建久四年(1193)癸丑十一月大
建久四年(1193)十一月大四日丁夘。鶴岡八幡宮神事也。將軍家御參。先被行問答講。次及深更。有御神樂。多好節唱宮人曲。于時陰雲俄横而雨灑瑞籬。寒天雖暗兮星現寳殿。神威掲焉。凡耳難覃云々。 |
読下し つるがおかはちまんぐうしんじなり しょうぐんけぎょさん
ま もんどうこう おこな らる
建久四年(1193)十一月大四日丁夘。
鶴岡 八幡宮神事@也。將軍家御參。先ず問答講を行な被る。
つぎ しんこう およ おかぐら おおののよしとき
みやびときょく うた
次に深更に及び、御神樂。 多好節 宮人曲を唱う。
ときに いんうん にはか よこた て あめ
みずがき そそ かんてん くら いへど ほしほうでん あらは しんい
けちえん およ みみ およ がた うんぬん
時于陰雲
俄に横はり而、雨瑞籬に灑ぎ、寒天暗しと雖も星寳殿に現る。神威掲焉。凡そ耳に覃び難しと云々。
参考@鶴岡八幡宮神事と云いながら、問答講は神宮寺仏事なので、これが神仏混交である。
現代語建久四年(1193)十一月大四日丁卯。鶴岡八幡宮の神事です。将軍頼朝様もお参りです。
まず、神宮寺の仏寺の問答形式の戒律のお経です。そしてそれは、夜遅くになって、お神楽を奉納しました。多好節が宮人曲を歌いました。なんとその時、空が曇って急に雨が瑞垣を濡らし、寒空は真っ暗だけど、星が神殿上に現れました。神様がお聞き届けになって下さったご威光があきらかに現れたのです。未だかつて聞いた事のない話だとさ。
説明お神楽によって、急に雨が降ってきたので、神様も分かってくれたことになる。
建久四年(1193)十一月大五日戊辰。右近將監久家進覽去夜降臨于鶴岡之星圖。將軍家殊有仰信云々。 |
読下し うこんしょうげんひさいえ さんぬ よ しんらん つるがおかにこうりんのせいず
建久四年(1193)十一月大五日戊辰。
右近將監久家@去る夜の鶴岡于降臨之星圖を進覽す。
しょうぐんけこと
こうしん あ うんぬん
將軍家殊に仰信有りと云々。
参考@右近將監久家は、江は大江。建久二年(1191)十二月十九日条に山城江次久家以下侍十三人で京へ習いに行って、十月七日に帰ってきた。
現代語建久四年(1193)十一月大五日戊辰。右近将監大江久家が、先日の夜の鶴岡八幡宮に星が降っている絵を献上しました。将軍頼朝様は特に信心をなされたそうです。
建久四年(1193)十一月大八日辛未。前權僧正眞圓〔号亮〕自京都參着。是永福寺傍建梵宇。被安置藥師如來像之間。爲供養導師依被招請也。點比企右衛門尉能員宅。被招入之云々。又願文到着。草式部大輔光範卿。C書按察使朝方卿云々。 |
読下し さきのごんのそうじょうしんえん
〔 すけ ごう
〕 きょうと
よ さんちゃく
建久四年(1193)十一月大八日辛未。 前權僧正眞圓 〔亮と号す〕京都自り參着す。
これ ようふくじ かたはら ぼんう た やくしにょらいぞう
あんちされ のかん くよう どうし ため しょうせいされ よつ なり
是、永福寺の傍に梵宇を建て、藥師如來像を安置被る之間、供養導師の爲
招請被るに依て也。
ひきのうえもんのじょうよしかず たく
てん これ まね いれられ うんぬん
比企右衛門尉能員が宅を點じ@、之を招き入被ると云々。
また
がんもんとうちゃく そう
しきぶのたいふみつのりきょう せいしょ あぜち ともかたきょう うんぬん
又、願文到着す。草Aは式部大輔光範卿、C書は按察使朝方卿と云々。
参考@點じは、点じ定めるで指定する。
参考A草は、草案。下書き。
現代語建久四年(1193)十一月大八日辛未。前権僧正真円〔亮と呼ばれます〕が京都から到着しました。これは永福寺の敷地内にお堂を建て、薬師如来を安置されるので、その供養(着工式)の指導僧として、お呼びになられたからです。
比企右衛門尉能員の家を宿舎として指定し、そこへ招かれましたとさ。又、式典に捧げる文書も届きました。草案は式部大夫光範様で、清書は按察使朝方様だそうです。
建久四年(1193)十一月大十一日甲戌。御堂供養御布施物等事。爲行政。俊兼。盛時。仲業奉行召整之云々。 |
読下し みどうくよう おんふせぶつら こと ゆきまさ としかね もりとき なかなり
ぶぎょう な
建久四年(1193)十一月大十一日甲戌。御堂供養の御布施物等の事、行政、俊兼、盛時、仲業を奉行と爲し
これ め ととの うんぬん
之を召し整うと云々。
現代語建久四年(1193)十一月大十一日甲戌。永福寺のお堂の供養(着工式)の坊さん達へのお布施などについては、主計允藤原二階堂行政、筑後権守藤原俊兼、民部烝平盛時、右京進中原仲業が担当してこれらを取り寄せ整えましたとさ。
建久四年(1193)十一月大十二日乙亥。右近將監多好方承神樂賞。今日以飛騨國荒木郷地頭職。被成政所御下文訖。於國衙之課役者。任先例可致其勤之由。所被載也。因幡前司廣元。民部大夫行政等奉行之云々。 |
読下し うこんしょうげんおおののよしかた かぐら うけたまは しょう きょう ひだのくに あらきごう
じとうしき もつ
建久四年(1193)十一月大十二日乙亥。 右近將監多好方@
神樂を承るの賞に、今日飛騨國荒木郷Aの地頭職を以て、
まんどころ おんくだしぶみ なされをはんぬ こくがのかえき
をい は せんれい まか そ つと いた べ
のよし の られ ところなり
政所の
御下文を 成被訖。 國衙之課役Bに於て者、先例に任せ其の勤めを致す可し之由、載せ被る所也。
いなばのぜんじひろもと みんぶたいふゆきまさら
これ ぶぎょう うんぬん
因幡前司廣元、民部大夫行政等之を奉行すと云々。
参考A飛騨國荒木郷は、岐阜県高山市丹生川町折敷地。旧大野郡丹生川村折敷地。
参考B國衙之課役は、地等取分から國衙納入分は、前例どおりにするように。
現代語建久四年(1193)十一月大十二日乙亥。右近将監多好方は、お神楽を引き受けてくれた褒美に、今日、飛騨国荒木郷の地頭職として政所の命令書を作らせました。国衙への納入分は、今までの例の通りに納めるようにと、書かれているのであります。因幡前司(大江)広元と主計允藤原行政(二階堂)がこれを処理しましたとさ。
説明荒木郷は、荒城川の上流右岸の山間部に位置する。地名の由来は、当地山中の檜、ヒバ、姫子などを、木地師が折敷などの木製品を産出した事による。(斐太後風土記) 1605年(慶長10年)飛騨国郷帳の荒木郷に「玉敷地」とある。 1613年の郷帳では、「折敷地村」として記されている。
建久四年(1193)十一月大十五日戊寅。亮僧正眞圓巡礼鶴岡勝長壽院等勝地。以其次參幕府。將軍家令相逢之給。及御贈物云々。畠山次郎重忠候陪膳云々。 |
読下し すけのそうじょうしんえん つるがおか しょうちょうじゅいん しょうち
じゅんれい そ ついで もつ ばくふ まい
建久四年(1193)十一月大十五日戊寅。
亮僧正眞圓 鶴岡、
勝長壽院等の勝地を巡礼す。其の次を以て幕府へ參る。
しょうぐんけこれ
あいあ せし たま おんおくりもの およ うんぬん はたけやまのじろうしげただ ばいぜん そうら うんぬん
將軍家之に相逢は令め給ひ、御贈物に及ぶと云々。
畠山次郎重忠 陪膳に候うと云々。
現代語建久四年(1193)十一月大十五日戊寅。永福寺薬師如来供養(着工式)のために来た亮僧正真円が、鶴岡八幡宮と勝長寿院の景勝地を廻り参りました。そのついでに幕府に来ました。将軍頼朝様は、彼とお会いになられ贈り物をしましたとさ。畠山次郎重忠が給仕を勤めましたとさ。
建久四年(1193)十一月大十八日辛巳。武藏國飛脚參申云。昨夕。當國太田庄鷲宮御寳前血流。爲凶恠之由云々。則卜筮之處。兵革兆云々。 |
読下し むさしのくに ひきゃくさん もう い
建久四年(1193)十一月大十八日辛巳。武藏國の飛脚參じ申して云はく。
さくゆう とうごく
おおたのしょう わしのみや ごほうぜん ちなが きょうけたるの
よし うんぬん すなは ぼくぜんのところ へいかく きざ うんぬん
昨夕、當國太田庄@鷲宮Aの御寳前に血流る。凶恠爲之由と云々。則ち卜筮之處、兵革の兆しと云々。
参考@太田庄は、八条院領で太田庄は荒川(現在の綾瀬川および元荒川)と利根川(現在の古利根川)の流路にはさまれ、流路に沿って北西から東南方面に細長く仲びた地域で、現在の羽生市・加須市・鷲宮町・久喜市・白岡町・蓮田市・春日部市・岩槻市・越谷市などの広大な地域に比定される。(平成の合併以前)
参考A鷲宮は、埼玉県北久喜市八甫4丁目の鷲宮神社。
現代語建久四年(1193)十一月大十八日辛巳。武蔵国の伝令がやってきて申し上げるのには、昨夕、武蔵国太田庄鷲宮神社の神殿の前に血が流れていたので、縁起が悪い怪しい事だそうです。直ぐに占わせて見たところ、戦争の前触れだとのことです。
建久四年(1193)十一月大十九日壬午。被奉神馬〔鹿毛〕於鷲宮。又可莊厳社壇之旨被仰下。榛谷四郎重朝爲御使云々。 |
読下し しんめ 〔
かげ 〕 を わしのみや たてまつ られ また しゃだん
しょうごんすべ のむね おお くだされ
建久四年(1193)十一月大十九日壬午。神馬〔鹿毛〕於鷲宮へ
奉つ被る。又、社壇を莊厳可し之旨 仰せ下被る。
はんがやつのしろうしげとも おんつかいたり うんぬん
榛谷四郎重朝
御使爲と 云々。
現代語建久四年(1193)十一月大十九日壬午。神様への馬〔鹿毛〕を鷲宮神社へ奉納しました。又、神殿などを荘厳にするようにと仰せになられました。
榛谷四郎重朝が使者になりましたとさ。
建久四年(1193)十一月大廿三日丙戌。上総國小野田郷住人本大掾國廉。依刃傷姨母之罪科。被召之。可遣伊豆大嶋之由。北條殿令奉給云々。 |
読下し かずさのくに おのだごう じゅうにんほんだいじょうくにかど
建久四年(1193)十一月大廿三日丙戌。
上総國 小野田郷@住人本大掾國廉、
をば にんじょう の
ざいか よつ これ めされ
姨母Aを刃傷する之罪科に依て、之を召被る。
いずおおしま つか
べ のよし ほうじょうどの うけたまは せし たま うんぬん
伊豆大嶋へ遣はす可し之由、北條殿
奉り 令め給ふと云々。
参考A姨母は、母の姉妹。
現代語建久四年(1193)十一月大二十三日丙戌。上総国の小野田郷在住の豪族で本大掾国廉は、叔母を切った罪があるので、これを呼び寄せました。
伊豆大島へ行かせるように、北条時政殿が命じられましたとさ。
説明北条時政が、承るのは、伊豆大島は工藤の管轄だったのを、祐経が死んだので譲り受けたのか。
建久四年(1193)十一月大廿七日庚寅。永福寺藥師堂供養也。將軍家渡御寺内。於南門外整行列。千葉小太郎成胤持御劔。愛甲三郎季隆懸御調度云々。 |
読下し ようふくじ
やくしどう くようなり しょうぐんけ じない とぎょ みなみもんがい をい ぎょうれつ ととな
建久四年(1193)十一月大廿七日庚寅。永福寺の藥師堂の供養也。將軍家寺内に渡御す。南門外に於て行列を整う。
ちばのこたろうなりたね ぎょけん
も あいこうのさぶろうすえたか ごちょうど か うんぬん
千葉小太郎成胤御劔を持つ。
愛甲三郎季隆 御調度を懸くと云々。
先陣の隨兵
はたけやまのじろうしげただ かさいのさぶろうきよしげ くらんどたいふよりかね むらかみのさえもんのじょうよりとき
畠山次郎重忠 葛西兵衛尉C重 藏人大夫頼兼 村上左衛門尉頼時
うじいえのごろうきんより はったのさえもんのじょうともしげ みうらのすけよしずみ わだのさえもんのじょうよしもり
氏家五郎公頼 八田左衛門尉知重 三浦介義澄 和田左衛門尉義盛
しもこうべのしょうじゆきひら ごとうのさえもんのじょうもときよ
下河邊庄司行平 後藤左衛門尉基C
こうじん ずいへい
後陣の隨兵
ほうじょうのごろうときつら おやまのしちろうともみつ かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ おなじくぎょうぶさえもんのじょうさだかげ
北條五郎時連 小山七郎朝光 梶原源太左衛門尉景季 同刑部左衛門尉定景
そうまのじろうもろつね ささきのさえもんのじょうさだつな くどうのこじろうゆきみつ にたんのしろうただつね
相馬次郎師常 佐々木左衛門尉定綱 工藤小次郎行光 新田四郎忠常
ぎょしゅつののち うまのこく およ どうし さきのごんのそうじょうしんえん ばんそう あいひき どう まい ことお
おんふせ ひかれ
御出之後、午剋に及び、導師 前權僧正眞圓 伴僧を相率ひ堂へ參る。事訖え御布施を引被る。
どうし ぶん
導師が分
にしきのかずけものふたえ あやのかずけものももえ さきんごじゅうりょう ちょうけんにひゃくひき
綿被物二十重 綾被物百重 沙金@五十兩 帖絹A二百疋B
むらさきぎぬごじったん しらぶにひゃくたん
あいずりさんびゃくたん めんごひゃくりょう
紫絹五十端 白布二百端 藍摺三百端 綿五百兩
いろかわひゃくまい
くらうまじっぴき
色革百枚 鞍馬十疋
参考@沙金は、砂金。金の重量単位は、一両は四分で重さ四匁四分は、16.5g。銀は四匁三分で16.125g。
参考A帖絹は、埼玉県の養蚕の歴史に「室町(南北朝)貞治年間に高麗郡内で帖絹(つむぎ)が広く生産される」とある。
参考B絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物。幅が二反分ある。幅が一尺一寸(約33cm)の物は反で数える。
おな かぶせ
同じく加布施
ごい いちりょう すいしょう ねんじゅ くがねづくり つるぎひとこし
五衣C一領 水精の念珠 金作の釼一腰
参考C五衣は、御衣(ごい)で「おんぞ」とも云う。
しょうそう ぶん くべつ
請僧の分口別Dに
綿被物五重 綾被物三十重 帖絹五十疋 染絹五十端
むらさきぎぬにじったん しらぶにひゃくたん あいずりさんびゃくたん めんさんびゃくりょう
紫絹二十端 白布百端 藍摺百端 綿三百兩
いろかわさんじうまい くらうまさんぴき
色革三十枚 鞍馬三疋
参考D口別は、坊主は人でなく、口で稼ぐので一人、二人と数えず、一口、二口と数える。
かんごののち
まきぎぬひゃく そめぎぬひゃく すくいいちりょう やきひゃくこく
還御之後。
巻絹百。 染絹百。 宿衣一領。八木E百石。
おくりぶみ 〔
おうみのくに をい さた いた べ うんぬん
〕 ら そうじょう りょかん つか され
送文〔近江國に於て、沙汰致す可しと云々。〕等僧正の旅舘に遣は被る。
ひきのとうないともむね おんつかいたり うんぬん
比企藤内朝宗 御使爲と云々。
参考E八木は、八+木で米。
現代語建久四年(1193)十一月大二十七日庚寅。永福寺の薬師堂の供養(着工式)です。将軍頼朝様は寺の境内にお渡りになられました。南門の外で行列を整えたのです。千葉小太郎成胤が刀持ちで、愛甲三郎季隆が弓を担ぎましたとさ。
前を行く儀杖兵は
畠山次郎重忠 葛西兵衛尉清重 源蔵人大夫頼兼 村上左衛門尉頼時
氏家五郎公頼 八田左衛門尉知重 三浦介義澄 和田左衛門尉義盛
下河辺庄司行平 後藤左衛門尉基清
後ろを行く儀杖兵は
北条五郎時連 小山七郎朝光 梶原源太左衛門尉景季 梶原刑部左衛門尉定景
相馬次郎師常 佐々木左衛門尉定綱 工藤小次郎行光 新田四郎忠常です。
頼朝様が御出になられた後、昼頃になって、指導僧の前権僧正真円がお供の坊さん達を引き連れて、お堂へやってきました。式典が終えるとお布施を引かれました。
指導僧の分は
錦織りの被り物二十重ね 綾織の被り物百重ね 砂金五十両 つむぎニ百疋(四百反)
紫染めの絹五十反 白い布二百反 藍の摺り染め三百反 真綿五百両
色染めの皮百枚 鞍置き馬十頭
同様におまけの布施は、将軍様からの着物一領、水晶の数珠、黄金作りの刀一腰
お供の坊さんの分は人毎に
錦織りの被り物五重ね 綾織の被り物三十重ね つむぎ五十疋(百反) 染めた絹五十反
紫染めの絹ニ十反 白い布百反 藍の摺り染め百反 真綿三百両
色染めの皮三十枚 鞍置き馬三頭
御所へお帰りになられた後、丸く巻いた絹を百反、染めた絹百反、どてら一領、お米百石の目録〔近江の国で現物を引き渡すように〕を僧正の宿舎に届けさせました。比企藤内朝宗が使者を果たしましたとさ。
建久四年(1193)十一月大廿八日辛夘。僧正被歸洛。」今夕。越後守義資依女事梟首。所被仰付于加藤次景廉也。其父遠江守義定。就件縁坐蒙御氣色云々。是昨日御堂供養之間。義資投艶書於女房聴聞所訖。而顧後害。敢無披露之處。梶原源太左衛門尉景季妾〔号龍樹前〕語夫景季。又通父景時。々々言上將軍家。仍被糺明眞偽之時。女房等申詞苻号之間。如此云々。三年不窺東家之蝉髪者。一日豈遭白刃之梟首哉。 |
読下し そうじょう
きらく され
建久四年(1193)十一月大廿八日辛夘。僧正歸洛被る。」
こんゆう えちごのかみよしすけ おんな こと よつ きょうしゅ かとうじかげかど
に おお つ られ ところなり
今夕、
越後守義資 女の事に依て梟首す。加藤次景廉于仰せ付け被る所也。
そ
ちち とおとうみのかみよしさだ くだん えんざ つ みけしき こうむ
うんぬん
其の父、
遠江守義定、 件の縁坐に就き御氣色を蒙ると云々。
これ きのう
みどう くようの かん よしすけ つやがきを にょぼう
ちょうもん ところ とう をはんぬ
是、昨日御堂供養之間、義資
艶書於女房 聴聞の所に投じ訖。
しか こうがい かえり
あえ ひろう な のところ かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ めかけ 〔
りゅうじゅのまえ ごう 〕 おっとかげすえ かた
而るに後害を顧み、敢て披露無き之處、 梶原源太左衛門尉景季が 妾〔龍樹前と号す〕夫景季に語る。
また
ちち かげとき つう かげとき しょうぐんけ ごんじょう
又、父景時に通じる。々々將軍家に言上す。
よつ
しんぎ きゅうめいされ のとき にょぼうら もう ことば
ふごう のかん かく ごと うんぬん
仍て眞偽を糺明被る之時、女房等が申す詞苻号する之間、此の如しと云々。
さんねん とうけのせんぱつ うかがはずんば いちにち
あに はくじんのきょうしゅ あは や
三年
東家之蝉髪を不窺者、 一日 豈 白刃之梟首に遭ん哉。
從五位下守 越後守源朝臣義資
〔年〕
とおとうみのかみよしさだ いちなん
遠江守義定 が一男
ぶんじごねんはちがつじうろくにち にんじょ
文治元年八月十六日
任敍
現代語建久四年(1193)十一月大二十八日辛卯。僧正が京都へ帰りました。」
この日の夕方に、越後守安田義資が、女の問題で首を切られました。加藤次景廉に命じられました。その父の安田遠江守義定も、その犯罪人の縁者としてすっかり嫌われてしまいました。
この原因は、昨日の永福寺薬師堂供養(着工式)の最中に、恋文を女官がお経を聞いている所へ投げ込んだのです。でも、女官は後日の災難を恐れて、あえて表沙汰にしなかったのですが、梶原源太左衛門尉景季の妾〔竜樹の前と呼ばれます〕が夫の景季に告げ口をしてしまったのです。
景季も又、父の梶原景時に話してしまいました。梶原景時は、この時とばかりに将軍頼朝様に報告をしました。
そこで事の真実を確かめてみると、女官達が言っている事とぴったり合ってしまったので、このような処分になったのであります。
中国の故事から「三年も関東に使えてきたのに、怒らすような事をしなければ、なんでたった一日で首を刎ねられるような事にめぐりあおうか。」
従五位下守(低位高官)安田越後守源義資〔年齢?〕
遠江守安田義定の長男
文治元年(1185)八月十六日任命されました
説明從五位下守の守(しゅ)は、位は低いが官職が高い。低位高官。逆の高位低官は行(ぎょう)。没年記事。頼朝の大豪族解体である。
建久四年(1193)十一月大卅日癸巳。人々浴恩澤。因幡前司廣元民部大夫行政大藏烝頼平等奉行之云々。 |
建久四年(1193)十一月大卅日癸巳。人々恩澤に浴す。
いなばのぜんじひろもと みんぶのたいふゆきまさ おおくらのじょうよりひらら これ
ぶぎょう うんぬん
因幡前司廣元、民部大夫行政、大藏烝頼平等 之を奉行すと云々。
現代語建久四年(1193)十一月大三十日癸巳。人々が褒美を貰いました。因幡前司(大江)広元、主計允藤原行政(二階堂)、大蔵烝頼平が、この事務を担当しました。
説明恩澤は、この言葉は蒙古襲来などの時代の言葉で、この時点ではまだ単語がない。この内容は、二十八日処刑された安田越後守義資の分を信濃源氏に分け与えたのではなかろうか。