吾妻鏡入門第十四巻   

建久五年(1194)甲寅七月小

建久五年(1194)七月小三日壬戌。民部卿經房卿有被申之旨。東大寺供養日事。可爲明春正月之由。已雖有其定。遠國之輩。爲結縁令上洛者。時節若可有煩歟者。依此事。將軍家可有御上洛。供奉人尤可歎申之比也。然者聊被延引之條。可叶結縁民庶望歟之旨。可被申之由云々。

読下し             みんぶのきょうつねふさきょう もうさる  のむね あ
建久五年(1194)七月小三日壬戌。 民部卿經房卿 申被る之旨有り。

 とうだいじ くよう   ひ   こと  みょうしゅんしょうがつ な  べ   のよし  すで  そ   さだ  あ    いへど
東大寺供養@の日の事、明春正月と爲す可し之由、已に其の定め有りと雖も、

おんごくのやから けちえん  ためじょうらくせし  ば  じせつ も  わずら あ   べ   か てへれ
遠國之輩、結縁Aの爲上洛令め者、時節若し煩ひ有る可き歟者ば、

こ    こと  よつ   しょうぐんけ ごじょうらく あ  べ        ぐぶにん もつと なげ  もう  べ   のころおいなり
此の事に依て、將軍家御上洛有る可くば、供奉人尤も歎き申すB可し之比C也。

しからずんば いささ えんいんさる のじょう  けちえん  みんしょ  のぞ    かな  べ   か のむね  もうさる  べ   のよし  うんぬん
 然者、 聊か延引被る之條、結縁の民庶の望みも叶うD可き歟之旨、申被る可し之由と云々。

現代語建久五年(1194)七月小三日壬戌。民部卿吉田経房が云ってきた事があります。
東大寺完成祝賀式典の日について、来春の正月にしようと、すでに決められているものの、遠い国の連中が、仏様との縁を結ぶために京都へ集ってきたのでは、正月と重なり時期が悪いのではと、申し上げたところ、この行事出席のため将軍頼朝様が京都へ上るとすれば、お供の連中は正月をのんびり迎える事も出来ないと、文句をつける時期でしょう。それならば、多少延期した方が、開眼供養に集る民衆も願いが叶うだろうと、伝えるようにとのことだそうです。

参考@東大寺供養は、仏教式完成祝賀式典。
参考A
結縁は、仏との縁を結ぶ。ご利益に預かる、成仏できる。
参考B歎き申すは、文句をつける。
参考C
之比は、旧暦で言っても種まきには早いし、秋の徴税は終わっているだろうし、正月行事で出費が出た直ぐ後の意味か?
参考D結縁の民庶の望みも叶うは、儀式の参加して仏との円が出来るようにと祈ることが出来ると云う望みが叶う。

建久五年(1194)七月小八日丁夘。將軍家并御臺所御參鶴岳八幡宮。

読下し             しょうぐんけ なら   みだいどころ つるがおかはちまんぐう ぎょさん
建久五年(1194)七月小八日丁夘。將軍家并びに御臺所、鶴岳八幡宮へ御參す。

現代語建久五年(1194)七月小八日丁卯。将軍頼朝様と御台所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りです。

建久五年(1194)七月小十四日癸酉。永福寺郭内。被建立一宇伽藍。今日上棟。將軍家監臨給。工等預祿。大工。馬三疋〔一疋置鞍〕。野釼一。小工各馬一疋。白布十端也。行政。仲業奉行之。

読下し                ようふくじ かくない  いちう   がらん   こんりゅうさる    きょう じょうとう  しょうぐんけかんりん たま
建久五年(1194)七月小十四日癸酉。永福寺郭内に一宇の伽藍を建立被る。今日上棟@。將軍家監臨し給ふ。

たくみらろく  あず      だいこう うまさんびき 〔いっぴき  くら   お   〕 のだちいち  しょうく  おのおの うまいっぴき しらふじったんなり
工等祿に預かる。大工Aは馬三疋〔一疋は鞍を置く〕野釼一。小工Bは 各 馬一疋、白布十端也。

ゆきまさ  なかなりこれ  ぶぎょう
行政、仲業之を奉行す。

参考@上棟は、上棟式、建前祝い。
参考A
大工は、工務店経営者、棟梁。鞍置き馬を貰っているので、馬に乗れる身分なのだろうか?
参考B小工は、工務店に帰属している今で言う大工。

現代語建久五年(1194)七月小十四日癸酉。永福寺の境内に一棟の寺院を建てられます。今日がその棟上式で、将軍頼朝様も見物です。
工人たちが褒美を貰いました。大工の棟梁には、馬を三頭〔一頭は鞍付き〕、公卿用の飾り太刀一振り。職人の小工(大工)には、それぞれ馬一頭、白い布十反です。右京進仲業が担当しました。

説明馬も、剣も白布も物々交換時代の金銭の代わり。

建久五年(1194)七月小十六日乙亥。信濃國大井庄乃貢事。於今年者。十一月中可究濟京都之旨。被仰下云々。

読下し                 しなののくに おおいのしょう のうぐ  こと
建久五年(1194)七月小十六日乙亥。信濃國 大井庄@の乃貢Aの事。

ことし   をい  は  じういちがつちゅう きょうと  きゅうさい すべ  のむね  おお  くださる  うんぬん
今年に於て者、十一月中に京都へ究濟B可き之旨、仰せ下被ると云々。

現代語建久五年(1194)七月小十六日乙亥。信濃国(長野県)大井庄(佐久郡岩村田)の年貢について、今年の分については十一月中に京都へ完納するように、命じられましたとさ。

参考@信濃國大井庄は、旧長野県佐久郡岩村田で八条院領。現小諸市柏木に北大井郵便局あり、同市御影新田に南大井郵便局あり。
参考A乃貢は、年貢。税金。
参考B究濟は、究め済ますの意味で完納する。

建久五年(1194)七月小廿日己夘。將軍家以御鎧御釼弓箭等。被奉鎭西鏡社。彼大宮司草野大夫永平依訴訟事。差進代官之間。今日爲大藏丞頼平奉行令請取之云々。

読下し              しょうぐんけ おんよろい ぎょけん  ゆみらら  もつ    ちんぜい かがみしゃ たてま  らる
建久五年(1194)七月小廿日己夘。將軍家、御鎧、御釼、弓箭等を以て、鎭西の鏡社@に奉つ被る。

か   だいぐうじ くさのたいふながひら  そしょう  こと  よつ    だいかん  さ   しん    のかん
彼の大宮司草野大夫永平、訴訟の事に依て、代官を差し進ずる之間、

きょう  おおくらのじょうよりひら ぶぎょう な  これ  う   と   せし    うんぬん
今日、大藏丞頼平A奉行と爲し之を請け取ら令むと云々。

参考@鎭西の鏡社は、佐賀県唐津市鏡の鏡神社。
参考A
大藏丞頼平は、武藤で後に西遷し太宰少弐となる。

現代語建久五年(1194)七月小二十日己卯。将軍頼朝様は、鎧と剣と弓矢を九州の鏡神社に奉納しました。
その神社の大宮司草野大夫永平が、訴訟する事があって代官をよこしたので、大蔵
丞武藤頼平を担当させてこの訴えを扱わせる事にしましたとさ。

建久五年(1194)七月小廿三日壬午。江間殿令下向伊豆國給。願成就院有破損事。爲被加修理云々。

読下し                えまどの  いずのくに   げこう せし  たま
建久五年(1194)七月小廿三日壬午。江間殿伊豆國へ下向令め給ふ。

がんじょうじゅいん はそん  こと あ        しゅうり  くは  られ  ため  うんぬん
願成就院@破損の事有りて、修理を加へ被ん爲と云々。

参考@願成就院は、静岡県田方郡韮山町寺家83。北條四郎時政が文治五年(1189)七月小十八日に建立。

現代語建久五年(1194)七月小二十三日壬午。江間殿(北条義時)は、伊豆国へ向かわれました。願成就院が破損したとの事があって、修理をするためだそうな。

建久五年(1194)七月小廿八日丁亥。一條前中納言〔能保卿〕飛脚參着。申云。左衛門尉朝綱入道。依國司訴。遂有其過。去廿日被下配流官苻。朝綱土左國。孫弥三郎頼綱豊後國。同五郎朝業周防國也。又廷尉基重〔右衛門志〕依朝綱法師引汲科。被追放洛中云々。此事將軍家頻御歎息。兼信。定綱。朝綱入道。此皆可然之輩也。定綱事者。山門之訴不能是非。今朝綱罪科者。公田掠領之号。爲關東頗失眉目之由云々。則以結城七郎朝光。令訪之給云々。

読下し               いちじょうさきのちうなごん 〔よしやすきょう〕 ひきゃくさんちゃく   もう    い
建久五年(1194)七月小廿八日丁亥。一條前中納言〔能保卿〕が飛脚參着し、申して云はく。

さえもんのじょうともつなにゅうどう   こくし   うった   よつ    つい  そ   とが あ     さんぬ はつか はいるかんぷ  くださる
 左衛門尉朝綱入道、 國司の訴へに依て、遂に其の過有り。去る廿日配流官苻を下被る。

ともつな  とさのくに   まご  いやさぶろうよりつな ぶんごのくに  おな    ごろう ともなり  すおうのくになり
朝綱は土左國。孫の弥三郎頼綱は豊後國。同じき五郎朝業は周防國也。

また  ていい もとしげ〔うえもんのさかん〕   ともつなほっし  いんきゅう   とが  よつ    らくちゅう ついほうさる   うんぬん
又、廷尉基重〔右衛門志〕は朝綱法師を引汲する科に依て、洛中を追放被ると云々。

こ   こと  しょうぐんけしきり ごたんそく  かねのぶ  さだつな  ともつなにゅうどう  これみなしか べ   のやからなり
此の事、將軍家頻に御歎息。兼信@、定綱A、朝綱入道、此皆然る可き之輩也。

さだつな ことは   さんもんのうった   ぜひ  あたはず
定綱の事者、山門之訴へ是非に不能。

いま  ともつな  ざいかは   くでんりゃくりょうのごう  かんとう  ため  すこぶ びもく  うしな  のよし  うんぬん
今、朝綱が罪科者、公田掠領之号、關東の爲に頗る眉目を失う之由と云々。

すなは ゆうきのしちろうともみつ もつ   これ  とぶら せし  たま    うんぬん
則ち結城七郎朝光を以て、之を訪は令め給ふと云々。

現代語建久五年(1194)七月小二十八日丁亥。前中納言一条能保様からの伝令が到着して申し上げました。
宇都宮左衛門尉朝綱法師に、国司の訴えで、その罪が確定し、先日の二十日に流罪の太政官布告を発出されました。朝綱は土佐国(高知県)。孫の弥三郎頼綱は豊後国(大分県)、同じ孫の五郎朝業は周防国(山口県)です。又検非違使の基重〔右衛門志〕は、宇都宮朝綱の味方をした罰で、京都市内から追放の罪にされましたとさ。
このことについて将軍頼朝様は大変お嘆きになられました。板垣三郎兼信、佐々木左衛門尉定綱、宇都宮左衛門尉朝綱法師は、皆それなりの身分ある人達なのです。佐々木定綱は、延暦寺の訴えなのでどうしようもなかったが、今の朝綱の罪は、国の年貢を横取りだなんて、関東にとってはえらく名誉を失う出来事だそうだ。
すぐに、結城七郎朝光に様子を見に京都へ行かせましたとさ。

説明@兼信は、甲斐源氏武田の板垣三郎兼信。文治五年(1189)五月小廿二日頼朝の後白河への返事の中に「太皇大后宮の御領駿河國大津御厨の地頭兼信が不當な事」とあり「若し配流に行被候者」 ともあり、建久元年(1190)八月十三日条に七月卅日の流人官苻に兼信〔板垣三郎、隠岐國〕とある。建久元年(1190)八月小十九日条には「板垣三郎兼信、違勅以下の積悪に依て、配流の科に處被る之上、其の領所、地頭職を改め被る可しの事。」と取上げられている。建久元年(1190)九月大十三日頼朝は早く配流先へ送るよう云っている。その後これまで彼の名は出ない。頼朝は同情的に云ってるように見えるが、よく読んでみると、大豪族甲斐武田氏解体の一つと分かる。

説明A定綱は、旗揚げ時の佐々木四兄弟の長男、佐々木太郎定綱。建久二年(1191)四月大五日延暦寺と佐々木庄の年貢でもめて、日吉神社宮司らが定綱宅へ殴り込みをして小太郎定重が神鏡を壊してしまい、このため佐々木太郎定綱は薩摩へ配流。定重は殺された。

建久五年(1194)七月小廿九日戊子。將軍家姫君自夜御不例。是雖爲恒事。今日殊危急。志水殿有事之後。御悲歎之故。追日御憔悴。不堪断金之志。殆沈爲石之思給歟。且貞女之操行。衆人所美談也。

読下し               しょうぐんけひめぎみ  よ よ   ごふれい  これ  こうじ  な     いへど   きょう こと  ききゅう
建久五年(1194)七月小廿九日戊子。將軍家姫君、夜自り御不例。是、恒事を爲すと雖も、今日殊に危急。

しみずどの ことあ    ののち  ごひかん のゆえ  ひ  おい  ごしょうすい  だんきんの こころざし たえず  ほとん ためいしのおもい  しず  たま  か
志水殿@事有る之後、御悲歎之故、日を追て御憔悴。断金之 志 に不堪。殆ど爲石之思に沈み給ふ歟。

かつう ていじょのそうこう  しゅうじんびだん   ところなり
且は貞女之操行、衆人美談する所也。

現代語建久五年(1194)七月小二十九日戊子。将軍頼朝様の姫君(数え年17歳)が夜になって具合悪くなりました。
これは何時もの事ではありますけれども、今日は特に急を要するようです。清水義高様のことがあってから、悲観をされて日増しに憔悴して行く。まるで鉄を断ち切る程の清水義高を慕う心に耐え切れず、石になるほどの思い沈み様でありましょうか。
これは貞操観念の強い人だからだと皆が美談と誉めるところです。

説明@志水殿は、木曾冠者義仲の息子清水冠者義高で、寿永二年の善光寺平の対峙で大姫の婿として人質に取ったが、翌年の元暦元年(1184)義仲死後その仇討ちを恐れ頼朝が殺させた。

八月へ

  

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