吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)五月小

建久六年(1195)五月小三日丁亥。將軍家被奉御釼於鞍馬寺。相摸守惟義爲御使。

読下し             しょうぐんけ  ぎょけんを くらまでら  たつまつらる  さがみのかみこれよし  おんし   な
建久六年(1195)五月小三日丁亥。將軍家、御釼於鞍馬寺@へ奉被る。 相摸守惟義A御使を爲す。

参考@鞍馬寺は、京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬弘教の本山。山号は松尾山。もと天台宗。770年、鑑禎(がんちよう)の開基と伝える。本尊は毘沙門天。皇城の北方を鎮護する寺として栄えた。牛若丸伝説などで知られる。
参考A相模守惟義は、大内惟義で新羅三郎義光系清和源氏。平賀義信の子。の大内は、元大内裏の警備官をした職を名誉して子孫が名字にしている。なお、大内相模守惟義は伊賀國の守護でもある。

現代語建久六年(1195)五月小三日丁亥。将軍頼朝様は、剣を鞍馬寺へ奉納しました。相模守大内惟義が代参しました。

建久六年(1195)五月小十日甲午。熊野別當献御甲於若公御方。將軍家有御對面。殊令喜給云々。

読下し             くまののべっとう おんよろいを わかぎみのおんかた けん    しょうぐんけ  ごたいめんあ     こと  よろこ せし  たま    うんぬん
建久六年(1195)五月小十日甲午。熊野別當@、御甲於 若公御方に 献ず。將軍家、御對面有り。殊に喜ば令め給ふと云々。

参考@熊野別當は、湛増(たんぞう 大治5年(1130年)〜建久9年(1198年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧で、21代熊野別当でもある。18代別当湛快の次子。源為義の娘であるたつたはらの女房(鳥居禅尼)は、湛増の妻の母に当たる。ウィキペディアより

現代語建久六年(1195)五月小十日甲午。熊野神宮長官の湛増が、若君に鎧を献上しました。将軍頼朝様は、お会いになられました。とても喜んでおられましたとさ。

建久六年(1195)五月小十五日己亥。今夕。於六條大宮邊。三浦介義澄郎等与足利五郎所從等。發闘乱。依之和田左衛門尉義盛。佐原左衛門尉義連以下馳集于義澄旅館。又小山左衛門尉朝政。同五郎宗政。同七郎朝光以下大胡佐貫之輩集足利宿所。將軍家被遣景時於兩方。被仰和平之儀間。入夜令靜謐云々。

読下し               こんゆう ろくじょうおおみや へん をい  みうらのすけよしずみ ろうとう と あしかがのごろう  しょじゅうら  とうらん  はつ
建久六年(1195)五月小十五日己亥。今夕、六條大宮@邊に於て、三浦介義澄が郎等与足利五郎Aが所從等、闘乱を發す。

これ  よつ  わださえもんのじょうよしもり  さわらのさえもんのじょうよしつら いげ よしずみ  りょかんに は  あつ
之に依て和田左衛門尉義盛、佐原左衛門尉義連以下義澄の旅館于馳せ集まる。

また おやまのさえもんんじょうともまさ  おな    ごろうむねまさ  おな   しちろうともみつ いげ おおご  さぬきのやから あしかが  しゅくしょ  あつ
又、小山左衛門尉朝政、同じき五郎宗政、同じき七郎朝光以下大胡B、佐貫C之輩、足利の宿所へ集まる。

しょうぐんけ  かげときをりょうほう  つか   られ   わへいのぎ   おお  らる    かん  よ   い   せいひつせし   うんぬん
將軍家、景時於兩方へ遣はせ被、和平之儀を仰せ被るの間、夜に入り靜謐令むと云々。

参考@六條大宮は、京都の六条大路と大宮小路の交差したあたり。現在の西本願寺西北。
参考A足利五郎は、小山氏の加勢から同じ藤性足利氏と考え、寿永二年(1183)二月廿三日条の足利七郎有綱。同嫡男佐野太郎基綱。四男阿曾沼四郎廣綱。五男木村五郎信綱の「木村五郎信綱」と、細川重男先生は推量されておられる。塾長は指示する。
参考B大胡は、群馬県前橋市大胡町。
参考C佐貫四郎廣綱は、下野。栃木県塩谷郡塩谷町。

現代語建久六年(1195)五月小十五日己亥。今日の夕方に、六条若宮あたりで、三浦介義澄の家来が足利五郎の下っ端と乱闘を始めました。それなので、和田左衛門尉義盛と佐原左衛門尉義連以下が三浦義澄の旅館に集まりました。又、小山左衛門尉朝政や小山長沼五郎宗政と小山結城七郎朝光以下、大胡・佐貫の連中も足利の宿へ集まりました。
将軍頼朝様は、梶原平三景時を双方へ行かせて、和睦するように命じられたので、夜になって静かに収まりましたとさ。

建久六年(1195)五月小十八日壬寅。將軍家可有御參天王寺。御路次可被用船。是陸地不可叶之由。一條二品禪室被申之故也。而依此事。人々爲献路次雜事。被支配所領之由。或觸申之。或風聞之間。將軍家殊令驚給。早可被停止之旨。各被申遣之。是爲佛事値遇。企靈塲參詣。若令成人費者。還可乖佛意歟。殊有御愼云々。揚震辞黄金〔焉〕。廻耻四知之慮。唐帝造驪宮〔矣〕。遺不一幸之譽。今重万人之財力。忝輕一身之志意給。節儉之商量。殆超于古昔者歟。後聞人莫不奉稱美云々。

読下し                     しょうぐんけ てんのうじ  ぎょさん あ  べ     おんろじ   ふね  もち  さる  べ
建久六年(1195)五月小十八日壬寅。將軍家天王寺へ御參有る可き。御路次に船@を用ひ被る可き。

これ  くがち   かな  べからずの よし  いちじょうにほんぜんしつもうさる  のゆえなり
是、陸地は叶う不可之由、一條二品禪室申被る之故也。

しか    こ   こと  よっ    ひとびと ろじ   ぞうじ   けん    ため  しょりょう  しはいさる   のよし  ある    これ  ふ   もう
而して此の事に依て、人々A路次の雜事を献ぜん爲、所領に支配B被る之由、或ひは之を觸れ申し

ある    ふうぶんの かん  しょうぐんけこと  おどろ せし  たま    はや  ちょうじさる  べ   のむね おのおの  これ  もう  つか  さる
或ひは風聞之間、將軍家殊に驚か令め給ふ。早く停止被る可し之旨、 各に 之を申し遣は被る。

これ  ぶつじ  ちぐう  ため   れいじょう さんけい  くはだ
是は佛事値遇の爲に、靈塲の參詣を企つ。

も   ひと  ついえ な   せし  ば   かへっ ぶつい  そむ  べ   か   こと  おんつつし あ     うんぬん
若し人の費を成さ令め者、還て佛意に乖く可き歟。殊に御愼み有りと云々。

ようしん くがね  じ   〔をはんぬ〕  はじ   しち の おもんばかり めぐ    とうだい りきゅう  つく          いちこうせずのほまれ のこ
楊震C黄金を辞し〔焉〕、耻を四知D之慮に 廻らし、唐帝E驪宮を造り〔矣〕。一幸不F之譽を遺す。

いま  ばんいんのざいりょく おも    かたじけな いっしんの  しい  かろ    たま    せっけん のしょうりょう  ほと    こじゃくに こ    ものか
今、万人之財力を重んじ。忝くも一身之志意を輕んじ給ふ。節儉G之商量、殆んど古昔于超ゆる者歟。

こうぶん  ひと  しょうび たてまつらず  な    うんぬん
後聞の人、稱美し奉不こと莫しと云々。

参考@路次に船は、淀川を下る。
参考A
人々は、この場合公卿達が。
参考B支配は、支え配るの意で、分配するとか配分する。
参考D四知は、天知る、地知る、汝知る、我知る。
参考E
唐帝は、玄宗皇帝。
参考F
一幸不は、一度も行幸しなかった。
参考G節儉は、節約倹約。

現代語建久六年(1195)五月小十八日壬寅。将軍頼朝様は、天王寺へお参りに行くのですが、途中は船(淀川)をお使いになられるようです。それは、陸路は大変だと一条二品禅室能保様が申されるからです。しかし、この事により、公卿どもが旅の途中のお世話をするために、負担を自分の所領に分配するようにと、一部では云って来たり、噂が飛んだりしたので、将軍頼朝様は特に驚かれました。早くやめるようにと、それぞれに伝えさせました。これは、仏縁にめぐり合うために、聖地へお参りをする計画である。もし、他人に費用を使わせては、かえって仏様のお気持ちに背くことになるのではないか。特に謹んで遠慮すべきだそうな。中国後漢の楊震は、黄金のわいろを辞退し、わいろへの恥を天・地・汝・我の四者に知られると配慮をした。唐の玄宗皇帝は驪山宮(楊貴妃のための華清宮)を造り、一度も行幸がしなかったと云う名誉を残しました。今人々の財産を大切に思い、恐れ多くもご自分の用事を後回しにしました。節約倹約を色々考えて推し量ることは、なんと古の人々を超えていることでしょう。後でこの話を聞いた人で、褒め称えない人はありませんでしたとさ。

説明C楊震は、(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の太尉。字は伯起。後漢初年に刺史や太守を歴任し、清廉な政治家として名を成した人物である。『後漢書』の「楊震伝」には、賄賂を拒絶した際の有名な「天知る、地知る、汝知る、我知る」が掲載されている。彼は、天子の安帝に直言したことで、安帝の逆鱗に触れ、さらに宦官の樊豊らによる讒言もあったため、太尉を懲戒免職され、洛陽城内の西面にある夕陽亭で毒を仰いで「わが事は尽きた!」と叫んで無念の自決を遂げた。ウィキペディアより

建久六年(1195)五月小廿日甲辰。陰。常小雨灑。夘刻參天王寺給。宛御家人等召疋夫。爲被引御船綱手也。洛中御乘車。自鳥羽被用御船。令借用丹後二品局船給。与一條二品禪室可有御同道之由。依有兼御約諾。禪室用意御船。於路頭庄園被宛雜事之由。有其聞。是太不叶賢慮之間。爲不令請之給。所被止御同道儀也云々。日中着御渡部。自此所御乘車。御臺所御車連軒。有女房出車等。各整行列。随兵以下供奉人皆騎馬云々。
 先陣随兵
  畠山二郎重忠     千葉二郎師常
  村上判官代基國    新田藏人義兼
  安房判官代高重    所雜色基繁
  武藤大藏丞頼平    野三刑部丞成綱
  加藤二景廉      土肥先二郎惟平
  千葉三郎次郎     小野寺太郎道綱
  梶原刑部丞朝景    糟屋藤太兵衛尉有季
  宇佐美三郎祐茂    和田五郎
  狩野介宗茂      佐々木中務丞經高
  千葉兵衛尉常秀    土屋兵衛尉義C
  後藤左衛門尉基C   葛西兵衛尉C重
  三浦左衛門尉義連   比企右衛門尉能員
  下河邊庄司行平    榛谷四郎重朝
 御車
 御後〔水干〕
  源藏人大夫頼兼    越後守頼房
  相摸守惟義      上総介義兼
  伊豆守義範      前掃部頭親能
  豊後守季光      前因幡守廣元
  左衛門尉朝政     右衛門尉知家
  左近將監能直     右京進季時
  三浦介義澄      梶原平三景時
 後陣随兵
  北條小四郎義時    小山七郎朝光
  修理亮義盛      奈胡藏人義行
  里見太郎義成     淺利冠者長義
  武田兵衛尉有義    南部三郎光行
  伊澤五郎信光     村山七郎義直
  北條五郎時連     加々美二郎長C
  八田左衛門尉朝重   梶原左衛門尉景季
  阿曾沼小二郎     和田三郎義實
  佐々木三郎兵衛尉盛綱 大井兵三次郎實治
  小山五郎宗政     所六郎朝光
  氏家太郎公頼     伊東四郎成親
  小山田三郎重成    宇都宮所信房
  千葉新介胤正     足立左衛門尉遠元
 最末
  和田左衛門尉義盛〔相具家子郎等〕
午刻御參着。先入御念佛所〔寺門外〕。次御礼佛。長吏法親王豫於潅頂堂。令奉待御。將軍則有御謁拝。次令拝見當寺重寳等給。次法親王還御。將軍又歸旅店給。其後被奉御釼〔銀作蒔柄作〕於太子聖靈。被引進御馬一疋〔糟毛。置銀鞍。懸一総鞦〕於法親王。左衛門尉朝政爲御使。於御釼者。被相副法親王御使於朝政。被納寳藏云々。此外。以絹布等類。被施寺中僧徒云々。

読下し                   くもり  つね  こさめ そそ    うのこく  てんのうじ   まい  たま     ごけにんら   あ   ひっぷ   め
建久六年(1195)五月小廿日甲辰。陰。常に小雨灑ぐ。夘刻、天王寺へ參り給ふ。御家人等に宛て疋夫を召す。

おんふね なわて  ひかれんためなり らくちゅう ごじょうしゃ   とば よ   おんふね  もち  らる   たんごにほんのつぼね ふね しゃくようせし たま
御船の綱手を引被爲也。洛中は御乘車。鳥羽自り御船を用ひ被る。丹後二品局の船を借用令め給ふ。

いちじょうにほんぜんしつと ごどうどう あ  べ   のよし  かね  おんやくだくあ     よっ   ぜんしつおんふね ようい
一條二品禪室与御同道有る可き之由、兼て御約諾有るに依て、禪室御船を用意し、

 ろとう  しょうえん  をい  ぞうじ   あ   らる   のよし  そ   きこ  あ
路頭の庄園に於て雜事を宛て被る之由、其の聞へ有り。

これ  はなは けんりょ  かな  ず の かん  これ  う   せし  たま ざらんため  ごどうどう   ぎ   や   らる ところなり  うんぬん
是、太だ賢慮に叶は不之間、之を請け令め給は不爲、御同道の儀を止め被る所也と云々。

にっちゅう わたなべ ちゃくご   こ  ところよ   ごじょうしゃ  みだいどころ おくるまのき  つら    にょぼう いだしぐるまらあ
日中に渡部@に着御す。此の所自り御乘車。御臺所の御車軒を連ぬ。女房の出車等有り。

参考@渡部は、渡辺の津、大阪府大阪市北区中之島3丁目の渡辺橋付近。

おのおの ぎょうれつ ととの   ずいへい いげ  ぐぶにん   みな きば   うんぬん
 各、 行列を整ふ。随兵以下の供奉人は皆騎馬と云々。

  せんじん ずいへい
 先陣の随兵

    はたけやまのじろうしげただ       ちばのじろうもろつね
  畠山二郎重忠     千葉二郎師常

    むらかみのほうがんだいもとくに     にったのくらんどよしかね
  村上判官代基國    新田藏人義兼

    あわのほうがんだいたかしげ       ところのぞうしきもとしげ
  安房判官代高重    所雜色基繁

    むとうのおおくらのじょうよりひら     のざのぎょうぶのじょうなりつな
  武藤大藏丞頼平    野三刑部丞成綱

    かとうじかげかど              といのせんじろうこれひら
  加藤二景廉      土肥先二郎惟平

    ちばのさぶろうじろう            おのでらのたろうみちつな
  千葉三郎次郎     小野寺太郎道綱

    かじわらのぎょうぶのじょうともかげ    かすやのとうたひょうえのじょうありすえ
  梶原刑部丞朝景    糟屋藤太兵衛尉有季

    うさみのさぶろうすけもち          わだのごろう
  宇佐美三郎祐茂    和田五郎

    かのうのすけむねもち           ささきのなかつかさのじょうつねたか
  狩野介宗茂      佐々木中務丞經高

    ちばのひょうえのじょうつねひで      つちやのひょうえのじょうよしきよ
  千葉兵衛尉常秀    土屋兵衛尉義C

    ごとうのさえもんのじょうもときよ       かさいのひょうえのじょうきよしげ
  後藤左衛門尉基C   葛西兵衛尉C重

    みうらのさえもんのじょうよしつら      ひきのうえもんのじょうよしかず
  三浦左衛門尉義連   比企右衛門尉能員

    しもこうべのしょうじゆきひら        はんがやつにしろうしげとも
  下河邊庄司行平    榛谷四郎重朝

  おくるま
 御車

  おんうしろ〔すいかん〕
 御後〔水干〕

    みなもとのくらんどたいふよりかね    えちごのかみよりふさ
  源藏人大夫頼兼    越後守頼房

    さがみのかみこれよし           かずさのすけよしかね
  相摸守惟義      上総介義兼

    いずのかみよしのり             さきのかんのかみちかよし
  伊豆守義範      前掃部頭親能

    ぶんごのかみすえみつ          さきのいなばのかみひろもと
  豊後守季光      前因幡守廣元

    さえもんのじょうともまさ           うえもんのじょうともいえ
  左衛門尉朝政     右衛門尉知家

    さこんしょうげんよしなお          うきょうのしんすえとき
  左近將監能直     右京進季時

    みうらのすけよしずみ            かじわらのへいざかげとき
  三浦介義澄      梶原平三景時

  こうじん  ずいへい
 後陣の随兵

    ほうじょうのこしろうよしとき         おやまのしちろうともみつ
  北條小四郎義時    小山七郎朝光

    しゅりのさかんよしもり            なこのくらんどよしゆき
  修理亮義盛      奈胡藏人義行

    さとみたろうよしなり             あさりのかじゃながよし
  里見太郎義成     淺利冠者長義

    たけだのひょうえのじょうありよし      なんぶのさぶろうみつゆき
  武田兵衛尉有義    南部三郎光行

    いさわのごろうのぶみつ          むらやまのしちろうよしなお
  伊澤五郎信光     村山七郎義直

    ほうじょうのごろうときつら          かがみのじろうながきよ
  北條五郎時連     加々美二郎長C

    はったのさえもんのじょうともしげ      かじわらのさえもんのじょうかげすえ
  八田左衛門尉朝重   梶原左衛門尉景季

    あそぬまのこじろう              わだのさぶろうよしざね
  阿曾沼小二郎     和田三郎義實

    ささきのさぶろうひょうえのじょうもりつな  おおいのへいざじろうさねはる
  佐々木三郎兵衛尉盛綱 大井兵三次郎實治

    おやまのごろうむねまさ          ところのろくろうともみつ
  小山五郎宗政     所六郎朝光

    うじいえのたろうきんより          いとうのしろうなりちか
  氏家太郎公頼     伊東四郎成親

    おやまだのさぶろうしげなり        うつのみやのところのぶふさ
  小山田三郎重成    宇都宮所信房

    ちばのしんすけたねまさ          あだちのさえもんのじょうとおもと
  千葉新介胤正     足立左衛門尉遠元

  さいまつ
 最末

    わだのさえもんのじょうよしもり  〔いえのころうとうら  あいぐ 〕
  和田左衛門尉義盛〔家子郎等を相具す〕

うまのこく さんちゃく   ま   ごねんぶつじょ  い    〔じもん  そと〕
午刻御參着す。先ず御念佛所へ入る〔寺門の外〕

つい  ごらいぶつ  ちょうりほっしんのう  あらかじ かんちょうどう をい   ま  たてまつ せし  たま
次で御礼佛。長吏法親王、豫め潅頂堂に於て、待ち奉ら令め御う。

しょうぐん すなは おんえつはいあ   つぎ  とうじちょうほうら  はいけんせし  たま    つい  ほっしんのうかんご  しょうぐんまたりょてん かえ  たま
將軍、則ち御謁拝有り。次に當寺重寳等を拝見令め給ふ。次で法親王還御。將軍又旅店へ歸り給ふ。

 そ  ご ぎょけん 〔ぎんづくり まきえづくり〕  を たいししょうれい たてま らる
其の後御釼〔銀作、蒔柄作〕於太子聖靈に奉つ被る。

おんうまいっぴき 〔かすげ    ぎん   くら   お     いっそうしりがい  かけ    〕  を ほっしんのう  ひきすす  らる
御馬一疋〔糟毛A、銀の鞍を置く。一総鞦Bを懸る。〕於法親王に引進め被る。

さえもんのじょうともまさ おんし  な    ぎょけん  をい  は   ほっしんのう おんし  ともまさを あいそ  られ  ほうぞう  おさ  らる   うんぬん
左衛門尉朝政御使と爲し、御釼に於て者、法親王御使に朝政於相副へ被、寳藏に納め被ると云々。

 こ   ほか  けんぷ ら るい  もっ    じちゅう  そうと   ほどこさる   うんぬん
此の外、絹布等類を以て、寺中の僧徒に施被ると云々。

参考A糟毛(かすげ)は、灰色に少し白い毛が混じっているもの。
参考B総の鞦は、房をつけたしりがい。鞍と尾の間に両脇に房が垂れ下がる。

現代語建久六年(1195)五月小二十日甲辰。曇り時々小雨。卯の刻(午前六時頃)に天王寺へ出発です。御家人たちに割り当てて人夫を出させました。それは頼朝様の船を曳かせるためです。京都の町中は牛車で、小椋池の鳥羽殿から船にしました。丹後二品局高階栄子の船を借りました。一条二品禅室能保様と一緒に行こうと約束していましたが、一条能保は船を用意して、道路に面した荘園に雑用を割り当てていると、耳にしました。これは、頼朝の考えと違ったので、それは受ける訳にはいかないので、一緒に行くのをやめることにしたのだそうです。日中に渡辺の津(港)に到着しました。ここからは牛車です。御台所政子さまも牛車を並べます。女官達の衣服の裾をのぞかせた牛車が続きます。

それぞれ行列をそろえました。警護の軍隊などのお供は皆、馬に乗っています。
 先を行く警護兵
  畠山次郎重忠   千葉相馬次郎師常
  村上判官代基國  新田蔵人義兼
  安房判官代高重  所雑色基重
  武藤大蔵丞頼平  野三刑部丞成綱
  加藤次景廉    土肥先次郎惟平
  
千葉三郎次郎   小野寺太郎道綱
  梶原刑部烝朝景  糟谷藤太兵衛尉有季
  宇佐美三郎助茂  和田五郎義長
  狩野介宗茂    佐々木仲務丞経高
  千葉境兵衛尉常秀 土屋兵衛尉義清
  後藤左衛門尉基清 葛西兵衛尉清重
  佐原左衛門尉義連 比企右衛門尉能員
  下河辺庄司行平  榛谷四郎重朝
 頼朝様の牛車
 すぐ後ろのお供(水干)
  源蔵人大夫頼兼  越後守頼房
  相模守大内惟義  上総介足利義兼
  伊豆守山名義範  前掃部頭中原親能
  豊後守毛呂季光  前因幡守大江広元
  左衛門尉小山朝政 右衛門尉八田知家
  左近将監大友能直 右京進藤原季時
  三浦介義澄    梶原平三景時
 後へ続く警護兵
  北条小四郎義時  小山結城七郎朝光
  修理亮関瀬義盛  奈古蔵人義行
  里見太郎義成   浅利冠者長義
  武田兵衛尉有義  南部三郎光行
  伊沢五郎武田信光 村山七郎義直
  北条五郎時連   加々美二郎長清
  八田左衛門尉知重 梶原源太左衛門尉景季
  阿曽沼小次郎親綱 和田三郎義実
  佐々木三郎兵衛尉盛綱 大井兵三次郎実春
  小山五郎長沼宗政 所六郎朝光
  氏家五郎公頼   伊東四郎成親
  稲毛三郎重成   宇都宮所信房
  千葉新介胤正   足立左衛門尉遠元
 一番後ろ 和田左衛門尉義盛〔家族の侍と家来を連れている〕

正午頃に天王寺へ着きました。まず念仏所へ入りました〔寺の外〕続いて御本尊へのお参りです。最高責任者長吏定恵法親王が、前もって洗礼の場の灌頂堂でお待ちになられておりました。将軍頼朝様はすぐに挨拶をされました。次ぐに天王寺の寺宝を拝見しました。その後法親王はお帰りになり、頼朝様も宿舎へ帰られました。その後、剣〔銀で拵え、蒔絵が施されています〕を聖徳太子を祀る太子堂に奉納しました。馬一頭〔糟毛、銀作りの鞍をおく、一揃えの房のついた尻にかける飾りのを掛けています〕を法親王に引き送らせました。小山左衛門尉朝政が使いをして、剣については法親王が使いを朝政に付けて、宝蔵へ納められたそうです。その他に絹の布類を寺中の僧侶に与えられましたとさ。

建久六年(1195)五月小廿一日乙巳。晩鐘之程。自天王寺御歸洛云々。

読下し                     ばんしょうのほど  てんのうじ よ   ごきらく   うんぬん
建久六年(1195)五月小廿一日乙巳。晩鐘之程、天王寺自り御歸洛と云々。

現代語建久六年(1195)五月小二十一日乙巳。夕暮れになって天王寺から京都へ戻られました。

建久六年(1195)五月小廿二日丙午。將軍家御參内。以此次。殿下御對面。都鄙理世事。御談話非一云々。

読下し                    しょうぐんけ ごさんだい   こ  ついで もっ    でんか   ごたいめん   とひ りせい  こと     ごだんわひとつ  あらず うんぬん
建久六年(1195)五月小廿二日丙午。將軍家御參内。此の次を以て、殿下と御對面。都鄙理世の事を、御談話一に非と云々。

現代語建久六年(1195)五月小二十二日丙午。将軍頼朝様は京都御所へお上りになられました。そのついでに、摂政九条兼実とお会いになりました。都や地方の政治向きについて、話し合いは沢山ありましたとさ。

建久六年(1195)五月小廿三日丁未。御參六條殿。御退出之後。令詣舊院法華堂〔法住寺〕給。有施物于供僧等云々。

読下し                     ろくじょうでん  ぎょさん   ごたいしゅつののち  きゅういんほけどう 〔ほうじゅじ〕   もう  せし  たま
建久六年(1195)五月小廿三日丁未。六條殿へ御參す。御退出之後、舊院法華堂〔法住寺〕へ詣で令め給ふ。

ぐそうらに せぶつ あ    うんぬん
供僧等于施物有りと云々。

現代語建久六年(1195)五月小二十三日丁未。後鳥羽上皇の六条殿へ参られました。出てきた後、後白河院の法華堂〔法住寺〕へお参りをしました。お坊さんたちにお布施をあげましたとさ。

建久六年(1195)五月小廿四日戊申。前掃部頭親能爲將軍家御使。向高野山。是東大寺重源上人去十三日逐電。在彼山之由。近日風聞之間。可歸洛之旨。依被誘仰也。

読下し                     さきのかもんのかみちかよし しょうぐんけ  おんし  な     こうやさん   むか
建久六年(1195)五月小廿四日戊申。 前掃部頭親能、 將軍家の御使と爲し、高野山へ向う。

これ  とうだいじ ちょうげんしょうにん さんぬ じうさんにちちくてん  か   やま  あ   のよし  きんじつふうぶん   のかん   きらく すべ  のむね
是、東大寺 重源上人、去る十三日逐電し、彼の山に在る之由、近日風聞する之間、歸洛可し之旨、

さそ  おお  らる    よっ  なり
誘い仰せ被るに依て也。

現代語建久六年(1195)五月小二十四日戊申。前掃部頭中原親能は、将軍頼朝様の代理として、高野山へ向かいました。それは、東大寺の重源上人が先日の十三日に行方をくらまし、高野山にいると最近噂を聞いたので、京都へ戻られるように説得するためなのです。

建久六年(1195)五月小廿九日癸丑。重源上人出來。重將軍芳命之故也。將軍關東御下向事。日來依被尋彼行方延引。至來月者。定不可被除祗園忌歟。

読下し                     ちょうげんしょうにん いできた   しょうぐん ほうめい  おも      のゆえなり
建久六年(1195)五月小廿九日癸丑。 重源上人 出來る。將軍の芳命を重んじる之故也。

しょうぐん かんとう   ごげこう   こと  ひごろ か   ゆくえ  たず  られ    よっ  えんいん
將軍 關東へ御下向の事、日來彼の行方を尋ね被るに依て延引す。

らいげつ  いた  ば   さだ    ぎおん  いみ  はら  らる  べからざるか
來月に至ら者、定めて祗園の忌を除は被る不可歟。

現代語建久六年(1195)五月小二十九日癸丑。重源上人が現れてきました。将軍頼朝様の命令を重要に受け取ったからです。頼朝様の関東へのお帰りが、彼の行方を探していて延期になりました。来月になると、さぞかし祗薗御霊会の厄払いが大変であろう。

六月へ

吾妻鏡入門第十五巻

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