吾妻鏡入門第十四巻   

建久五年(1194)甲寅五月小

建久五年(1194)五月小二日壬戌。由比浦邊漁夫。今晩無病頓死。有往生之瑞相。諸人擧而觀之。端座合掌。無聊動搖。 將軍家随喜之餘。以梶原三郎兵衛。令尋給之處。此男日者以漁釣爲世渡之計。但其間自唱弥陀寳号。遂不怠云。有御哀憐。被下象牙。於遺蹟殊可營後事之由被仰云々。

読下し              ゆいにうら へん  りょうふ  こんぎょうやまいな とんし     おうじょうのずいそうあ
建久五年(1194)五月小二日壬戌。由比浦@邊の漁夫、今晩病無く頓死す。往生之瑞相有り。

しょにんこぞ  て これ  み     たんざがっしょう いささか どうような
諸人擧り而之を觀る。端座合掌し聊も動搖無し。

しょうぐんけ ずいきの あま     かじわらのさぶろうひょうえ もつ    たず  せし  たま  のところ  こ おとこ ひごろ ぎょちょう  もつ  よわたりのはかり  な
將軍家随喜之餘りに、梶原三郎兵衛を以て、尋ね令め給ふ之處、此の男日者漁釣を以て世渡之計と爲す。

ただ  そ   かんみずか あみほうごう  とな    つい  おこたらず い
但し其の間自ら弥陀寳号を唱へ、遂に不怠と云ふ。

 ごあいりん あ       しょうげ  くだされ  ゆいせき   をい  こと  こうじ   いとな べ    のよし  おお  らる    うんぬん
御哀憐有りて、象牙Aを下被、遺蹟Bに於て殊に後事を營む可し之由、仰せ被ると云々。

参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
参考A象牙は、白米。
参考B
遺蹟は、子孫。

現代語建久五年(1194)五月小二日壬戌。由比の浦の漁師が、今晩病気でもないのに死にました。しかも心安らかな死顔をしておりました。人々は先を争って見に来ました。きちんと座って手は合唱をして、少しも心や気持ちがゆれ動くような様子はありませんでした。
将軍頼朝様は、その話しを聞いて喜びの余り、梶原三郎兵衛尉景茂に命じて訪ねさせたところ、この男は、普段魚を釣ることを生活の糧にしていました。但し、殺生を生業としてはいるが、そういう時でも南無阿弥陀仏と唱えて、手を抜く事はありませんでした。
褒め称えるお気持があるので、白米を下されて、遺された家族に菩提を弔うようにと、仰せになられましたとさ。

建久五年(1194)五月小四日甲子。右京進季時可執申寺社訴事之由。被仰付云々。

読下し             うきょうのしんすえとき じしゃ  そじ   しつ  もう  べ   のよし  おお  つ   らる    うんぬん
建久五年(1194)五月小四日甲子。右京進季時 寺社の訴事を執し申す@可し之由、仰せ付け被ると云々。

参考@寺社の訴事を執し申すは、後の寺社奉行にあたるのか?

現代語建久五年(1194)五月小四日甲子。右京進中原季時が、寺社の訴訟ごとを取り扱うようにと、仰せ付けられましたとさ。

建久五年(1194)五月小五日乙丑。御所中屋舎葺菖蒲事。可爲桧皮葺師所役之由被仰下。年々政所下部等沙汰之云々。」今日鶴岳八幡宮神事也。將軍家有御參云々。

読下し              ごしょちゅう  おくしゃ  しょうぶ  ふ   こと  ひはだぶきし  しょやくたる べ   のよし  おお  くだされ
建久五年(1194)五月小五日乙丑。御所中の屋舎に菖蒲を葺く@事、桧皮葺師の所役爲可し之由、仰せ下被る。

ねんねん まんどころ しもべら これ   さた     うんぬん
年々に政所の下部等之を沙汰すと云々。」

きょう つるおかはちまんぐう しんじなり  しょうぐんけぎょさんあ    うんぬん
今日鶴岳八幡宮の神事也。將軍家御參有りと云々。

説明@菖蒲を葺くのは、端午の節句に厄よけの菖蒲を屋根に刺し飾る。鎌倉時代には公卿仲間では廃れ、武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになった。

現代語建久五年(1194)五月小五日乙丑。御所の全ての建物の軒上の屋根に、端午の節句の魔よけの菖蒲を葺く役は、桧皮葺の屋根葺きの役目の桧皮葺師の管轄とするように、お命じになられました。毎年、政務事務所政所の下働きの仕事とするそうです。」
今日、鶴岡八幡宮の端午の節句の神事です。将軍頼朝様もお参りをなさいましたとさ。

建久五年(1194)五月小十日庚午。被進砂金百三十兩於京都。且可傳献由。被仰遣一條前中納言〔能保卿〕之許云々。是東大寺大佛御光料。去春之比被進之殘也。三百兩可入之由云々。

読下し             さきんひゃくさんじうりょうを きょうと  すす  らる
建久五年(1194)五月小十日庚午。砂金百三十兩@於京都へ進め被る。

かつう つた  けん  べ     よし  いちじょうさきのちうなごん 〔よしやすきょう〕 のもと  おお  つか  さる   うんぬん
且は傳へ献ず可しの由、一條前中納言〔能保卿〕之許へ仰せ遣は被ると云々。

これ  とうだいじ だいぶつごこうりょう  さんぬ はるのころ  しんぜらる ののこ  なり  さんびゃくりょう い べ   のよし  うんぬん
是、東大寺大佛御光料、去る春之比、進被る之殘り也。三百兩入る可き之由と云々。

説明@沙金百三十両は、金の重量単位は、一両は銭四分で重さが四匁四分、16.5g。銀一両は四匁三分で16.125g。2016年10月頃の金相場は1g4,530円なので、4,530×16.5×130=9,716,850円。その後金は値上がりして、2024年1月26日には、10,508円だいたい1万円位と見ると10,000✖16.5=165,000円(ただし、江戸時代初めは8万円くらいで幕末は6万円位だった。)165,000円✖130両=21,450,000円

現代語建久五年(1194)五月小十日庚午。砂金百三十両を京都へ送りました。朝廷へ献上するように一条能保に命令を伝えさせましたとさ。
これは、東大寺の大仏の完成に使う渡金(金メッキ)用を、先の春頃に贈られた残りの分なのです。三百両(約4千9百万円)必要だとのことです。

建久五年(1194)五月小十四日甲戌。六代禪師事有其沙汰。暫可令止住關東之由云々。是平治逆乱之時。故小松内府爲源家被施芳言訖。依不思食忘如此云々。

読下し               ろくだいぜんじ  こと そ    さた あ    しばら かんとう  しじゅうせし  べ   のよし  うんぬん
建久五年(1194)五月小十四日甲戌。六代禪師@の事其の沙汰有り。暫く關東に止住令む可し之由と云々。

これ  へいじぎゃくらんのとき  ここまつのないふ  げんけ  ため  ほうごん  ほど されをはんぬ おぼ  め  わすれず  かく  ごと    うんぬん
是、平治逆乱之時、故小松内府、源家の爲に芳言Aを施こ被訖。思し食し忘不、此の如くと云々。

参考@六代禪師は、政盛ー忠盛ーC盛ー重盛ー惟盛の次なので六代。文治元年十二月十八日登場。
参考A源家の爲に芳言は、C盛に頼朝の命乞いをした。

現代語建久五年(1194)五月小十四日甲戌。平家嫡流の六代御前について、処遇を決められました。しばらく関東に留まっているようにとのことでした。その理由は、平治の乱で捕われたときに、故小松内大臣平重盛が、頼朝様の命乞いを助言してくれたので、その恩を忘れていないので、このような処分にしましたとさ。

建久五年(1194)五月小廿日庚辰。宇都宮左衛門尉朝綱法師掠領公田百餘町之由。下野國司行房經奏聞之上。差進目代訴申之。將軍家殊所驚聞食也。目代所申有其實者。可行重科之旨。被召仰之云々。

読下し             うつのみやのさえもんのじょうともつなほっし くでん ひゃくよちょう りゃくりょう    のよし
建久五年(1194)五月小廿日庚辰。宇都宮左衛門尉朝綱法師、公田@百餘町を掠領する之由、

しもつけのこくしゆきふさ そうもん へ   のうえ   もくだい  さ   すす  これ うった  もう   しょうぐんけこと  おどろ き     め  ところなり
下野國司行房、奏聞を經る之上、目代を差し進め之を訴へ申す。將軍家殊に驚き聞こし食す所也。

もくだいもう ところ  そ   じつ あ  ば  じゅうか  おこな べ   のむね  これ  め   おお  らる    うんぬん
目代申す所、其の實有ら者、重科に行う可し之旨、之を召し仰せ被ると云々。

参考@公田律令制で、国家に直属する田で、本来国衙へ年貢を納める。しかし、実力主義の鎌倉時代は地頭が無理やり代理をするが、ちょくちょくわざと納期を忘れる。別説に、鎌倉時代公事(くじ)などの賦課基準とされた田。

現代語建久五年(1194)五月小二十日庚辰。宇都宮左衛門尉朝綱法師が、国衙領百余町(100ha)の年貢を横取りしたと下野国司(県知事)の行房が、後鳥羽上皇の了解を得た上で、代官を派遣してきて、この事を訴えて来ました。
将軍頼朝様は、特に驚いてその訴えを聞かれました。代官の云う事が本当ならば、重罪に処罰するように、命じられましたとさ。

参考これが原因かは分からないが、朝綱は後に笠間に隠居する。

建久五年(1194)五月小廿四日甲申。侍所着到等事。義盛。景時故障之時者。可致沙汰之由。被仰付大友左近將監能直云々。

読下し              さむらいどころ ちゃくとうら こと  よしもり  かげとき こしょうのときは    さた いた  べ   のよし
建久五年(1194)五月小廿四日甲申。侍所の着到等の事、義盛@、景時A故障之時者、沙汰致す可し之由、

おおとものさこんしょうげんよしなお おお  つ   らる   うんぬん
 大友左近將監能直Bに仰せ付け被ると云々。

参考@義盛は、和田左衛門尉義盛で侍所別当。
参考A
景時は、梶原平三景時で侍所所司。
参考B大友左近將監能直は、これで侍所所司の一人となった。梶原平三景時は所司筆頭扱いであろう。

現代語建久五年(1194)五月小二十四日甲申。軍事警察統合本部の侍所への出仕名簿について、和田左衛門尉義盛や梶原平三景時が支障があるときは、処理をするように大友左近将監能直に、命令されましたとさ。

建久五年(1194)五月小廿九日己丑。東大寺供養之間雜事総目録。爲民部卿〔經房〕奉。被送進之。御布施并僧供料米等事。且勸進家人等。可令沙汰進給之由。所被仰下也。最初建立以來。以奉加成大功訖。今尤可奉助成之由云々。依之爲因幡前司廣元。大夫属入道善信于奉行。被下御書於諸國守護人。可致勸進國中之由云々。

読下し                とうだいじ くよう の かん  ぞうじ   そうもくろく みんぶのきょう 〔つねふさ〕  うけたまは  な    これ  おく  すす  られ
建久五年(1194)五月小廿九日己丑。東大寺供養之間の雜事の総目録、民部卿〔經房〕の奉りと爲し、之を送り進め被る。

おんふせ なら    そう   くりょうまいら   こと  かつう  けにんら  かんじん     さた   しん  せし  たま  べ   のよし  おお  くださる ところなり
御布施并びに僧の供料米@等の事、且は家人等に勸進Aし、沙汰し進じ令め給ふ可し之由、仰せ下被る所也。

さいしょ  こんりゅう   このかた  ほうか  もつ  たいぎょう な をはんぬ いまもっと じょせい たてまつ べ  のよし  うんぬん
最初の建立より以來、奉加Bを以て大功を成し訖。今尤も助成し奉る可し之由と云々。

これ  よつ  いなばのぜんじひろもと  たいふさかんにゅうどうぜんしんに ぶぎょう  な      おんしょを しょこく しゅごにん  くださる
之に依て因幡前司廣元、 大夫属入道善信于 奉行と爲し、御書於諸國守護人に下被る。

くにじゅう  かんじん いた  べ   のよし   うんぬん
國中に勸進を致す可しC之由と云々。

参考@供料米は、生活費を貰う坊さんが百人も居た。百口学生料。
参考A勸進は、寺社建立や大仏建立に諸国を廻り、寄付を募り歩くこと。
参考B奉加は、神仏に金品を寄進すること。また、その金品。
参考C國中に勸進を致す可しは、頼朝の意思を国中に貫徹させるため。

現代語建久五年(1194)五月小二十九日己丑。東大寺の落慶供養(竣工式)の雑事についての総目録を、民部卿〔吉田経房〕に上皇への取次ぎをするように、送られました。
儀式の坊さん達へのお布施や、東大寺への供養料の米については、御家人達に寄付を募り、処理して送る様にと命じられました。
最初の建設以来、金品の寄進によって大事業を遂行出来ているので、今が一番助成するべき時なのだそうな。
この命令によって、因幡前司広元(大江)と大夫属入道三善善信が指揮担当をして、命令書を諸国の守護人に送りました。守護は、国中に寄付を募るようにとのことだそうです。

六月へ

  

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