吾妻鏡入門第十三巻   

建久四年(1193)癸丑七月大

建久四年(1193)七月大二日丙寅。武藏守義信召進養子僧〔号律師〕去夜參着。是曾我十郎祐成弟也。日來在越後國久我窮山之間。參上于今延引云々。而今日聞可被梟首之由。於甘繩邊。念佛讀經之後。自殺云々。景時啓此旨。將軍家太令悔歎給。本自非可誅之志。只令同意兄乎否。爲被召問許也云々。

読下し             むさしのかみよしのぶ め  しん    ようしそう  〔 りっし  ごう   〕  さんぬ よ さんちゃく
建久四年(1193)七月大二日丙寅。 武藏守義信 召し進ずる養子僧〔律師と号す〕去る夜參着す。

これ  そがのじうろうすけなり おとうとなり
是、曾我十郎祐成が弟也。

ひごろ  えちごのくに くがみさん   あ   のかん  さんじょう いまに えんいん   うんぬん
日來、越後國久我窮山@に在る之間、參上 今于延引すと云々。

しか    きょう きょうしゅされ  べ   のよし  き     あまなわへん  をい   ねんぶつどっきょうののち  じさつ    うんぬん
而るに今日梟首被る可し之由を聞き、甘繩邊に於て、念佛 讀經之後、自殺すと云々。

かげとき こ  むね  もう     しょうぐんけはなは くや  なげ  せし  たま   もとよ  ちゅう べ  のこころざし  あらず
景時此の旨を啓すA。將軍家太だ悔み歎か令め給ふ。本自り誅す可き 之志に 非。

ただ  あに  どうい せし    や いな    め   と   れんためばか なり  うんぬん
只、兄に同意令むる乎否や、召し問は被爲許り也と云々。

参考@久我窮山は、新潟県燕市国上(旧西蒲原郡分水町国上)1407の国上山(クガミサン)国上寺(コクジョウジ)。弥彦神社と寺泊の中間。
参考A此の旨を啓すは、同内容を報告する。

現代語建久四年(1193)七月大二日丙寅。武蔵守大内義信が呼び出してきた養子の坊さん〔律師と云います〕が、昨夜到着しました。
この人は、曽我十郎祐成の弟です。普段は、新潟県国上山国上寺に居りましたので、来るのが遅れましたとさ。それなのに今日、死刑にされるだろうと聞いて、甘縄辺りで念仏を唱えて自殺してしまいましたとさ。梶原景時がこの話を報告しました。
将軍頼朝様は大変後悔して嘆かれました。元々死刑にするつもりなんかなかったのです。只、兄と同様に考えていたのか、取り調べたかっただけなのだそうです。

建久四年(1193)七月大三日丁夘。小栗十郎重成郎從馳參。以梶原景時申云。重成今年爲鹿嶋造營行事之處。自去比所勞太危急。見其體非直也事。頗可謂物狂歟。稱神託。常吐無窮詞云々。去文治五年。於奥州被開泰衡庫倉之時見重寳等中。申請玉幡餝氏寺之處。毎夜夢中。山臥數十人群集于重成枕上。乞件幡。此夢想十ケ夜。弥相續之後。心神違例云々。依之彼造營之行事。被仰付馬塲小次郎資幹云々。令拝領多氣義幹所領。已爲當國内大名云々。

読下し             おぐりのじうろうしげなり  ろうじゅう は  さん   かじわらのかげとき もつ  もう    い
建久四年(1193)七月大三日丁夘。小栗十郎重成@が郎從馳せ參じ、梶原景時を以て申して云はく。

しげなり ことし かしまぞうえい ぎょうじ  な   のところ  さんぬ ころよ  しょろうはなは ききゅう  そ   てい  み    ただなること あらず
重成、今年鹿嶋造營A行事を爲す之處、去る比自り所勞太だ危急。其の體を見るに直也事に非。

すこぶ ものぐるい いひ べ  か   しんたく  しょう   つね  むくつ  ことば  は     うんぬん
頗る物狂と謂つ可き歟。神託と稱しB、常に無窮の詞Cを吐くと云々。

さんぬ ぶんじごねん  おうしゅう  をい  やすひら こそう  ひらかれるのとき ちょうほうら  なか  み     たまはた もう  う   うじでら  かざ  のところ
去る文治五年D、奥州に於て泰衡が庫倉を開被之時、重寳等の中を見て、玉幡を申し請け氏寺に餝る之處、

まいよ むちゅう   やまぶしすうじうにん しげなり  まくらがみにぐんしゅう   くだん はた  こ
毎夜夢中に、山臥數十人 重成が枕上于 群集し、件の幡Eを乞う。

かく   むそう  じっかよ    いよいよ あいつづ  ののち  しんしん いれい   うんぬん
此の夢想十ケ夜に、弥 相續く之後、心神違例すと云々。

これ  よつ  か   ぞうえいのぎょうじ     ばばのこじろうすけもと    おお  つ   られ    うんぬん
之に依て彼の造營之行事を、馬塲小次郎資幹Fに仰せ付け被ると云々。

たけのよしもと  しょりょう  はいりょうせし  すで  とうごくない だいみょう  な    うんぬん
多氣義幹Gが所領を拝領令め、已に當國内の大名を爲すと云々。

参考@小栗十郎重成は、小栗御厨、茨城県筑西市小栗。旧真壁郡協和町小栗。
参考A鹿嶋造營は、二十年に一度の遷宮式が捗らずに)五月一日に頼朝から怒られている。
参考B神託と稱しは、神様のお告げだといって。
参考C
無窮の詞は、屈む事がないで、礼儀に劣るから訳の分からないこと。
参考D文治五年は、奥州合戦占領軍として、(1189)八月廿二日頼朝から金の華鬘と共に貰っている。
参考Eは、仏・菩薩の権威や力を示す荘厳具 (しうごんぐ) として用いる旗の総称。Goo電子辞書から
参考F馬塲小次郎資幹は、常総市馬場。前月二十二日に拝領。
参考G
多氣義幹は、常陸大掾氏の分家で、茨城県つくば市北条(筑波地区)
参考H已に當國内の大名を爲すは、頼朝得意の旧大大名の常陸大掾氏への大豪族解体である。

現代語建久四年(1193)七月大三日丁卯。小栗十郎重成の家来が駆けつけて、梶原景時を通して申し上げて云うのには、「小栗重成は、今年、鹿島神宮の建設責任者をしておりますが、先だってから病気になってとても危険な状態です。その様子をみるとただ事ではありません。かなり狂っていると云って良いでしょう。神様のお告げだといって、訳の分からない言葉をはいているそうです。
去る文治五年(1189)、東北地方で藤原泰衡の倉庫を開いた時に、宝の山を見て、中から玉で出来た幡(バン)を願い出ていただき、自分の氏寺に飾ったところ、毎晩夢の中に、山伏が数十人、小栗十郎重成の枕元に集って、その幡(バン)を欲しがりました。この夢が十日目の夜も続いたので、神経衰弱になってしまったそうです。
この原因で、その鹿島神宮の工事責任者は、馬場二郎資幹に命じられましたとさ。彼は、多気太郎義幹の領地を戴いて、既に常陸国では大名になっているからだそうです。

建久四年(1193)七月大十日甲戌。属海濱凉風。將軍家出小坪邊給。長江大多和輩搆假屋於潟奉入。献盃酒垸飯。又漁人垂釣。壯士射的。毎事荷感。乘興盡秋日娯遊。及黄昏還御云々。

読下し             かいひんりょうふう ぞく    しょうぐんけ こつぼ へん い   たま
建久四年(1193)七月大十日甲戌。海濱凉風に属し、將軍家小坪@邊に出で給ふ。

ながえ   おおたわ  やから  かりやを ひがた かま  い たてまつ  はいしゅ  おうばん  けん
長江A、大多和Bの輩、假屋於潟に搆へ入れ奉り、盃酒、垸飯を献ず。

また  りょう ひと  つり  た     そうし   まと   い     ことごと  かかん  きょう の   しゅうじつ ごゆう  つく   たそがれ  およ  かんご    うんぬん
又、漁の人は釣を垂れ、壯士は的を射る。事毎に荷感C。興に乘り秋日娯遊を盡す。黄昏に及び還御すと云々。

参考@小坪は、神奈川県逗子市小坪4丁目2に小坂明神が残る。
参考A長江は、長江太郎義景で神奈川県三浦郡葉山町長柄字殿谷に義景大明神が残る。
参考B大多和は、大多和三郎義久で三浦介義明の三男で、横須賀市太田和出身。壽永元年(1182)十一月小十日条に葉山の鐙摺の家と出る。
参考C
荷感は、不明だが、感激を荷物として背負うなので、感じ入ると同じだと思う。

現代語建久四年(1193)七月大十日甲戌。浜辺には海風が涼しいので、将軍頼朝様は逗子の小坪の辺りへ出かけられました。
長江四郎明義や大多和三郎義久等の三浦の連中が、仮小屋を干潟に建てて、お迎えになり、酒やご馳走を振舞いました。又、釣好きは棹をたれ、勇猛な連中は的を射たりしました。その一つ一つを面白がられて、気分が乗って一日中楽しんでおられ、夕暮れ時になってお帰りになられましたとさ。

建久四年(1193)七月大十八日壬午。鶴岳若宮陪從江右近將監久家。属右近將監好方。爲傳神樂秘曲。忽企客路遠行。去比上洛。豫申入子細畢。而今日被遣御消息於好方。宮人曲申秘藏之條。雖可謂勿論。令傳久家者。奉授將軍之由。可思食准也云々。

読下し               つるがおかわかみや べいじゅう えのうこんしょうげんひさいえ   うこんしょうげんよしかた ぞく
建久四年(1193)七月大十八日壬午。 鶴岳若宮  陪從@江右近將監久家は、右近將監好方Aに属し、

かぐら   ひきょく  つた   ため  たちま きゃくろえんこう くはだ  さんぬ ころじょうらく   あらかじ しさい  もう  い  をはんぬ
神樂の秘曲を傳えん爲、忽ち客路遠行を企て、去る比上洛す。豫め子細を申し入れ畢。

しか    きょう ごしょうそこを よしかた  つか  され  みやびときょくひぞう  もう  のじょう  もちろん  いひ  べ    いへど
而るに今日御消息於好方に遣は被、宮人曲秘藏を申す之條、勿論と謂つ可しと謂も、

ひさいえ  つた  せし  ば   しょうぐん さず たてまつ のよし おぼ  め   なぞら べ  なり  うんぬん
久家に傳へ令ま者、將軍に授け奉る之由、思し食し准う可き也と云々。

参考@陪從は、楽人。
参考A
右近將監好方は、多好方で当時一番のお神楽や邦楽の名人。息子の好節が鎌倉に来て、その子孫が大野鎌倉彫と聞く。

現代語建久四年(1193)七月大十八日壬午。鶴岡八幡宮の楽人の大江右近将監久家は、多右近将監好方の弟子となり、お神楽の流派秘密の曲を習うために、旅に出ようと決心をして、先だって京都へ上ったのです。勿論前もって事情を申し入れて有りました。
それでも今日、頼朝様はお手紙を多好方に出させて、「宮人曲は流派の秘蔵なのは勿論承知しているけれども、大江久家に伝えるのは将軍頼朝様に伝える事になるのだと思われるように。」とのことでした。

建久四年(1193)七月大廿四日戊子。横山權守時廣引一疋異馬參營中。將軍覽之。有其足九〔前足五。後足四〕。是出來于所領淡路國々分寺邊之由。去五月之比依有告。乍恠召寄之旨言上。仰左近將監家景。可被放遣陸奥國外濱云々。周室三十二蹄者。八疋之所合也。本朝一疋之九足。誠可稱珍歟。然而房星之精不足愛之。今被却之於千里瀧挑。尤可爲榮者哉。

読下し               よこやまのごんのかみときひろ いっぴき  いば  ひ   えいちゅう  まい   しょうぐんこれ み
建久四年(1193)七月大廿四日戊子。 横山權守時廣@、 一疋の異馬を引き營中へ參る。將軍之を覽る。

 そ  あし く あ     〔 まえあし ご  あとあし し 〕
其の足九有り。〔前足五。後足四。〕

これ  しょりょう あわじのくにこくぶんじへんに い  きた   のよし  さんぬ ごがつのころつげあ    よつ   あやし なが   め    よ    のむね ごんじょう
是、所領 淡路國々分寺邊于出で來る之由、去る五月之比告有るに依て、恠み乍らも召し寄せる之旨言上す。

さこんしょうげんいえかげ おお      むつのくに そとがはま  はな  つか  されるべ   うんぬん
左近將監家景Aに仰せて、陸奥國 外濱Bに放ち遣は被可しと云々。

しゅうしつ さんじゅうにていは  はっぴきのごう   ところなり  ほんちょう いっぴきのくそく   まこと めずら   しょう  べ   か
周室Cの三十二蹄者、八疋之合する所也。本朝は一疋之九足。誠に珍しと稱す可き歟。

しかれども そひぼしのせい  これ めで   たらず  いま  これをせんり しりぞけられ   ろうちょう  もっと さかえ な   べ   もの  や
然而 房星D之精、之を愛るに不足。今、之於千里に却被る。瀧挑、尤も榮と爲す可き者を哉。

参考@横山權守時廣は、八王子の横山太郎時兼党。淡路国守護で国分寺が所領。後に和田の乱で敗死して時房領となる。
参考A左近將監家景は、伊沢家景で陸奥国留守職を得て留守と名乗り後に奥州の名族となる。
参考B
外濱は、当時の北の果て、青森県東津軽郡外ヶ浜町らしい。
参考C
周室は、古代中国(紀元前八世紀)の周王朝らしい。
参考D房星は、二十八宿の内の房星で、髪切り・結婚・旅行・移転・開店・祭祀に吉。

現代語建久四年(1193)七月大二十四日戊子。横山権守時広が、一頭の奇妙な馬を引いて幕府へ来ました。その足は九本もあります〔前足が五本、後ろ足が四本〕。「この馬は、所領の淡路国の国分寺辺りから取れたんだと、先だっての五月に云って来たので、疑いながらも呼び寄せてみました。」と申し上げました。頼朝様は伊沢左近將監家景に命じて、陸奥国外が浜(青森市)に放すようにとの事でした。古代中国の周室の三十二の蹄は、馬八頭を合わせた話です。わが日本では、一頭で九本の足を持つ本当に珍しい出来事と言うべきでしょう。でも、二十八宿の房宿の縁起では、これを飼育するには力不足で縁起が悪いので、千里のかなたへ捨て去るのでしょう。瀧挑、もしかしたら逆に栄える元になるかも知れないのに。

建久四年(1193)七月大廿八日壬辰。梶原刑部丞朝景自京都歸參。文學上人状到着。以東大寺料所分与俗人由事。殊陳申云。當寺再興事。其志太甚深。而國民近日巧奸濫之間。依不拘惜於小僧成敗。以有親族寄之輩爲兵士。入部國領等。若此事爲讒訴之基歟。猶入此讒之族者。永断今生願望。後世堕無間地獄。無浮期之趣載之。凡以惡口爲事。頗不叶將軍御意云々。

読下し               かじわらのぎょうぶのじょうともかげ  きょうとよ    きさん    もんがくしょうにん じょうとうちゃく
建久四年(1193)七月大廿八日壬辰。  梶原刑部丞朝景  京都自り歸參す。文學上人が状到着す。

とうだいじ りょうしょ  もつ    ぞくじん  わか  あた    よし  こと   こと  ちん  もう    い
東大寺料所を以て、俗人に分ち与える由の事、殊に陳じ申して云はく。

とうじ さいこう  こと  そ  こころざし はなは じんしん
當寺再興の事、其の 志 太だ甚深@

しか   くにのたみ きんじつ かんらん たく  のかん  しょうそう せいばいを くしゃく せず よつ  しんぞく  よせあ    のやから  もつ  へいし  な
而るに國民 近日 奸濫を巧むA之間、小僧の成敗於拘惜B不に依て、親族の寄有るの之輩を以て兵士と爲し、

こくりょうら   にゅうぶ
國領等に入部すC

 も   こ   こと ざんその もとたるか
若し此の事讒訴之基爲歟。

なお  こ  ざん  いるのやからは  なが  こんじょう がんぼう  た     こうせい  みけんじごく   お     うか  ご な  のおもむき これ  のせ
猶、此の讒を入之族者、永く今生の願望を断ち、後世にD無間地獄Eに堕ち、浮ぶ期無き 之趣 之を載る。

およ  あっこう  もつ  こと  な     すこぶ しょうぐん  ぎょい  かなはず うんぬん
凡そ惡口を以て事と爲す。頗る將軍の御意に不叶と云々。

参考@其の志太だ甚深は、一生懸命にやっている。
参考A奸濫を巧むは、ちゃんと納税をしていない。
参考B
拘惜は、庇護すること。
参考C國領等に入部すは、勝手に徴税していった。
参考D
後世には、六道輪廻で生まれ変わった後生では。
参考E無間地獄は、八大地獄の第八阿鼻地獄で、梵語のアビの音訳。地下の最深部にある最悪の地獄。五逆などの大悪を犯した者が落ち、火の車・剣の山などで絶え間なく苦しみを受ける所とされる。阿鼻地獄。阿鼻叫喚地獄。無間地獄。阿鼻焦熱地獄。

現代語建久四年(1193)七月大二十八日壬辰。梶原刑部烝朝景が京都から戻りました。門覚上人の手紙を持ってきました。東大寺造営用所領の年貢を一般人に分け与えた事について弁解をして来ました。
「東大寺を再興する意志はとても深いものです。それなのに、備前国の民は最近ちゃんと納税をしないし、私門覚の命令を守らないので、その土地に縁戚のある連中を兵隊にして、国衙領へ入って勝手に徴税したので、この事を逆恨みして訴え出たのではないでしょうか。こんな事を訴え出た連中は、生きている間は仏が見放して、何も救ってくれないだろう。しかも死んで後の後生には無間地獄へ落ちて、苦しみのたうち、地獄から浮かび上って極楽へ行くようなこともないだろう。」と散々云いたい放題を載せている

きちんとした弁解になっていないので、将軍頼朝様はとんでもないことだと怒っておられましたとさ。

八月へ

    

inserted by FC2 system