建久五年(1194)甲寅四月小
建久五年(1194)四月小三日甲午。鶴岳臨時祭。將軍家無御參。右京進季時爲奉幣御使參宮。流鏑馬以下如例云々。 |
読下し つるがおか りんじさい しょうぐんけぎょさん
な うきょうさかんすえとき ほうへい おんし な さんぐう
建久五年(1194)四月小三日甲午。鶴岳の臨時祭。將軍家御參無し。右京進季時@奉幣の御使と爲し參宮す。
やぶさめ
いか れい ごと うんぬん
流鏑馬以下例の如しと云々。
参考@右京進季時は、中原。掃部頭中原親能の子。後に出家して行阿。
現代語建久五年(1194)四月小三日甲午。鶴岡八幡宮の臨時のお祭です。将軍頼朝様のお参りは有りません。右京進中原季時が、御幣を捧げる代参として宮参りをしました。
流鏑馬などの奉納は何時もの通りでしたとさ。
建久五年(1194)四月小四日乙未。同宮神事如昨日。里見冠者爲奉幣御使云々。 |
読下し
どうぐうしんじ
きのう ごと さとみのかじゃほうへい おんしたり うんぬん
建久五年(1194)四月小四日乙未。同宮神事昨日の如し。里見冠者奉幣の御使爲と云々。
現代語建久五年(1194)四月小四日乙未。八幡宮の神事は昨日の通りです。里見冠者義成が御幣を捧げる使いをしましたとさ。
建久五年(1194)四月小七日戊戌。源藏人大夫頼兼使者自京都參着。献書状。大内守護之間。去月廿八日。於仁壽殿前。搦獲犯人。推問之處。欲燒大内云々。此上不及子細。則梟首之由載之云々。度々顯勳功。於武勇頗不耻父祖之旨。 將軍家殊感給云々。 |
読下し みなもとくらんどたいふよりかね ししゃ
きょうと よ さんちゃく しょじょう けん
建久五年(1194)四月小七日戊戌。
源藏人大夫頼兼@が
使者京都自り參着し、書状を献ず。
だいだいしゅごの
かん さぬるつきにじうはちにち じじゅでんまえ をい はんにん
から え すいもんのところ だいだい や ほつ うんぬん
大内守護之間、
去月廿八日、
仁壽殿前に於て、犯人を搦め獲て、推問之處、大内を燒かんと欲すと云々。
こ うえ しさい
およばず すなは きょうしゅのよしこれ の
うんぬん
此の上子細に不及、則ち梟首之由之を載せると云々。
たびたびくんこう あらは
ぶゆう をい すこぶるふそ はじずのむね しょうぐんけこと かん たま
うんぬん
度々勳功を顯し、武勇に於て頗父祖に不耻之旨。將軍家殊に感じ給ふと云々。
参考@源藏人大夫頼兼は、入道源三位頼政の二男。
現代語建久五年(1194)四月小七日戊戌。源蔵人大夫頼兼の使いが京都から到着して、手紙を差し出しました。京都の大内裏を警固していた先月二十八日、仁寿殿の前で、怪しい奴をとっ捕まえて、腕づくで尋問したところ、大内裏を焼こうとしたとのことです。この上は、詳しく調べる必要も無いので、直ちに首を刎ねましたと書いておりましたとさ。度々の手柄をあらわすので、武勇伝では先祖に負けていないと、将軍様は特に感嘆しましたとさ。
建久五年(1194)四月小十日辛丑。被造鎌倉中道路。梶原景時奉行之。 |
読下し かまくらちゅう どうろ つくられ
かじわらかげときこれ ぶぎょう
建久五年(1194)四月小十日辛丑。鎌倉中の道路を造被る。梶原景時之を奉行す。
現代語建久五年(1194)四月小十日辛丑。鎌倉中の道路を作らせます。梶原平三景時がこれを指揮担当します。
建久五年(1194)四月小十二日癸夘。依有御宿願。於伊豆權現寳前。可令轉讀大般若經之由。被仰遣之上。被進神馬云々。 |
読下し ごしゅくがん
あ よつ いずごんげん ほうぜん をい
建久五年(1194)四月小十二日癸夘。御宿願@有るに依て、伊豆權現Aの寳前に於て、
だいはんにゃきょう てんどくせし べ のよし おお つか され のうえ しんめ
しん られ うんぬん
大般若經を轉讀令む可し之由、仰せ遣は被る之上、神馬を進ぜ被ると云々。
参考A伊豆権現は、静岡県熱海市伊豆山708−1静岡県熱海市の走湯神社。伊豆山神社。旧名は走湯權現。
現代語建久五年(1194)四月小十二日癸卯。特別なお願いがあるので、伊豆山権現神社の社殿の前で、大般若経を略読みのお経を上げるように、伝えさせて、馬を奉納されましたとさ。
建久五年(1194)四月小十六日丁未。令出由比浦給。有御笠懸勝負。是氏家五郎久在國。此間參上。仍被召加之。爲御覽其抜群射藝也。諸人同參之。 |
読下し ゆいのうら い
せし たま おんかさがけ しょうぶ あ
建久五年(1194)四月小十六日丁未。由比浦に出で令め給ふ。御笠懸の勝負有り。
これ
うじいえごろう ひさ ざいこく こ かんさんじょう よつ これ
め くは られ
是、氏家五郎@久しく在國し、此の間參上す。仍て之を召し加へ被る。
そ ばつぐん しゃげい ごらん
ためなり しょにんおな これ さん
其の抜群の射藝を御覽の爲也。諸人同じく之に參ず。
参考@氏家五郎は、公頼で栃木県さくら市氏家。宇都宮朝綱の子。
現代語建久五年(1194)四月小十六日丁未。由比の浦へお出ましです。笠懸の勝負をなさいました。その理由は、氏家五郎公頼が永い事国へ帰っており、近頃鎌倉へやってきたのです。
そこで彼を呼び出して参加させました。その抜群に秀でた弓の腕前を見るためなのです。人々も同様に見に集ってきました。
建久五年(1194)四月小廿一日壬子。故小松内府孫子〔惟盛卿男〕六代禪師自京都參向。所帶高雄上人文學書状也。偏依恩化。繼命之間。於關東。更不存巨惡。矧亦於遂出家遁世哉之由。属因幡前司廣元申之云々。 |
読下し ここまつないふ まご 〔
これもりきょう おとこ 〕 ろくだいぜんじ きょうと よ さんこう
建久五年(1194)四月小廿一日壬子。故小松内府が孫子〔惟盛卿が男〕六代禪師、京都自り參向す。
たかおのしょうにんもんがく しょじょう たい
ところなり ひとへ おんげ よつ いのち つ のかん かんとう をい さら
こあく ぞんぜず
高雄上人文學の書状を帶する所也。偏に恩化に依て、命を繼ぐ之間、關東に於て、更に巨惡を不存。
いはん またしゅっけ と
とんせい をい や のよし いなばのぜんじひろもと ぞく これ
もう うんぬん
矧や亦出家を遂げ遁世するに於てを哉之由、因幡前司廣元に属し之を申すと云々。
現代語建久五年(1194)四月小二十一日壬子。故小松内大臣(平重盛)の孫〔惟盛の息子〕の六代禅師が京都からやってきました。高尾の門覚上人の紹介状を持っております。
「頼朝様の温情によって、命を繋ぎとめておりますので、関東への悪巧みなぞ持ってはおりません。ましてや、出家をして世捨て人となっているのですから。」と大江広元を通して申し上げたんだそうです。
建久五年(1194)四月小廿二日癸丑。相摸國中寺社恒例佛神事。如旧可執行之旨。被仰含三浦介云々。 |
読下し さがみこくちゅう じしゃ
こうれい ぶっしん こと むかし ごと しぎょうすべ
のむね
建久五年(1194)四月小廿二日癸丑。相摸國中の寺社恒例の佛神の事、旧の如く執行可し之旨、
みうらのすけ おお
ふく られ うんぬん
三浦介に仰せ含め被ると云々。
現代語建久五年(1194)四月小二十二日癸丑。相模の国中の神社仏閣が昔から伝えられている神や仏については、以前どおりに儀式を行うように、三浦介義澄に言い含めましたとさ。
建久五年(1194)四月小廿三日甲寅。伊豆山献巻數。大般若經轉讀之由云々。 |
読下し いずさん
かんすう けん だいはんにゃきょてんどくのよし うんぬん
建久五年(1194)四月小廿三日甲寅。伊豆山、巻數を献ず。大般若經轉讀之由と云々。
現代語建久五年(1194)四月小二十三日甲寅。伊豆山權現(走湯山神社)は、読み終えたお経の数を報告しました。大般若経を略読みだそうです。
建久五年(1194)四月小廿七日戊午。相摸國中。爲令注進寺社草創。被廻仲業。高重云々。 |
読下し さがみくにちゅう じしゃ そうそう
ちうしんせし ため なかなり たかしげ めぐ
され うんぬん
建久五年(1194)四月小廿七日戊午。相摸國中に寺社の草創を注進令めん爲、仲業、高重を廻ら被ると云々。