聞。此條雖似通冥慮。頗令背主命者歟。凡生武略之家。携弓箭之習。不痛殺身。偏思至死者。勇士所執也。此則不乖布諾。不忘芳契之謂也。而今忽入道令遁世者。違仁義之礼。失累年本懷歟。不如縱雖有出家之儀。如元令還本座。若不然者。不背物儀。宜叶天意者哉。爲之如何。以此直實諷諌之贋札。爲傳來葉稱美之龜鑑。右京進仲業預置之云々。

読下し                 そうとうさんじゅうりょ せんこうぼう ししゃ すす   もう   い
建久三年(1192)十二月大十一日己酉。走湯山住侶 專光房 使者を進め申して云はく。

なおざね こと  おんむね うけたまは つ   すなは かいどう  はし  むか  のところ  じょうらく  くはだ    のかん  たちま しか  て ゆ  あ  をはんぬ
直實が事、御旨を承るに就き、則ち海道へ走り向う之處、上洛を企てる之間、忽ち然り而行き逢い畢。

すで  ほったい  な   なり  しか    そ  しょう こと  いよう
既に法躰と爲す也。而るに其の性殊に異樣。

ただおお のおもむき しょう   よくりゅうせし   のじょう  あへ  しょういん べからず
只仰せ之趣と稱し、抑留令める之條、曾て承引す不可。

よつ  ま   しゅっけのくどく   さんたん   つぎ  あいかま  そうあんに さそ  きた    どうぼううら   あつ      じょうどしゅう  ほうもん  かた
仍て先ず出家之功徳を譖嘆し、次に相搆へ草庵于誘い來り、同法等を聚めて@、浄土宗の法門を談り、

しばら か   うっぷん  わじゅんせし   ののち  いっつう  しょさつ  つく    とんせいちくてん こと  かんそう
漸く彼の欝憤を和順令める之後、一通の書札を造りA、遁世逐電の事を諌諍すB

ここ  よつ  じょうらく をい  は   ゆうよ の け いできた  か てへ   そ   じょう  あんぶん  そうしん   うんぬん
茲に因て上洛に於て者C、猶豫之氣出來る歟者り。其の状の案文を送進すと云々。

しょうぐんけ はなは かん  せし たま   なお  ひけい  めぐ      じょうらく  とど  べ  ことのよし   おお  られ   うんぬん
將軍家 太だ感ぜ令め給ふ。猶、秘計を廻らし、上洛を留む可き事之由、仰せ被ると云々。

参考@同法等を聚めては、坊主仲間を集めて。
参考A
書札を造りは、文書を書いて。
参考B
諌諍すは、きつく諌めた。
参考C上洛に於て者は、上洛することは。

 〔 せんこう じょう の あん  い     〕
〔專光の状の案に云はく〕

とお    げっしのせんしょう  とぶら  ちか    じちいきの きゅうき  あん         うい の さかい い     むい の みち  い   ば
遠くは月氏之先蹤を訪ひ、近くは日域之舊規を案ずるに、有爲之境を出で、無爲之道に入ら者、

もつぱ せいかいのさだ  ところ  ぶっちょくかぎ  あ
專ら制戒之定むる所、佛勅 限り有り。

そもそも りょうざんきんじんのおうしゃじょう  い   だんとくざん  い    なお   まやのおんとく  むく    ため  とうりてん   くじうにち あんご せし
 抑、靈山金人之王舎城を出で、檀特山に入り、猶、摩耶之恩徳に報いん爲、刀利天に九十日安居令む。

かざんほうおう の ほうおうしろ  さ     くまのさん  のぞ    また  こうその ぼだい  すく    ため   なち  くも  さんぜんにち さんろうせし
花山法皇之鳳凰城を去り、熊野山に臨む。又、皇祖之菩提を救はん爲、那智の雲に三千日參籠令む。

みな  ちおんほうおん ことわり あらは のゆえか  ここ  きでん はからず  しゅっけのみち おもむ   とんせいあ  べ   のよし そ   きこ  あ
皆、知恩報恩の理を表す之故歟。爰に貴殿不圖に出家之道へ赴く。遁世有る可し之由其の聞へ有り。

こ   じょう  みょうりょ つう      に    いへど   すこぶ しゅめい  そむ  せし    ものか
此の條、冥慮に通づるに似ると雖も、頗る主命に背か令める者歟。

およ  ぶりゃくのいえ  うま    きゅうせん かかは のなら    み  ころ    いたまず  ひとへ し   いた    おも  ば   ゆうし  と  ところなり
凡そ武略之家に生れ、弓箭に携る之習ひ、身を殺すを不痛、偏に死に至るを思は者、勇士の執る所也。

これすなは ふだく  そむかず  ほうきつ わすれずのいわれなり
此則ち布諾を不乖。芳契を不忘之 謂也。参考布諾は、希布一諾で一度承諾した約束は(固い約束)。

しか  いまたちま にゅうどう とんせいせし  ば  じんごのれい  たが    るいねん  ほんかい うしな か
而して今忽ち入道し遁世令め者、仁義之礼を違へ、累年の本懷を失う歟。

しかじ   たと  しゅっけのぎ あ    いへど   もと  ごと  ほんざ  かへ  せし    も  しからずんば  ぶつぎ  そむかず
不如、縱ひ出家之儀有ると雖も、元の如く本座へ還ら令む、若し不然者、物儀に不背。

よろ   てんい   かな  ものなり  これ  な       いかん
宜しく天意に叶う者哉。之を爲すこと如何。

こ なおざねふうかんの がんさつ  もつ    らいようしょうびのきがん  つた    ため  うきょうのしんなかなり これ  あず  お    うんぬん
此の直實諷諌之贋札Dを以て、來葉稱美之龜鑑Eに傳へん爲、右京進仲業に之を預け置くと云々。

参考D贋札は、手紙。
参考E來葉稱美之龜鑑は、後々の模範文書に伝えるため。

現代語建久三年(1192)十二月大十一日己酉。熱海の走湯神社の僧侶專光坊良暹が、使いを寄越して伝えるのには、

熊谷直実について、頼朝様のご意向を承りましたので、直ぐに東海道へ走って行ったところ、直実が京都へ向かっていたので、直ぐに出会うことが出来ました。既に僧侶の姿になっていました。しかし、その精神状態はちょっと異常です。ただ、頼朝様の仰せだからと言って引き止めましたが、承知しません。そこで、とりあえず出家した心栄えを褒めちぎって、心して私の庵へ誘って来て、同僚の坊さん達を集めて、浄土宗のありがたい話をしたので、やっと怒りが収まりました。そして一通の書状を書いて、世を棄て行方を晦ませた事をきつく諌めました。爰にいたってようやく京都へ行くことは止めておこうかと思い始めたと言いました。その手紙の下書きを送りますからなんだとさ。頼朝様は、とても感心なされました。なお、計略をめぐらして京都への上洛を思いとどまらせるようにと、おっしゃられましたとさ。

〔專光坊良暹の手紙の案文に書いてあるのは〕
遠い話では、中国西域の月氏の例を考え、近い話では、日本の古い規則では、娑婆世界を出て、出家の道に入ったならば、色々と守らなくてはならないと決められている仏教の戒律は厳しい者です。お釈迦様は、霊山金人の王舎城(ラージャガハ、古代インドマガダ国首都)を出て、檀特山(ガンダーラ)で修行をされ、なお、母の摩耶夫人の恩返しに、須弥山の頂上三十三天(とう利天)に昇り説法をなされました。花山天皇は宮中を出て剃髪し熊野さんへ向かった。又、天皇家の菩提を弔うために、那智の滝に三千日のお篭りをしました。これは皆、恩を受けていることを知って恩に報いることの仏教の根本原理を理解しているからなのでしょうね。今貴方が思いがけなく出家の道へ入り、この世を棄ててしまうのだと聞いております。それは、神仏のお心には通じているように思われがちですが、大変主君に対しては背くことになるでしょう。代々武人の家系に生まれて、弓矢の戦闘を習い覚え、己の命を顧みず、死を恐れては居ないのが武士の進む道であります。それこそが一度承諾した約束は違えない、
主従の契約を忘れてはいないというものです。それなのに今さっさと頭を剃って世を棄ててしまうことは、仁義の礼を変えてしまって、長年の目的を失うことになるでしょう。いかがでしょう。たとえ出家はなさっても、元のままの地位に戻られていかがでしょう。そうすれば、世評にも背かないで、神仏の意思に合う事になるでしょう。さあ、いかがですか。

この熊谷直実を諌めた手紙を後々の模範文書として伝えておくようにと、右京進中原仲業に保管させましたとさ。

建久三年(1192)十二月大十四日壬子。一條前黄門書状參着。以亡室遺跡廿ケ所。讓補男女子息。爲塞將來之乖違。去月廿八日。申下 宣旨訖。右中弁棟範朝臣傳宣。權中納言〔兼光卿。〕宣。奉勅云々。是平家没官領内。攝津國福原庄。武庫御厨。小松庄。尾張國高畠庄。御器所松枝領。美濃國小泉御厨。帷庄。津不良領。近江國今西庄。粟津庄。播磨山田領。下端庄。大和國田井。兵庫庄。丹波國篠村領。越前國足羽御厨。肥後國八代庄。備後國信敷庄。吉備津宮。淡路國志筑庄。已上廿ケ所。先日被奉讓黄門室家〔將軍家御妹也〕也云々。

読下し                 いちじょうさきのこうもん しょじょうさんちゃく  ぼうしつ  ゆいせき にじっかしょ もつ   だんじょ  しそく   じょうぶ
建久三年(1192)十二月大十四日壬子。 一條前黄門 が書状參着す。亡室が遺跡廿ケ所を以て、男女の子息に讓補す。

しょうらいのくわいの ふさ    ため  さんぬ つきにじうはちにち せんじ  もう  くだ をはんぬ
將來之乖違に塞がん爲、 去る月廿八日、 宣旨を申し下し訖。

うちゅうべんむねのりあそん でんせん ごんのちゅうなごん〔かねみつきょう〕せん  ちょく たてまつ   うんぬん
右中弁棟範朝臣 傳宣、 權中納言〔兼光卿〕宣し、勅を奉ると云々。

これ  へいけもんりょうない  せっつのくに ふくはらのしょう  むこのみくりや こまつのしょう   おわりのくに たかはたのしょう  ごきそ まつえだりょう
是、平家没官領内、 攝津國 福原庄@、武庫御厨A、小松庄B、尾張國 高畠庄C、 御器所D、松枝領E

参考@福原庄は、神戸三宮。
参考A
武庫御厨
は、兵庫県尼崎市武庫之荘(むこのそう)。
参考B小松庄は、西宮市小松南町2丁目2-8の岡太社(岡太神社)と平重盛館(小松城)。
参考C高畠庄は、愛知県西尾市高畠町?。
参考D
御器所
は、名古屋市昭和区御器所通。
参考E松枝領は、愛知県一宮市木曽川黒田字松枝?。

みののくに こいずみのみくりや かたびたのしょう つぶらりょう   おうみのくに いまにしのしょう あわづのしょう
美濃國 小泉御厨F、 帷庄G、津不良領H、 近江國今西庄J、 粟津庄K

参考F小泉御厨は、岐阜県可児郡御嵩町。
参考G
帷庄は、岐阜県可児市帷子新町?。
参考H
津不良領は、岐阜県大垣市津村町。
参考I今西庄は、滋賀県東浅井郡湖北町今西?。
参考J粟津庄は、滋賀県大津市粟津町。

はりまやまだりょうしもはたのしょう  やまちのくにたいひょうごのしょう  たんごのくにしのむらりょう
播磨山田領下端庄K、大和國田井L 兵庫庄M、丹波國篠村領N

参考K下端庄は、兵庫県神戸市垂水区下畑町?。
参考L田井は、奈良県高市郡高取町田井庄。
参考M兵庫庄は、奈良県高市郡高取町兵庫。田井庄と兵庫は1km程度。
参考N篠村領は、
京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1に篠宮八幡宮がある。

えちぜんのくにあすはのみくりや ひごのくにやつしろのしょう びんごのくにしのぶのしょう きびつのみや あわじのくにしづきのしょう いじょう にじっかしょ
 越前國足羽御厨O、 肥後國八代庄P、 備後國信敷庄Q 吉備津宮R 淡路國志筑庄S已上廿ケ所。

参考O足羽御厨は、福井県福井市足羽(あすは)。
参考P八代庄は、熊本県八代市。
参考Q信敷庄は、広島県庄原市。
参考R
吉備津宮は、岡山県岡山市吉備津字宮内の吉備津神社。
参考S志筑庄は、兵庫県淡路島志筑。

せんじつ  こうもん  しつけ 〔しょうぐんけおんいもうとなり〕  ゆず たてまつられ なり うんぬん
先日、黄門の室家〔將軍家御妹也〕讓り奉被る也と云々。参考將軍家御妹也とあるが、姉との説もあり、塾長は姉説をとる。

現代語建久三年(1192)十二月大十四日壬子。前黄門中納言一条能保から手紙が届きました。
亡くなった奥さんの遺産の所領二十箇所を、男女の子供達に分け与えました。将来食い違う事の無いように、先月の二十八日に、朝廷からの命令を出してもらいました。右中弁棟範が勅旨を伝える役で、権中納言兼光が宣言して天皇の許可を得たんだそうな。
これらは、平家から取上げて与えられた領地のうち、
摂津国福原庄、武庫御厨小松庄
、尾張国高畠庄、御器所、松枝領、美濃国小泉御厨、帷庄、津不良領、近江国今西庄、粟津庄、播磨山田領、下端庄、大和国田井、兵庫庄、丹波国篠村領、越前國足羽御厨、肥後國八代庄、備後国信敷庄、吉備津宮、淡路国志筑庄の以上二十箇所です。先日、一条能保の奥さん〔頼朝様の姉〕から譲り受けたのだそうな。

説明これらは、承久の乱後、時房の領地となる。

建久三年(1192)十二月大廿日戊午。澁谷輩者。偏備勇敢。尤相叶御意之間。爲慰公事勤役。以彼等領所相摸國吉田庄地頭。被申請領家圓滿院。爲請所。御倉納物所被贖其乃具也。
 前右大將家政所
  運上 相摸國吉田御庄御年貢送文事
   合准布陸佰漆拾肆段貳丈内〔加六十一反先分料〕
   見布貳佰陸拾漆段
  染衣五切          代百反〔各廿反〕
  上品八丈絹六疋       代百廿反〔各廿反〕
  納布九反内〔上二反中七反〕 代
  藍摺准布卅反        代六十反
  紺布二反〔無文〕      代四反
  率駄二疋          代四十反
  持夫七人          代五十二反二丈
  例進長鮑千百五十帖
  移花十五枚
  染革二十枚
 右。付夫領助弘。運上如件。
   建久三年十二月廿日        平〔御判〕

読下し               しぶや  やからは ひとへ ゆうかん  そな
建久三年(1192)十二月大廿日戊午。澁谷の輩者、偏に勇敢を備う。

もつと  ぎょい  あいかな  のかん  くじ きんえき  なぐさめ ため  かれら  りょうしょ さがみのくに よしだのしょう じとう  もつ
尤も御意に相叶う之間、公事勤役を慰ん爲@、彼等の領所 相摸國 吉田庄A地頭Bを以て、

りょうけ  えんまんいん もう   う   られ
領家 圓滿院Cに申し請けD被る。

うけしょ   な     みくら   のうぶつ  そ  のうぐ  あがはられ ところなり
請所Eと爲し、御倉Fの納物を其の乃具に贖被るG所也。

参考@慰ん爲は、税を軽くしてやる。
参考A
吉田庄は、渋谷庄に同じ。
参考B
地頭は、地頭職。
参考C
圓滿院は、三井寺三門跡の一つ。
参考D申し請けは、申請して。
参考E請所と爲しは、地頭として一定額を納付する。定額納付庄園。
参考F御倉は、鎌倉幕府の倉。
参考G
乃具に贖被るは、頼朝が変わりに払ってやる。

  さきのうだいしょうけまんどころ
 前右大將家政所

    うんじょう  さがみのくに よしだおんしょう ごねんぐ おくりぶみ こと
  運上 相摸國 吉田御庄H御年貢I送文の事

       あわ    じゅんぷ ろっぴゃく しちじゅう  したん にじょう  うち 〔  くは  ろくじゅういったん さきわ   か  〕
   合せて准布 陸佰 漆拾 肆段 貳丈の内〔加へて六十一反を先に分け料す〕

       げんぷ  にひゃく ろくじゅう しちたん
   見布 貳佰 陸拾 漆段J

    そめぬの ごきれ                    かわ   ひゃくたん 〔おのおのにじったん〕
  染衣五切         の代りに百反〔 各 廿反〕

    じょうぼんはちじょうぎぬろっぴき           かわ   ひゃくにじったん〔おのおのにじったん〕
  上品八丈絹六疋      の代りに百廿反〔 各 廿反〕

    のうふ きゅうたん うち 〔じょうにたんちゅうしちたん〕   かわ
  納布九反の内〔上二反中七反〕の代りに

    あいずりじゅんぷさんじったん             かわ   ろくじったん
  藍摺准布卅反       の代りに六十反

    こんぷ にたん  〔 むもん 〕              かわ    したん
  紺布二反〔無文〕      の代りに四反

    ひきだ にひき                     かわ    しじったん
  率駄二疋         の代りに四十反

    もちふ しちにん                    かわ    ごじうにたんにじょう
  持夫七人         の代りに五十二反二丈

    れいしん  ながあわび せんひゃくごじっちょう
  例進のK長鮑 千百五十帖

    うつしばな じうごまい
  移花L 十五枚

    そめかわ にじうまい
  染革M 二十枚

  みぎ    ふりょう すけひろ  ふ    うんんじょう くだん ごと
 右は、夫領N助弘に付し、運上 件の如し。

     けんきゅうさんねんじうにがつはつか                たいら 〔ごはん〕
   建久三年十二月廿日        平O〔御判P

参考H吉田御庄は、頼朝の荘園として。
参考I御年貢は、頼朝の年貢として。
参考J見布貳佰陸拾漆段は、現布二百六十七反で現物をとりあえず送る。上段が元々の税だったのを下段の准布に換算して代わりに准布を送っている。
参考K例進のは、直税以外の先例。
参考L
移花は、染料。
参考M
染革は、牛皮。
参考N夫領は、百姓の労働力として払い税金を「夫領綱丁」と云うらしいので、「労働提供指揮者」と解した。
参考O平〔御判〕は、事務職の平民部烝盛時と思われる。
参考P
〔御判〕は、頼朝の花押と思われる。

現代語建久三年(1192)十二月大二十日戊午。渋谷の連中は、全く勇敢な器量を備えています。一番、頼朝様のお気持にあっているので、国衙の勤労奉仕や税を軽くしてあげるために、彼等の所領の相模国吉田庄(渋谷庄)の地頭として、納税相手の領家の三井寺門跡の一つ円満院に申請して、一定額の請負払いとし、幕府の倉から年貢をかわりに払ってやることにしました。

前右大将家頼朝様の政務機関政所から
 運び納付する相模国吉田荘園の年貢の送付について
  全部で金銭代わりの反物 六百七十三反二丈の内〔六十一反は先に〕。
  見布二百六十七反。
 染めた衣五切れの変わりに百反〔一切れにつき二十反〕。
 上質の八丈大島の絹六匹の代わりに百二十反〔一匹につき二十反〕。
 年貢用の布九反のうち〔上質が二反、中質が七反〕の代わりに?
 藍の摺り染め銭代わりの布三十反の代わりに六十反。
 紺の布二反〔無地〕の代わりに四反。
 貨物用の馬二頭の代わりに四十反。
 運び人七人の代わりに五十二反二丈。
 直税以外の先例としての熨斗鮑(のしあわび)千五百帖。
 染料の紅花の紙状に伸ばした物二十枚。
 牛革の染めたの二十枚。
以上を、労働提供指導者の助弘に担当させ、運び進上するのはこのとおりです。
   建久三年十二月二十日         平民部烝盛時 〔頼朝の花押〕

建久三年(1192)十二月大廿三日辛酉。若公万壽。此一兩日御不例。今日疱瘡出現給。此事都鄙殊盛。尊卑遍煩云々。

読下し                 わかぎみまんじゅ  こ  いちりょうじつ ごふれい  きょう ほうそう い あらわ たま
建久三年(1192)十二月大廿三日辛酉。若公 万壽。此の一兩日 御不例。今日疱瘡出で現れ給ふ。

こ   こと    とひ こと  さか          そんぴ あまね わずら   うんぬん
此の事、都鄙@殊に盛んにしてA、尊卑B遍く煩うと云々。

参考@都鄙は、都も田舎も。
参考A
盛んにしては、流行して。
参考B尊卑は、尊い人も卑しい身分の低い人も。

現代語建久三年(1192)十二月大二十三日辛酉。若君の万寿丸様(後の頼家)は、この一日二日具合が悪いのです。
今日になって疱瘡が出ました。この病気は都も田舎でも流行していて、身分の高い人も低い人も皆、かかってしまうそうです。

建久三年(1192)十二月大廿八日丙寅。伊勢大神宮御領武藏國大河戸御厨所濟事。増員數。對神主。被定下當所田代捌佰余丁也。平家知行之時。本宮御上分國絹佰拾參疋外。雖不能神用。當于此御時。爲公私御祈祷。正官物併所被奉免也。所謂本田別貳疋四丈。新田町別貳石。所當田町別壹石參斗云々。因幡前司。藤民部丞等奉行之云々。

読下し                 いせだいじんぐう ごりょう むさしのくに おおかわどのみくりや しょさい こと
建久三年(1192)十二月大廿八日丙寅。伊勢大神宮御領 武藏國 大河戸御厨@所濟Aの事。

いんずう  ま     かんぬし  たい   とうしょ   たしろひゃくよちょう  さば  さだ  くだされ  なり
員數を増しB、神主に對し、當所の田代佰余丁を捌き定め下被る也。

へいけ ちぎょうのとき   ほんぐうごじょうぶん こっけん ひゃくじゅうさんびき ほか  かんよう  あたはず いへど
平家知行之時、本宮御上分 國絹 佰拾參疋の 外、神用に不能と雖も、

こ   おんときにあた    こうし    ごきとう   ためしょうかんぶつ あわ    ほうめんされ ところなり
此の御時于當り、公私の御祈祷の爲に、正官物と併せて奉免C被る 所也。

いはゆる ほんでん      べつ  にひきしじょう  しんでん ちょうべつ にこく   しょとうだ  ちょうべつ いっこくさんと  うんぬん
所謂、本田は(一町)別に貳疋四丈。新田は町別に貳石D。所當田Eは町別に壹石參斗Fと云々。

いなばのぜんじ  とうのみんぶのじょうら これ ぶぎょう   うんぬん
因幡前司、 藤民部丞等 之を奉行すと云々。

参考@大河戸御厨は、埼玉県北葛飾郡松伏町大河戸。伊勢神宮が、本所。頼朝が領家(関東御分国)。
参考A
所濟は、税金。
参考B員數を増しは、増税。
参考C
奉免は、免除。
参考D
貳石は、一町十石取れるので二割になる。
参考E所當田は、公田。
参考F
壹石參斗は、一町十石取れるので一割三分になる。

現代語建久三年(1192)十二月大二十八日丙寅。伊勢神宮の領地、武蔵国大河戸御厨の納税については、増加して神主分に、ここの田んぼのうち、百余町を分け与えてくださいました。
平家が管理している頃は、本宮へ納める分として、現地生産の絹百十三匹のほか
は神様用ではありませんでしたが、この機会に朝廷や幕府の安泰の為のお祈り代として、正税と一緒に免除されたのでした。云ってみれば、元からの田んぼでは、一町につき絹二匹四丈。新しく開発追加した田んぼの分は、一町につき二石。国衙管理の田んぼは、一町につき一石三斗だそうです。因幡前司大江広元と民部允藤原行政が担当しましたとさ。

説明一町は十反で十石だけれど、寄進する側によるので一定や一律ではない。元々1人が1日食べる分として1坪が決められ、1年を360日として360坪を1反1石とした。但し田圃により上下する。1俵は4斗60kgなので、2俵半で1石150kg。現在の良田では1反で8俵はとれるので3.2石とれる。谷戸田でも5俵で2石とれる。陸稲が2俵とれるので、昔の水田は陸稲より少しましな程度だったらしい。

建久三年(1192)十二月大廿九日丁夘。東大寺修造間事。重被仰下之趣。前左衛門尉定綱所言上也。早可催促周防國材木之由。被仰遣云々。今日走湯山專光房献歳末巻數。以其次申云。直實法師上洛事者。偏就羊僧諷詞思止畢。但無左右不可還參營中。暫可隱居武州之由申之云々。

読下し                 とうだいじ しゅうぞう かん  こと  かさ    おお  くだされのおもむき
建久三年(1192)十二月大廿九日丁夘。東大寺修造の間の事、重ねて仰せ下被之趣、

さきのさえもんのじょうさだつな ごんじょう ところなり
 前左衛門尉定綱  言上する所也。

はやばや すおうのくに ざいもく  さいそくすべ  のよし  おお  つか  され    うんぬん
早〃と周防國の材木を催促可し之由、仰せ遣は被ると云々。」

きょう そうとうざんせんこうぼう さいまつ かんじゅ けん    そ ついで  もつ  もう    い
今日走湯山專光房 歳末の巻數@を献ず。其の次を以て申して云はく。

なおざねほっし じょうらく ことは  ひとへ  ようそう   ふうし   つ   おも  とど   をはんぬ ただ   そう な   えいちゅう かんさん べからず
直實法師 上洛の事者、偏に羊僧が諷詞に就き思い止まり畢。但し左右無く營中に還參す不可。

しばら ぶしゅう  いんきょすべ  のよし これ  もう   うんぬん
暫く武州に隱居可き之由之を申すと云々。

参考@巻數は、お経を読んだ数の報告。

現代語建久三年(1192)十二月大二十九日丁卯。東大寺の修理について、追加の命令はなんでしょうかと、佐々木前左衛門尉定綱(訂正佐々木三郎盛綱)が言って来たところなので、早く周防国の材木を運び出せと催促するようにとお命じになられたそうな。
今日、走湯神社の專光坊良暹が、年末のお経を読んだ数を届けてきました。そのついでに申し上げるのには、「熊谷次郎直実法師の京都への上洛については、さかんに私が引き止めたので、思い留まりました。ただし、安易に幕府へは戻らないでしょう。しばらく武蔵の本拠に大人しく引きこもっていることでしょう。」との事でした。

説明前左衛門尉定綱は、佐々木太郎定綱だが、薩摩へ配流中なので、周防の杣だしは佐々木三郎盛綱の間違いと思われる。

吾妻鏡入門第十二巻   

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