吾妻鏡入門第十四巻    

建久五年(1194)甲寅八月小

建久五年(1194)八月小一日己丑。今日以後。至于放生會。可禁断殺生之由被仰下。東國分行政奉行之。

読下し             きょう   いご   ほうじょうえに いた    せっしょう きんだん  べ   のよしおお  くださる
建久五年(1194)八月小一日己丑。今日以後、放生會@于至り、殺生を禁断す可し之由仰せ下被る。

とうごくぶん  ゆきまさこれ  ぶぎょう
東國分は行政之を奉行す。

現代語建久五年(1194)八月小一日己丑。今日から十五日の放生会まで、殺生を禁止するように仰せになられました。
関東の分については、主計允藤原行政が担当です。

説明@放生會は、文治年中以来毎年八月十五日実施、建久元年(1190)八月から流鏑馬等の奉納武芸は翌日の十六日にした。

建久五年(1194)八月小三日辛夘。於營中被供養繪像毘沙門天。導師法橋行惠云々。

読下し             えいちゅう をい  えぞう びしゃもんてん  くよう さる     どうし   ほっきょうぎょうえ うんぬん
建久五年(1194)八月小三日辛夘。營中に於て繪像毘沙門天@を供養被る。導師は法橋行惠と云々。

現代語建久五年(1194)八月小三日辛卯。御所の中で、絵に描いた毘沙門天の法要をされました。指導僧は、法橋行恵だそうです。

説明@毘沙門天は、四天王・十二天の一。須弥山中腹の北側に住し、夜叉(やしや)を率いて北方を守護する神。日本では福や財をもたらす神としても信仰され、七福神の一人とされる。仏法を守護し、福徳を授ける。もとはヒンズー教の神。多聞天。毘沙門。goo辞書より

建久五年(1194)八月小八日丙申。今曉寅刻。將軍家參相摸國日向山給。是行基菩薩建立藥師如來靈塲也。於當國効驗無雙之間。思食立云々。御騎馬。令着水干給云々。
 先陣隨兵
  畠山次郎重忠   土屋兵衛尉義C   八田左衛門尉知重 曾我太郎祐信
  足立左衛門尉遠元 比企弥四郎時員   澁谷庄司重國   岡崎先次郎政宣
  三浦左衛門尉義連 梶原左衛門尉景季  加々美次郎長C  里見冠者義成
  北條五郎時連   小山左衛門尉朝政
 御釼役
  結城七郎朝光
 御調度懸
  愛甲三郎季隆
 御後〔着水干〕
  武藏守義信    上野介憲信     上総介義兼    伊豆守義範
  關瀬修理亮義盛  因幡前司廣元    下河邊庄司行平  同四郎政義
  千葉新介胤正   同六郎大夫胤頼   三浦介義澄    同兵衛尉義村
  稲毛三郎重成   葛西兵衛尉C重   八田右衛門尉知家 佐々木中務丞經高
  同三郎盛綱    加藤次景廉     江兵衛尉能範   和田左衛門尉義盛
  梶原平三景時   北條小四郎
 後陣隨兵
  武田五郎信光   榛谷四郎重朝    小山五郎宗政   江戸太郎重長
  長江四郎明義   梶原三(次)郎兵衛尉景高 相馬次郎師常   野三刑部丞成經
  新田四郎忠常   下河邊六郎光脩   所六郎朝光    境兵衛尉常秀
  梶原刑部丞朝景  佐々木五郎義C
因幡前司。於下毛利庄献駄餉云々。御礼佛之後。及半更還御。雖可有御通夜。依爲放生會忌。無其儀。此御參事。内々姫君御祈云々。

読下し             こんぎょうとらのこく しょうぐんけ さがみのくにひなたやま   まい  たま
建久五年(1194)八月小八日丙申。今曉寅刻。將軍家、相摸國日向山@に參り給ふ。

これ  ぎょうきぼさつこんりゅう  やくしにょらいれいじょうなり
是、行基菩薩建立の藥師如來靈塲也。

とうごく   をい    こうけん むそうのかん  おぼ  め   た     うんぬん  おんきば   すいかん  き せし  たま    うんぬん
當國に於ては効驗無雙之間、思し食し立つと云々。御騎馬、水干を着令め給ふと云々。

  せんじん ずいへい
 先陣の隨兵

    はたけやまのじろうしげただ     つちやのひょうえのじょうよしきよ  はったのさえもんのじょうともしげ   そがのたろうすけのぶ
  畠山次郎重忠    土屋兵衛尉義C   八田左衛門尉知重  曾我太郎祐信

    あだちのさえもんのじょうとおもと   ひきのいやしろうときかず       しぶやのしょうじしげくに        おかざきのせんじろうまさのぶ
  足立左衛門尉遠元  比企弥四郎時員   澁谷庄司重國    岡崎先次郎政宣

    みうらのさえもんのじょうよしつら   かじわらのさえもんのじょうかげすえ かがみのじろうながきよ        さとみのかじゃよしなり
  三浦左衛門尉義連  梶原左衛門尉景季  加々美次郎長C   里見冠者義成

    ほうじょうのごろうときつら       おやまのさえもんのじょうともまさ
  北條五郎時連    小山左衛門尉朝政

  ぎょけんやく
 御釼役

    ゆうきのしちろうともみつ
  結城七郎朝光

  ごちょうどがけ
 御調度懸

    あいこうのさぶろうすえたか
  愛甲三郎季隆

  おんうしろ 〔すいかん  き  〕
 御後〔水干を着る〕

    むさしのかみよしのぶ        こうづけのすけのりのぶ        かずさのすけよしかね        いずのかみよしのり
  武蔵守義信     上野介憲信     上総介義兼     伊豆守義範

    せきせのしゅりさかんよしもり    いなばのぜんじひろもと        しもこうべのしょうじゆきひら     おな    しろうまさよし
  關瀬修理亮義盛   因幡前司廣元    下河邊庄司行平   同じき四郎政義

    ちばのしんすけたねまさ      おな     ろくろうたいふたねより  みうらのすけよしずみ        おな    ひょうえのじょうよしむら
  千葉新介胤正    同じき六郎大夫胤頼 三浦介義澄     同じき兵衛尉義村

    いなげのさぶろうしげなり      かさいのひょうえのじょうきよしげ    はったのうえもんのじょうともいえ  ささきのなかつかさのじょうつねたか
  稲毛三郎重成    葛西兵衛尉C重   八田右衛門尉知家  佐々木中務丞經高

    おな    さぶろうもりつな     かとうじかげかど             えのひょうえのじょうよしのり     わだのさえもんのじょうよしもり
  同じき三郎盛綱   加藤次景廉     江兵衛尉能範    和田左衛門尉義盛

    かじわらのへいざかげとき      ほうじょうのこしろう
  梶原平三景時    北條小四郎

  こうじん  ずいへい
 後陣の隨兵

    たけだのごろうのぶみつ       はんがやつのしろうしげとも      おやまのごろうむねまさ       えどのたろうしげなが
  武田五郎信光    榛谷四郎重朝    小山五郎宗政    江戸太郎重長

    ながえのしろうあきよし        かじわらのじろうひょうえのじょうかげたか そうまのじろうもろつね    のざのぎょうぶのじょうなりつね
  長江四郎明義    梶原次郎兵衛尉景高 相馬次郎師常    野三刑部丞成經

    にたんのしろうただつね       しもこうべのろくろうみつすけ     ところのろくろうともみつ        さかいのひょうえのじょうつねひで
  新田四郎忠常    下河邊六郎光脩A   所六郎朝光     境兵衛尉常秀

    かじわらのぎょうぶのじょうともかえ  ささきのごろうよしきよ
  梶原刑部丞朝景   佐々木五郎義C

いなばのぜんじ しももうりのしょう をい  だしゅう  けん    うんぬん   ごれいぶつののち  はんそう  およ  かんご
因幡前司、下毛利庄に於て駄餉を献ずと云々。御礼佛之後、半更に及び還御す。

おんつや あ   べ     いへど    ほうじょうえ いみ  な     よつ    そ   ぎ な     こ   ぎょさん  こと  ないない  ひめぎみ  おんき  うんぬん
御通夜有る可しと雖も、放生會の忌を爲すに依て、其の儀無し。此の御參の事、内々に姫君の御祈と云々。

現代語建久五年(1194)八月小八日丙申。今朝の午前4時頃、将軍家頼朝様は相模の国の日向山に向かいました。ここは行基菩薩が建立した薬師如来の神聖な所であります。この国においては一番効験の高い薬師如来なので、思い立って出発しました。馬に乗り水干を着て行かれましたとさ。

 前を行く軍装の侍
  畠山次郎重忠   土屋兵衛尉義清   八田左衛門尉知重 曽我太郎祐信
  足立左衛門尉遠元 比企弥四郎時員   渋谷庄司重国   岡崎先次郎政宣
  三浦左衛門尉義連 梶原左衛門尉景季  加々美次郎長清  里見冠者義成
  北条五郎時連   小山左衛門尉朝政

 頼朝様の太刀持ち
  結城七郎朝光

 頼朝様の弓矢持ち
  愛甲三郎季隆

(ここに頼朝が入る)

 頼朝様のすぐ後〔着水干(平服)を着た侍〕
  武蔵守義信    上野介憲信     上総介義兼    伊豆守義範
  関瀬修理亮義盛  因幡前司廣元    下河辺庄司行平  同四郎政義

  千葉新介胤正   同六郎大夫胤頼   三浦介義澄    同兵衛尉義村
  稲毛三郎重成   葛西兵衛尉清重   八田右衛門尉知家 佐々木中務丞経高
  同三郎盛綱    加藤次景廉     江兵衛尉能範   和田左衛門尉義盛
  梶原平三景時   北條小四郎

 後陣隨兵(後ろから行く軍装の侍)
  武田五郎信光   榛谷四郎重朝    小山五郎宗政   江戸太郎重長
  長江四郎明義   梶原次郎兵衛尉景高 相馬次郎師常   野三刑部丞成経
  新田四郎忠常   下河辺六郎光脩   所六郎朝光    境兵衛尉常秀
  梶原刑部丞朝景  佐々木五郎義清

因幡前司大江広元が下毛利庄で弁当を献上しました。仏にお祈りした後、夜中になったので帰られました。泊り込んで拝んだほうが良いのですが、8月15日に八幡宮の放生会があるので、その必要は無いと判断なされました。この参拝は内内のことですが、姫君(数え年17歳)のためにお祈りになったんだとさ。

説明@日向薬師は、神奈川県伊勢原市日向1644に、かつて真言宗の日向山霊山寺と云う、13もの子院を持つ大寺院だったが、廃仏毀釈で多くの堂宇が失われ、別当坊の宝城坊と薬師堂がのこった。宝蔵には行基作の伝説を持つ薬師如来始め丈六の阿弥陀像や薬師如来像、十二神将像などが収蔵されている。
本尊の薬師三尊は平安期の鉈彫り像で、普段は秘仏とされ厨子は閉ざされているが、正月の三が日だけご開帳する。なお、この形取りのレプリカが桜木町の神奈川県立歴史博物館にあるが、虫食いの穴までコピーされているし、そばで良く見られるのでお勧めである。
説明A下河邊六郎光脩は、後にも先にもこれ一回しか出演がない。

建久五年(1194)八月小十二日己亥。於左女牛宮寺。別可抽御祈祷之由。被仰遣季嚴阿闍梨云々。

読下し                 さめがいぐうじ    をい    べつ   ごきとう   ぬき    べ   のよし   きげんあじゃり   おお  つか  さる    うんぬん
建久五年(1194)八月小十二日己亥。左女牛宮寺@に於て、別に御祈祷を抽んず可し之由、季嚴阿闍梨に仰せ遣は被ると云々。

現代語建久五年(1194)八月小十二日己亥。京都六条堀川の左女牛八幡宮(六条若宮)内で、特別な祈祷を祈るように、季厳阿闍梨に伝えさせましたとさ。

説明@左女牛宮寺は、京都市下京区六条若宮通上ルに、源頼義が天喜元年(1053)に創建した若宮八幡宮(六条八幡宮、左女牛八幡宮)がまつられていました。この地に、源頼義の子、義家親子の邸宅がありました。若宮八幡宮は、慶長10年(1605)五条坂へ移転しています。もとの場所にも、小祠がまつられたいたようで、現在では、町内の有志の人びとによって社殿が再興され、八幡宮がまつられています。鳥居の横の「若宮八幡宮」の石碑の側面には「八幡太郎源義家誕生地」と刻まれた石碑が建っています。

建久五年(1194)八月小十四日壬寅。右兵衛督高能朝臣自京都下着。是將軍家御外甥也。則被參幕府。有御對面云々。旅館不及他所。坐小御所云々。

読下し               うひょうえのかみたかよしあそん  きょうと よ  げちゃく
建久五年(1194)八月小十四日壬寅。右兵衛督高能朝臣@、京都自り下着す。

これ  しょうぐんけごがいおいなり すなは ばくふ  さん  られ  ごたいめん あ    うんぬん  りょかん  たしょ  およばず   こごしょ   をは    うんぬん
是、將軍家御外甥也。則ち幕府に參じ被、御對面有りと云々。旅館は他所に不及、小御所に坐すと云々。

参考@右兵衛督高能は、頼朝の姉と一条能保の間に生まれた子供。頼朝の甥、大姫の従兄弟。

現代語建久五年(1194)八月小十四日壬寅。右兵衛督一条高能が、京都からやってきました。この人は、頼朝様の姉の子なので外甥です。
すぐに幕府へ来てご対面になられました。宿泊先は、他にする必要は無いので、幕府内の別棟の小御所にされましたそうな。

建久五年(1194)八月小十五日癸夘。鶴岳放生會。有舞樂。將軍家御參。右兵衛督被着廻廊。

読下し               つるがおかほうじょうえ ぶがく あ     しょうぐんけぎょさん    うひょうえのかみかいろう  つ  れる
建久五年(1194)八月小十五日癸夘。鶴岳放生會。舞樂有り。將軍家御參す。右兵衛督廻廊に着か被。

現代語建久五年(1194)八月小十五日癸卯。鶴岡八幡宮の放生会です。舞楽もあります。
将軍頼朝様がお参りです。右兵衛督一条高能も廻廊に着席しました。

建久五年(1194)八月小十六日甲辰。馬塲流鏑馬以下如例。將軍家御參。江間太郎始射流鏑馬。預祿云々。

読下し                ばば やぶさめ  いか れい ごと    しょうぐんけぎょさん  えまのたろう はじ    やぶさめ    い   ろく  あずか   うんぬん
建久五年(1194)八月小十六日甲辰。馬塲流鏑馬以下例の如し。將軍家御參。江間太郎始めて流鏑馬を射、祿に預ると云々。

現代語建久五年(1194)八月小十六日甲辰。馬場での行事は、流鏑馬以下いつもの通りです。将軍頼朝様がお出ましです。
江間太郎(北条泰時)が初めて流鏑馬を射て、褒美を貰いましたとさ。

建久五年(1194)八月小十八日丙午。姫君御不例復本給之間。有御沐浴。然而非可有御恃始終事之由。人皆含愁緒。是偏御歎息之所積也。可令嫁右武衛〔高能〕給之由。御臺所内々雖有御計。敢無承諾。及如然之儀者。可沈身於深淵之由被申云々。是猶御懷舊之故歟云々。武衛傳聞之此事更不可思召寄之由。属女房被謝申之。

読下し               ひめぎみ  ごふれい ふくほん  たま  のかん  おんもくよく あ
建久五年(1194)八月小十八日丙午。姫君の御不例復本し給ふ之間、御沐浴@有り。

しかれども おんたの あ  べ     あらざ   しじゅう  ことのよし  ひとみなしゅうしょ  ふく    これ  ひとへ ごたんそくの つ  ところなり
然而、御恃み有る可きに非るは始終の事之由、人皆愁緒を含む。是、偏に御歎息之積む所也。

 うぶえい  〔たかよし〕   か せし  たま  べ   のよし  みだいどころないない おんはか あ    いへど   あえ  しょうだくな
右武衛〔高能〕に嫁令め給ふ可き之由、御臺所内々に御計り有ると雖も、敢て承諾無く、

しか  ごと   のぎ   およ  ば  み を しんえん  しず    べ    のよし もうさる    うんぬん  これ  なおごかいきゅうの ゆえか  うんぬん
然る如き之儀に及ば者、身於深淵に沈める可き之由申被ると云々。是、猶御懷舊之故歟と云々。

ぶえい これ  つた  き   かく  こと  さら  おぼ  め   よ   べからず のよし  にょぼう  ぞく  これ  しゃ  もうさる
武衛之を傳へ聞き此の事を更に思し召し寄す不可之由、女房に属し之を謝し申被る。

現代語建久五年(1194)八月小十八日丙午。姫君(数え年17歳)の病気が治りましたので、病の気を洗い流すため沐浴の儀式をしました。
しかし、神仏への頼みがずうっとある訳ではないので、人は皆心配をしていました。このことは心配悩みが積み重なって行くばかりです。
そこで一条高能
との結婚を御台所政子様が内々に進めていましたが、承知を致しません。
「なお無理に話を進めるならば、この身を深い水の淵に沈めてしまいましょう。」と云われるのでした。
これは今だに昔の思い出を忘れられないでいるからなんだとさ。
この話を武衛
(高能様)の耳に入ると「この話はもうこれ以上進めるのはよしましょうよ。」と女官をとおして、政子様にお断りしました。

参考@沐浴は、穢れを洗い流すための儀式。沐は髪を洗い、浴は体を洗う。

建久五年(1194)八月小十九日丁未。安田遠州梟首。去年被誅子息義資。収公所領之後。頻歌五噫。又相談于日來有好之輩類。欲企反逆。縡已發覺云々。
 遠江守從五位上源朝臣義定〔年六十一〕
 安田冠者義C四男
 壽永二年八月十日任遠江守。敍從五位下。
 文治六年正月廿六日任下総守。
 建久二年三月六日還任遠江守。
 同年月日敍從五位上。

読下し              やすだのえんしゅう きょうしゅ  きょねん しそくよしすけ  ちゅうされ しょりょう しゅうこうののち  しきり   ごい   うた
建久五年(1194)八月小十九日丁未。安田遠州を梟首す。去年子息義資が誅被、所領を収公之後、頻に五噫@を歌う。

また  ひごろ ゆうこうのやから たぐ    に あいだん    ほんぎゃく くはだ   ほつ    ことすで  はっかく    うんぬん
又、日來有好之輩の類いに于相談じ、反逆を企んと欲し、縡已に發覺すと云々。

  とうとうみのかみじゅごいげじょうみなもとのあそんよしさだ 〔としろくじういち〕
 遠江守從五位上源朝臣義定。〔年六十一。〕

  やすだのかじゃよしみつ よんなん
 安田冠者義CAが四男

  じゅえいにねんはちがつとおか とおとうみのかみ にん  じゅごいのげ    じょ
 壽永二年八月十日 遠江守に任じ、從五位下に敍す。(1183)

  ぶんじろくねんしょうがつにじうろくにち しもうさのかみ にん
 文治六年正月廿六日 下総守に任ず。(1190)

  けんきゅうにねんさんがつむいか とおとうみのかみ げんにん
 建久二年三月六日 遠江守に還任す。

  どうねんがっぴ じゅごいのじょう  じょ
 同年月日從五位上に敍す。

参考@五噫を歌うは、中国の逸話で愚痴を言う。
参考A
安田冠者義C四男は、尊卑分脈には清光三男とある。

現代語建久五年(1194)八月小十九日丁未。遠州安田三郎義定を処刑しました。去年息子の越後守義資が処刑され、領地を取上げられたので、さかんに愚痴を言っていました。又、普段仲の良い人達に話しかけて、反逆を企んでいる事がばれたからだそうです。

 遠江守従五位上源朝臣安田三郎義定〔歳は六十一です〕
 安田冠者義清の四男
 寿永二年八月十日に遠江守に任命され、従五位下の位を与えられました。
 文治六年正月二十六日滞納により下総守に転任されました。
 建久三年三月六日遠江守に返り咲きました。
 同年に従五位上を与えられました。

説明梟首は、甲斐の大井窪御堂(現存せず)で殺されたとも、山梨県甲州市塩山放光寺(現存)とも、甲斐市西八幡の八幡宮とも云われる。梶原平三景時が呼び出してだまし討ちにしたとの伝説もある。

建久五年(1194)八月小廿日戊申。遠江守伴類五人。名越邊被刎首。所謂前瀧口榎下重兼。前右馬允宮道遠式。麻生平太胤國。柴藤三郎。武藤五郎等也。和田左衛門尉義盛奉行此事云々。

読下し            とおとうみのかみ ばんるいごにん なごえへん くび  はねられ
建久五年(1194)八月小廿日戊申。遠江守が伴類五人、名越邊で首を刎被る。

いはゆる  さきのたきぐちえのしたしげかね さきのうまのじょうみやぢとおのり  あそうのへいたたねくに  しばのとうさぶろう むとうのごろうらなり
所謂、 前瀧口榎下重兼@、前右馬允宮道遠式A、 麻生平太胤國、柴藤三郎、武藤五郎等也。

わだのさえもんのじょうよしもり  こ   こと  ぶぎょう    うんぬん
和田左衛門尉義盛、此の事を奉行すと云々。

参考@前瀧口榎下重兼は、山梨県南アルプス市榎原(旧中巨摩郡八田村榎原)。
参考A
前右馬允宮道遠式は、宮地郷で山梨県南アルプス市上宮地(旧中巨摩郡櫛形町宮地)。

現代語建久五年(1194)八月小二十日戊申。遠江守安田義定の部下達五人を名越のあたりで斬首しました。
それは、前滝口榎下重兼、前右馬允宮道遠式、麻生平太胤国、柴藤三郎、武藤五郎達です。和田左衛門尉義盛がこの事を指導担当しました。

建久五年(1194)八月小廿一日己酉。義盛浴新恩。彼誅戮等之賞也。勳功及度々之間。以次被行云々。

読下し               よしもり  しんおん  よく    か   ちうりくらの しょうなり  くんこうたびたび  およ  のかん  ついで もつ  おこなは   うんぬん
建久五年(1194)八月小廿一日己酉。義盛、新恩に浴す。彼の誅戮等之賞也。勳功度々に及ぶ之間。次を以て行被ると云々。

現代語建久五年(1194)八月小二十一日己酉。和田左衛門尉義盛が新たな領地を貰いました。それは、安田三郎義定の部下達を処刑した褒美です。今までにも何度か手柄を立てているので、この機会に表彰しましたとさ。

建久五年(1194)八月小廿二日庚戌。將軍家聊御不例。御齒勞云々。依之雜色上洛。被尋良藥云々。

読下し               しょうぐんけ いささ  ごふれい   おんは  いたは  うんぬん  これ  よつ  ぞうしきじょうらく   りょうやく たず  らる   うんぬん
建久五年(1194)八月小廿二日庚戌。將軍家、聊か御不例。御齒の勞りと云々。之に依て雜色上洛し、良藥を尋ね被ると云々。

現代語建久五年(1194)八月小二十二日庚戌。将軍頼朝様の具合が悪いのです。歯痛なんだそうな。
そこで雑用が京都へ上って、何か良い薬を見つけてくるようにとのことなんだとさ。

建久五年(1194)八月小廿六日甲寅。御不例減氣之間。相具右武衛。御參勝長壽院。永福寺等。次逍遥多古江河邊給。

読下し                ごふれい げんき のかん  うぶえい   あいぐ    しょうちょうじゅいん ようふくじ ら   ぎょさん
建久五年(1194)八月小廿六日甲寅。御不例減氣之間、右武衛を相具し、勝長壽院、永福寺等へ御參す。

つぎ   たごえがわへん  しょうよう  たま
次に多古江河邊へ逍遥し給ふ。

現代語建久五年(1194)八月小二十六日甲寅。病気(歯痛)の具合が良くなったので、右武衛一条高能を連れて、勝長寿院や永福寺に参りました。
その後、逗子の田越川のあたりへ散策しました。

建久五年(1194)八月小廿七日乙夘。金泥法華經五部。自京都被整下。是爲被安置勝長壽院。永福寺。御持佛堂也。

読下し               こんでい  ほけきょう  ごぶ   きょうと よ   ととの  くださる
建久五年(1194)八月小廿七日乙夘。金泥の法華經五部、京都自り整へ下被る。

これ  しょうちょうじゅいん ようふくじ  おんじぶつどう  あんちされ ためなり
是、勝長壽院、永福寺、御持佛堂@に安置被ん爲也。

参考@持仏堂は、日常的に礼拝する仏像(念持仏)を安置する堂。御所の北山には頼朝の守り本尊二寸銀の観音像を祀っている。

現代語建久五年(1194)八月小二十七日乙卯。金粉をにかわで溶いた金泥で書かれた法華経五部を京都で調達して送ってきました。
これは、勝長寿院、永福寺、御所北山の御持仏堂へ供え祀るためです。

閏八月へ

  

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