吾妻鏡入門第十三巻   

建久四年(1193)癸丑八月小

建久四年(1193)八月小二日丙申。參河守範頼書起請文。被献將軍。是企叛逆之由。依聞食及。御尋之故也。其状云。
  敬立申
   起請文事
 右。爲御代官。度々向戰塲畢。平朝敵盡愚忠以降全無貳。雖爲御子孫將來。又以可存貞節者也。且又無御疑叶御意之條。具見先々嚴札。秘而蓄箱底。而今更不誤而預此御疑。不便次第也。所詮云當時云後代。不可挿不忠。早以此趣。可誡置子孫者也。萬之一〔仁毛〕令違犯此文者。
 上梵天帝釋。下界伊勢。春日。賀茂。別氏神正八幡大菩薩等之神罰〔於〕。可蒙源範頼身也。仍謹慎以起請文如件。
   建久四年八月 日                     參河守源範頼
此状。付因幡守廣元。進覽之處。殊被咎仰曰。載源字。若存一族之儀歟。頗過分也。是先起請失也。可召仰使者云々。廣元召參州使大夫属重能。仰含此旨。重能陳云。參州者。故左馬頭殿賢息也。被存御舎弟之儀之條勿論也。隨而去元暦元年秋之比。爲平氏征伐御使被上洛之時。以舎弟範頼遣西海追討使之由。載御文。御奏聞之間。所被載其趣於官苻也。全非自由之儀云々。其後無被仰出旨。重能退下。告事由於參州。々々周章云々。

読下し             みかわのかみのりより きしょうもん  か     しょうぐん けん  られ
建久四年(1193)八月小二日丙申。 參河守範頼 起請文を書き、將軍に献ぜ被る。

これ  はんぎゃく くはだ   のよし  き     め   およ    よつ    おたず  のゆえなり  そ   じょう  い
是、叛逆を企てる之由、聞こし食し及ぶに依て、御尋ね之故也。其の状に云はく。

    つつし たてもう
  敬み立申す

       きしょうもん  こと
   起請文の事

  みぎ  おんだいかん な    たびたび せんじょう むか をはんぬ ちょうてき たいら ぐちゅう つく   いこう  まった ふたごころな
 右、御代官と爲し、度々 戰塲へ向ひ 畢。 朝敵を平げ愚忠を盡す以降、全く貳無し。

   ごしそん   しょうらいたる いへど  またもつ  ていせつ  ぞん  べ   ものなり
 御子孫の將來爲と雖も、又以て貞節を存ず可き者也。

  かつう また  おんうたが な   ぎょい   かな  のじょう  つぶさ さきざき げんれい み     ひ   て はこぞこ  たくわ
 且は又、御疑ひ無く御意に叶う之條、具に先々の嚴札に見ゆ@。秘し而箱底に蓄う。

   しか    いまさら  あやまりなくて こ  おんうたが   あず      ふびん    しだいなり
 而るに今更、 不誤而 此の御疑いに預かる。不便なる次第也。

  しょせん  とうじ   い   こうだい  い     ふちゅう  さしはさ べからず  はやばや かく おもむき  もつ    しそん  いさ  お   べ   ものなり
 所詮、當時と云ひ後代と云ひ、不忠を 挿む 不可。 早々と此の趣を 以て、子孫に誡め置く可き者也。

  まんのいち  〔 にも  〕  こ   ふみ  いはんせし  ば
 萬之一〔仁毛〕此の文を違犯令め者、

   かみ ぼんてんたいしゃく  げかい   いせ   かすが   かも   べつ   うじがみしょうはちまんだいぼさつ らの しんばつ 〔 を 〕 みなもとのりより  み   こうむ べ   なり
 上は 梵天帝釋。 下界は伊勢、春日、賀茂、別して氏神 正八幡大菩薩A等之 神罰〔於〕 源範頼の 身に蒙る可き也。

   よつ  きんしん  きしょうもん  もつ  くだん ごと
 仍て謹慎し起請文を以て件の如し。

      けんきゅうよねんはちがつ にち                                         みかわのかみみなもとのりより
   建久四年八月 日                     參河守源範頼

参考@先々の嚴札に見ゆは、前々に貰った感状に書いてある。
参考A
別して氏神正八幡大菩薩は、特別に源氏の氏神である八幡大菩薩。

こ  じょう  いなばのかみひろもと ふ    しんらんのところ  こと  とが  おお  られ  い
此の状、因幡守廣元に付し、進覽之處、殊に咎め仰せ被て曰はく。

みなもと じ   の          も   いちぞくのぎ   ぞん    か
源の字を載せるは、若し一族之儀を存ずる歟。

すこぶ かぶんなり  これ ま  きしょう  うしな  なり  ししゃ   め   おお  べ     うんぬん
頗る過分也。是先ず起請を失う也。使者に召し仰す可しと云々。

ひろもと さんしゅう つかい たいふさかんしげよし め     こ   むね  おお  ふく      しげよし ちん   い
廣元、參州の使 大夫属重能を 召し、此の旨を仰せ含める。重能陳じて云はく。

さんしゅうは  こさまのかみどの  けんそくなり  ごしゃていのぎ  ぞん  られ  のじょうもちろんなり
參州者、故左馬頭殿が賢息也。御舎弟之儀を存じ被る之條勿論也。

したが て  さんぬ げんりゃくがんねん あきのころ  へいしせいばつ  おんし  な   じょうらくされ  のとき  しゃていのりより  もつ  さいかいついとうし  つか     のよし
隨い而、去る 元暦元年 秋之比、平氏征伐の御使と爲し上洛被る之時、舎弟範頼を以て西海追討使に遣はす之由、

おんふみ の     ごそうもんのかん   そ おもむきをかんぷ  の   られ ところなり  まった  じゆうの ぎ  あらず うんぬん
御文に載せ、御奏聞之間、其の趣於官苻に載せ被る所也。全き自由之儀に非と云々。

そ   ご   おお  い   られ  むねな   しげよし の  さが    こと  よしを さんしゅう  つ      さんしゅう しゅうしょう  うんぬん
其の後、仰せ出で被る旨無し。重能退き下り、事の由於參州に告げる。々々 周章すと云々。

現代語建久四年(1193)八月小二日丙申。三河守範頼は、誓の起請文を書いて、将軍頼朝様に提出しました。この内容は、反逆を企んでいると聞いたので、本人に尋ねられた結果の事なのです。その手紙には、

 謹んでここに誓を立てます。その起請文について、
 私は、頼朝様の代官として、何度も戦場へ出かけました。その結果、京都朝廷の敵を滅ぼすと云う忠義を尽くしてからというもの、全く背く心は持っておりません。頼朝様の子孫の時代になったとしても、同様に忠義を尽くすつもりでおります。その様子は、疑いも無く、お心に従っている事は、しっかりと今までの数々の礼儀正しさに見えますが、あえて表に出さなかっただけです。それなのに今更、何も間違いはしていないのに、この嫌疑をかけられてしまいました。困りきった問題です。所詮、現在といい、後の時代といい、不忠の思いは持ちません。この趣旨でわが子孫にも注意して残しておきます。万が一にも、この手紙に違えたならば、天界では梵天や帝釈天、下界では、伊勢神宮・春日大社・賀茂神社、又特別な源氏の氏神八幡大菩薩の神罰を源範頼の身に当てられるでしょう。そう云う訳で、謹慎して誓の起請文を書いたのはこのとおりです。
 建久四年八月 日                   三河守源範頼

この手紙を因幡守広元大江)を通じてお見せしたところ、特に怒っておっしゃられるのには、「源の文字を書いているのは、源氏の一族として認識しているのであろう。それは大変な自惚れである。この一字で起請文の価値をうしなっている。と使いの者に伝えなさい。」とのことでした。広元は、三州範頼の使いの大夫属重能を呼んで、この内容を云ってきかせました。重能が弁明して云うのには。「三河守範頼は、故左馬頭義朝殿の賢い息子です。頼朝様は弟さんであることを承知されているのは勿論でしょう。従って、去る元暦元年(1184)の秋の頃に、平家討伐の代理人として京都へ上洛した時に、弟さんの範頼を九州方面征伐司令官として派遣するとお手紙に書かれ、後白河上皇に申し出て、その内容を朝廷からの命令書に載せることになったのです。全く自分勝手をしたわけではありません。」とのことです。それに対し何も仰せになられませんでした。重能は御所から引き下がり、この事を三州範頼に報告しました。三州範頼は、思いもかけないことに出会い、うろたえてしまいました。

建久四年(1193)八月小六日庚子。宇佐美三郎祐茂自伊豆國參上。依有可被仰付事被召之故也。凡相叶御意之上。故左衛門尉祐經横死之後。殊可候昵近之旨。被仰含之處。日來不可然之由云々。此外腹心壯士被召聚之。近日依有御用意也。

読下し             うさみのさぶろうすけもち いずのくに よ  さんじょう
建久四年(1193)八月小六日庚子。宇佐美三郎祐茂伊豆國自り參上す。

おお  つ   られ  こと あ  べ     よつ  め さる   のゆえなり
仰せ付け被る事有る可しに依て召被る之故也。

およ  ぎょい   あいかな  のうえ  こさえもんのじょうすけつね おうしののち  こと  じっこん  そうら べ   のむね  おお  ふく  られ  のところ
凡そ御意に相叶う之上、故左衛門尉祐經 横死之後、殊に昵近に候う可し之旨、仰せ含め被る之處、

ひごろ しか  べからざるのよし うんぬん
日來然る不可之由と云々。

 こ   ほか  ふくしん  そうし   これ  め   あつ  らる    きんじつ ごようい あ     よつ  なり
此の外、腹心の壯士@、之を召し聚め被る。近日御用意有るに依て也。

参考@腹心の壯士は、腹に一物を持たないから、気の許せる忠臣。

現代語建久四年(1193)八月小六日庚子。宇佐美三郎祐茂が、伊豆国から御所へ参りました。言いつけたい事があると呼ばれてやってきたのです。この人は、頼朝様が気に入っているので、故工藤左衛門尉祐経が非業の死にあったので、特におそばに仕えるように云って聞かせたところ、いままでと違えるのですねとの事でした。この他の気の許せる忠義な武士を呼び集められました。近頃用心すべきことがあるからです。

建久四年(1193)八月小九日癸夘。將軍家令出由比浦給。是所被召具來放生會流鏑馬射手也。各被試其射藝。北條五郎時連始從此役。令下河邊庄司行平訓其躰給。而就弓持樣。武田兵衛尉有義。海野小太郎幸氏等有申子細事。行平述譜第口傳故實等。將軍令甘心彼儀給上勿論也。

読下し             しょうぐんけ ゆいうら   い   せし  たま
建久四年(1193)八月小九日癸夘。將軍家由比浦@へ出で令め給ふ。

これ  きた  ほうじょうえ  やぶさめ    いて   め   ぐ さる  ところなり
是、來る放生會の流鏑馬の射手を召し具被る所也。

おのおの そ  しゃげい  ためされ    ほうじょうのごろうときつら はじ   こ   やく  したが   しもこうべのしょうじゆきひら し   そ   てい  おし  たま
 各、 其の射藝を試被るA。北條五郎時連B始めて此の役に從う。下河邊庄司行平を令て其の躰を訓へC給ふ。

しか    ゆみ もちよう  つ     たけだのひょうえのじょうありよし うんののこたろうゆきうじ ら  しさい  もう  こと あ
而るに弓の持樣Dに就き、 武田兵衛尉有義、 海野小太郎幸氏等子細を申す事有り。

ゆきひら ふだい  くでん   こじつ ら   のべ    しょうぐん か  ぎ   かんしんせし たま  うえもちろんなり
行平譜第Eの口傳、故實等を述る。將軍彼の儀に甘心F令め給う上勿論也。

参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
参考A射藝を試被るは、弓矢の腕前を試した。
参考B
北條五郎時連は、後の時房。
参考C
其の躰を訓へは、その技法を教えた
参考D弓の持樣は、弓持ち方。
参考
E譜第のは、先祖代々の。
参考F
甘心は、感心。

現代語建久四年(1193)八月小九日癸卯。将軍頼朝様は、油井の浦へお出かけです。
それは、来る十五日の放生会の流鏑馬の射手を呼んで連れて行かれました。それぞれの腕前を試されました。
北条五郎時連は、初めてこの役につきます。下河辺庄司行平に命じて、そのやり方を教えさせました。
しかし、弓の持ち方について、武田兵衛尉有義と海野小太郎幸氏が異論を唱えました。下河辺行平は、先祖代々の伝えられた来た口伝やエピソードを話したので、将軍頼朝様は、それについてとても感心されたのは勿論でした。

建久四年(1193)八月小十日甲辰。寅剋。鎌倉中騒動。壯士等着甲冑馳參幕府。然而無程令靜謐畢。是參州家人當麻太郎臥御寢所之下。將軍未令寢給。知食其氣。潜召結城七郎朝光。宇佐美三郎祐茂。梶原源太左衛門尉景季等。尋出當麻。依被召禁也。曙後被推問之處。申云。參州被進起請文之後。一切無重仰旨。迷是非畢。存知内々御氣色。可思定安否之由。頻依被愁歎。若以自然之次。被仰出此事否。爲伺形勢所參候也。全非陰謀之企云々。則被尋仰參州。被申不覺悟之由。當麻陳謝雖盡詞。所行企絶常篇之間。苻合日來御疑胎。其上當麻者。參州殊被相憑之勇士。弓劔武藝已得其名之者也。心中旁有不審之由。被經沙汰。無寛宥之儀。剩有同意結搆之類否。雖及數ケ糺問。當麻屈氣。更不發一言云々。

読下し             とらのこく  かまくらじゅう そうどう   そうしら かっちゅう  つ   ばくふ  は   さん
建久四年(1193)八月小十日甲辰。寅剋。鎌倉中@騒動し、壯士等甲冑を着け幕府へ馳せ參ず。

しかして  ほどな  せいひつせし をはんぬ これ さんしゅう けにん たいまのたろう ごしんじょの した  ふ
然而、程無く靜謐令め 畢。 是、參州が家人當麻太郎A御寢所之下に臥すB

しょうぐん いま  ねせし  たま      そ   け   し     め
將軍、未だ寢令め給はず、其の氣を知ろし食し、

ひそか ゆうきのしちろうともみつ うさみのさぶろうすけもち  かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ ら   め
潜に結城七郎朝光、宇佐美三郎祐茂、 梶原源太左衛門尉景季 等を召す。

たいま   たず いだ    め  いまし られ   よつ  なり
當麻を尋ね出し、召し禁め被るに依て也。

あかつき のち  すいもんされ のところ  もう    い
曙の 後、推問被る之處。申して云はく。

さんしゅう きしょうもん すす られ   ののち  いっさい かさ   おお    むねな     ぜひ   まよ  をはんぬ
參州、起請文を進め被る之後、一切重ねて仰せの旨無く、是非を迷い畢。

ないない  みけしき   ぞんち    あんぴ  おも  さだ    べ    のよし  しきり しゅうたんされ  よつ
内々に御氣色を存知し、安否を思い定める可し之由、頻に愁歎被るに依て、

も    じねんのついで  もつ    こ   こと  おお  い  され    いな    けいせい うかが   ため さんこう  ところなり
若し自然之次を以て、此の事を仰せ出だ被るや否や。形勢を伺はん爲參候する所也。

まった いんぼうのくはだ  あらず  うんぬん
全く陰謀之企てに非と云々。

すなは さんしゅう たず おお  られ   かくごせずの よし  もうされ
則ち參州に尋ね仰せ被る。覺悟不之由を申被る。

たいま ちんしゃ  ことば つく    いへど  しょぎょう  くはだ  じょうへん た    のかん  ひごろ   おんぎたい   ふごう
當麻陳謝に詞を盡すと雖も、所行の企て常篇に絶えるC之間、日來の御疑胎に苻合すD

 そ   うえ   たいまは   さんしゅうこと あいたのまる  のゆうし  ゆみつるぎ ぶげい  すで  そ   な   え   のものなり
其の上、當麻者、參州殊に相憑被る之勇士、弓劔の武藝、已に其の名を得る之者也。

しんちゅうかたがたふしんあ   のよし    さた  へられ  かんゆうの ぎ な
心中 旁 不審有る之由、沙汰を經被、寛宥之儀無し。

あまつさ どうい けっこうのたぐりあり  いな   すうこ  きゅうもん  およ   いへど   たいま け   くつ    さら  ひとこと  はっせず うんぬん
剩へ同意 結搆之類有や否や、數ケの糺問に及ぶと雖も、當麻氣を屈し、更に一言も不發と云々。

参考@鎌倉中は、鎌倉の内で。
参考A當麻太郎は、静岡県浜松市の蒲神明宮の隣に当麻町があったらしい。蒲神明宮は、熱田神宮の末社であり、熱田の宮司が頼朝の祖父に当たる藤原季範で、蒲神明宮の宮司に季成がおり(季の文字は通字か?)、その子が当麻五郎貞稔。その妻が源參河守範頼の乳母夫だと系図算用にあるので、当麻太郎の父らしい。
参考B寢所之下に臥すは、暗殺の意思があると思われても仕方が無い。江戸時代参勤交代の時、大名はこれを恐れて布団の下に鉄板を敷いたという話もある。
参考C
常篇に絶えるは、普通じゃない。
参考D
御疑胎に苻合すは、疑いが当たってしまった。

現代語建久四年(1193)八月小十日甲辰。午前四時頃に鎌倉中が大騒ぎになり、元気な武士達が鎧兜を見に着けて、幕府へ走ってまいりました。しかし、間もなく静かになってしまいました。
これは、三河守範頼の家来の当麻太郎が頼朝様の寝間の床下に伏せていたからです。将軍頼朝様は、未だ寝ていなかったので、その気配をお知りになり、そおっと結城七郎朝光、宇佐美三郎助茂、梶原源太左衛門尉景季等を呼び寄せました。当麻を見つけて捕えるためなのでした。
夜が明けてから尋問したところ、言うのには、「三河守範頼さんが、誓約書を差し出したのに、一切その後の音沙汰が無いので、良し悪しを悩んでおられます。内緒でご機嫌を知り、安否を覚悟したいと、とても打ち沈んでおられるので、若し何かのついでにこの事を言い出すかどうか、様子を探るために来た訳なのです。全く陰謀なんて考えていません。」とのことでした。
直ぐに三河守範頼に問い合わせたところ、知らなかったと云われました。
当麻太郎はお詫びの言葉を尽くしましたが、そのとった行動が異常だったので、普段の疑いがぴったり合ってしまいました。そればかりか、当麻太郎は、三河守範頼が特に頼りにしている勇敢な武士で、弓や剣の武術に優れていると其の名を知られている者なのです。その心の中にはとても怪しいものが存在すると、決断をされて、許すつもりはありません。おまけに三河守範頼が同意して悪巧みがあるのかどうなのか、何度究明しても当麻はうつむいて、それ以上一言も発言しなかったそうです。

建久四年(1193)八月小十二日丙午。姫君有御不例之氣云々。

読下し                     ひめぎみ ごふれいの け  あ     うんぬん
建久四年(1193)八月小十二日丙午。姫君 御不例之氣の有りと云々。

現代語建久四年(1193)八月小十二日丙午。姫君(数え年16歳)の病気が再発しましたとさ。

参考御不例は、例にあらず、常の様ではない、病の気が取り付いて病気になる。病の気が落ちて元の気に戻ると元気になる。

建久四年(1193)八月小十五日己酉。鶴岡八幡宮放生會也。將軍家有御參宮。隨兵三十人。相分奉從前後。結城七郎朝光持御劔。梶原源太左衛門尉景季着御甲。宇佐美三郎祐茂懸御調度云々。

読下し                     つるがおかはちまんぐうほうじょうえなり しょうぐんけ ごさんぐう あ
建久四年(1193)八月小十五日己酉。 鶴岡八幡宮 放生會@也。將軍家御參宮有り。

ずいへいさんじうにん あいわか ぜんご  したが たてまつ
隨兵三十人、相分れ前後に從い奉る。

ゆうきのしちろうともみつ ぎょけん  も     かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ おんよろい つ   うさみのさぶろうすけもち ごちょうど   か     うんぬん
結城七郎朝光 御劔を持ち、 梶原源太左衛門尉景季 御甲を着け、宇佐美三郎祐茂 御調度を懸くと云々。

参考@放生會は、鳥や川魚などの生き物を買い求め、これを八幡宮の放生池に放つことによって、殺生の罪の反対をしたので来世に苦界から逃れられる贖罪の儀式。

現代語建久四年(1193)八月小十五日己酉。鶴岡八幡宮の魚鳥を放つ放生会の供養式典です。
将軍頼朝様のお参りがありました。武装した警護兵三十人が前後に分かれてお供をしました。結城七郎朝光が刀持ちで、梶原源太左衛門尉景季が頼朝様の鎧を着け、宇佐美三郎助茂が弓箭を掛けていましたとさ。

建久四年(1193)八月小十六日庚戌。同宮馬塲流鏑馬也。將軍御出如昨日。其射手。
 三浦平六兵衛尉 北條五郎
 小山又四郎   下河邊六郎
 和田三郎    氏家五郎
 海野小太郎   望月三郎
 榛谷四郎    千葉平二兵衛尉
 小笠原二郎   武田五郎
 梶原三郎兵衛尉

読下し                     どうぐう ばば やぶさめ なり  しょうぐんぎょしゅつ きのう   ごと    そ   いて
建久四年(1193)八月小十六日庚戌。同宮馬塲流鏑馬也。將軍 御出 昨日の如し。其の射手。

  みうらのへいろくひょうえのじょう ほうじょうぼごろう
 三浦平六兵衛尉  北條五郎

  おやまのまたしろう         しもこうべのろくろう
 小山又四郎@    下河邊六郎

  わだのさぶろう           うじいえのごろう
 和田三郎     氏家五郎

  うんののこたろう          もちづきのさぶろう
 海野小太郎A    望月三郎

  はんがやつのしろう        ちばのへいじひょうえのじょう
 榛谷四郎     千葉平二兵衛尉

  おがさわらのじろう        たけだのごろう
 小笠原二郎    武田五郎

  かじわらのさぶろうひょうえのじょう
 梶原三郎兵衛尉

参考@小山又四郎は、朝長で、小山四郎朝政の嫡男。父が四郎でその四男は小四郎とか又四郎と呼ばれる。
参考A海野小太郎は、海野小太郎幸氏。諏訪一族で清水義高に着いて来た。

現代語建久四年(1193)八月小十六日庚戌。同じ八幡宮の奉納の馬場の流鏑馬です。将軍頼朝様のお出では昨日に同じです。
その射手は
 
三浦平六兵衛尉義村 北条五郎時連
 小山又四郎朝長   下河辺六郎光脩
 和田三郎宗実    氏家五郎公頼
 海野小太郎幸氏   望月三郎重隆
 榛谷四郎重朝    千葉平次兵衛尉境常秀
 小笠原次郎長清   武田五郎信光
 梶原三郎兵衛尉景茂

建久四年(1193)八月小十七日辛亥。參河守範頼朝臣被下向伊豆國。狩野介宗茂。宇佐美三郎祐茂等所預守護也。歸參不可有其期。偏如配流。當麻太郎被遣薩摩國。忽可被誅之處。折節依姫君御不例。被緩其刑云々。是陰謀之搆達上聞畢。雖被進起請文。當麻所行依難被宥之。及此儀云々。

読下し                     みかわのかみのりよりあそん いずのくに  げこう さる
建久四年(1193)八月小十七日辛亥。 參河守範頼朝臣 伊豆國へ下向被る。

かのうのすけむねしげ うさみのさぶろうすけしげら あずか しゅご   ところなり
狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等預り守護する所也。

きさん そ   ご あ  べからず  ひとへ はいる  ごと    たいまのたろうさつまのくに つか  さる
歸參其の期有る不可。偏に配流の如し。當麻太郎薩摩國へ遣は被る。

たちま ちゅうさるるべ のところ  おりふしひめぎみ ごふれい  よつ    そ   けい  ゆる  らる    うんぬん
忽ち 誅被可し之處、折節姫君の御不例に依て、其の刑を緩め被ると云々。

これ  いんぼうのかま  じょうぶん たつ をはんぬ
是、陰謀之搆へ上聞に達し畢。

きしょうもん   すすめらる  いへど   たいま  しょぎょう  これ  なだ  られがた   よつ    かく  ぎ  およ    うんぬん
起請文を進被ると雖も、當麻が所行、之を宥め被難きに依て、此の儀に及ぶと云々。

現代語建久四年(1193)八月小十七日辛亥。三河守範頼様が伊豆へ送られます。狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂が警護して行きました。帰れる時期は決まっていないのだからまるで流人と同じ扱いだ。
当麻太郎は薩摩に送られました。斬殺にされるところを姫君(数え年16歳)の病によって罪一等を減ぜられました。これは陰謀の用意がばれたので、他意はない旨起請文を書いたけれども、当麻の行いは許されることではないので、この処分にしましたとさ。

説明參河守範頼の妻は、藤九郎盛長の女。源參河守範頼の子孫は、吉見系図では、武蔵国吉見郷を領地として、武蔵国金沢郷で殺されたとある。江戸名所図絵では、太寧寺で殺されたとある。同時代の鎌倉志では伊豆から金沢へ引き出され殺されたとある。平家物語と源平盛衰記では、梶原平三景時が五百騎で護衛したとある。これ以降に蒲冠者源範頼は登場しない。

建久四年(1193)八月小十八日壬子。申剋。參州家人橘太左衛門尉。江瀧口。梓刑部丞等。砺鏃籠濱宿舘之由。依有其聞。差遣結城七郎。梶原平三父子。新田四郎等。則時敗績之云々。

読下し                     さるのこく さんしゅう けにん  きったさえもんのじょう  えのたきぐち  あずさぎょうぶのじょうら
建久四年(1193)八月小十八日壬子。申剋。參州が家人、橘太左衛門尉@、江瀧口A、梓刑部丞B等、

やじり と   はま  しゅくかん こも  のよし  そ   きこ   あ     よつ    ゆうきのしちろう  かじわらのへいざおやこ  にたんのしろう ら  さ   つか
鏃を砺ぎ濱の宿舘に籠る之由、其の聞へ有るに依て、結城七郎、 梶原平三父子、 新田四郎等を差し遣はす。

そくじ   これ  はいせき   うんぬん
則時に之を敗績すと云々。

参考@橘太左衛門尉は、橘太公忠。橘次公成(小鹿島公成)の兄。以後出演無し。
参考A江瀧口は、江は大江。瀧口は京都朝廷の白河法皇が置いた北面の武士が、鑓水を引き込む滝口のそばだったので北面上がりやその子孫は名誉として滝口と云う。例は山内首藤瀧口三郎經俊。
参考B
梓刑部丞は、下野国梓郷で栃木県栃木市梓町。

現代語建久四年(1193)八月小十八日壬子。午後四時頃、三州源範頼の家来の橘太左衛門尉、江瀧口、梓刑部丞達が、武器の手入れして宿に立てこもって入るとの噂があったので、結城七郎朝光、梶原平三景時親子、新田四郎忠常達を差し向けました。簡単に範頼の家来の奴等は負けてしまいましたとさ。

建久四年(1193)八月小廿日甲寅。故曾我十郎祐成一腹兄弟。京小次郎被誅。參州縁坐云々。

読下し                    こそがのじうろうすけなり  どうふく  きょうだい  きょうのこじろう ちうされ   さんしゅう えんざ  うんぬん
建久四年(1193)八月小廿日甲寅。故曾我十郎祐成が一腹の兄弟、京小次郎誅被る。參州の縁坐と云々。

現代語建久四年(1193)八月小二十日甲寅。故曽我十郎祐成の同腹の兄弟の京小次郎が処刑されました。三河守範頼に連座だからだそうな。

建久四年(1193)八月小廿三日丁巳。姫君御不例御減。有御湯殿始云々。  

読下し                     ひめぎみ  ごふれい ごげん  おゆどのはじ  あ     うんぬん
建久四年(1193)八月小廿三日丁巳。姫君の御不例御減。御湯殿始め有りと云々。

現代語建久四年(1193)八月小二十三日丁巳。大姫の病気が治ってきましたので、病の気を洗い流すため、病後のお風呂に入る儀式がありましたとさ。

建久四年(1193)八月小廿四日戊午。大庭平太景義。岡崎四郎義實等出家。雖無殊所存。各依年齢之衰老。蒙御免。遂素懷畢云々。

読下し                     おおばのへいたかげよし おかざきのしろうよしざねら しゅっけ
建久四年(1193)八月小廿四日戊午。大庭平太景義、 岡崎四郎義實等 出家す。

こと    しょぞん な     いへど  おのおの ねんれいのろうすい  よつ    ごめん  こうむ    そかい  と をはんぬ うんぬん
殊なる所存無しと雖も、 各、 年齢之衰老に依て、御免を蒙り、素懷を遂げ畢と云々。

現代語建久四年(1193)八月小二十四日戊午。大庭平太景能と岡崎四郎義実が頭を丸めました。特にこれといった理由は無いのですが、それぞれ年をとったので、役職をしりぞいて、何時かはしたいと願っていた出家をしたんだとさ。

説明殊なる所存無しと、断っているところが怪しく、曾我兄弟の仇討ちの際になんらかの関与をした罪で、出家謹慎を強いられている。一説にあの仇討ち事件は、背後であおっている者が居て、相模武士と伊豆武士の勢力争いだと推測している人も居る。曾我の五郎の加冠役は北條時政である。後に大庭景能は十五巻建久六年二月九日条で大仏開眼供養へ出席する頼朝に〔謹慎足掛け三年になるので、謹慎を解いてお供をさせてくれ〕と願い出て許されている。時政は伊豆を掌握したいが、工藤一族がでかい。推測:大庭+岡崎+時政→×工藤。

建久四年(1193)八月小廿九日癸亥。御臺所詣岩殿觀音堂給。北條五郎被候御共。  

読下し                     みだいどころ いわどのかんのんどう もう  たま   ほうじょうのごろう おんとも  そうらはれ
建久四年(1193)八月小廿九日癸亥。御臺所、岩殿觀音堂@へ詣で給ふ。北條五郎 御共に候被る。

参考@岩殿觀音堂は、神奈川県逗子市久木の岩殿寺。坂東三十三觀音霊場めぐりの第二番札所。一番は鎌倉の杉本觀音。

現代語建久四年(1193)八月小二十九日癸亥。御台所政子様は、逗子の岩殿観音堂(岩殿寺)へ詣でられました。弟の北条五郎時連がお供をなされたそうです。

九月へ

    

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