吾妻鏡入門第十三巻   

建久四年(1193)癸丑四月小

建久四年(1193)四月小二日戊戌。覽那須野。去夜半更以後入勢子。小山左衛門尉朝政。宇都宮左衛門尉朝綱。八田右衛門尉知家。各依召献千人勢子云々。那須太郎光助@奉駄餉云々。

読下し               なすの   み     さんぬ よ  はんそう いご  せこ   いれ
建久四年(1193)四月小二日戊戌。那須野を覽る。去る夜、半更以後勢子を入る。

おやまのさえもんのじょうともまさ  うつのみやのさえもんのじょうともつな  はったのうえもんのじょうともいえ おのおの  めし  よっ  せんにん  せこ   けん    うんぬん
小山左衛門尉朝政、 宇都宮左衛門尉朝綱、 八田右衛門尉知家A、 各、 召に依て千人の勢子Bを献ずと云々。

なすのたろうすけみつ だしゅう たてまつ  うんぬん
那須太郎助光 駄餉を奉ると云々。

参考@那須太郎光助は、資光。
参考A八田右衛門尉知家は、茨城県筑西市八田。旧下館市八田。
参考B
勢子は、射手の待つ反対側から鐘と太鼓で獲物を追い出す役目。

現代語建久四年(1193)四月小二日戊戌。那須野をご覧になられました。昨夜の真夜中に狩の追いたてをする「勢子」を入れました。
小山左衛門尉朝政と宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家が、それぞれ千人の勢子を提供しました。那須太郎光助が弁当を献上しましたとさ。

建久四年(1193)四月小十一日丁未。住吉神主昌助參鎌倉御留守。以女房申云。去月依舊院御周闋。可被召返之由。被下官符云々。是去治承三年五月三日。所被配流伊豆國也。日來雖未爲赦身。潜仕將軍家云々。

読下し                すみよしかんぬしまさすけ かまくら  おんるす   さん    にょぼう  もっ  もう    い
建久四年(1193)四月小十一日丁未。 住吉神主昌助 鎌倉の御留守に參じ、女房を以て@申して云はく。

さんぬ つき  きゅういん ごしゅうけつ よっ    めしかえされ  べ   のよし  かんぷ  くだされ    うんぬん
去る月、舊院の御周闋に依てA、召返被る可し之由、官符を下被ると云々。

これ  さんぬ じしょうさんねんごがつみっか  いずのくに  はいるされ ところなり  ひごろ  いま  しゃしんたら   いへど   ひそか しょうぐんけ  つか    うんぬん
是、去る治承三年五月三日、伊豆國へ配流被る所也。日來、未だ赦身爲ずと雖も、潜に將軍家に仕うと云々。

参考@女房を以っては、女官を通じて申し入れる。
参考A
舊院の御周闋に依て、召返被るは、後白河法皇の一周忌によって恩赦された。
参考住吉神社の神主昌助は、一巻治承四年七月二十三日に住吉神官佐伯昌助で出演している。

現代語建久四年(1193)四月小十一日丁未。住吉神社の神主昌助が、頼朝様が留守の鎌倉へやってきて、幕府の女官を通じて申し入れました。
先月の後白河法皇の一周忌の恩赦で、流罪を許され国へ帰るように、太政官から命令「太政官布」を貰ったんだそうです。それは、昔の治承三年五月三日に伊豆国へ流罪されたからです。普段は、まだ恩赦を受けていないのに、内緒で将軍頼朝様に仕えていたのだそうです。

建久四年(1193)四月小十三日己酉。二男若公俄御病惱。驚騒之處。令復本御云々。

読下し                になんのわかぎみ にはか ごびょうのう きょうそのところ ふくほんせし  たま    うんぬん
建久四年(1193)四月小十三日己酉。 二男若公 俄に御病惱。驚騒之處、復本令め御うと云々。

現代語建久四年(1193)四月小十三日己酉。二男の若公(後の実朝)が急病で、大騒ぎになりましたが、無事に治りましたとさ。

建久四年(1193)四月小十九日乙夘。午剋。工藤左衛門尉祐經宅燒亡。不及他所。是去比新造移徙以後經三十八ケ日也云々。主者將軍家爲御供。下向下野國云々。

読下し                うまのこく  くどうのさえもんのじょうすけつね たくしょうぼう    たしょ  およばず
建久四年(1193)四月小十九日乙夘。午剋。 工藤左衛門尉祐經 宅燒亡す。他所に不及。

これ  さんぬ ころしんぞう   いし  いご さんじうはっかにち  へ  なり  うんぬん  ぬしは しょうぐんけ おんとも な    しもつけのくに げこう    うんぬん
是、去る比新造の移徙@以後三十八ケ日を經る也と云々。主者將軍家御供と爲し、下野國へ下向すと云々。

参考@移徙は、引越し。参考工藤祐経の運命を暗に語っている気配があるので、この記事は怪しい。

現代語建久四年(1193)四月小十九日乙卯。昼の十二時頃に工藤左衛門尉祐経の屋敷が火事になりましたが、よそへは移りませんでした。
この家は、先だって新築引越しして、まだ三十八日しか経っていないのだそうです。家主は、将軍頼朝様の狩のお供で、下野国(栃木県)へ出かけて留守でしたとさ。

建久四年(1193)四月小廿三日己未。那須野等御狩。漸事終之間。藍澤屋形又可運還駿河國之由云々。

読下し                  なすのら   みかり   ようや こと おえ  のかん
建久四年(1193)四月小廿三日己未。那須野等の御狩、漸く事終る之間、

あいざわ やかた  また  するがのくに  はこ  かへ  べ   のよし  うんぬん
藍澤の屋形を又、駿河國へ運び還す可し之由と云々。

現代語建久四年(1193)四月小二十三日己未。那須野などでの、狩もようやっと終えたので、分解して運んできた御殿場の鮎沢の舘を、また駿河国(静岡県)へ運ぶようにとの事でしたとさ。

建久四年(1193)四月小廿八日甲子。將軍家自上野國還御。此間。於式部大夫入道上西〔足利式部大夫義國息新田大炊助義重〕新田舘御遊覽。自其所直還御云々。

読下し                しょうぐんけ こうづけのくに よ  かんご
建久四年(1193)四月小廿八日甲子。將軍家、上野國自り還御す。

こ   かん  しきぶのたいふにゅうどうじょうさい 〔 あしかがのしきぶたいふよしくに  そく にったのおおいのすけよししげ 〕  にったやかた をい  ごゆうらん
此の間、 式部大夫入道上西 〔足利式部大夫義國が息新田大炊助義重〕の新田舘に於て御遊覽す。

そ  ところ よ  じき  かんご    うんぬん
其の所自り直に還御すと云々。

現代語建久四年(1193)四月小二十八日甲子。将軍頼朝様は、上野国(群馬県)からお戻りです。
この間に、式部大夫入道上西〔足利式部大夫義国の息子の新田大炊助義重〕の新田の屋敷で遊覧しました。
その場所から直接お帰りだそうです。

建久四年(1193)四月小廿九日乙丑。去月十二日被召返流人等。佐々木左衛門尉定綱在其中之由。一條前黄門被申送之。又彼弟經高。盛綱等同言上其旨。將軍家太歡喜給。治承四年以來。專顯勳功之間。爲殊寵愛之處。依山門訴訟。去々年所被配流薩摩國也。

読下し                さんぬ つきじうににち  るにんら   め   かえされ
建久四年(1193)四月小廿九日乙丑。去る月十二日、流人等を召し返被る@

ささきのさえもんのじょうさだつな  そ   なか  あ   のよし  いちじょうさきのこうもん これ もう  おくられ
佐々木左衛門尉定綱、其の中にA在る之由、 一條前黄門 之を申し送被る。

また  か おとうとつねたか もりつなら おな  そ   むね  ごんじょう
又、彼の弟經高、盛綱等同じく其の旨を言上す。

しょうぐんけ はなは かんき  たま
將軍家、太だ歡喜し給ふ。

 じしょうよねんいらい  もつぱ くんこう  あらは のかん  こと ちょうあいたるのところ さんもん そしょう  よっ    おととし さつまのくに  はいるされ  ところなり
治承四年以來、專ら勳功を顯す之間、殊に寵愛爲之處、山門の訴訟に依て、去々年薩摩國へ配流被る所也。

参考@流人等を召し返被るは、京都朝廷の判断による処理。後白河法皇の一周忌による恩赦。
参考A佐々木太郎定綱その中には、建久二年五月、不作のため年貢が少ないと比叡山の大衆が佐々木庄へ乱入し、佐々木定綱の二男定重が防ごうとして神鏡を破損したので、訴えられ定綱は薩摩へ流罪に、定重は大衆に引き渡され殺された。

現代語建久四年(1193)四月小二十九日乙丑。先月の十二日に恩赦が有り、流罪の人達が許されました。
佐々木左衛門尉定綱も、その中に入っていると前中納言一条能保が申し送ってきました。又、弟の佐々木中務丞次郎経高、佐々木三郎盛綱達も同じ事を云って来ました。
将軍頼朝様は大変お喜びになられました。治承四年以来、多くの手柄を立ててきたので、特に可愛がっていたのですが、比叡山の訴えで一昨年薩摩国へ流罪になっていたのです。

五月へ

    

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