吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)四月小

建久六年(1195)四月小一日丙辰。於勘解由小路京極。結城七郎朝光。三浦平六兵衛尉義村。梶原平三景時搦取平氏家人等。是前中務丞宗資父子也。此十餘年晦跡云々。

読下し              かでのこうじ    きょうごく  をい   ゆうきのしちろうともみつ  みうらのへいろくひょうえのじょうよしむら  かじわらのへいざかげとき
建久六年(1195)四月小一日丙辰。勘解由小路@の京極に於て、結城七郎朝光、 三浦平六兵衛尉義村、 梶原平三景時、

へいしけにん ら   から  と     これ  さきのなかつかさのじょうむねすけ おやこなり  こ   じうよねんあと  くらま   うんぬん
平氏家人等を搦め取る。是、 前中務丞宗資A父子也。  此の十餘年跡を晦すと云々。

参考@勘解由小路は、上京区勘解由小路町。現在の京都御所と京都府庁の真ん中。
参考A
宗資は、重盛の孫らしい。重盛─宗房─宗資

現代語建久六年(1195)四月小一日丙辰。勘解由小路の京極で、結城七郎朝光、三浦平六兵衛尉義村、梶原平三景時が、平家の侍を捕まえました。この人は、前中務丞平宗資親子です。この十数年行方知れずだったそうです。

説明この日の兼実の日記玉葉には「頼朝卿送馬二匹甚乏少為之如何(頼朝から馬二頭送られたが、甚だ少ない。これはどうしたことだ。)」とある。頼朝は、大姫入内画策のため、兼実から高階栄子と源通親組に乗り換えた。

建久六年(1195)四月小三日戊午。將軍家并御臺所姫君等。密々石C水以下靈地巡礼給云々。

読下し             しょうぐんけ なら   みだいどころ  ひめぎみら  みつみつ  いわしみず いげ  れいち  じゅんれい たま   うんぬん
建久六年(1195)四月小三日戊午。將軍家并びに御臺所、姫君等、密々に@石C水以下の靈地を巡礼し給ふと云々。

参考@密々には、公式ではなく私的にの意味で、特別に秘めた願い事(入内)があるから。

現代語建久六年(1195)四月小三日戊午。将軍頼朝様と奥様政子様と姫君(数え年18歳)が私的に石清水八幡宮等の霊地を巡りました。

建久六年(1195)四月小五日庚申。畠山二郎重忠爲謁明惠上人。參向栂尾。而重忠近到之時。煙塵頗動。上人門弟等洛中有燒亡歟之由成疑之處。上人云。不然。有其号勇士只今可來入。其氣所見也者、小時重忠參名謁。僧衆今更仰信上人之詞云々。談浄土宗法門。承出離要道。退出云々。

読下し             はたけやまのじろうしげただ みょうえしょうにん えつ   ため  とがのを  さんこう
建久六年(1195)四月小五日庚申。 畠山二郎重忠、 明惠上人に謁せん爲、栂尾に參向す。

しか    しげただちか   いた   のとき  えんじんすこぶ うご   しょうにん もんていららくちゅう しょうぼうあ   か のよし うたが  な  のところ
而るに重忠近くに到る之時、煙塵頗る動く。上人の門弟等洛中に燒亡有る歟之由疑い成す之處、

しょうにん い     しからず  そ   ごう あ      ゆうし ただいまきた  い  べ      そ   け み      ところなり てへ
上人云はく。不然、其の号有るの勇士只今來り入る可し、其の氣@見らるる所也者り。

しばらく    しげただまい  なの    そうしゅういまさら しょうにんのことば  あお  しん    うんぬん
小時して重忠參り名謁る。僧衆今更に上人之詞を仰ぎ信ずと云々。

じょうどしゅう ほうもん  だん   しゅつり  ようどう  うけたまは    たいしゅつ  うんぬん
浄土宗の法門を談じA、出離の要道を承りて、退出すと云々。

参考@其の氣とあるが、気の意は、時頼の時代に景時のひ孫に当たる梶原性全により著された頓医抄に完元医学で五気説が出る。
参考A浄土宗の法門を談じとあるが、明恵(小乗仏教)は法然(大乗仏教)をものすごく批判しているので、本当か良く分からない。

現代語建久六年(1195)四月小五日庚申。畠山次郎重忠は、明恵上人に会うために、栂ノ尾へ向かいました。そしたら畠山重忠が近づいてくると土ぼこりが煙のように立ち上がっているので、明恵上人の弟子達は、京都の町中で火事になっているのかと疑っていると、明恵上人が云うのには、「そうじゃないよ。それなりの名のある豪傑が、今こちらへ来ているのだろうと、その気力が感じられる。」と云いました。しばらくして畠山重忠が来て名乗りを上げました。弟子僧は、今さらながら改めて上人の言葉を尊敬しましたとさ。浄土教について語り合い、往生への本当の道を教わって帰ったそうです。

説明畠山二郎重忠、明惠上人に謁話は、紗石集(時頼の時代作)にもある話。実はこの時点では明恵は栂尾ではなく高尾の神護寺に居る。又、明恵は四月には紀州湯浅庄(和歌山県有田郡湯浅町湯浅、母は湯浅宗重の女、父は平重国)へ出かけてもいる。同様な逸話は泰時にもある。
なお、栂尾高山寺は平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代1206年に華厳宗、明恵(みょうえ)である。ウイキペディアより

建久六年(1195)四月小十日乙丑。將軍家御參内。
隨兵十騎在御車後。
 小山左衛門尉朝政   北條五郎時連
 宇佐美三郎祐茂    佐々木三郎兵衛尉盛綱
 三浦十郎左衛門尉義連 梶原三郎兵衛尉景茂
 葛西兵衛尉C重    加藤二景廉
 稻毛三郎重成     千葉四郎胤信
今日於禁裏。殿下令對面給。御談話移刻之間。及深更御退出云々。

読下し             しょうぐんけ ごさんだい
建久六年(1195)四月小十日乙丑。將軍家御參内。

ずいへいじっきおんくるま うしろ あ
隨兵十騎御車の後に在り。

  おやまのさえもんのじょうともまさ       ほうじょうのごろうときつら
 小山左衛門尉朝政    北條五郎時連

  うさみのさぶろうすけもち           ささきのあぶろうひょうえのじょうもりつな
 宇佐美三郎祐茂     佐々木三郎兵衛尉盛綱

  みうらのじうろうさえもんのじょうよしつら   かじわらのさぶろうひょうえのじょうかげもち
 三浦十郎左衛門尉義連  梶原三郎兵衛尉景茂

  かさいのひょうえのじょうきよしげ       かとうじかげかど
 葛西兵衛尉C重     加藤二景廉

  いなげのさぶろうしげなり           ちばのしろうたねのぶ
 稻毛三郎重成      千葉四郎胤信

きょう  きんり  をい    でんか  たいめんせし  たま    ごだんわ とき  うつ  のかん  しんこう  およ  ごたいしゅつ うんぬん
今日禁裏に於て、殿下@と對面令め給ふ。御談話刻を移す之間、深更に及び御退出と云々。

参考@殿下は、摂政で九条兼実。但し、この日の兼実の日記玉葉には記事が無い。

現代語建久六年(1195)四月小十日乙丑。将軍頼朝様は京都御所へお上りになられました。お供の兵隊が十騎、牛車の後ろに続きました。
 小山左衛門尉朝政   北條五郎時連
 宇佐美三郎祐茂    佐々木三郎兵衛尉盛綱
 三浦十郎左衛門尉義連 梶原三郎兵衛尉景茂
 葛西兵衛尉清重    加藤二景廉
 稲毛三郎重成     千葉四郎胤信

今日、京都御所で、摂政の九条兼実様とお会いになられ、色々とお話をなされておられましたが、夜遅くなってお退きになられました。

建久六年(1195)四月小十二日丁夘。民部卿經房卿被參六波羅御亭。將軍家令相逢給。有盃酒之儀。因幡前司候陪膳云々。此間。云舊院御代事。云當時御世務事等。御談話及數刻云々。客人退出之後。被送遣砂金龍蹄等。前掃部頭親能爲御使云々。

読下し              みんぶのきょうつねふさきょう ろくはら  おんてい まいらる   しょうぐんけ あいあ  せし  たま
建久六年(1195)四月小十二日丁夘。民部卿@經房卿A六波羅の御亭へ參被る。將軍家相逢は令め給ふ。

はいしゅのぎ あ    いなばのぜんじばいぜん こう   うんぬん
盃酒之儀有り。因幡前司陪膳に候ずと云々。

こ   かん  きゅういん みよ   こと  い      とうじ    おんせむ   ことら   い     ごだんわすうこく  およ   うんぬん
此の間、舊院の御代の事と云ひ、當時の御世務の事等と云ひ、御談話數刻に及ぶと云々。

きゃくじんたいしゅつののち さきんりゅうていら  おく つか  さる    さきのかもんのかみちかよしおんし な   うんぬん
客人 退出之後、 砂金龍蹄等を送り遣は被る。前掃部頭親能御使と爲すと云々。

参考@民部卿は、戸籍・山川・道路・租税・賦役などの事務を司った民部省の長官。
参考A
經房卿は、吉田経房で関東申し次ぎ。彼の日記「吉記」にはこの記事が無い。

現代語建久六年(1195)四月小十二日丁卯。民部省長官の吉田経房卿が六波羅の屋敷を訪れました。将軍頼朝様はお会いになり、お酒をふるまわれました。大江広元が同席し給仕をしましたとさ。その間に、亡くなられた後白河法皇時代の政治の話や、現在の政務状況など、話し合いは何時間にも及びましたとさ。その客人がお帰りになられた後、砂金や馬を送り届けさせました。前掃部頭中原親能が代わりに届けましたとさ。

建久六年(1195)四月小十五日庚午。リ。申以後雨降。今日將軍家令參石C水給。若公御同車云々。伊賀守仲教。相摸守惟義。豊後守季光等爲前駈。随兵廿騎相分先後陣供奉。
 先陣
  北條小四郎義時   小山左衛門尉朝政
  三浦兵衛尉義村   葛西兵衛尉C重
  大友左近將監能直  新田四郎忠常
  後藤左衛門尉基C  八田左衛門尉朝重
  里見太郎義成    武田五郎信光
 後陣
  千葉新介胤正    土屋兵衛尉義C
  稻毛三郎重成    梶原左衛門尉景季
  佐々木左衛門尉定綱 土肥先二郎
  足立左衛門尉遠元  比企右衛門尉能員
  小山七郎朝光    南部三郎光行

読下し               はれ さる いご あめふ     きょう  しょうぐんけいはしみず  まい  せし  たま    わかぎみ ごどうしゃ   うんぬん
建久六年(1195)四月小十五日庚午。リ。申以後雨降る。今日、將軍家石C水へ參ら令め給ふ。若公御同車すと云々。

いがのかみなかのり  さがみのかみこれよし  ぶんごのかみすえみつらさきがけたり ずいへいにじっき さきうしろ  じん あいわか   ぐぶ
伊賀守仲教、 相摸守惟義、 豊後守季光等 前駈爲。 随兵廿騎 先後の陣に相分ち供奉す。

  せんじん
 先陣

     ほうじょうのこしろうよしとき       おやまのさえもんのじょうともまさ
  北條小四郎義時    小山左衛門尉朝政

     みうらのひょうえのじょうよしむら    かさいのひょうえのじょうきよしげ
  三浦兵衛尉義村    葛西兵衛尉C重

     おおとものさこんしょうげんよしなお  にたんのしろうただつね
  大友左近將監能直   新田四郎忠常

     ごとうのさえもんのじょうもときよ     はったのさえもんのじょうともしげ
  後藤左衛門尉基C   八田左衛門尉朝重

     さとみのたろうよしなり          たけだのごろうのぶみつ
  里見太郎義成     武田五郎信光

  こうじん
 後陣

     ちばのしんすけたねまさ        つちやのひょうえのじょうよしきよ
  千葉新介胤正     土屋兵衛尉義C

     いなげのさぶろうしげなり        かじわらのさえもんのじょうかげすえ
  稻毛三郎重成     梶原左衛門尉景季

     ささきのさえもんのじょうさだつな    といのせんじろう
  佐々木左衛門尉定綱  土肥先二郎

     あだちのさえもんのじょうとおもと    ひきのうえもんのじょうよしかず
  足立左衛門尉遠元   比企右衛門尉能員

     おやまのしちろうともみつ        なんぶのさぶろうみつゆき
  小山七郎朝光    南部三郎光行

現代語建久六年(1195)四月小十五日庚午。晴れですが、申の刻(午後四時頃)から雨になりました。今日、将軍頼朝様は石清水八幡宮へお参りに行かれました。若君も牛車に同乗しましたとさ。伊賀守田村仲教・大内相模守惟義・毛呂豊後守季光が先払いです。警護の騎兵二十騎が将軍様の前後に分かれたお供をしました。
 前の護衛兵
  北条小四郎義時   小山左衛門尉朝政
  三浦兵衛尉義村   葛西兵衛尉清重
  大友左近将監能直  新田四郎忠常
  後藤左衛門尉基清  八田左衛門尉朝重
  里見太郎義成    武田五郎信光
 後の護衛兵
  千葉新介胤正    土屋兵衛尉義清
  稲毛三郎重成    梶原左衛門尉景季
  佐々木左衛門尉定綱 土肥先二郎
  足立左衛門尉遠元  比企右衛門尉能員
  小山七郎朝光    南部三郎光行

建久六年(1195)四月小十七日壬申。丹後二品局被參六波羅御亭。御臺所姫公等及御對面。」今日。殿下參賀茂社給云々。而將軍家被仰御家人等之中曰。此事爲見物不可罷出云々。是依無御見物也。

読下し              たんごのにほんのつぼね  ろくはら  おんてい まいられ  みだいどころ ひめぎみら  ごたいめん  およ
建久六年(1195)四月小十七日壬申。 丹後二品局、 六波羅の御亭へ參被、御臺所、姫公等と御對面に及ぶ。」

きょう   でんか  かもしゃ  まい  たま    うんぬん  しか    しょうぐんけ ごけにんら の なか  おお  られ  い
今日、殿下賀茂社へ參り給ふと云々。而るに將軍家御家人等之中へ仰せ被て曰はく。

こ   ことけんぶつ ため  まか  いで  べからず うんぬん  これ  おんみもの な    よつ なり
此の事見物の爲に罷り出る不可と云々。是、御見物無きに依て也。

現代語建久六年(1195)四月小十七日壬申。丹後ニ品局(高階栄子)が六波羅の館にきました。政子様と姫公が対面されました。」
今日、摂政九条兼実が賀茂神社へお参りをされるとのことです。それで将軍頼朝様は、御家人達に命じられて云うのには、「これを見物するために出かけてはいけない。」とのことでした。それは、頼朝様が見に行かないからです。

建久六年(1195)四月小廿一日丙子。將軍家御參内。又令參宣陽門院給。長講堂領七ケ所事。任故院遺勅。可被立之由。申沙汰給之云々。

読下し              しょうぐんけ ごさんだい  また せんようもんいん まい  せし  たま
建久六年(1195)四月小廿一日丙子。將軍家御參内。又、宣陽門院@へ參ら令め給ふ。

ちょうこうどうりょう ななかしょ  こと   こいん   いちょく  まか    た   らる  べ    のよし  これ   さた   もう  たま    うんぬん
長講堂AB七ケ所の事、故院の遺勅に任せ、立て被る可し之由、之を沙汰し申し給ふと云々。

参考@宣陽門院(かやいん)は、法性寺殿の塔頭。後白河法皇と高階栄子が鳥羽殿に押し込められているときに出来た子(覲子)が住み宣陽門院と呼ばれ、後に後白河法皇から長講堂領を貰うので百八十箇所の荘園領主となる。
参考A長講堂は、京都市下京区にある西山浄土宗の寺。もと後白河法皇の仙洞六条御所内の持仏堂として建立。
参考B長講堂領は、後白河法皇の持仏堂長講堂の所領。その領百余所に及び、法皇の皇女宣陽門院覲子内親王から後深草上皇に伝領され、その後長く持明院統経済的基礎となった。

現代語建久六年(1195)四月小二十一日丙子。将軍頼朝様は宮中へ参られました。又、宣陽門院へも行かれました。後白河法皇の長講堂の領地七か所は、法王の遺言通り、荘園として引き継ぐように、お決めになられましたとさ。

建久六年(1195)四月小廿二日丁丑。今日又御參内云々。

読下し              きょう また  ごさんだい   うんぬん
建久六年(1195)四月小廿二日丁丑。今日又、御參内と云々。

現代語建久六年(1195)四月小二十二日丁丑。将軍頼朝様は、今日も宮中へ参られました。

建久六年(1195)四月小廿四日己夘。長講堂領七ケ所如元可進濟乃貢之由治定云々。是將軍家依令申行給也。

読下し              ちょうこうどうりょうななかしょもと  ごと  のうぐ  しんさいすべ  のよしちじょう   うんぬん
建久六年(1195)四月小廿四日己夘。長講堂領七ケ所元の如く乃貢を進濟可し之由治定すと云々。

これ しょうぐんけ もう おこな せし  たま    よつ  なり
是、將軍家申し行は令め給ふに依て也。

現代語建久六年(1195)四月小二十四日己卯。後白河法皇の長講堂の領地七か所の荘園は、元の通りに年貢を納めるように、決まりましたとさ。これは、将軍頼朝様が宣陽門院に云ってきたからです。

建久六年(1195)四月小廿七日壬午。將軍家以梶原平三景時爲御使。令奉幣住吉社給。被奉神馬。今夕。景時參着社頭。註付和歌一首於釣殿之柱云々。
 我君の手向の駒を引つれて行末遠紀志るしあらはせ

読下し              しょうぐんけ  かじわらのへいざかげとき もつ  おんし   な    すみよししゃ  ほうへいせし  たま    しんめ たてまるらる
建久六年(1195)四月小廿七日壬午。將軍家、 梶原平三景時を以て御使と爲し、住吉社に奉幣@令め給ひ、神馬を奉被る。

こんせき  かげときしゃとう  さんちゃく   わかいっしゅを つりどののはしら  ちゅうふ   うんぬん
今夕、景時社頭に參着し、和歌一首於釣殿之柱へ註付すと云々。

  わがきみ  たむけ  こま  ひき      ゆくすえ とおき  印   表せ
 我君の手向の駒を引つれて行末遠紀志るしあらはせ

参考@奉幣は、神に幣帛(へいはく)をささげること。

現代語建久六年(1195)四月小二十七日壬午。将軍頼朝様は、梶原平三景時を代参として、住吉大社へ幣帛(布)を納め、馬を奉納しました。夕方になって梶原平三景時は神社に着いて、和歌一首を釣殿の柱に貼ってきましたとさ。
 わが君の手向けの駒を引き連れて、行く末遠き印表せ
 (私のご主人様から奉納のために預かってきた馬を連れてきましたので、その未来は遠くまであると神の意志を表してくださいね)

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