建久五年(1194)甲寅三月大
建久五年(1194)三月大三日甲子。鶴岳法會如恒。將軍家御出云々。 |
読下し
つるがおか ほうえ
つね ごと しょうぐんけぎょしゅつ うんぬん
建久五年(1194)三月大三日甲子。鶴岳の法會恒の如し。將軍家御出と云々。
現代語建久五年(1194)三月大三日甲子。鶴岡八幡宮の上巳の節句の法要は何時もの通りです。将軍頼朝様も出席だそうな。
説明三月大三日は、上巳(じょうし)の節句。桃の節句ともひな祭りとも云う。
建久五年(1194)三月大五日丙寅。爲三嶋社千度詣。被差進女房上野局。殊御願也云々。 |
読下し みしましゃ
せんどもうで ため にょぼう こうづけのつぼね さ しん
られ こと ぎょがんなり うんぬん
建久五年(1194)三月大五日丙寅。三嶋社千度詣の爲、女房@上野局を差し進ぜ被る。殊に御願也と云々。
現代語建久五年(1194)三月大五日丙寅。三島神社への千度(お百度参りの十倍)参りをするために、幕府の女官の上野局に命じていかせました。特別なお願いがあるからだそうな。
建久五年(1194)三月大九日庚午。掃部允藤原行光加政所寄人云々。 |
読下し かもんのじょうふじわらゆきみつ まんどころ よりうど くは うんぬん
建久五年(1194)三月大九日庚午。掃部允藤原行光@を
政所の寄人Aに加えらると云々。
参考A寄人は、平安時代以後、記録所・御書所などに置かれた職員。庶務・執筆などのことをつかさどった。Goo電子辞書から
現代語建久五年(1194)三月大九日庚午。主計允藤原行政の息子の掃部允藤原行光(二階堂)を、政務事務所政所の事務官に加えましたとさ。
建久五年(1194)三月大十三日甲戌。甲斐國武河御牧駒八疋參着。被經御覽。可被進京都云々。 |
読下し かいのくにむかわのみまき こま はっぴきさんちゃく ごらん へられ きょうと しん られ べ うんぬん
建久五年(1194)三月大十三日甲戌。甲斐國武河御牧@の駒A八疋參着す。御覽を經被、京都へ進ぜ被るB可しと云々。
参考A駒は、甲斐駒と思われるが、馬は体高4尺以下を駒、以上を龍蹄と呼ぶ。
参考B御覽を經被、京都へ進ぜ被るは、貢馬(くめ)御覧。税としての馬を頼朝が検査をして良いのは横取りしてから、京都朝廷へ送る。
現代語建久五年(1194)三月大十三日甲戌。昔京都朝廷の牧場だった甲斐国武河御牧の名馬が八頭やってきました。
頼朝様がご覧になった後、京都へ送られましたとさ。
建久五年(1194)三月大十五日丙子。將軍家渡御于若宮別當坊。是別當法眼自京都招下垂髪。尤堪郢律舞曲。可覽其藝之由。被申請之故也。有勸盃等。兒童施藝。僧徒及延年。御共壯士等。依仰相交之。自然之壯勸也。此間。故祐經于今令存命者。定入興歟之由。被仰出。頗有御落涙之氣云々。 |
読下し しょうぐんけわかみや べっとうぼうに とぎょ これ
べっとうほうげんきょうとよ すいはつ まね くだ
建久五年(1194)三月大十五日丙子。將軍家若宮の別當坊于渡御す。是、別當法眼京都自り垂髪@を招き下す。
もっと えい りつ ぶきょく た そ げい み べ のよし もう う
られ のゆえなり かんぱいら あ
尤も郢A律B舞曲に堪へる。其の藝を覽る可し之由、申し請け被る之故也。勸盃等有り。
じどう げい ほどこ そうと
えんねん およ おんとも そうしら おお よつ これ
あいまじは じねんのそうかんなり
兒童C藝を施す。僧徒延年に及ぶD。御共の壯士等、仰せに依て之に相交る。自然之壯勸也。
こ かん
こすけつね いまにぞんめいせし ば さだ きょう い か の よし おお
い られ すこぶ ごらくるいの け あ うんぬん
此の間、故祐經E今于存命令め者、定めし興に入る歟之由、仰せ出で被る。頗る御落涙之氣有りと云々。
参考@垂髪は、背後に長く垂れた髪を表し、幼児髪で稚児の事であるが、一概にいえず職業によって大人になってもそのままの場合もある。
参考A郢は、郢曲で催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)・朗詠・今様(いまよう)など、中古・中世の歌謡類の総称。
参考B律は、不文律や戒律に使うが、自然に周期をもって作動する事でリズムをも現す。
参考C兒童は、稚児。
参考D延年に及ぶは、芸能大会を催す。又は延年の舞を踊る。
参考E故祐經は、工藤祐経で、建久四年(1193)五月大廿八日に曽我兄弟に討たれている。
現代語建久五年(1194)三月大十五日丙子。将軍頼朝様は、八幡宮寺の長官の坊へ参られました。それは、長官の法眼が京都から稚児達を呼び寄せたからです。歌謡やリズムや踊りにも長けています。その芸を見ましょうと招待されたからなのです。
酒宴が有り、稚児達が芸を見せました。坊さん達は、延年の舞を踊りました。頼朝様のお供の青年達も、頼朝様に命じられ、この踊りに加わりました。予想以上の見物でした。そんな様子を見て、頼朝様は、若し工藤祐経が生きておったら、さぞかし楽しませただろうがな、とおっしゃられました。そして、ぽろぽろと涙を流されましたとさ。
建久五年(1194)三月大十六日丁丑。巳尅。自若宮令還給。而朝日無光。偏如蝕。是敢非煙霞之掩映。又難稱春天之景色。人々成奇異之思。 |
読下し
みのこく わかみやよ
かえ せし たま しか あさひひかりな ひとへ しょく ごと
建久五年(1194)三月大十六日丁丑。巳尅、若宮自り還ら令め給ふ。而るに朝日光無し。偏に蝕の如し。
これ あえ
えんか の おほ えい あらず また しゅんてんのけしき しょう がた ひとびと きい
の おもい な
是、敢て煙霞之掩い映ずるに非。又、春天之景色と稱し難し。人々奇異之思を成す。
現代語建久五年(1194)三月大十六日丁丑。巳の刻(午前十時頃)に八幡宮から御所へお帰りになりました。それなのに朝日に耀きが無いのです。まるで日食みたいです。かと云って、特に煙や霞がかかっているわけではないのです。又、春霞の景色とも云い難いのです。人々は皆、不思議な思いにかられました。
建久五年(1194)三月大十七日戊寅。諸國守護人煩國領之由。依聞食。宜令停止之旨。被仰下云々。 |
読下し しょこくしゅごにんこくりょう
わずらは のよし き め よつ よろ
ちょうじせし のむね
建久五年(1194)三月大十七日戊寅。諸國守護人國領を煩す@之由、聞こし食すに依て、宜しく停止令む之旨、
おお くだされ うんぬん
仰せ下被ると云々。
現代語建久五年(1194)三月大十七日戊寅。諸国の守護人が国衙領の納入分を横取りしていると、聞こえてきたので、すぐに止めるように命令を出されました。
建久五年(1194)三月大廿二日癸未。被奉砂金於京都。是東大寺大佛御光料也。被下佛師院尊支度。可被進二百兩旨。有御教書云々。 |
読下し さきん
を きょうと たてまつられ これ とうだいじ だいぶつごこうりょうなり
建久五年(1194)三月大廿二日癸未。砂金於京都へ奉被る。是、東大寺大佛御光料@也。
ぶっし
いんそん くだされ したく にひゃくりょう しん られ べ むね みぎょうしょ
あ うんぬん
佛師院尊に下被る支度、二百兩Aを進ぜ被る可しの旨、御教書有りと云々。
参考A金二百両は、約3.3kg。金の重量単位は、一両は四分で重さが四匁四分は、16.5g。銀一両は四匁三分で16.125g。2009年10月頃の金相場は1g3,235円なので、3,235×3300=10,675,500円。
現代語建久五年(1194)三月大二十二日癸未。砂金を京都朝廷へ送られました。これは、東大寺大仏の造作費用です。
仏師の院尊に与えるべき費用の二百両を送るように、命令書を書かさせましたとさ。
建久五年(1194)三月大廿五日癸酉(丙戌)。於伊豆國願成就院。被修如法經十種供養。是爲被訪祐親法師景親已下没後也。 |
読下し いずのくにがんじょうじゅいん をい にょほうきょうじっしゅ
くよう しゅうされ
建久五年(1194)三月大廿五日癸酉(丙戌)。伊豆國願成就院@に於て、如法經十種の供養を修被る。
これ
すけちかほっし かげちか いか ぼつご とぶら られ ためなり
是、祐親法師A、景親B已下の没後を訪は被ん爲也。
参考@願成就院は、文治五年の奥州発行の際に、北條時政が奥州合戦の勝利を祈って建てた。
参考A祐親法師は、伊東次郎祐親。石橋山合戰で敵対した。養和二年(1182)二月十四日に自殺しているので十三回忌になるが?
参考B景親は、大庭三郎景親。同。
現代語建久五年(1194)三月大二十五日丙戌。伊豆国韮山の願成就院で、規則どおりにお経十種類をあげさせました。
これは、伊東次郎祐親法師や大庭三郎景親の死後の菩提を弔うためです。