吾妻鏡入門第十四巻   

建久五年(1194)甲寅閏八月大

参考* 閏月は、陰暦では「大の月」が三十日、「小の月」が二十九日でそれぞれ六月だと計三五四日で十一日足りないので、適度な時期に閏月を入れる。但し閏月は十五日が満月の日になるようにする。

建久五年(1194)閏八月大一日戊午。快リ。將軍家渡御三浦。令相伴右武衛給。是於三崎津。可被建御山庄之故也。上総介義兼。北條殿以下。扈從滿巷云々。先有小笠懸。
射手
 下河邊庄司行平  小山七郎朝光
 和田左衛門尉義盛 八田左衛門尉知重
 海野小太郎幸氏  藤澤次郎C近
 梶原左衛門尉景季 愛甲三郎季隆
 榛谷四郎重朝   橘次公業
 里見冠者義成   加々美次郎長C
秉燭之程。御臺所并若君。姫君等渡御。小山五郎宗政。三浦兵衛尉義村。佐々木中務丞經高。梶原三郎兵衛尉景義。工藤小二郎行光。小野寺太郎道綱。右京進季時。江兵衛尉能範等供奉云々。三浦介義澄經營。醇酒催興。珍膳加美。此所之眺望。鋪白浪。倚山。凡地形之勝絶。得興遊之便者歟。

読下し              かいせい  しょうぐんけ みうら  とぎょ     うぶえい  あいともな  せし  たま
建久五年(1194)閏八月大一日戊午。快リ。將軍家三浦へ渡御す。右武衛を相伴は令め給ふ。

これ  みさきのつ  をい    ごさんそう  たてらる  べ   のゆえなり
是、三崎津に於て、御山庄を建被る可き之故也。

かずさのすけよしかね ほうじょうどのいか  こしょうちまた み    うんぬん  ま   こがさがけ あ
上総介義兼、 北條殿以下の扈從巷に滿つと云々。先ず小笠懸@有り。

いて
射手

   しもこうべのしょうじゆきひら    おやまのしちろうともみつ
 下河邊庄司行平   小山七郎朝光

   わだのさえもんのじょうよしもり   はったのさえもんのじょうともしげ
 和田左衛門尉義盛  八田左衛門尉知重

   うんののこたろうゆきうじ       ふじさわのじろうきよちか
 海野小太郎幸氏   藤澤次郎C近

   かじわらのさえもんのじょうかげすえ あいこうのさぶろうすえたか
 梶原左衛門尉景季  愛甲三郎季隆

   はんがやつのしろうしげとも     きつじきんなり
 榛谷四郎重朝    橘次公業

   さとみのかじゃよしなり        かがみのじろうながきよ
 里見冠者義成    加々美次郎長C

へいしょくのほど みだいどころなら   わかぎみ ひめぎみら とぎょ
秉燭之程、御臺所并びに若君、姫君等渡御す。

おやまのごろうむねまさ みうらのひょうえのじょうよしむら ささきのなかつかさのじょうつねたか かじわらのさぶろうひょうえのじょうかげよし くどうのこじろうゆきみつ
小山五郎宗政、 三浦兵衛尉義村、 佐々木中務丞經高、  梶原三郎兵衛尉景義、 工藤小二郎行光、

おのでらのたろうみちつな うきょうのしんすえとき えのひょうえのじょうよしのりら ぐぶ   うんぬん
小野寺太郎道綱、右京進季時、江兵衛尉能範等供奉すと云々。

みうらのすけよしずみ けいえい  じゅんしゅきょう もよお  ちんぜん び  くは    かく ところのちょうぼう  しらなみ  しき   せいざん  よ
 三浦介義澄 經營す。醇酒 興を催し、珍膳美を加う。此の所之眺望、白浪を鋪、山に倚る。

およ  ちけいのしょうぜつ  きょうゆうのびん  え  ものか
凡そ地形之勝絶、興遊之便を得る者歟。

参考@小笠懸は、は、笠懸(遠矢)と違い馬手(めて)の足元の的を射る。

現代語建久五年(1194)閏八月大一日戊午。快晴です。将軍頼朝様が三浦にお出かけになられました。右武衛の一条高能様を一緒につれて行かれました。
これは三崎の津において、山荘を建てるためです。足利義兼や北条時政以下のお供が巷に溢れていました。まず小笠懸がありました。
射手は
(上が勝ち)
 下河辺庄司行平  小山七郎朝光
 和田左衛門尉義盛 八田左衛門尉知重
 海野小太郎幸氏  藤沢次郎清近
 梶原左衛門尉景季 愛甲三郎季隆
 榛谷四郎重朝   橘次公業
 里見冠者義成   加々美次郎長清

夕暮れの明かりを灯す頃になって政子と若君と姫君(数え年17歳)等も小山五郎宗政、三浦兵衛尉義村、佐々木中務丞経高、梶原三郎兵衛尉景義、工藤小二郎行光、小野寺太郎道綱、右京進中原季時、兵衛尉大江能範がお供をしてやって来ました。三浦義澄が主催しておいしい酒が宴会を元気付け、珍味などのお膳が景気を添えました。ここの眺望の良さは白波が敷かれ、青山に寄りかかる。この景色のよさが、遊山の趣を引き立てます。

建久五年(1194)閏八月大二日己未。御臺所令歸鎌倉給。今日彼岸初日也。七ケ日之間。可被修御佛事之故也。於御持佛堂有此儀。佛〔尺迦 弥陀 弥勒 觀音 文殊 不動〕經〔法花〕供養并同經讀誦等也。當日御導師法橋定豪也。於三浦又有小笠懸。昨日勝負云々。其後。於船中興宴。遊女棹一葉參。猿樂小法師中太丸參施藝。上下解頷云々。

読下し              みだいどころ かまくら  かえ  せし  たま
建久五年(1194)閏八月大二日己未。御臺所、鎌倉へ歸ら令め給ふ。

きょう    ひがん  しょにちなり  なぬかにちのかん  おんぶつじ  しゅうせら べ   のゆえなり  おんじぶつどう  をい  かく  ぎ あ
今日は彼岸の初日也。七ケ日之間、御佛事を修被る可き之故也。御持佛堂@に於て此の儀有り。

ほとけ 〔 しゃか   みだ    みろく   かんのん   もんじゅ   ふどう 〕 きょう 〔ほっけ〕  くよう なら     どうきょう  どくしょうらなり  とうじつ ごどうし ほっきょうていごうなり
〔尺迦、弥陀、弥勒、觀音、文殊、不動〕〔法花〕供養并びに同經の讀誦等也。當日御導師法橋定豪也。

みうら    をい   また こがさがけ あ    きのう  しょうぶ  うんぬん
三浦に於て、又小笠懸有り。昨日の勝負Aと云々。

そ   ご   せんちゅう をい  きょうえん  ゆうじょいちよう  さお      まい    さるがく こほっし ちうたまる まい  げい  ほどこ   じょうげおとがい と    うんぬん
其の後、船中に於て興宴す。遊女一葉Bに棹さして參る。猿樂C小法師中太丸參り藝を施す。上下 頷を解くDと云々。

参考@持仏堂は、日常的に礼拝する仏像(念持仏)を安置する堂。政子専用の仏像を安置する厨子堂が屋敷内にあったんだと思う。或いは、御所北の文治五年(1189)に祀った頼朝の持仏堂であろうか?
参考A昨日の勝負は、昨日と同じメンバーで。
参考B
一葉は、小船。
考C猿樂は、滑稽な演芸。
考D頷を解くは、笑う。

現代語建久五年(1194)閏八月大二日己未。御台所政子様は、鎌倉へ帰られました。今日は、彼岸の入りの日なので法要を営むためなのです。
持佛堂においてこの式を行いました。仏様〔釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩、観音菩薩、文殊菩薩、不動明王〕とお経〔法華経〕の供養に、そのお経を読み上げました。この日の指導僧は法橋定豪です。

一方三浦では、又小笠懸が有り、昨日のメンバーと同じだそうな。その後、船を浮かべて船内で宴会です。遊び女達が小船を漕いでやってきました。滑稽な演芸の猿楽を商売にしている小法師中太丸が来て、芸を披露しました。上下の人々は皆大笑いでしたとさ。

建久五年(1194)閏八月大三日庚申。將軍家并右武衛自三浦令還給。

読下し              しょうぐんけ なら    うぶえい みうら よ   かえ  せし  たま
建久五年(1194)閏八月大三日庚申。將軍家并びに右武衛三浦自り還ら令め給ふ。

現代語建久五年(1194)閏八月大三日庚申。将軍頼朝様も右武衛一条高能様も、三浦から鎌倉へ帰りました。

建久五年(1194)閏八月大七日甲子。義定朝臣跡屋地。江間殿令拝領給云々。

読下し               よしさだあそん  あと   やち   えまどのはいりょうせし たま    うんぬん
建久五年(1194)閏八月大七日甲子。義定朝臣が跡の屋地、江間殿拝領令め給ふと云々。

現代語建久五年(1194)閏八月大七日甲子。先日処刑された遠江守安田三郎義定の屋敷跡地を、江間殿(北条義時)が戴きましたとさ。

建久五年(1194)閏八月大八日乙丑。御臺所御佛事結願也。今日爲志水冠者追福。有副供養佛經。
 導師
  法橋定豪
 請僧
  法眼行惠
 堅者
  阿闍梨惠眼密藏
佛經讚嘆之後。述幽靈往事等。聽衆皆随喜。嗚咽拭悲涙云々。
  布施
 導師
  被物三重 裹物二 五衣一〔加布施供米三石〕
 請僧〔口別〕
  被物一重 裹物一 供米一石
皇后宮大進爲宗。修理亮義盛。安房判官代高重。藤判官代邦通。新田藏人義兼等取之。圖書允C定奉行之。

読下し              みだいどころ おんぶつじ けちがんなり  きょう しみずかじゃ  ついぶく  ため  そへくよう  ほとけ きょう あ
建久五年(1194)閏八月大八日乙丑。御臺所の御佛事 結願也。 今日志水冠者の追福の爲、副供養の佛、經有り。

  どうし
 導師

    ほっきょうていごう
  法橋定豪

  しょうそう
 請僧

    ほうげんぎょうえ
  法眼行惠

  げしゃ
 堅者

    あじゃりけいげんみつぞう
  阿闍梨惠眼密藏

ほとけ きょう さんかんののち ゆうれい おうじら   の     しょうちゅうみなずいき   おえつ ひるい  ぬぐ    うんぬん
佛、經 讚嘆之後。幽靈の往事等を述べ、聽衆皆随喜し、嗚咽悲涙を拭うと云々。

      ふせ
  布施

   どうし
 導師

    かずけものみえ つつみものに  ごい いち 〔 ふせくまい さんごく    くは  〕
  被物三重 裹物二 五衣一〔布施供米三石を加う〕

  しょうそう 〔くべつ〕
 請僧〔口別〕

    かずけものひとえ つつみものひとつ くまいいっこく
  被物一重  裹物一  供米一石

こうごうぐうだいしんためむね  しゅりのりょうよしもり  あわのほうがんだいたかしげ  とうのほうがんだいくにみち にったのくらんどよしかねら これ  と
皇后宮大進爲宗、 修理亮義盛、 安房判官代高重、 藤判官代邦通、 新田藏人義兼等之を取る。

としょのじょうきよさだこれ ぶぎょう
圖書允C定之を奉行す。

現代語建久五年(1194)閏八月大八日乙丑。御台所政子様が始めた彼岸の法要が七日で満願となりました。
その他に、今日は故清水冠者義高の菩提を弔うため、追加の法事の仏様のお経がありました。
 指導僧は、法橋定豪。
 お供は法眼行恵。
 祈祷をする人、阿闍梨恵眼密蔵。
仏様とお経を上げたあと、故人の昔を語ったので、聞いている人々は皆ありがたいお言葉に喜び、又思い出に嗚咽し涙を流しましたとさ。
  お布施は、
 指導僧に
  被り物三着、袋物二つ、下賜の着物一枚〔お布施の米三石を足しました〕
 お供の坊さんに
  被り物一着、袋物一つ、お米一石。
皇后宮大進伊佐為宗、修理亮関瀬義盛、安房判官代高重、大和判官代藤原邦道、新田藏人義兼などが、これを運びました。図書允清原清定が準備担当しました。

建久五年(1194)閏八月大十日丁夘。相摸守惟義賜美濃國中没収地等云々。

読下し              さがみのかみこれよし みのくにちゅう  ぼっしゅうちら  たま      うんぬん
建久五年(1194)閏八月大十日丁夘。相摸守惟義、美濃國中の没収地@等を賜はると云々。

参考@没収地は、八月小十九日安田遠江守義定を殺してるので、この没収地だと思われる。没収地は基本的に同族に下げ渡される。

現代語建久五年(1194)閏八月大十日丁卯。相模守大内惟義が、美濃国の中の没収された領地を与えられましたとさ。

建久五年(1194)閏八月大十二日己巳。以但馬國多々良岐庄。始爲地頭補任之地。可被付熊野鳥居禪尼云々。是依所望也。

読下し                たじまのくに  たたらぎのしょう   もつ    はじ    ぢとう ぶにんの ち   な
建久五年(1194)閏八月大十二日己巳。但馬國 多々良岐庄@を以て、始めて地頭補任之地と爲しA

くまの    とりいぜんに   つけられるべ   うんぬん  これしょもう  よつ  なり
熊野の鳥居禪尼Bに付被可しと云々。是所望に依て也。

参考@但馬國多々良岐庄は、兵庫県朝来市(あさご)多々良木(旧朝来郡朝来町多々良木)。
参考A始めて地頭補任之地と爲しは、初めて地頭を置くことになった。翌月二十三日に下文発行。
参考B熊野の鳥居禪尼は、熊野新宮神官で爲義の娘。熊野の尼とも言う。もう一人一緒に居たのが行家。

現代語建久五年(1194)閏八月大十二日己巳。但馬国多々良木庄(兵庫県)に、初めて地頭職を置くことにして、熊野の鳥居禅尼(義朝の姉)に与えるようにとの事だそうです。本人の希望だからです。

建久五年(1194)閏八月大十五日壬申。將軍家御參鶴岳宮。自令勤御供役送給云々。

読下し                しょうぐんけ つるがおかぐう  ぎょさん   みづか  ごく   やくそう  つと  せし  たま    うんぬん
建久五年(1194)閏八月大十五日壬申。將軍家、鶴岳宮へ御參す。自ら御供の役送@を勤ま令め給ふと云々。

参考@御供の役送は、お供えを持っていって捧げる役。御供には、所領からの収得物も含まれる場合がある。

現代語建久五年(1194)閏八月大十五日壬申。将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。自分自らお供えを捧げる役を勤めましたとさ。

建久五年(1194)閏八月大十六日癸酉。一條前黄門使者自京都參著。去二日依病遂素懷之由申之云々。今年四十八云々。侍中三兵衛尉兼經。小舎人荒四郎等令出家云々。

読下し               いちじょうさきのこうもん ししゃ きょうと よ  さんちゃく
建久五年(1194)閏八月大十六日癸酉。一條前黄門が使者京都自り參著す。

さんぬ ふつかやまい  よつ そかい  と     のよし  これ  もう   うんぬん
去る二日病に依て素懷を遂げる@之由、之を申すと云々。

 ことし しじうはち  うんぬん  じちゅう さんひょうえのじょうかねつね  こどねり あらしろうら しゅっけせし    うんぬん
今年四十八と云々。 侍中A三兵衛尉兼經、 小舎人荒四郎等出家令むと云々。

参考@素懷を遂げるは、出家をする。娑婆からの離脱。
参考A侍中は、蔵人の唐名。

現代語建久五年(1194)閏八月大十六日癸酉。前中納言一条能保様の使いが京都からやってきました。
先日の二日に病気のため出家をしたと伝えましたとさ。今年四十八歳だそうです。
取次ぎ役で蔵人の三兵衛尉兼経と身の回りの世話役の荒四郎も主人に従って一緒に出家したとのことです。

建久五年(1194)閏八月大廿一日戊寅。關東御分佛寺等燈明以下事。惠抽精勤。不可令退轉之由。被觸仰其所地頭等云々。

読下し                かんとうごぶん   ぶつじら   とうみょう いげ  こと
建久五年(1194)閏八月大廿一日戊寅。關東御分@の佛寺等の燈明A以下の事、

もつぱ せいきん ぬき      たいてん せし べからずのよし  そ  ところ   ぢとうら   ふ   おお  らる    うんぬん
惠ら精勤を抽んじ、退轉B令む不可之由、其の所の地頭等に觸れ仰せ被ると云々。

参考@關東御分は、関東御分国で頼朝が権限を任された国で多分関八州と甲斐。
参考A燈明は、燈明料田と云って、そこの田の年貢は寺へ出す目的税。
参考B退轉は、引き倒すの意味で年貢を怠ること。謝金を引き倒すと同じ。

現代語建久五年(1194)閏八月大二十一日戊寅。頼朝様が権限を任されている関東御分国内のお寺の燈明料以下については、ちゃんと年貢の納付を勤め、怠ることのないようにと、お寺のある場所の地頭達に命令を出されましたとさ。

建久五年(1194)閏八月大廿二日己夘。將軍家參甘繩宮〔伊勢別宮〕以還向之時。入御藤九郎盛長家云々。

読下し                しょうぐんけ あまなわぐう 〔 いせのべちみや 〕  さん  かんこうのとき  もつ    とうくろうもりなが  いえ  にゅうぎょ   うんぬん
建久五年(1194)閏八月大廿二日己夘。將軍家甘繩宮〔伊勢別宮〕@へ參じ還向之時を以て、藤九郎盛長が家へ入御すと云々。

参考@甘繩宮〔伊勢別宮〕は、甘繩神明宮で、鎌倉市長谷1丁目1番に鎮座。その門前東側一帯が藤九郎盛長の屋敷跡とされる。

現代語建久五年(1194)閏八月大二十二日己卯。将軍頼朝様は、甘縄神明社へお参りをして、帰りに藤九郎盛長の家へ立ち寄りましたとさ。

建久五年(1194)閏八月大廿八日乙酉。平六左衛門尉時定遺跡事。可令子孫領掌者。尚本所領少々有知行事。於其地者。早可返付之由云々。

読下し                へいろくさえもんのじょうときさだ  ゆいせき  こと   まご  りょうしょうせし  べ   てへ
建久五年(1194)閏八月大廿八日乙酉。平六左衛門尉時定@が遺跡の事。子孫が領掌令む可し者り。

なお  ほんじょりょう しょしょうちぎょう ことあ     そ   ち   をい  は   はや  かへ  つ     べ   のよし  うんぬん
尚、本所領Aを少々知行の事有り。其の地に於て者、早く返し付ける可し之由と云々。

参考@平六左衛門尉時定は、建久四年(1193)二月二十五日49歳に京都で亡くなっているので(1145)生まれ。北條時政の従兄弟で本家だとする説(奥富敬之氏)と時政の弟だとする説(野口実氏)がある。但し、野口説は未だ市民権を得ていないようである。(2007.07)ちなみに北條時政は1138生まれである。
参考A本所領は、本所から預かった地頭職を本所の預所職へ返すよう云っている。遺跡(ゆいせき)は渇命所と思われる。

現代語建久五年(1194)閏八月大二十八日乙酉。平六左衛門尉北条時定の遺産の領地を、子供達が領地として管理するように命じられました。
但し、最上級荘園権利者の本所分地頭職が少々あるので、その領地は本所(預所)へ返すようにとのことだそうです。

九月へ

  

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