吾妻鏡入門第十三巻   

建久四年(1193)癸丑二月大

建久四年(1193)二月大三日庚子。奉爲舊院周闋御佛事。所被召聚之長絹五百疋。被進京都。佐々木四郎左衛門尉高綱可執進之由被仰遣。爲因幡前司沙汰。今日進發云々。

読下し             きゅういんしゅうけつ おんぶつじ  おんため   め  あつ  られ  のちょうけん ごひゃっぴき  きょうと  すす  られ
建久四年(1193)二月大三日庚子。舊院 周闋の御佛事@の奉爲に、 召し聚め被る之長絹 五百疋A、京都へ進め被る。

 ささきのしろうさえもんのじょうたかつな と  しん  べ   のよし おお  つか  され   いなばのぜんじ   さた   な    きょう しんぱつ    うんぬん
佐々木四郎左衛門尉高綱B執り進ず可き之由仰せ遣は被る。因幡前司の沙汰と爲し、今日進發すと云々。

参考@舊院周闋の御佛事は、後白河法皇の一周忌。
参考A絹五百疋は、絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物。
参考B佐々木四郎左衛門尉高綱は、山木合戦蜂起の時の佐々四兄弟の末っ子。

現代語建久四年(1193)二月大三日庚子。後白河法皇の一周忌の法要のために、御家人に命じて集めた帖絹(つむぎ)五百匹(千反)を京都へ送られました。
佐々木四郎左衛門尉高綱が取次ぎをするように命じられました。因幡前司(大江広元)の指揮で、今日出発しましたとさ。

建久四年(1193)二月大七日甲辰。來三月三日鶴岡法會舞樂事。先々召伊豆筥根兩山兒童等。雖遂行之。供僧門弟等已有數。又御家人子息等中。撰催可然少生。可調樂之旨。被仰若宮別當法眼云々。因之因幡前司子息摩尼珠。判官代子息藤一。筑後權守子息竹王等應其撰云々。

読下し             きた  さんがつみっか つるがおかほうえ ぶがく  こと  さきざき いず はこね りょうさん   ちごら   め
建久四年(1193)二月大七日甲辰。來る三月三日 鶴岡法會の舞樂の事、先々@伊豆筥根兩山の兒童A等をし、

これ  すいこう    いへど  ぐそう もんていらすで  かずあ
之を遂行すと雖も、供僧門弟等已に數有りB

また   ごけにん   しそくら   なか  しか  べ   しょうせい えら  もよお   ちょうがく すべ のむね  わかみやべっとうほうげん  おお  られ    うんぬん
又、御家人が子息等の中、然る可き少生Cを撰び催し、調樂D可き之旨、 若宮別當 法眼に仰せ被ると云々。

これ  よつ いなばのぜんじ  しそく まにじゅ   ほうがんだい  しそく とういち  ちくごのごんのかみ  しそく ちくおうら   そ   せん  おう    うんぬん
之に因て因幡前司の子息摩尼珠、判官代の子息藤一、 筑後權守の 子息竹王等、其の撰に應ずと云々。

参考@先々は、今までは。
参考A
兒童等は、稚児。
参考B
已に數有りは、沢山いる。
参考C
少生は、少年。
参考D
調樂は、音楽を習わせる。

現代語建久四年(1193)二月大七日甲辰。来る三月三日の鶴岡八幡宮の法要での舞楽について、今までは伊豆走湯神社や箱根神社の稚児を呼びつけて、実施していたけれど、八幡宮にも坊さん達やその門弟も既に大勢居ます。又御家人の子供達の中から、ふさわしい少年を選んで、音楽を習わせるように、八幡宮長官の法眼円暁に命じられましたとさ。
この事によって、因幡前司(大江広元)の息子の摩尼珠、大和判官代邦道の息子の藤一、筑後権守俊兼の息子の竹王などが、その選考に応じましたとさ。

建久四年(1193)二月大九日丙午。武藏國丹。兒玉黨類有確執事。已欲及合戰之由。依有其聞。可相鎭之旨。被仰付畠山次郎重忠云々。

読下し             むさしのくに たん  こだまとう  たぐ  かくしゅう こと あ
建久四年(1193)二月大九日丙午。武藏國 丹@、兒玉黨Aの類ひ確執の事有り。

すで  かっせん およ      ほつ  のよし  そ  きこ  あ     よつ    あいしず   べ   のむね
已に合戰に及ばんと欲す之由、其の聞へ有るに依て、相鎭める可しB之旨、

はたけやまのじろうしげただ  おお  つ  られ   うんぬん
畠山次郎重忠Cに 仰せ付け被ると云々。

参考@丹党は、丹生社を祀る連中で、地域的には秩父、児玉、入間、大里郡に住む、名字は中村、薄、織原、勅使河原、新里、安保、長浜、青木、高麗、加治、中山、白鳥、岩田、野上、井戸等が居る。
参考A兒玉黨は、児玉郡で、名字に庄、阿佐美、塩屋(しおや)、富田、浅羽、小代、越生、吉島、竹沢、新屋、片山、小幡、大渕、倉賀野等が居る。
参考B相鎭める可しは、鎮め治めるように。
参考C畠山次郎重忠は、武蔵国総検校職(軍勢催促権、軍事統制権)を持っているから。

現代語建久四年(1193)二月大九日丙午。武蔵国の丹党(児玉郡上里町)の一族と児玉党(児玉郡児玉)とが、お互いに自分の意見を主張して譲らず不和になりました。
今すぐにでも戦いを始めそうなのだと、お耳に入りましたので、直ぐに鎮め治めるように、武蔵国の軍事統制権を持つ検校職の畠山次郎重忠に命令されましたとさ。

建久四年(1193)二月大十日丁未。毛呂太郎季綱蒙勸賞〔武藏國泉勝田〕御閑居于豆州之時。下部等有不堪事。窂籠于季綱邊。季綱殊成恐惶之思。加扶持。送進豆州之間。單孤之今。此勞者可必報謝之由。被思食云々。

読下し             もろのたろうすえつな  けんじょう 〔 むさしのくにいずみかつた  〕  こうむ
建久四年(1193)二月大十日丁未。毛呂太郎季綱 勸賞〔武藏國 泉勝田@を蒙る。

ずしゅうに ごかんきょ の とき  しもべら ふかん  こと あ    すえつな  へんにろうろう
豆州于御閑居A之時、下部等不堪Bの事有り、季綱が邊于窂籠す。

すえつな こと きょうこうのおもい  な     ふち   くは    ずしゅう  おく  すす    のかん  たんこの いま  かく いたはりは
季綱、殊に恐惶之思を成し、扶持を加へ、豆州に送り進める之間、單孤之今C、此の勞者、

かなら ほうしゃすべ  のよし  おぼ  めされ    うんぬん
必ず報謝可きD之由、思し食被ると云々。

参考@武藏國泉勝田は、埼玉県比企郡滑川町和泉。
参考A豆州于御閑居は、伊豆の蛭が小島に流罪になっていたとき。
参考B不堪は、ひなたぼっこで不真面目。
参考C
單孤之今は、今は身寄りのない一人ぼっちなので。
参考D報謝可きは、後で御礼をする。

現代語建久四年(1193)二月大十日丁未。毛呂太郎季綱は褒美〔武蔵国泉勝田(比企郡滑川町和泉)〕を与えられました。
頼朝様が
伊豆の蛭が小島に流罪になっていた時、下働きが不真面目で食物にありつけず、毛呂太郎季綱の辺りまでうろついていきました。その際、毛呂季綱は特に恐れ多いことだと思って、手助けをしようと伊豆へ食物を送ってくれたので、今は身寄りのない身ではあるが、この親切に必ず後に御礼をすると、お思いになっておられたからなんだそうな。

建久四年(1193)二月大十八日乙夘。畠山二郎申云。丹兒玉之輩欲及合戰事。依加制止。兩黨和平。互出退云々。

読下し               はたけやまのじろう もう    い      たん こだらのやから かっせん  およ      ほつ    こと
建久四年(1193)二月大十八日乙夘。 畠山二郎 申して云はく、丹と兒玉之輩 合戰に及ばんと欲する事、

せいし   くは      よつ   りょうとう わへい    たが   い   しりぞ  うんぬん
制止を加へるに依て、兩黨和平し、互ひに出で退くと云々。

現代語建久四年(1193)二月大十八日乙卯。畠山次郎重忠が報告して云うには、丹党と児玉党の連中が戦いを始めようとしていた事については、双方を止めに入ったので両党は仲直りして、お互いに兵を引き上げましたとさ。

建久四年(1193)二月大廿五日壬戌。平六左衛門尉於京都卒。北條殿腹心也。且爲彼眼代。且爲御使在京。多施勳功訖。人々所惜也。
 前左衛門尉平朝臣〔年四十九〕
  北條介時兼男
  文治二年七月十八日 任左兵衛尉
  同五年四月十日 任左衛門尉〔加茂臨時祭并御祈功〕
  建久元年七月十八日辞退

読下し                     へいろくさえもんのじょう きょうと  をい  そつ   ほうじょうどの ふくしんなり
建久四年(1193)二月大廿五日壬戌。 平六左衛門尉 京都に於て卒す。北條殿が腹心也。

かつう か  もくだい  な     かつう  おんし な   ざいきょう   おお  くんこう ほどこ をはんぬ ひとびと おし ところなり
且は彼の眼代と爲し、且は御使と爲し在京す。多く勳功を施し訖。 人々惜む所也。

  さきのさえもんのじょうたいらのあそん 〔 とししじうく 〕
  前左衛門尉平朝臣 〔年四十九@

     ほうじょうのすけときかね おとこ
   北條介A時兼が 男

    ぶんじにねんしちがつじうはちにち さひょうえのじょう にん
  文治二年七月十八日 左兵衛尉に任ず

    どうごねんしがとおか     さえもんのじょう  にん  〔 かも    りんじさい  なら    おんき  こう 〕
  同五年四月十日 左衛門尉に任ず〔加茂の臨時祭并びに御祈の功B

    けんきゅうがんねんしちがつじうはちにち じたい
   建久元年七月十八日  辞退す

参考@年四十九は、久安元年(1145)の生まれになる。北條時政は1138の生まれ。
参考A北條介は、北条郡の郡司で伊豆国の介と思われる。
参考B加茂の臨時祭并びに御祈の功の功は、成功(じょうごう)で、朝廷のために何かをしてその分を手柄として役職を貰うこと。

現代語建久四年(1193)二月大二十五日壬戌。北条平六左衛門尉時定が、京都で亡くなりました。北条時政殿に深く信頼されて、代官の役をしており、又鎌倉幕府の派遣人として京都に居りました。沢山の手柄を立てていたので、皆が惜しんでいました。
  前左衛門尉平時定〔年は数えで四十九歳〕。
   北条介時兼の息子です。
  文治二年(1186)七月十八日に左兵衛尉に任命されました。
  文治五年(1189)四月十日左衛門尉に任命されました。〔後白河法皇の賀茂祭りのお祈りの警備をした手柄です〕
   建久元年(1190)七月十八日辞任しました。

参考没年記事、北条時定で北條四郎時政の従兄弟に当たり、本家と思われる。(奥富敬之氏説)(但し野口実氏は弟説、異説に甥とも)
□  ┌時家─時政   
時方
□□└時兼─時定─時綱─某五郎(承久乱で朝廷側についた)
 

建久四年(1193)二月大廿七日甲子。鶴岡宮寺舞殿。此間新造。今日被立之。行政爲奉行。將軍家監臨給云々。

読下し               つるがおかぐうじぶでん  かく かん しんぞう   きょう これ  た   られ
建久四年(1193)二月大廿七日甲子。鶴岡宮寺舞殿、此の間新造す。今日之を立て被る。

ゆきまさ ぶぎょう  な    しょうぐんけ かんりん たま   うんぬん
行政奉行と爲し、將軍家監臨し給ふと云々。

現代語建久四年(1193)二月大二十七日甲子。鶴岡八幡宮寺の舞殿を、最近新築することにしました。
今日立ち上げ始めました。主計允藤原行政(二階堂)が担当指揮で、将軍頼朝様が視察なされましたとさ。

建久四年(1193)二月大廿八日乙丑。京都警衛勤厚御家人等者。其賞可超過關東近士之趣。被仰下云々。

読下し               きょうと  けいえい きんこう  ごけにん ら は   そ  しょう かんとう  きんじ  ちょうかすべ のおもむき
建久四年(1193)二月大廿八日乙丑。京都の警衛@勤厚の御家人等者、其の賞關東の近士を超過可しA之趣、

おお   くだされ   うんぬん
仰せ下被ると云々。

参考@京都の警衛すは、京都大番役。
参考A
超過すべしは、余計に与えるように。

現代語建久四年(1193)二月大二十八日乙丑。京都へ大番役で警備をちゃんとしている御家人達に、与える褒美は、近い関東の幕府に勤務している者たちよりも余計に与えるように、頼朝様が仰せになられましたとさ。

三月へ

  

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