建久四年(1193)癸丑十二月
建久四年(1193)十二月小一日甲午。相摸守惟義爲奉幣御使。參向尾張國熱田社。被献神馬〔黒栗毛〕又被遣別祿於大宮司範經。是殊可有御祈祷事也。 |
読下し さがみのかみこれよし ほうへい おんし な おわりのくにあつたしゃ さんこう しんめ 〔 くろくりげ 〕 けん られ
建久四年(1193)十二月小一日甲午。
相摸守惟義
奉幣の御使と爲し、尾張國熱田社へ參向し、神馬〔黒栗毛〕を献ぜ被る。
また
べつろくを だいぐうじのりつね つか さる これ
こと ごきとう こと あ べ なり
又、別祿於大宮司範經@に遣は被る。是、殊に御祈祷の事有る可し也。
参考@大宮司範經は、頼朝の母の兄の子(従兄弟)。
現代語建久四年(1193)十二月小一日甲午。大内相模守惟義は、神様の社前にお参りする代参として、尾張国の熱田神宮へ行って、馬〔黒栗毛〕を奉納しました。又、(頼朝様は)別の贈り物を大宮司の藤原範経に渡させました。これは、特別にご祈祷をするようにとのことでした。
建久四年(1193)十二月小五日戊戌。被収公遠江守義定所領當國淺羽庄地頭職。以景廉被補其替。今日賜御下文。大藏丞頼平奉行之云々。 |
読下し とおとうみのかみよしさだ しょりょう とうごく あさばのしょうじとうしき
しゅうこうされ かげかど もつ そ かえ ぶされ
建久四年(1193)十二月小五日戊戌。
遠江守義定の 所領、當國淺羽庄@地頭職を収公被、景廉を以て其の替に補被る。
きょう おんくだしぶみ たま おおくらのじょうよりひら これ ぶぎょう うんぬん
今日、御下文を賜はる。
大藏丞頼平 之を奉行すと云々。
現代語建久四年(1193)十二月小五日戊戌。遠江守安田義定の所領、遠江国浅羽庄の地頭職を取上げられ、加藤次景廉をその替わりに任命しました。
今日、正式の任命書を与えられました。大蔵丞頼平が事務を担当しましたとさ。
建久四年(1193)十二月小十三日丙午。仰前右衛門尉知家。常陸國住人下妻四郎弘幹梟首。是於北條殿有挿宿意事。常咲中鋭刀。只心端以簧。而近日自然露顯之故也云々。 |
読下し さきのうえもんのじょうともいえ おお ひたちのくに
じゅうにん しもつまのしろうひろもと きょうしゅ
建久四年(1193)十二月小十三日丙午。前右衛門尉知家に仰せて、常陸國
住人 下妻四郎弘幹@を梟首す。
これ ほうじょうどのを
すくい さしはさ ことあ つね しょうちゅう かたな と
ただ しんたん こう も しか きんじつ じねん ろけんの ゆえなり
うんぬん
是、北條殿於宿意を挿む事有り。常に咲中に刀を鋭ぎ、只心端に簧Aを以つ。而して近日、自然に露顯之故也と云々。
参考A簧を以つは、暴言を吐く。簧は、雅楽の和楽器・笙(しょう)の音を出すベラ舌先。
現代語建久四年(1193)十二月小十三日丙午。八田前右衛門尉知家に命令して、常陸国在住の豪族下妻四郎弘幹を処刑されました。
この人は、北条時政殿に恨みを抱いており、常に笑いの内に刃物を秘め、心では暴言を吐いてます。それが最近思いもよらず、ばれてしまったからだそうです。
建久四年(1193)十二月小廿日癸丑。佐々木左衛門尉定綱本知行之地悉返給之。其上七ケ國内。各被加一所。於隱岐國者。不交他人之沙汰。一圓拝領地頭職。至長門石見兩國者。所被補守護職也。 |
読下し ささきのさえもんのじょうさだつな ほんちぎょうのち ことごと これ
かえ たま
建久四年(1193)十二月小廿日癸丑。佐々木左衛門尉定綱に本知行之地悉く之を返し給ふ。
そ うえ
しちかこくない おのおのいっしょ くわ られ おきのくに をい は たにんの さた まじえず いちえん
じとうしき はいりょう
其の上七ケ國内の、
各
一所を加へ被る。隱岐國に於て者、他人之沙汰を不交、一圓@に地頭職を拝領す。
ながと
いわみ りょうごく いた は しゅごしき ぶされ ところなり
長門、石見兩國に至りて者、守護職に補被る所也。
参考@一圓は、一所一権利とする。
現代語建久四年(1193)十二月小二十日癸丑。佐々木左衛門尉定綱の元の領地は全て返し与えました。
そればかりか、七つの国の一箇所をプラスして与えました。隠岐の国については、一切他人の権限を排除して、一箇所を一つの権利として地頭職を戴きました。長門・石見の両方の国の分については、守護職に任命されたのです。
参考佐々木定綱の石見の子孫が毛利に滅ぼされた尼子氏である。