吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)二月小

建久六年(1195)二月小二日戊午。依可有御上洛。供奉人以下路次條々。及御沙汰云々。

読下し             ごじょうらく あ   べ     よつ     ぐぶにん いげ  ろじ  じょうじょう  おんさた  およ   うんぬん
建久六年(1195)二月小二日戊午。御上洛有る可きに依て、供奉人以下路次の條々@、御沙汰に及ぶと云々。

参考@條々は、箇条書き。

現代語建久六年(1195)二月小二日戊午。京都へ上られるので、お供の人達など旅の途上の事柄を箇条書きにして、お決めになられましたとさ。

建久六年(1195)二月小四日庚申。去年爲御使所令上洛之雜色鶴二郎。吉野三郎歸參。相摸武藏兩國乃貢物等。去月十二日進上。帶彼返抄參上云々。

読下し             きょねん おんつかい な  じょうらくせし  ところのぞうしき つるじろう  よしのさぶろう きさん
建久六年(1195)二月小四日庚申。去年、御使と爲し上洛令む所之雜色鶴二郎、吉野三郎歸參す。

さがみ   むさし りょうごく  のうぐぶつ ら  さんぬ つき じうににち しんじょう   か  へんしょう  たい  さんじょう   うんぬん
相摸、武藏兩國の乃貢物@等、去る月十二日進上し、彼の返抄Aを帶し參上すと云々。

参考@乃貢物は、年貢用と決めた品物。自分の管理権を既に失っている物と云う感覚。神仏への捧げ物と同じ解釈。
参考A返抄は、受け取り。しかし、内容的には捧げ物を終えた心霊的束縛からの開放が伴う。

現代語建久六年(1195)二月小四日庚申。去年、使者として京都へ上っていた雑用の鶴二郎と吉野三郎が帰ってきました。相模と武蔵の二か国の年貢物を先月十二日に朝廷へ届け、その受取証を持って御所へ参りましたとさ。

建久六年(1195)二月小五日辛未。内藤左近將監盛家浴新恩。其上奉眉目仰等云々。

読下し             ないとうさこんしょうげんもりいえ しんおん  よく     そ   うえ びもく  おお  ら たてまつ  うんぬん
建久六年(1195)二月小五日辛未。内藤左近將監盛家、新恩に浴す@。其の上眉目の仰せ等を奉ると云々。

参考@新恩に浴すとは、先祖伝来の領地のほかに新しい領地を貰い、ご恩と奉公の関係になる。

現代語建久六年(1195)二月小五日辛未。内藤左近将監盛家が、新しい領地を貰いました。それに名誉なお言葉をいただきましたとさ。

建久六年(1195)二月小八日甲子。雜色足立新三郎C經爲御使上洛。是近日依可有御上洛。海道驛家等雜事。渡船橋用意等。先爲令相觸之也。

読下し             ぞうしき  あだちのしんざぶろうきよつね おんつかい な  じょうらく
建久六年(1195)二月小八日甲子。雜色 足立新三郎C經、御使と爲し上洛す。

これ  きんじつごじょうらくあ  べ     よつ    かいどう   うまやら   ぞうじ    とせんきょう  よういら   さき  これ  あいふ  せし   ためなり
是、近日御上洛有る可きに依て、海道の驛家等の雜事、渡船橋@の用意等、先に之を相觸れめん爲也。

参考@渡船橋は、川幅いっぱいに船を並べ、横につないで船筏を組んで板を敷き橋にする。

現代語建久六年(1195)二月小八日甲子。雑用の長の足立新三郎清経が、使者として京都へ上ります。その用事は、近いうちに京都へ上られるので、東海道の宿駅などの用務や、川にかける舟筏の橋の用意などを、先に知らせるためなのです。

建久六年(1195)二月小九日乙丑。大庭平太景義入道捧申文。是自義兵最初抽大功之處。以疑刑被追放鎌倉中之後。乍含愁鬱。已歴三ケ年訖。於今者餘命難期後年。早預厚免。列今度御上洛供奉人數。可備老後眉目之趣載之。仍則免許。剩可令供奉之旨蒙仰云々。

読下し             おおばのへいたかげよしにゅうどう もうしぶみ ささ
建久六年(1195)二月小九日乙丑。 大庭平太景義入道、 申文を捧ぐ。

これ  ぎへい  さいしょ よ  たいこう  ぬき    のところ  ぎけい  もつ  かまくらじゅう ついほうされ  ののち  しゅううつ ふく  なが   すで  さんかねん  へをはんぬ
是、義兵の最初自り大功を抽んず之處、疑刑を以て鎌倉中を追放被る之後、愁鬱を含み乍ら、已に三ケ年を歴訖。

いま  をい  は よめい こうねん  ご   がた
今に於て者餘命後年を期し難し。

はや  こうめん  あずか  このたび  ごじょうらく  ぐぶ   にんずう  れつ    ろうご   びもく  そな    べ のおもむき  これ  の
早く厚免に預り、今度の御上洛の供奉の人數に列し、老後の眉目に備へる可き之趣、之を載せる。

よつ  すなは めんきょ   あまつさ ぐぶ せし  べ   のむね  おお   こうむ   うんぬん
仍て則ち免許し、剩へ供奉令む可し之旨、仰せを蒙ると云々。

現代語建久六年(1195)二月小九日乙丑。大庭平太景能入道が、上申書を提出しました。これは、頼朝様が兵をあげた最初から大きな手柄を立ててきましたが、ある罪を疑われて鎌倉から追い出された後は、悲しみと鬱憤とに明け暮れながら、既に足かけ三年もたっております。今となっては後どのくらい生きられるものか分かりません。早くお許しをいただき、今度の京都へ上られるお供の内に加えていただき、老後の名誉にしたいのだと、書かれていました。そこで、すぐに許され、そればかりかお供をするように仰せになられましたとさ。

説明大庭平太景義入道は、岡崎四郎義實と供に建久4年(1193)8月24日に、曾我兄弟の仇討ち事件で出家謹慎をさせられている。

建久六年(1195)二月小十日丙寅。御上洛路次供奉人事。可爲畠山次郎重忠先陣。和田左衛門尉義盛可令奉行先陣隨兵事。梶原平三景時可令奉行後陣事。行列次第以下事。不可違先年御上洛例之旨。被仰下云々。

読下し             ごじょうらく    ろじ   ぐぶにん  こと  はたけやまのじろうしげただ せんじん な   べ
建久六年(1195)二月小十日丙寅。御上洛の路次の供奉人の事、畠山次郎重忠、先陣を爲す可し。

わだのさえもんのじょうよしもり せんじん ずいへい こと  ぶぎょうせし  べ     かじわらのへいざかげとき こうじん  こと  ぶぎょうせし  べ
和田左衛門尉義盛先陣の隨兵の事を奉行令む可し。梶原平三景時、後陣の事を奉行令む可し。

ぎょうれつ  しだい いげ  こと  せんねん  ごじょうらく  れい  たが  べからずのむね  おお  くださる   うんぬん
行列の次第以下の事、先年の御上洛の例に違う不可之旨、仰せ下被ると云々。

現代語建久六年(1195)二月小十日丙寅。京都へ上られる道中のお供について、「畠山次郎重忠を先頭とする。和田左衛門尉義盛は前を行く武装した儀杖兵の編成を担当しなさい。梶原平三景時は、後ろを行く武装した儀杖兵の編成を担当しなさい。行列の仕方などは、以前に京都へ上られた時の例を変えないように。」と、仰せになられましたとさ。

建久六年(1195)二月小十一日丁夘。鶴岳八幡宮御神樂也。將軍家御參宮。梶原源太左衛門尉景季持御釼。着御幣殿。隨兵等在廻廊之外。於寳前被供養法華經。弁法橋定豪爲導師云々。

読下し               つるがおかはちまんぐう おかぐらなり  しょぐんけ ごさんぐう  かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ ぎょけん も
建久六年(1195)二月小十一日丁夘。鶴岳八幡宮の御神樂也。將軍家御參宮。 梶原源太左衛門尉景季 御釼を持つ。

 ごへいでん  ちゃく   ずいへいら かいろうのそと  あ     ほうぜん  をい  ほけきょう   くよう さる    べんのほっきょうていごうどうし な     うんぬん
御幣殿@に着す。隨兵等廻廊之外に在り。寳前に於て法華經を供養被る。弁法橋定豪導師を爲すと云々。

参考@幣殿は、参詣者が、幣帛を捧げる社殿。拝殿と本殿の中間にある。

現代語建久六年(1195)二月小十一日丁卯。鶴岡八幡宮へのお神楽の奉納です。将軍頼朝様のお参りです。梶原源太左衛門尉景季が刀持ちを務めてます。幣帛を奉納する幣殿に座られました。お供の兵隊たちは、回廊の外側におります。神前で法華経を読経しました。弁法橋定豪が指導僧をしましたそうな。

建久六年(1195)二月小十二日戊辰。今曉比企藤四郎右衛門尉能員。千葉平次兵衛尉常秀爲使節俄以上洛。是前備前守行家。大夫判官義顯殘黨等于今在存於海道邊。伺今度御上洛之次。欲遂會稽本意之由。巷説出來之間。依可爲路次障碍。先於驛々尋聞子細。事若實者。廻秘計可搦取之旨。含將命云々。兩人共雖可爲供奉人數。守勇敢忽及此儀云々。

読下し               こんぎょう  ひきのとうしろううえもんのじょうよしかず  ちばのへいじひょうえのじょうつねひで しせつ な   にはか もつ  じょうらく
建久六年(1195)二月小十二日戊辰。今曉、比企藤四郎右衛門尉能員、 千葉平次兵衛尉常秀、 使節と爲し俄に以て上洛す。

これ  さきのびぜんのかみゆきいえ たいふほうがんよしあき ざんとうら いまに かいどうへん  をい  ざいそん
是、 前備前守行家、 大夫判官義顯が殘黨等今于海道邊に於て在存す。

このたび ごじょうらくのついで  うかが   かいけい  ほい   と       ほつ  のよし  こうせつしゅつらいのかん  ろじ   しょうげ たるべ    よつ
今度の御上洛之次を伺い、會稽の本意を遂げんと欲す之由、巷説出來之間、路次の障碍爲可きに依て、

ま  うまやうまや をい  しさい  たず  き     こと も   じつ    ば   ひけい  めぐ    から  と   べ   のむね  しょうめい ふく   うんぬん
先ず驛々に於て子細を尋ね聞き、事若し實たら者、秘計を廻らし搦め取る可し之旨、將命を含むと云々。

りょうにんとも   ぐぶ   にんずうたるべ   いへど   ゆうかん  まも  たちま こ  ぎ   およ    うんぬん
兩人共に供奉の人數爲可きと雖も、勇敢を守り忽ち此の儀に及ぶと云々。

現代語建久六年(1195)二月小十二日戊辰。今朝の夜明けに比企四郎右衛門尉能員、千葉平次境兵衛尉常秀が、派遣員として急に京都へ旅経ちました。これは、前備前守源十郎行家や大夫判官源義顕(義経)の残党が東海道あたりにいるらしい。今度の頼朝様が京都へ上られる道中で、仇を討とうと望んでいると巷で噂が出てきているので、旅の障害になるので、先に宿場ごとに詳しい事情を聴き歩き、もしその事が本当ならば、計略を立てて捕まえるようにと、将軍頼朝様の命令があったそうです。二人ともお供の人数に加えられているけれども、武勇を優先してこの役を実施するのだそうです。

建久六年(1195)二月小十三日己巳。鶴岳八幡宮臨時祭。流鏑馬竸馬相撲等。頗有結搆之儀。將軍家令奉幣給云々。

読下し              つるがおかはちまんぐう りんじさい  やぶさめ  くらべうま  すまい ら  すこぶ けっこうのぎ あ
建久六年(1195)二月小十三日己巳。鶴岳八幡宮の臨時祭。流鏑馬、竸馬、相撲等、頗る結搆之儀有り。

しょうぐんけほうへいせし たま   うんぬん
將軍家奉幣令め給ふと云々。

現代語建久六年(1195)二月小十三日己巳。鶴岳八幡宮の臨時の祭です。流鏑馬、競馬、相撲などを奉納しました。将軍頼朝様は、幣束を捧げられましたとさ。

建久六年(1195)二月小十四日庚午。巳尅。將軍家自鎌倉御上洛。御臺所并男女御息等同以進發給。是南都東大寺供養之間。依可有御結縁也。畠山二郎重忠候前陣云々。

読下し               みのこく  しょうぐんけ かまくらよ  ごじょうらく  みだいどころなら   だんじょ おんそくら おな    もつ  しんぱつ たま
建久六年(1195)二月小十四日庚午。巳尅、將軍家鎌倉自り御上洛。御臺所并びに男女の御息等同じく以て進發し給ふ。

これ  なんと   とうだいじ くよう  のかん  ごけちえん あ   べ    よつ  なり  はたけやまのじろうしげただ ぜんじん そうら  うんぬん
是、南都の東大寺供養之間、御結縁有る可くに依て也。 畠山二郎重忠 前陣に候うと云々。

現代語建久六年(1195)二月小十四日庚午。巳の刻(午前十時ころ)に頼朝様が京都へ向けて出発です。奥様の政子さまと男女のお子様方も一緒にご出発です。東大寺の落慶供養竣工式への出席して仏様と縁を結ぶためなのです。畠山次郎重忠が先頭の武装儀仗兵を務めるそうです。

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