吾妻鏡入門第十四巻   

建久五年(1194)甲寅六月大

建久五年(1194)六月大十日乙亥。皇后宮大進爲宗家人源五七郎。仰左衛門尉義盛。召禁其身。是去年横山權守時廣所献之異馬。被流遣奥州之處。件男稱有煩。於途中射殺之。縡則顯露。身早蓄電。仰主人被尋下之處。近曾適召進之云々。

読下し             こうごうぐうだいさかんためむ  けにん げんごしちろう さえもんのじょうよしもり おお      そ   み   いまし
建久五年(1194)六月大十日乙亥。皇后宮大進宗爲が家人源五七郎、左衛門尉義盛に仰せて、其の身を召禁む。

これ  きょねん よこやまごんのかみときひろ けん   ところのいば
是、去年 横山權守時廣 献ずる所之異馬。

おうしゅう なが  つか  さる  のところ くだん おとこわずら あ   しょう   とちゅう をい  これ  いころ
奥州へ流し遣は被る之處、件の男煩ひ有りと稱し、途中に於て之を射殺す。

ことすなは けんろ   み はや  ちくてん    しゅじん  おお    たず  くださる のところ さいつごろ たまたま これ  め  しん    うんぬん
縡則ち顯露し、身早く蓄電す。主人に仰せて尋ね下被る之處、近曾、 適、之を召し進ずと云々。

現代語建久五年(1194)六月大十日乙亥。皇后宮大進伊佐為宗の家来の源五七郎を、和田左衛門尉義盛に命じて、禁固刑にしました。
それは、去年横山権守時広が献上した異形の馬を、奥州の辺境へ放す様にしたのですが、この男は縁起が悪いと云って、途中で弓矢で射殺してしまったのです。そのことがたちまちばれてしまい、いち早く行方をくらましたのです。主人である為宗に命令して捜させたところ、最近たまたま捕まえてきたのだそうな。

建久五年(1194)六月大十一日丙子。鶴岳伶人等。可令善信奉行之旨。被仰下云々。

読下し               つるがおか れいじん ら  よしのぶぶぎょうせし べ  のむね  おお  くださる    うんぬん
建久五年(1194)六月大十一日丙子。鶴岳の伶人@等、善信奉行令む可し之旨、仰せ下被ると云々。

参考@伶人は、楽人。お神楽のスタッフ。

現代語建久五年(1194)六月大十一日丙子。鶴岡八幡宮の楽人達については、大夫属入道三善善信が指示担当するように、命じられましたとさ。

建久五年(1194)六月大十五日甲辰。將軍家招六代禪師。對面給。無異心者。可補一寺別當職之由被仰云々。

読下し               しょうぐんけ  ろくだいぜんじ  まね    たいめん  たま
建久五年(1194)六月大十五日甲辰。將軍家、六代禪師を招き、對面し給ふ。

いしん な     ば   いちじ  べっとうしき  ぶ   べ   のよし  おお  らる    うんぬん
異心無くん者、一寺の別當職に補す可し之由、仰せ被ると云々。

現代語建久五年(1194)六月大十五日甲辰。将軍頼朝様は、六代御前を呼びつけてお会いになられました。
反逆の心がないのなら、一つの寺の代表管理者にしてあげようと、おっしゃられましたとさ。

建久五年(1194)六月大十七日丙午。將軍家若公令通夜岩殿觀音堂給。其間有相撲。被召决御共壯士等云々。

読下し               しょうぐんけ  わかぎみ いわどのかんのんどう つや せし  たま
建久五年(1194)六月大十七日丙午。將軍家が若公、岩殿觀音堂で通夜令め給ふ。

 そ  かん すまい あ    おんとも   そうしら    め   けつ  らる   うんぬん
其の間相撲@有り。御共の壯士等を召し决せ被ると云々。

参考@相撲は、奉納しているのか。

現代語建久五年(1194)六月大十七日丙午。将軍頼朝様の若君(万寿丸、後の頼家)は、岩殿観音堂(逗子の岩殿寺)で夜明かしする通夜を行われました。
そのついでに相撲があって、お供の力自慢の若者達に命じて勝負をさせましたとさ。

建久五年(1194)六月大廿五日甲寅。獄囚數輩自京師被召下其身可流遣奥州之由。被仰左近將監家景眼代之。是強盜之類云々。

読下し               ごくしゅうすうやからけいしよ   め   くだされ  そ   み   おうしゅう  なが  つか   べ   のよし
建久五年(1194)六月大廿五日甲寅。獄囚 數輩 京師自り召し下被、其の身を奥州へ流し遣はす可し之由、

これ  さこんしょうげんいえかげ  もくだい  おお  らる    これ  がうだうのたぐい うんぬん
之を左近將監家景が 眼代に仰せ被る。是、強盜之類と云々。

現代語建久五年(1194)六月大二十五日甲寅。京都の監獄の囚人数人を京都から護送して、そいつ等を奥州(東北)へ流罪にし労役に使うように、伊沢左近将監家景(後の留守家景)の代官に命じられました。こいつ等は強盗の連中だそうです。

建久五年(1194)六月大廿六日乙夘。未明。將軍家御參甘繩宮。是伊勢別宮也。

読下し               みめい     しょうぐんけ  あまなわぐう  ぎょさん   これ  いせ べつぐうなり
建久五年(1194)六月大廿六日乙夘。未明に、將軍家、甘繩宮へ御參す。是、伊勢別宮也。

現代語建久五年(1194)六月大二十六日乙卯。夜明け前に将軍頼朝様は、甘縄神社へお参りをしました。この神社は、伊勢神宮の末社です。

建久五年(1194)六月大廿八日丁巳。造東大寺間事。將軍家旁令助成給。材木事。仰左衛門尉高綱。於周防國。殊有採用。又二菩薩四天王像等。宛御家人。可致造立云々。所謂。觀音〔宇都宮左衛門尉朝綱法師〕。虚空藏〔穀倉院別當親能〕。増長〔畠山次郎重忠〕。持國〔武田太郎信義(武田五郎信光)〕。多聞〔小笠原次郎長C〕。廣目〔梶原平三景時〕又戒壇院營作。同被仰付小山左衛門尉朝政。千葉介常胤以下訖。而其功頗遲引之間。今日所被催促也。但各偏存結縁之儀。可成功之由。御下知先訖。只以随公事之思。縡若及懈緩者。可辞申之旨。嚴密被觸仰云々。

読下し                ぞうとうだいじ   かん  こと  しょうぐんけ かたがた じょせいせし たま
建久五年(1194)六月大廿八日丁巳。造東大寺の間の事。將軍家 旁、 助成令め給ふ。

ざいもく  こと  さえもんのじょうたかつな おお     すおうのくに  をい    こと  さいようあ
材木の事、左衛門尉高綱に仰せて、周防國に於て、殊に採用有り。

また  にぼさつ してんのうぞう ら   ごけにん   あ     ぞうりゅういた べ    うんぬん
又、二菩薩四天王像等、御家人に宛て、造立致す可しと云々。

いはゆる  かんのん 〔うつのみやさえもんのじょうともつなほっし〕   こくうぞう   〔こくぞういんべっとうちかよし〕
所謂、觀音〔宇都宮左衛門尉朝綱法師〕虚空藏〔穀倉院別當親能〕

ぞうちょう 〔はたけやまのじろうしげただ〕 じこく  〔たけだのごろうのぶみつ〕   たもん 〔おがさわらのじろうながきよ〕   こうもく 〔かじわらのへいざかげとき〕
増長 〔畠山次郎重忠〕持國〔武田五郎信光〕多聞〔小笠原次郎長C〕廣目〔梶原平三景時〕。

また  かいだんいん えいさく  おな  おやまのさえもんのじょうともまさ  ちばのすけつねたね いげ  おお  つ  られをはんぬ
又、戒壇院の營作、同じく小山左衛門尉朝政、千葉介常胤以下に仰せ付け被訖。

しか    そ  こうすこぶ  ちいんのかん  きょう さいそくさる ところなり
而して其の功頗る遲引之間、今日催促被る所也。

ただ おのおの ひとへ けちえんのぎ  ぞん    じょうごうすべ  のよし  おんげち さき をはんぬ
但し 各、偏に結縁之儀を存じ、成功可し之由、御下知先に訖。

ただ くじ  したが  の おも    もつ    こと  も   けたい   およ  ば   じ   もう  べ   のむね  げんみつ  ふ   おお  らる    うんぬん
只公事に随ふ之思いを以て@、縡に若し懈緩に及ば者、辞し申す可し之旨、嚴密に觸れ仰せ被ると云々。

参考@公事に随ふ之思いを以ては、公務で仕方なくやるの思いなら。

現代語建久五年(1194)六月大二十八日丁巳。東大寺の修理については、将軍頼朝様を始めとする面々が助成しております。材木については、佐々木四郎左衛門尉高綱に命じて、周防国で特に調達しております。
又、菩薩像二体と四天王像は、御家人に割り当てて造るようにとのことです。
それらは、観音菩薩像〔宇都宮左衛門尉朝綱法師〕虚空蔵菩薩像〔穀倉院筆頭中原親能〕増長天像〔畠山次郎重忠〕持国天像〔武田五郎信光〕多聞天像〔小笠原次郎長清〕広目天像〔梶原平三景時〕。
又、戒壇院の整備は、同様に小山左衛門尉朝政、千葉介常胤以下の連中に言いつけられました。
しかし、その工事がとても遅れているので、今日催促をなされたのであります。但し、それぞれひたすら仏との縁を理解して、寄付するように前に命令しているのです。単に上からの命令に従ってやるのだと思って、怠けているのなら辞退するようにと、厳しく命じられているのだそうです。

説明左衛門尉高綱に仰せて、周防國に於ては、頼朝旗揚げ時の佐々木四兄弟の四男佐々木四郎高綱が周防の守護となっている。

建久五年(1194)六月大卅日己未。於武藏國。大河戸御厨与伊豆宮神人等喧嘩出來之由有其聞。依驚思食。爲令尋沙汰。被下遣掃部允行光云々。

読下し             むさしのくに  をい   おおかわどのみくりやと いずぐう じにんら けんくわ しゅつらいのよし そ きこ   あ
建久五年(1194)六月大卅日己未。武藏國に於て、大河戸御厨与伊豆宮神人等喧嘩 出來之由其の聞へ有り。

おどろ おぼ  め     よつ    たず  さた せし    ため  かもんのじょうゆきみつ くだ  つか  さる    うんぬん
驚き思し食すに依て、尋ね沙汰令めん爲、 掃部允行光を下し遣は被ると云々。

現代語建久五年(1194)六月大三十日己未。武蔵国で、大川戸御厨の管理人と伊豆宮の下働きとの間に喧嘩が発生しているとの噂があります。
頼朝様はとても驚かれたので、調べて処理するように、掃部允二階堂行光を現地へ行かせましたとさ。

七月へ

  

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