吾妻鏡入門第十四巻   

建久五年(1194)甲寅十一月小

建久五年(1194)十一月小一日戊子。北條殿爲三嶋神事經營。下向伊豆國。相具子息五郎主給云々。

読下し               ほうじょうどの みしま  しんじ   けいえい ため  いずのくに  げこう     しそく ごろうぬし   あいぐ  たま   うんぬん
建久五年(1194)十一月小一日戊子。北條殿三嶋の神事を經營の爲、伊豆國へ下向す。子息五郎主を相具し給ふと云々。

現代語建久五年(1194)十一月小一日戊子。北条時政殿は、三島大社の祭典を主催するために伊豆国へ行かれました。息子の五郎時連を一緒に連れて行かれましたとさ。

説明三嶋は、三島神社という荘園で、地頭は西大夫と東大夫で、西大夫家が残り現矢口家である。東大夫は南北朝内乱の時、西大夫に滅ぼされた。

建久五年(1194)十一月小二日己丑。武藏國大田庄堤修固事。明年三月以前。可終功之旨。被仰下云々。

読下し               むさしのくに おおたのしょう つつみ しゅうこ こと みょうねんさんがついぜん こう  おえ  べ   のむね  おお  くださる   うんぬん
建久五年(1194)十一月小二日己丑。武藏國 大田庄@の 堤A修固の事、明年三月以前に功を終る可しB之旨、仰せ下被ると云々。

参考@大田庄は、武蔵国最大の荘園で埼玉県久喜市、行田市、岩槻市、北葛飾郡鷲宮町、南埼玉郡白岡町、同郡宮代町で、中心が鷲宮神社。本所は八条院。領主は關東御領。後に地頭は得宗領となる。
参考Aは、旧利根川の土手か。
参考B三月以前に功を終る可しは、旧暦なので五月中旬までに、で梅雨入り前にの意味であろう。

現代語建久五年(1194)十一月小二日己丑。武蔵国(埼玉県)の太田庄の堤防を固める事について、来年の三月までに工事を終えるようにと、仰せになられましたとさ。

建久五年(1194)十一月小四日辛夘。鶴岳八幡宮御神樂也。將軍家御參。右近將監大江久家唱秘曲等。畠山次郎重忠。梶原左衛門尉景季候付歌云々。

読下し              つるがおかはちまんぐう おかぐらなり  しょうぐんけ ぎょさん   うこんしょうげんおおえのひさいえ ひきゃくら  うた
建久五年(1194)十一月小四日辛夘。鶴岳八幡宮の御神樂也。將軍家御參す。 右近將監大江久家 秘曲等を唱う。

はたけやまのじろうしげただ かじわらのさえもんのじょうかげすえ つけうた こう     うんぬん
 畠山次郎重忠、 梶原左衛門尉景季、付歌@に候ずと云々。

参考@付歌は、元歌の五七五の上の句に対する、七七の下の句。

現代語建久五年(1194)十一月小四日辛卯。鶴岡八幡宮のお神楽の奉納です。将軍頼朝様もお参りです。右近将監大江久家が、秘伝の歌を歌いました。
畠山次郎重忠と梶原源太左衛門尉景季が、下の句を付けて歌いましたとさ。

建久五年(1194)十一月小七日甲午。永福寺内新造御堂被立扉。仍 將軍家監臨給。工等預別祿云々。

読下し               ようふくじない しんぞう みどう  とびら たてらる   よつ しょうぐんけ かんりん  たま   たくみらべつろく あず     うんぬん
建久五年(1194)十一月小七日甲午。永福寺内新造御堂に扉を立被る。仍て將軍家監臨し給ふ。工等別祿に預かると云々。

現代語建久五年(1194)十一月小七日甲午。永福寺内に新しく立てたお堂に扉を立てました。それなので将軍頼朝様も立ち会われました。
大工達には特別に褒美が与えられましたとさ。

建久五年(1194)十一月小八日乙未。早馬上下向并御物疋夫等。被支配海道驛々。大宿分八人。小宿分二人云々。是日者雖被沙汰置之。新宿加増之間。重及此儀云々。

読下し               はやうま  じょうげこう なら    おんもの  ひっぷら  かいどう  うまやうまや しはいさる
建久五年(1194)十一月小八日乙未。早馬の上下向并びに御物の疋夫等、海道@の驛々に支配被る。

おおしゅくぶん はちにん こしゅくぶん  ふたり   うんぬん
 大宿分は八人。 小宿分は二人と云々。

これ  ひごろこれ  さた おかる   いへど   しんしゅくかぞうのかん  かさ    かく  ぎ   およ    うんぬん
是、日者之を沙汰置被ると雖も、新宿加増A之間、重ねて此の儀に及ぶと云々。

参考@海道は、東海道。
参考A
新宿加増は、新しい宿場が増やした。

現代語建久五年(1194)十一月小八日乙未。京都と鎌倉の早馬伝令の上下向用の馬と、京都朝廷への年貢など物資の輸送用人夫を、東海道の宿駅ごとに指定し配分しました。大きな宿場には八人、小さな宿場には二人だそうです。
この話は、普段から置かれてはありますが、新しく宿場を増やしたので、追加してこのように処置しましたとさ。

説明大宿小宿は、基準が分からない。

建久五年(1194)十一月小十日丁酉。姫君又御不例。諸人群參。幕府物忩。依之被奉神馬於三嶋社。新田六郎爲御使首途云々。依此事。江間殿自伊豆國被馳參。爲願成就院修理。日來在國云々。

読下し               ひめぎみまたごふれい  しょにんぐんさん   ばくふ ぶっそう    これ  よつ  しんめ を みしましゃ たてまつらる
建久五年(1194)十一月小十日丁酉。姫君又御不例、諸人群參し、幕府物忩す。之に依て神馬於三嶋社へ奉被る。

にたんのろくろうおんし  な   かどで    うんぬん  こ   こと  よっ    えまどの いずのくに よ   は   さん  らる
新田六郎御使と爲し首途すと云々。此の事に依て、江間殿伊豆國自り馳せ參ぜ被る。

がんじょうじゅいんしゅうり  ため  ひごろざいこく   うんぬん
願成就院 修理の爲、日來在國すと云々。

現代語建久五年(1194)十一月小十日丁酉。姫君が(数え年17歳)又具合が悪くなりましたので、人々が群れをなして集まって来て、幕府内は物騒がしくなりました。この病気を治して貰う様に三島神社に馬を寄付しました。新田六郎忠時が使いとして旅立ちましたとさ。
これを聞いて、江間殿(北条義時)は伊豆国から走って帰って来ました。願成就院の修理の為に伊豆へ行っていたのだそうです。

建久五年(1194)十一月小十三日庚子。上総介義兼於鶴岳八幡宮。供養兩界曼茶羅二鋪。導師當宮別當法眼。題名僧六十口也。施主着布衣在廻廊。伊豆守以下門葉源氏兩三輩同列座。又源高重〔安房判官代〕藤原教重〔号三位判官代〕等取布施云々。

読下し                かずさのすけよしかね つるがおかはちまんぐう をい    りょうかいまんだら にぶ   くよう
建久五年(1194)十一月小十三日庚子。上総介義兼、 鶴岳八幡宮に 於て、兩界曼茶羅二鋪@を供養す。

どうし   とうぐうべっとうほうげん  だいめいそうろくじっくなり  せしゅ   ほい   き    かいろう  あ
導師は當宮別當法眼。題名僧六十口也。施主は布衣Aを着て廻廊に在り。

いずのかみ いか もんよう  げんじりょうさんやからおな  れつざ
伊豆守以下門葉の源氏兩三輩同じく列座す。

また みなもとのたかしげ〔あわのほうがんだい〕 ふじらわのりしげ〔さんみのほうがんだい ごう  〕 ら ふせ   と     うんぬん
又、 源高重〔安房判官代〕 藤原教重〔三位判官代と号す〕等布施を取ると云々。

参考@兩界曼茶羅二鋪は、真言密教の金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅。
参考A布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。

現代語建久五年(1194)十一月小十三日庚子。上総介足利義兼は、鶴岡八幡宮で真言密教の金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅の対を披露供養しました。
指導僧は八幡宮寺筆頭の法眼円暁です。お経を一緒に唱えるお供の僧は六十名。
主催者は礼装の狩衣を着て回廊におります。伊豆守山名義範を始めとする源氏一族二・三名が同様に並んで座っております。
安房判官代源高重と三位判官代藤原教重が、布施を渡しましたとさ。

建久五年(1194)十一月小十四日辛丑。上総介義兼以因幡前司廣元申云。昨日所供養之曼茶羅者。 將軍家御祈祷也者。仍可奉納宮寺之旨。被仰別當法眼圓曉。則被安置于上宮東廊云々。

読下し                かずさのすけよしかね いなばのぜんじひろもと もつ  もう    い
建久五年(1194)十一月小十四日辛丑。上総介義兼、因幡前司廣元を以て申して云はく。

さくじつ くよう    ところの まんだらは   しょうぐんけ   ごきとう なり てへ      よつ  ぐうじ  ほうのうすべ  のむね  べっとうほうげんえんぎょう おお  らる
昨日供養する所之曼茶羅者、將軍家の御祈祷也者れば、仍て宮寺に奉納可し之旨、 別當法眼圓曉に仰せ被る。

すはな じょうぐう ひがしろうに あんちさる    うんぬん
則ち 上宮 東廊于 安置被ると云々。

現代語建久五年(1194)十一月小十四日辛丑。上総介足利義兼は、因幡前司(大江)広元を通して「昨日披露供養した両界曼荼羅は、将軍様のことを祈ったものです。」と云うので「それなら八幡宮寺へ奉納するように。」と八幡宮寺筆頭の法眼円暁に仰せになられました。直ぐに上の宮の東の廊下に飾られましたとさ。

建久五年(1194)十一月小十五日壬寅。將軍家并御臺所御參鶴岳宮云々。

読下し                しょうぐんけ なら   みだいどころ つるがおかぐう ぎょさん   うんぬん
建久五年(1194)十一月小十五日壬寅。將軍家并びに御臺所、鶴岳宮へ御參すと云々。

現代語建久五年(1194)十一月小十五日壬寅。将軍頼朝様と御台所政子様は、鶴岡八幡宮へお参りをなさいましたとさ。

説明旧暦の1115日は二十八宿で「何事をするにも吉」とされる鬼の出歩かない日「鬼宿日」に当たる。

建久五年(1194)十一月小十八日乙巳。江間殿爲奉幣御使。被參伊豆國三嶋社。今朝進發云々。

読下し                 えまどの ほうへい  おんし   な     いずのくに みしましゃ  まいらる    けさ しんぱつ   うんぬん
建久五年(1194)十一月小十八日乙巳。江間殿奉幣の御使と爲し、伊豆國三嶋社へ參被る。今朝進發すと云々。

現代語建久五年(1194)十一月小十八日乙巳。江間殿(北条義時)が、神に幣帛(へいはく)をささげる代理として、伊豆国三島大社へ参られます。今朝出発されたそうです。

説明幣帛は、榊(さかき)の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮(こうぞ)で織った布。

建久五年(1194)十一月小十九日丙午。多氣義幹捧歎状。依人讒。被収公所領事。狩野介執申之。

読下し                たけのよしもと たんじょう ささ    ひと  ざん  よつ    しゅうこうされ しょりょう  こと  かのうのすけ これ と   もう
建久五年(1194)十一月小十九日丙午。多氣義幹@歎状Aを捧ぐ。人の讒に依て、収公B被る所領の事、狩野介之を執り申す。

参考@多氣義幹は、多氣太郎義幹で、常陸大掾氏の分家で、茨城県つくば市北条(筑波地区)。
参考A歎状は、嘆き訴えるので、古文書学では愁状と云う。
参考B収公は、公(頼朝政権)に収めた(返した)で、地頭としての所領を取り上げられること。

現代語建久五年(1194)十一月小十九日丙午。多気太郎義幹が嘆き訴える文章を提出しました。
他人から有りもしない悪口をでっち上げられ、領地を取上げられてしまったと、狩野介宗茂がこれを取次ぎました。

建久五年(1194)十一月小廿日丁未。御堂供養間導師以下施物等。自京都到着。前掃部頭親能爲奉行所調進也。

読下し               みどうくよう    かん  どうし いか   ほどこ ものら   きょうと よ   とうちゃく
建久五年(1194)十一月小廿日丁未。御堂供養の間の導師以下の施し物等、京都自り到着す。

さきのかもんのかみちかよし ぶぎょう  な  ちょうしん   ところなり
 前掃部頭親能 奉行と爲し調進する所也。

現代語建久五年(1194)十一月小二十日丁未。永福寺内の薬師堂の開眼供養に指導僧を始めとする坊さん達へのお布施の品物が京都から到着しました。
前掃部頭中原親能が担当指揮して調達した物です。

建久五年(1194)十一月小廿一日戊申。三嶋社神事也。殊御潔齋。令參鶴岳三嶋別宮給。又於御靈前濱。有千番小笠懸。左衛門尉義盛奉行之。
 射手
  武田太郎信義  同五郎信光
  小山五郎宗政  同七郎朝光
  境兵衛尉常秀  三浦兵衛尉義村
  工藤小次郎行光 榛谷四郎重朝
  小鹿嶋橘次公業 澁谷次郎高重
  足利太郎親成  梶原兵衛尉景高
  土屋兵衛尉義C 所雜色基繁
  藤澤次郎C近  愛甲三郎季隆
  佐々木三郎盛綱 同五郎義C
  曾我太郎祐信  廣澤三郎重義

読下し                 みしましゃ  しんじなり  こと  ごけっさい    つるがおかみしまべちみや さん  せし  たま
建久五年(1194)十一月小廿一日戊申。三嶋社の神事也。殊に御潔齋し、鶴岳三嶋別宮へ參ぜ令め給ふ。

また  ごりょう  まえはま  をい    せんばん  こがさがけ あ    さえもんのじょうよしもり これ ぶぎょう
又、御靈の前濱に於て、千番の小笠懸有り。左衛門尉義盛之を奉行す。

   いて
 射手

     たけだのたろうのぶよし       おなじくごろうのぶみつ
  武田太郎信義    同五郎信光

     おやまのごろうむねまさ       おなじくしちろうともみつ
  小山五郎宗政    同七郎朝光

     さかいのひょうえのじょうつねひで みうらのひょうのじょうよしむら
  境兵衛尉常秀    三浦兵衛尉義村

     くどうのこじろうゆきみつ       はんがやつにしろうしげとも
  工藤小次郎行光   榛谷四郎重朝

     おがしまのきつじきんなり       しぶやのじろうたかしげ
  小鹿嶋橘次公業   澁谷次郎高重

     あしかがのたろうちかなり      かじわらのひょうえのじょうかげたか
  足利太郎親成    梶原兵衛尉景高

     つちやのひょうえのじょうよしきよ  ところのぞうしきもとしげ
  土屋兵衛尉義C   所雜色基繁@

     ふじさわのじろうきよちか       あいこうのさぶろうすえたか
  藤澤次郎C近    愛甲三郎季隆

     ささきのさぶろうもりつな       おなじきごろうよしきよ
  佐々木三郎盛綱   同五郎義C

     そがのたろうすけのぶ        ひろさわのさぶろうしげよし
  曾我太郎祐信    廣澤三郎重義

参考@所雜色は、国衙の蔵人所の一番下の身分。

現代語建久五年(1194)十一月小二十一日戊申。三島大社の催事です。特に身を清めて、鶴岡八幡宮境内の三島神社の末社へお参りなさいました。
また、御霊神社の前の浜辺で、千回の小笠懸がありました。和田左衛門尉義盛が指揮担当しました。
 射手は、
  武田太郎信義  対 同五郎信光
  小山五郎宗政  対 同七郎朝光
  境兵衛尉常秀  対 三浦兵衛尉義村
  工藤小次郎行光 対 榛谷四郎重朝
  小鹿嶋橘次公業 対 渋谷次郎高重
  足利太郎親成  対 梶原兵衛尉景高
  土屋兵衛尉義清 対 所雑色基繁
  藤沢次郎清近  対 愛甲三郎季隆
  佐々木三郎盛綱 対 同五郎義清
  曾我太郎祐信  対 広沢三郎重義

説明左側と右側は、原文では上下に書かれていて、上下が技比べをして上が勝者、下が敗者と思われる。
説明
武田太郎信義は、第6巻文治2年(1186)3月9日に死亡記事があるが、真実は不明。また、長沼五郎宗政や結城七郎朝光が、小山のままなので、文治二年三月以前の記事の切り貼りの誤謬ではないか。但し広沢三郎は、11巻建久2年(1191)2月4日とここしか出演が無いので、何とも言えない。

建久五年(1194)十一月小廿三日辛亥。北條殿。江間殿等自三嶋歸參。願成就院修理事終云々。

読下し                ほうじょうどの   えまどの ら みしま よ   きさん    がんじょうじゅいん しゅうり  こと  おえ   うんぬん
建久五年(1194)十一月小廿三日辛亥。北條殿、江間殿等三嶋自り歸參す。願成就院@の修理の事を終ると云々。

参考@願成就院は、現存する。阿彌陀三尊并不動多門形像は、運慶作で現存する。

現代語建久五年(1194)十一月小二十三日辛亥。北条時政殿と江間殿(北条義時)が三島から鎌倉へ戻りました。願成就院の修理工事を終えられたんだとさ。

建久五年(1194)十一月小廿六日甲寅。武藏相摸兩國乃貢等。被進京都。行政。仲業。實景等奉行之。御使雜色時澤。成里云々。

読下し                 むさし   さがみ  りょうごく  のうぐ ら   きょうと  しん  らる    ゆきまさ  なかなり  さねかげ ら これ  ぶぎょう
建久五年(1194)十一月小廿六日甲寅。武藏、相摸の兩國の乃貢@等、京都へ進ぜ被る。行政、仲業、實景等之を奉行す。

 おんし  ぞうしき  ときさわ  なりさと  うんぬん
御使の雜色は時澤、成里と云々。

参考@兩國の乃貢は、武蔵相模の本税。

現代語建久五年(1194)十一月小二十六日甲寅。武蔵と相模の両国の年貢を京都へ送られました。
主計允藤原行政(二階堂)、右京進中原仲業、源実景が担当しました。幕府の使いの雑用は時沢と成里だそうです。

建久五年(1194)十一月小廿七日乙夘。近國一宮并國分寺可修復破壞之旨。被仰下。

読下し                きんごくいちのみや なら   こくぶんじ  はかい  しゅうふくすべ  のむね  おお  くださる
建久五年(1194)十一月小廿七日乙夘。 近國一宮 并びに國分寺の破壞を修復可き之旨、仰せ下被る。

現代語建久五年(1194)十一月小二十七日乙卯。鎌倉に近い国の一の宮と国分寺の壊れたところを修理するように、命じられました。

参考近國は、かつては畿内近国を指したが、ここでは幕府の近い国(関東)を指しているのであろう。

十二月へ

  

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