吾妻鏡入門第十四巻   

建久五年(1194)甲寅正月大

建久五年(1194)正月大一日癸亥。將軍前右大將家御參 鶴岳八幡宮。還御之後有垸飯。上総介義兼御征箭弓馬以下。御釼者里見冠者義成持之云々。

読下し              しょうぐんさきのうだいしょうけ  つるがおかはちまんぐう  ぎょさん    かんごののち   おうばん あ
建久五年(1194)正月大一日癸亥。將軍前右大將家@、 鶴岳八幡宮へ 御參Aす。還御之後、垸飯B有り。

かずさのすけよしかね おんそや きゅうば いげ  ぎょけんは  さとみのかじゃよしなり これ  も     うんぬん
上総介義兼が御征箭C弓馬以下。御釼者、里見冠者義成D之を持つと云々。

参考@將軍前右大將家は、頼朝。建久元年(1190)十一月廿四日右大将任命。建久元年(1190)十二月三日辞任。
参考A八幡宮へ御參は、毎年一日に初詣をすることに治承五年(1181)正月一日に決めている。
参考
B垸飯は、部下が将軍様へご馳走を用意することで、正月などは政権立場の高い順に振舞う。これが後に「大盤振る舞い」の語源となる。
参考
C征箭(そや)は、戦争用に鏃。狩猟用は野矢。
参考D里見冠者義成は、父義俊が新田冠者義重の長男だが、母の出自が低いので、群馬県群馬郡榛名町中里見小字堀内(旧碓井郡里見村中里見)へ分家した。

現代語建久五年(1194)正月大一日癸亥。将軍で前右大将でもある頼朝様が、鶴岡八幡宮へお参りです。
御所へ戻った後、ご馳走の振る舞いがありました。上総介足利義兼が戦争用の征矢と弓や馬などを献上しました。太刀は里見冠者義成がこれを持って献上しましたとさ。

建久五年(1194)正月大四日丙寅。甘繩宮御靈社御奉幣。知家爲御使。

読下し             あまなわぐう  ごりょうしゃ    ごほうへい   ともいえ おんし  な
建久五年(1194)正月大四日丙寅。甘繩宮@、御靈社Aへの御奉幣。知家B御使と爲す。

参考@甘繩宮は、鎌倉市長谷一丁目12−1甘縄神明神社。祭神は天照大神。
参考
A御靈社は、鎌倉市坂ノ下4−9御霊神社。祭神は鎌倉権五郎景政。通称権五郎神社とも。
参考
B知家は、八田武者所知家。常陸国八田荘で、茨城県筑西市八田・旧下館市八田。

現代語建久五年(1194)正月大四日丙寅。甘縄神明神社と御霊神社権五郎神社へ御幣を届けます。八田右衛門尉知家が代参しました。

建久五年(1194)正月大七日己巳。御所心經會也。導師法眼行惠。請僧大法師禪衍。源信。禪寮也。先於上臺所羞饌。次開題。此間將軍家出御。有聽聞。事訖被施御布施。導師分。被物二重。裹物一。請僧口別。長絹二疋。皇后宮權大進爲宗。安房判官代高重等取之。  

読下し              ごしょ   しんぎょうえなり  どうし  ほうげんぎょうえ  しょうそう  だいほっそぜんえん  げんしん  ぜんりょうなり
建久五年(1194)正月大七日己巳。御所の心經會@也。導師は法眼行惠。請僧は大法師禪衍、源信、禪寮也。

ま  かみだいどころ をい  せん  すす    つぎ  かいだい   こ   かん しょうぐんけしゅつご  ちょうもんあ    ことをは    おんふせ   ほど  さる
先ず上臺所に於て饌Aを羞め、次に開題Bす。此の間、將軍家出御。聽聞有り。事訖りて御布施を施こ被る。

どうし   ぶん    かずけものふたえ ふくろものいち しょうそう  くべつ    ちょうけんにひき
導師の分は、被物二重、裹物一。 請僧は口別Cに、長絹二疋。

こうごうぐうごんのだいしんためむね あわのほうがんだいたかしげ ら  これ  と
 皇后宮權大進爲宗、 安房判官代高重 等之を取る。

参考@心經會は、般若心経を唱える会。
参考A
は、供え物。また、調えられた食物・食事。
参考B
開題は、経典の題目を解釈し、一部のあらましを提示すること。
参考C口別には、坊主は出家しており人ではく口だけなので、一口・二口と書き、「いっく・にく」と数える。

現代語建久五年(1194)正月大七日己巳。御所で般若心経を唱える会です。指導僧は、法眼行恵。お供の坊さんは、大法師禅衍、源信、禪寮です。
まず、上の台所で食事をすすめ、その次にお経の解釈をしました。この間、将軍頼朝様はお出ましになられ、説教をお聞きになられました。
それらの儀式が終わって、お布施を与えられました。指導僧には、被り物を二重、袋詰めを一つです。お供の坊さんには一人づつに、つむぎをニ疋(四反)です。皇后宮権大進伊佐為宗と安房判官代源高重が手渡しました。

建久五年(1194)正月大八日庚午。將軍家入御藤九郎盛長甘繩家。

読下し             しょうぐんけ  とうくろうもりなが    あまなわ  いえ  にゅうぎょ
建久五年(1194)正月大八日庚午。將軍家、藤九郎盛長が甘繩の家へ入御す@

参考@藤九郎盛長が甘繩の家へ入御すは、御行始(みゆきはじめ)。養和二年(1182)正月三日から決めた。

現代語建久五年(1194)正月大八日庚午。将軍頼朝様は、藤九郎盛長の甘縄の屋敷へお出かけ始めです。

建久五年(1194)正月大九日辛未。御弓始也。
 射手
  一番 下河邊庄司行平 和田左衛門尉義盛
  二番 結城七郎朝光  榛谷四郎重朝
  三番 海野小太郎幸氏 藤澤次郎C近
 射訖。各有祿。兼所被置御前簀子也。

読下し             おんゆみはじめなり
建久五年(1194)正月大九日辛未。御弓始也。

   いて
 射手

    いちばん  しもこうべのしょうじゆきひら わだのさえもんのじょうよしもり
  一番 下河邊庄司行平 和田左衛門尉義盛

    にばん   ゆうきのしちろうともみつ   はんがやつのしろうしげとも
  二番 結城七郎朝光  榛谷四郎重朝

    さんばん  うんののこたろうゆきうじ   ふじさわのじろうきよちか
  三番 海野小太郎幸氏 藤澤次郎C近

   いをは     おのおの ろくあ    かね  ごぜん  すのこ  おかれるところなり
 射訖りて、各 祿有り。兼て御前の簀子に置被所也。

現代語建久五年(1194)正月大九日辛未。今年初めて弓を射る弓始め式です。
 射る人は、
  
一番が、下河辺庄司行平 対 和田左衛門尉義盛
  二番が、結城七郎朝光  対 榛谷四郎重朝
  三番が、海野小太郎幸氏 対 藤沢次郎清近
射終わって、それぞれに褒美が出ました。予め、頼朝様の御前のすのこに置かれていたものです。

説明弓始は、文治五年(1189)正月三日から始めた。

建久五年(1194)正月大十五日丁丑。將軍家渡御三浦介義澄家。

読下し              しょうぐんけ  みうらのすけよしずみ いえ とぎょ
建久五年(1194)正月大十五日丁丑。將軍家、三浦介義澄の家へ渡御す。

現代語建久五年(1194)正月大十五日丁丑。将軍頼朝様が、西御門の三浦介義澄の屋敷へ赴かれました。

説明三浦介義澄の家は、西御門の横浜国大付属中学を指定する人も居るが、第二中学の段々の平場が奥座敷の感じがする。

建久五年(1194)正月大十八日庚辰。永福寺。勝長壽院等御礼佛云々。

読下し              ようふくじ   しょうちょうじゅいん ら ごれいぶつ  うんぬん
建久五年(1194)正月大十八日庚辰。永福寺、勝長壽院@等の御礼佛と云々。

参考@永福寺、勝長壽院は、八幡宮に次ぐ頼朝建立三大寺である。

現代語建久五年(1194)正月大十八日庚辰。永福寺、勝長寿院の仏様を拝まれましたとさ。

建久五年(1194)正月大廿九日辛夘。御臺所爲奉幣于伊豆筥根兩權現。令進發給云々。

読下し              みだいどころ いずはこねりょうごんげんに ほうへい ため  しんぱつせし たま    うんぬん
建久五年(1194)正月大廿九日辛夘。御臺所、伊豆筥根兩權現于奉幣@の爲、進發令め給ふと云々。

参考@伊豆筥根兩權現于奉幣は、二所詣でと云い、伊豆山走湯權現・箱根權現の兩權現参りに三島大社も必ず寄る。何時もは頼朝が由比ガ浜で精進潔斎して出かける。今年は何故政子なんでしょう?

現代語建久五年(1194)正月大二十九日辛卯。御台所政子様は、伊豆山権現(走湯山神社)と箱根権現(箱根神社)に御幣を納めるために、出発なされましたとさ。

建久五年(1194)正月大卅日壬辰。伊豆國甘海苔被進京都。雜色吉野三郎爲御使云々。

読下し             いずのくに   あまのり   きょうと   しん  らる    ぞうしき  よしのさぶろうおんし  な    うんぬん
建久五年(1194)正月大卅日壬辰。伊豆國の甘海苔@を京都へ進ぜ被る。雜色の吉野三郎御使と爲すと云々。

参考@伊豆國の甘海苔は、伊豆の租庸調の調かも知れない。

現代語建久五年(1194)正月大三十日壬辰。伊豆の国の年貢である「甘海苔」を京都へ送られました。雑用の吉野三郎を使いにしましたとさ。

二月へ

  

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