吾妻鏡入門第十三巻   

建久四年(1193)癸丑正月小

建久四年(1193)正月小一日己巳。將軍家御參鶴岳八幡宮。還御之後有垸飯。千葉介常胤沙汰之。源氏并江間殿及御家人等候庭上。時剋。將軍家出御。上総介義兼起座。參進上御簾。相摸守惟義持參御劔。八田右衛門尉知家御調度。梶原左衛門尉景季持參御行騰。千葉大夫胤頼役沙金。千葉介常胤鷲羽。次引進御馬五疋。常胤子息三人。孫子二人引之。所謂師常。胤信。胤道。胤秀等也。亦今日被定人々座敷次第。被下御自筆式目云々。

読下し             しょうぐんけ つるがおかがちまんぐう ぎょさん   かんごのにち おうばん あ    ちばのすけつねたね これ  さた
建久四年(1193)正月小一日己巳。將軍家 鶴岳八幡宮へ 御參す。還御之後垸飯有り。千葉介常胤 之を沙汰す。

げんじ なら    えまどの およ  ごけにんら ていじょう  そうら
源氏@并びに江間殿及び御家人等庭上に候う。

 じこく     しょうぐんけ しゅつご   かずさのすけよしかね ざ  た  さんしん  おんみす  あ
時剋にA、將軍家出御す。上総介義兼 座を起ち參進し御簾を上げる。

さがみのかみこれよし ぎょけん じさん    はったのうえもんのじょうともいえ ごちょうど   かじわらのさえもんのじょうかげすえ  おんむかばき じさん
相摸守惟義 御劔を持參す。八田右衛門尉知家は御調度B、 梶原左衛門尉景季は 御行騰を持參す。

ちばのたいふたねより さきん  えき   ちばのすけつねたね わしはね  つぎ おんぬま ごひき ひきすす   つねたね しそく さんにん  まご ふたり これ  ひ
千葉大夫胤頼沙金を役す。千葉介常胤は鷲羽。 次に御馬五疋を引進む。常胤が子息三人、孫子二人之を引く。

いはゆる  もろつね  たねのぶ  たねみち たねひでらなり
所謂、 師常、胤信、 胤道、胤秀等也。

また  きょう   ひとびと  ざしき   しだい   さだ  らる    おんじひつ  しきもく  くださる    うんぬん
亦、今日、人々の座敷の次第Cを定め被る。御自筆の式目Dを下被ると云々。

参考@源氏は、御門葉と称し、源氏の一族で親戚づきあいとした。
参考
A
時剋は、何時か分からないが、決められた時間があったのか?又、時刻が分かる方法があったのか、分からない。
参考B御調度は、武士の場合は弓矢。
参考C座敷の次第は、座席の序列を決めた。源平盛衰記には、侍所二つ有、内に大物、外に中堅、下端は庭。
参考
D
式目は、規則。

現代語建久四年(1193)正月小一日己巳。将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。戻った後、ご馳走の振る舞いがありました。
千葉介常胤の負担経営です。源氏の一族と義時様、それに御家人達が庭にそろいました。
予定時刻に頼朝様のお出ましです。足利上総介義兼が席を立って御座へ進みみすを巻き上げました。大内相模守惟義が刀を差し出し、八田右衛門尉知家が弓箭を差し出し、梶原源太左衛門尉景季が乗馬袴の行縢を持ってきました。東六郎大夫胤頼が砂金を持ち、千葉介常胤は鷲の羽を差し出しました。
次ぎに庭に馬五頭を引き出しました。千葉介常胤の子供三人と孫二人が引いています。それは、相馬次郎師常、大須賀四郎胤信、国分五郎胤道、大須賀胤秀達です。又、今日座席の序列をお決めになられ、頼朝様ご自身で書き出した次第を下さいましたとさ。

建久四年(1193)正月小五日癸酉。工藤左衛門尉祐經家。恠鳥飛入。不知其号。形如雉雄云々。卜筮之處。愼不輕。仍廻祈請云々。

読下し             くどうのさえもんのじょうすけつね  いえ    けちょう とびい    そ   な   しらず  かたち きじ おす  ごと   うんぬん
建久四年(1193)正月小五日癸酉。 工藤左衛門尉祐經が 家に、恠鳥飛入る。其の号を不知。形は雉の雄の如しと云々。

ぼくぜいのところ つすし かろからず  よつ  きしょう  めぐ     うんぬん
卜筮之處、愼み不輕@。 仍て祈請を廻らすAと云々。

参考@愼み不輕は、きちんと祈りをして良い政治をしないとやばい。
参考A祈請を廻らすは、お祈りをした。

現代語建久四年(1193)正月小五日癸酉。工藤左衛門尉祐経の家に、怪しげな鳥が飛び込みました。鳥の名は分かりません。形は雉の雄に似ていましたとさ。占ってみるときちんと神仏を祀って良い政治を行いなさいとのことなので、お祈りをしましたとさ。

建久四年(1193)正月小十日戊寅。南御堂修正也。將軍家御參云々。

読下し             みなみみどう しゅじょう なり  しょうぐんけ ぎょさん   うんぬん
建久四年(1193)正月小十日戊寅。南御堂の修正@也。 將軍家御參すと云々。

参考@修正は、正月会を修する。毎年十日までの間にやる。

現代語建久四年(1193)正月小十日戊寅。勝長寿院南御堂での正月のお経を上げる正月会なので、将軍頼朝様は出席なさいましたとさ。

建久四年(1193)正月小十四日壬午。高雄文學上人傳申云。東大寺造營。頗難終功之由。舜乘房愁訴申之。舊院御時。雖被寄料米二万石。國司只貪利潤。敢不致沙汰。於今者。關東不令執申給者。難成歟云々。仍被預舊院御分國内備前國於文學房。以其所濟。可給彼寺之營作之由。可早被申京都。亦保元以後顛倒新庄建立畢。於土御門殿可被奏達之趣。有沙汰云々。

読下し               たかおのもんがくしょうにん つた もう   い
建久四年(1193)正月小十四日壬午。 高雄文學上人 傳へ申して云はく。

とうだいじぞうえい  すこぶ こう  お  がた   のよし  しゅんじょうぼう これ うれ  うった  もう
東大寺造營、頗る功を終へ難し之由、 舜乘房 之を愁い訴へ申す。

きゅういん おんとき  りょうまいにまんごく  よ  られ    いへど   こくし   ただりじゅん むさぼ    あへ  さた いたさず
舊院の御時、料米二万石を寄せ被ると雖も、國司は只利潤を貪り、敢て沙汰不致。

いま  をい  は   かんとうしつ  もう  せし  たま  ずんば   な  がた  か   うんぬん
今に於て者、關東執し申さ令め給は不者@、成り難き歟と云々。

よつ  きゅういん  ごぶんこく  うち  びぜんのくにを もんがくぼう あず  られ  そ   しょさい  もつ
仍て舊院の御分國Aの内、備前國於文學房に預け被、其の所濟を以て、

か   てらの えいさく  たま  べ    のよし  はや  きょうと  もうさる  べ
彼の寺之營作に給ふ可し之由、早く京都に申被る可し。

また  ほげん いご てんとう  しんしょう こんりゅう をはんぬ  つちみかどどの  をい  そうたつされ  べ  のおもむき  さた あ   うんぬん
亦、保元以後B顛倒の新庄を建立しC畢。 土御門殿に於て奏達被る可しD之趣、沙汰有りと云々。

参考@關東執し申さ令め給は不者は、鎌倉幕府から指図してくれなければ。
参考A舊院の御分國は、後白河法皇の知行国。知行国主が国司を任命する。
参考B
保元以後は、保元の乱(1125)。
参考C新庄を建立しは、荘園を立て直す。保元以後、藤原信西が私荘を公領とした。これを新荘として建てる。
参考D土御門殿に於て奏達被る可しは、土御門通親に天皇から言わせる。

現代語建久四年(1193)正月小十四日壬午。京都高雄神護寺の門覚上人から伝言がありました。
東大寺の修復がとても終えそうも有りませんと、舜乗房重源が嘆き訴えています。後白河院の時は、費用として米二万石を寄附してくれましたけど、現地の
周防国司藤原公基は着服することばかりを考えていて、ちっとも実施してくれません。今となっては、関東の将軍から指図してくれなければ、成功することは無いでしょうとの事です。
そこで後白河院の支配する国のうち、備前国を文覚に預けて、その年貢で東大寺の費用に当てるように、京都朝廷へ云って下さい。又、保元の乱以来、だめになってしまっている荘園を建て直しました。そこで、土御門通親に天皇から命じてもらうように、お決めになられましたとさ。

建久四年(1193)正月小廿日戊子。三浦介一族等。背義澄支配之由。依有其聞。早可令敍用之旨。被仰下云々。

読下し                    みうらのすけ いちぞくら  よしずみ  しはい  そむ  のよし   そ  きこ   あ    よつ
建久四年(1193)正月小廿日戌子。三浦介が一族等、義澄の支配に背く之由、其の聞へ有るに依て、

はや   じょようせし  べ    のむね  おお  くださる   うんぬん
早く叙用令む可し@之旨、仰せ下被ると云々。

考@早く叙用令む可しは、命令に従うように。

現代語建久四年(1193)正月小二十日戊子。三浦介が統括する三浦一族の中に、惣領義澄の云うことを聞かない者が居ると、噂を聞いたので、早く命令に従うように、命じて下さいましたとさ。

説明これは、暗に和田義盛を指し、後の和田の乱に備えているようにも取れるけど、必ずしも事実ではなく、三浦介義澄が頼朝の大豪族に対する猜疑心を取り除くための策略(一芝居打った)のような気がする。

建久四年(1193)正月小廿六日甲午。去年十二月卅日。停止錢貨之由。有其沙汰之旨。一條殿被申送之云々。

読下し               きょねん じうにがつみそか  せんか   ちょうじ     のよし   そ   さた あ   のむね
建久四年(1193)正月小廿六日甲午。去年十二月卅日錢貨を停止する@之由、其の沙汰有る之旨、

いちじょうどの これ  もう  おくられ    うんぬん
 一條殿 之を申し送被ると云々。

参考@錢貨を停止するは、京都朝廷は貨幣経済を禁じた。当時「銭の病」と称する病気が流行ったそうな。

現代語建久四年(1193)正月小二十六日甲午。去年の十二月三十日に、京都朝廷が銭の使用を禁止するように、命令が出ましたと、一条能保が云ってよこしましたとさ。

建久四年(1193)正月小廿七日乙未。安房平太以下輩浴新恩。廣元。行政等奉行之云々。

読下し               あわのへいた いか  やから  しんおん よく    ひろもと  ゆきまさら これ ぶぎょう    うんぬん
建久四年(1193)正月小廿七日乙未。安房平太以下の輩、新恩に浴す。廣元、行政等之を奉行すと云々。

現代語建久四年(1193)正月小二十七日乙未。安房平太能勢高重を始めとする御家人は、新しい地頭を与えられました。(大江)広元と藤原行政(二階堂)が担当をしましたとさ。

説明廣元、行政等之を奉行すは、頼朝個人の給付から政所の作業に変わっている。

建久四年(1193)正月小廿八日丙申。南御堂傍。可被建御山庄之由。及沙汰云々。

読下し               みなみみどう かたわら  おんさんそう たてられ べ   のよし   さた   およ    うんぬん
建久四年(1193)正月小廿八日丙申。南御堂の傍に、御山庄を建被る可し之由、沙汰に及ぶと云々。

現代語建久四年(1193)正月小二十八日丙申。南御堂勝長寿院の傍らに別荘を建てるように、お決めになられましたとさ。

二月へ

    

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