吾妻鏡入門第十四巻    

建久五年(1194)甲寅十二月大

建久五年(1194)十二月大一日丁巳。將軍家入御藤九郎盛長甘繩家。彼奉行上野國中寺社。一向可管領之由。於當座蒙仰之。

読下し               しょうぐんけ   とうくろうもりなが   あまなわ  いえ  にゅうぎょ
建久五年(1194)十二月大一日丁巳。將軍家、藤九郎盛長が甘繩の家へ入御す。

か   ぶぎょう   こうづけのくにじゅう  じしゃ   いっこう  かんりょうすべ のよし  とうざ   をい  こ   おお    こうむ
彼の奉行する上野國中@の寺社は、一向に管領可しA之由。當座に於て之の仰せを蒙る。

参考@彼の奉行する上野國中とは、藤九郎盛長が上野国の守護をしている。
参考A寺社は、一向に管領可しは、寺社奉行的な権限を守護の権限に入れた。

現代語建久五年(1194)十二月大一日丁巳。将軍頼朝様は、藤九郎盛長の甘縄の家へ行かれました。彼が担当している上野国の寺社については、彼が全て支配(得分)するように、この場においてこの命令を受けました。

建久五年(1194)十二月大二日戊午。御願寺社被定置奉行人訖。而今日重有其沙汰。被加人數。
 鶴岳八幡宮〔上下〕
  大庭平太景義 藤九郎盛長  右京進季時   圖書允C定
 勝長壽院
  因幡前司廣元 梶原平三景時 前右京進仲業  豊前介實景
 永福寺
  三浦介義澄  畠山次郎重忠 義勝房成尋
 同阿弥陀堂
  前掃部頭親能 民部丞行政  武藤大藏丞頼平
 同藥師堂〔今新造〕
  豊後守季光  隼人祐康C  平民部丞盛時

読下し                ごがん  じしゃ   ぶぎょうにん  さだ おかれをはんぬ しか   きょう かさ    そ    さた あ     にんずう  くは  らる
建久五年(1194)十二月大二日戊午。御願の寺社に奉行人を定め置被訖。而るに今日重ねて其の沙汰有り。人數を加へ被る。

  つるがおかはちまんぐう〔じょうげ〕
 鶴岳八幡宮〔上下〕

    おおばのへいたかげよし       とうくろうもりなが            うきょうのしんすえとき        としょのじょうきよさだ
  大庭平太景義    藤九郎盛長     右京進季時     圖書允C定

  しょうちょうじゅいん
 勝長壽院

    いなばのぜんじひろもと        かじわらのへいざかげとき      さきのうきょうのしんなかなり     ぶぜんのすけさねかげ
  因幡前司廣元    梶原平三景時    前右京進仲業    豊前介實景

  ようふくじ
 永福寺

    みうらのすけよしずみ         はたけやまのじろうしげただ     ぎしょうぼうじょうじん
  三浦介義澄     畠山次郎重忠    義勝房成尋

  おなじきあみだどう
 同阿弥陀堂

    さきのかもんのかみちかよし      みんぶのじょうゆきまさ        むとうのおおくらのじょうよりひら
  前掃部頭親能    民部丞行政     武藤大藏丞頼平

  おなじきやくしどう〔いましんぞう〕
 同藥師堂〔今新造〕

    ぶんごのかみすえみつ        はやとのすけやすきよ        へいみんうのじょうもりとき
  豊後守季光     隼人祐康C     平民部丞盛時

現代語建久五年(1194)十二月大二日戊午。幕府がその安泰を願って祀る寺社の担当者を決め置かれておられます。しかし、今日更にそのことについて命令があり、人数を追加することになりました。

 鶴岡八幡宮〔上下共に〕
  大庭平太景義    藤九郎盛長     右京進中原季時     図書允清原清定
 勝長寿院
  因幡前司大江広元  梶原平三景時    前右京進中原仲業    豊前介源実景
 永福寺
  三浦介義澄     畠山次郎重忠    義勝房成尋
 同阿弥陀堂
  前掃部頭中原親能  民部丞藤原行政   武藤大蔵丞頼平
 同薬師堂〔今新しく造る〕
  豊後守源季光    隼人祐三善康清   平民部丞盛時

建久五年(1194)十二月大六日壬戌。相摸武藏兩國乃貢等。付雜色被進京都云々。

読下し               さがみ   むさし りょうごく  のうぐら   ぞうしき  ふ   きょうと  しん  らる   うんぬん
建久五年(1194)十二月大六日壬戌。相摸、武藏兩國の乃貢等、雜色に付し京都へ進ぜ被ると云々。

現代語建久五年(1194)十二月大六日壬戌。相模・武蔵両国の年貢を雑用に預けて京都へ送られました。

建久五年(1194)十二月大十日丙寅。越前國志比庄。爲比企藤内朝宗。被押領之由。有領家之訴。此事。去文治元年。爲羂索叛逆衆。被遣軍士於諸國之時。雖被入兵粮米催使。散在御家人等。寄事於左右。現狼藉之由。民庶含愁歎之趣。度々被下院宣之間。三十七ケ國内諸庄園。於今者不可有武士妨之旨。奏聞之後。歴年序訖。今更此訴出來。太依驚思食。被尋朝宗之處。陳謝不押領之由。召其請文。被遣本所云々。

読下し               えちぜんのくにしひのしょう   ひきのとうないともむね  ため    おうりょうさる  のよし  りょうけ のうった  あ
建久五年(1194)十二月大十日丙寅。 越前國 志比庄@は、比企藤内朝宗の爲に、押領被る之由、領家A之訴へ有り。

こ   こと  さんぬ ぶんじがんねん ほんぎゃく しゅう けんさく ため  ぐんしを しょこく  つか  さる  のとき
此の事、去る文治元年、叛逆の衆Bを羂索の爲、軍士於諸國へ遣は被る之時、

ひょうろうまい さいし  いれらる   いへど   さんざい  ごけにんら    ことを  とこう   よ     ろうぜき  あらは  のよし  みんしょしゅうたん ふく のおもむき
兵粮米Cの催使を入被るDと雖も、散在の御家人等、事於左右に寄せ、狼藉を現す之由、民庶愁歎を含む之趣、

たびたびいんぜん くださる  のかん さんじうしちかこくない しょしょうえん  いま  をい  は ぶし   さまた あ  べからずのむね  そうもんののち  ねんじょ  へをはんぬ
度々院宣を下被る之間、三十七ケ國内の諸庄園、今に於て者武士の妨げ有る不可之旨、奏聞之後E、年序を歴訖。

いまさら    こ   うった しゅつらい  はなは おどろ おぼ  め     よつ    ともむね  たず  らる  のところ  おうりょうせずのよしちんしゃ
今更に、此の訴へ出來す。太だ驚き思し食すに依て、朝宗に尋ね被る之處、押領不之由陳謝すF

そ   うけぶみ  め     ほんじょ  つか  さる    うんぬん
其の請文を召しG、本所Hへ遣は被ると云々。

参考@志比庄は、石川県吉田郡永平寺町(旧吉田郡志比谷村、上志比村、下志比村)。
参考A領家は、最勝光院。最勝光院は、承安3年(1173年)、建春門院(後白河院女御)御願として建立された寺院である。最勝光院の御所の障子絵には、女院、院の寺社参詣が描かれている。絵師は常磐源二光長、面貌ばかりは藤原隆信が分担した。このことを伝える『玉葉』の記事は、自身が描かれることを免れて「第一の冥加」と漏らすことで著名である。
参考B叛逆の衆は、源九郎義經と行家。
参考C
兵粮米は、荘園公領を問わず、反別五升。
参考D催使を入被るは、兵糧米徴収員を派遣したが、合戦中は限本年一作。一年を限っていたのに。
参考E奏聞之後は、頼朝が後白河法皇に申し上げてから。
参考F
押領不之由陳謝すは、横領していないと弁解した。
参考G其の請文を召しは、それを文書に書かせて。
参考H
本所は、荘園領主だが領家と同等。本家はその上。

現代語建久五年(1194)十二月大十日丙寅。越前国(石川県)志比庄(永平寺町)は、比企藤内朝宗のために横取りされたと、荘園上級権利者の領家最勝光院から訴えがありました。
この要因としては、去る文治元年(1185)に、反逆者義経の仲間を探し捕まえるために、軍隊を諸国に派遣した時、兵糧米を催促する荘園に入らせましたが、散らばっていた御家人たちが、どさくさに紛れて、略奪をして庶民が困っていると何度も後白河法皇から苦情の手紙をもらったので、三十七か国の荘園については、武士が邪魔をしてはいけないと、法王に申しあげて、随分と時が経っております。
今になって、この訴えがあるなんて、とても驚かれて、比企藤内朝宗に聞きただしたところ、横取りはしていませんと弁解しました。
その旨を起請文に書かせて、荘園領主に送らせましたとさ。

建久五年(1194)十二月大十三日己巳。右京小進季時自京都下着。御堂供養導師已可有下向之由云々。

読下し                 うきょうのしんすえとき  きょうと よ    げちゃく    みどう くよう    どうし すで  げこう あ   べ   のよし  うんぬん
建久五年(1194)十二月大十三日己巳。右京小進季時、京都自り下着す。御堂供養の導師已に下向有る可し之由と云々。

現代語建久五年(1194)十二月大十三日己巳。右京進中原季時が、京都から鎌倉へ到着しました。永福寺薬師堂開眼供養の指導僧はすでに鎌倉へ向けて出発したそうです。

建久五年(1194)十二月大十五日辛未。御堂供養導師近日可令下着之由。先使到來之間。爲其迎可被遣御家人等。又所被宛催傳馬以下也。三浦介五疋。和田左衛門尉四疋。梶原平三二疋。中村庄司五疋。小早川弥太郎五疋。澁谷庄司五疋。曾我太郎二疋。原宗三郎一疋云々。此外。所々驛家雜事云々。

読下し                  みどうくよう    どうし  きんじつげちゃくせし  べ   のよし  せんし とうらい    のかん
建久五年(1194)十二月大十五日辛未。御堂供養の導師、近日下着令む可し之由、先使到來する之間、

 そ  むか    ため ごけにんら    つか  さる  べ     また  てんま いか  あてもよおさる  ところなり
其の迎への爲御家人等を遣は被る可し。又、傳馬以下を宛催被る所也。

みうらのすけ ごひき  わだのさえもんのじょう よんひき  かじわらのへいざにひき  なかむらのしょうじごひき  こばやかわのいやたろうごひき
三浦介五疋、 和田左衛門尉四疋、 梶原平三二疋、 中村庄司五疋、 小早川弥太郎五疋、

しぶやのしょうじ ごひき  そがのたろう にひき  はらのむねさぶろう いっぴき うんぬん  こ  ほか  しょしょ  えきか   ぞうじ  うんぬん
澁谷庄司五疋、曾我太郎二疋、 原宗三郎 一疋と云々。此の外の所々は驛家の雜事と云々。

現代語建久五年(1194)十二月大十五日辛未。永福寺薬師堂開眼供養の指導僧は、近いうちに到着するとさきがけの使いが知らせてきたので、そのお迎えをするために御家人を派遣するように。また、伝令の馬なども割り当てました。三浦介義澄が五頭、和田左衛門尉義盛は四頭、梶原平三景時が二頭、中村庄司宗平が五頭、小早河弥太郎遠平が五頭、渋谷庄司重国が五頭、曾我太郎助信が二頭、原宗三郎宗房が一頭だそうです。これ以外は、宿場の負担とさせましたとさ。

建久五年(1194)十二月大十七日癸酉。明春依可有御上洛。爲供奉被催東國御家人等。親能惣奉行。行政書下之。其状書樣。
 某國人々。京〔江〕可沙汰上之由。所被仰也。若不堪上洛者。參鎌倉殿。可被申子細也。且爲御宿直。不令京上之人々も所被催促也。及遲參者。定可有御勘發者歟。

読下し                みょうしゅん ごじょうらく あ   べ     よつ    ぐぶ    とうごく ごけにん ら  もよおされ  ため  ちかよしそうぶぎょう
建久五年(1194)十二月大十七日癸酉。明春、御上洛有る可きに依て、供奉の東國御家人等を催被ん爲、親能惣奉行す。

ゆきまさこれ  か   くだ    そ   じょう  かきざま
行政之を書き下す。其の状の書樣。

  ぼうこく  ひとびと  きょう  〔へ〕  さた  のぼ  べ   のよし  おお  らる  ところなり
 某國の人々、京〔江〕沙汰し上る可き之由、仰せ被る所也。

  も   じょうらく  たへずんば  かまくらどの  まり    しさい  もうさる  べ   なり
 若し上洛に堪不者、鎌倉殿へ參り、子細を申被る可き也。

  かつう おんとのい  ため  けいじょうせしめずのひとびと さいそくさる ところなり  ちさん  およばば  さだ   ごかんぱつ あ   べ   ものか
 且は御宿直の爲、京上令不之人々も催促被る所也。遲參に及者、定めて御勘發有る可き者歟。

現代語建久五年(1194)十二月大十七日癸酉。来春、京都へ上るつもりなので、お供の関東の御家人を動員するために、掃部頭中原親能が総まとめの役です。主計允藤原行政がその言葉を書き出しました。その文章の内容は、

 ある国の人たちよ、京都へ上るようにと、仰せが出ました。もし、京都へ上ることが困難ならば、鎌倉へきて事情を説明しなさい。なぜなら留守番のため、京都へ上らない人にも、仕事があるからです。遅れた場合は、さぞかしお怒りを買うことになるでしょう。

建久五年(1194)十二月大十九日乙亥。東大寺別當前權僧正〔勝賢〕下着。被招入于八田右衛門尉知家之宅云々。

読下し                 とうだいじべっとうさきのごんのそうじょう〔しょうけん〕げちゃく    はったのうえもんのじょうともいえの たくに まね  いれらる   うんぬん
建久五年(1194)十二月大十九日乙亥。東大寺別當 前權僧正 〔勝賢〕下着す。八田右衛門尉知家 之宅于招き入被ると云々。

現代語建久五年(1194)十二月大十九日乙亥。東大寺長官の前権僧正〔勝賢〕が到着しました。八田右衛門尉知家の家へお招きになられましたとさ。

建久五年(1194)十二月大廿日丙子。源藏人大夫頼兼。宮内大輔重頼等。自京都參着云々。

読下し               みなもとのくらんどたいふよりかね  くないたいふしげよりら  きょうとよ    さんちゃく   うんぬん
建久五年(1194)十二月大廿日丙子。 源藏人大夫頼兼、 宮内大輔重頼等、京都自り參着すと云々。

現代語建久五年(1194)十二月大二十日丙子。源藏人大夫頼兼と宮内大輔藤原重頼が、京都から到着しましたとさ。

建久五年(1194)十二月大廿二日戊寅。囚人男良藤二男蒙厚免。依可有御堂供養有此儀。是伊豆國梶取也。去年打擲雜色時澤云々。

読下し                 めしうど めらのとうじおのこ こうめん  こうむ   みどうくよう  あ   べ     よつ  かく  ぎ あ
建久五年(1194)十二月大廿二日戊寅。囚人男良@藤二男厚免を蒙る。御堂供養有る可きに依て此の儀有り。

これ  いずのくに  かんどり なり  きょねんぞうしきときさわ ちょうちゃく  うんぬん
是、伊豆國の梶取A也。去年雜色時澤を打擲すと云々。

参考@男良は、妻良の間違いで、静岡県賀茂郡南伊豆町妻良。
参考A
梶取は、船頭で船主でもある。

現代語建久五年(1194)十二月大二十二日戊寅。囚人として預けられたいた妻良藤二が許されました。これは永福寺薬師堂開眼供養の恩赦としてなのです。この男は、伊豆の船頭で、去年頼朝様雑用の時沢を打ち叩いたからだそうです。

建久五年(1194)十二月大廿六日壬午。永福寺内新造藥師堂供養。導師前權僧正勝賢云々。 將軍家御出。北條五郎時連持御釼。愛甲三郎懸御調度云々。
 供奉人〔布衣〕
  源藏人大夫頼兼   武藏守義信
  信濃守遠義     相摸守惟義
  上総介義兼     下総守邦業
  宮内大輔重頼    駿河守宗朝
  右馬助經業     修理亮義盛
  前掃部頭親能    前因幡守廣元
  民部大夫繁政    小山左衛門尉朝政
  下河邊庄司行平   千葉介常胤
  三浦介義澄     同兵衛尉義村
  八田右衛門尉知家  足立左衛門尉遠元
  和田左衛門尉義盛  梶原刑部丞朝景
  佐々木左衛門尉定綱 同仲務丞經高
  東大夫胤頼     境兵衛尉常秀
  野三刑部丞成綱   後藤兵衛尉基C
  右京進季時     江兵衛尉能範
 最末
  梶原平三景時
 隨兵八騎
  北條小四郎     小山七郎朝光
  武田兵衛尉有義   加々美次郎長C
  三浦左衛門尉義連  梶原左衛門尉景季
  千葉新介胤正    葛西兵衛尉C重
 布施取
  右兵衛督高能朝臣  左馬權助公佐朝臣
  上野介憲信     皇后宮大夫進爲宗
  前對馬守親光    豊後守季光
  橘右馬權助次廣   工匠藏人
  安房判官代高重
 導師布施
  錦被物三重  綾被物七十重 綾百端
  長絹百疋   染絹三百端  白布千端
 加布施
  金作釼一腰  香呂筥〔以綾紫絹等作之〕
 此外
  馬二十疋   供米三百石
 請僧布施〔口別〕
  色々被物卅重 絹三十疋   染絹三十端
  白布二百端  紺百端    馬二疋
  供米百石

読下し                 ようふくじない しんぞうやくしどう   くよう        どうし  さきのごんのそうじょうしょうけん うんぬん
建久五年(1194)十二月大廿六日壬午。永福寺内新造藥師堂の供養なり。導師は前權僧正勝賢と云々。

しょうぐんけぎょしゅつ ほうじょうのごろうときつら ぎょけん も      あいこうのさぶろう ごちょうど  か      うんぬん
將軍家御出。 北條五郎時連 御釼を持つ。愛甲三郎御調度を懸くと云々。

   ぐぶにん  〔 ほい 〕
 供奉人〔布衣〕参考布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。

     みなもののくらんどたいふよりかね   むさしのかみよしのぶ
  源藏人大夫頼兼    武藏守義信(大内)

     しなののかみとおよし           さがみのかみこれよし
  信濃守遠義(淺利)   相摸守惟義(大内)

     かずさのすけよしかね          しもふさのかみくになり
  上総介義兼(足利)   下総守邦業(源)

     くないたいふしげより           するがのかみむねとも
  宮内大輔重頼     駿河守宗朝(藤原)

     うまのすけつねなり            しゅりのすけよしもり
  右馬助經業(村上)   修理亮義盛(関瀬)

     さきのかもんかみちかよし        さきのいなばのかみひろもと
  前掃部頭親能(中原)  前因幡守廣元(大江)

     みんぶのたいふしげまさ         おやまのさえもんのじょうともまさ
  民部大夫繁政(藤原)  小山左衛門尉朝政

     しもこうべのしょうじゆきひら       ちばのすけつねたね
  下河邊庄司行平    千葉介常胤

     みうらのすけよしずみ          おなじきひょうえのじょうよしむら
  三浦介義澄      同兵衛尉義村(三浦義澄の六男嫡子)

     はったのうえもんのじょうともいえ    あだちのさえもんのじょうとおもと
  八田右衛門尉知家   足立左衛門尉遠元

     わだのさえもんのじょうよしもり      かじわらのぎょうぶのじょうともかげ
  和田左衛門尉義盛   梶原刑部丞朝景(梶原景時の弟)

     ささきのさえもんのじょうさだつな    おなじきなかつかさのじょうつねたか
  佐々木左衛門尉定綱  同仲務丞經高(佐々木四兄弟の二男)

     とうのたいふたねより           さかいのひょうえのじょうつねひで
  東大夫胤頼      境兵衛尉常秀(千葉介常胤の孫)

     のざのぎょうぶのじょうなりつな     ごとうのひょうえのじょうもときよ
  野三刑部丞成綱(小野) 後藤兵衛尉基C

     うきょうのしんすえとき           えのひょうえのじょうよしのり
  右京進季時(中原)   江兵衛尉能範(大江)

  さいまつ
 最末

     かじわらのへいざかげとき
  梶原平三景時

  ずいへいはっき
 隨兵八騎

     ほうじょうのこしろう             おやまのしちろうともみつ
  北條小四郎(義時)   小山七郎朝光(結城)

     たけだのひょうえのじょうありよし     かがみのじろうながきよ
  武田兵衛尉有義    加々美次郎長C

     みうらのさえもんのじょうよしつら     かじわらのさえもんのじょうかげすえ
  三浦左衛門尉義連   梶原左衛門尉景季

     ちばのしんすけたねまさ         かさいのひょうえのじょうきよしげ
  千葉新介胤正     葛西兵衛尉C重

   ふせとり
 布施取

     うひょうのかみたかよしあそん      さまごんのすけきんすけあそん
  右兵衛督高能朝臣   左馬權助公佐朝臣
   (一条能保の子)     (三条で、頼朝の弟全成の娘婿)

     こうづけのすけのりのぶ         こうごうぐうたいふのしんためむね
  上野介憲信      皇后宮大夫進爲宗(伊佐朝宗)

     さきのつしまのかみちかみつ      ぶんごのかみすえみつ
  前對馬守親光(宗)   豊後守季光(毛呂)

     たちばなうまのごんのすけつぐひろ   たくみのくらんど
  橘右馬權助次廣    工匠藏人

     あわのほうがんだいたかしげ
  安房判官代高重(源)

   どうし    ふせ
 導師が布施

     にしきのかづけものみえ  あやのかづけものななとえ あやひゃくたん
  錦被物三重   綾被物七十重  綾百端

     ちょうけんひゃっぴき    そめぎぬさんびゃくたん  はくふせんたん
  長絹百疋    染絹三百端   白布千端

    かぶせ
 加布施

     こがねづくりのつるぎひとこし  こうろばこ 〔あらむらさきぎぬら もつ これ  つく〕
  金作釼 一腰   香呂筥〔綾紫絹等を以て之を作る〕

  このほか
 此外

     うまにじっぴき         くまいさんびゃくこく
  馬二十疋    供米三百石

  しょうそう   ふせ  〔 くべつ 〕
 請僧が布施〔口別〕

     いろいろかづけものさんじうえ きぬさんじっぴき    そめぎぬさんじったん
  色々被物卅重  絹三十疋   染絹三十端

     はくふにひゃくたん     こんひゃくたん       うま にひき
  白布二百端   紺百端    馬二疋

     くまい ひゃくこく
  供米百石

現代語建久五年(1194)十二月大二十六日壬午。永福寺内の新築の薬師堂の完成式典(開眼供養)です。指導僧は、前権僧正勝賢だそうです。将軍頼朝様のお出ましです。北条五郎時連が刀持ちです。愛甲三郎季隆が弓箭を肩にかけています。
お供の人たち〔礼装の狩衣〕は、

  源蔵人大夫頼兼   武蔵守大内義信
  信濃守浅利遠義   相模守大内惟義
  上総介足利義兼
    下総守源邦業
  宮内大輔藤原重頼  駿河守藤原宗朝

  右馬助村上経業   
修理亮関瀬義盛

  前掃部頭中原親能  前因幡守大江広元
  民部大夫藤原繁政  小山左衛門尉朝政
  下河辺庄司行平   千葉介常胤
  三浦介義澄     三浦平六兵衛尉義村
  八田右衛門尉知家  足立左衛門尉遠元

  和田左衛門尉義盛  梶原刑部丞朝景
  佐々木左衛門尉定綱 佐々木仲務丞経高
  東大夫胤頼     境兵衛尉常秀
  小野三刑部丞成綱
  後藤兵衛尉基C
  右京進中原季時
   大江兵衛尉能範

 一番後ろに梶原平三景時

 軍装備の兵八騎
  北条小四郎義時   小山七郎結城朝光
  武田兵衛尉有義   加々美次郎長清
  三浦左衛門尉義連  梶原源太左衛門尉景季
  千葉新介胤正    葛西兵衛尉清重

 布施を手渡す人
  右兵衛督一条高能  左馬権助三条公佐
  上野介憲信     皇后宮大夫進伊佐為宗
  前對馬守宗親光   豊後守毛呂季光
  橘右馬権助次広   工匠藏人
  安房判官代源高重

 指導僧へのお布施
  錦のかぶり物三枚 綾織のかぶり物七十枚 綾織の絹百反 長絹百疋 染た絹三百反 白い布千反
 おまけのお布施
  黄金作りの釼 一腰   香呂筥〔綾織の紫染めの絹を使ってこれを作る〕
 この外 馬二十頭 お供えの米三百石
 お供の僧へのお布施〔人毎に〕
  色々な色のかぶり物三十枚 絹三十疋 染めた絹三十反 白い布二百反 紺色の布百反 馬二頭 お供えの米百石

説明絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物、二反分。

  

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