吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)八月小

建久六年(1195)八月小一日癸丑。至于放生會之期。殺生禁断事。嚴密被仰下云々。

読下し                   ほうじょうえの ご に いた       せっしょうきんだん こと  げんみつ おお  くださる    うんぬん
建久六年(1195)八月小一日癸丑。放生會之期于至るまで、殺生禁断の事、嚴密に仰せ下被ると云々。

現代語建久六年(1195)八月小一日癸丑。十五日の捕えられた生き物を放つ儀式放生会までの間、生き物を殺す殺生を停止すると、厳しく命令を出されました。

説明殺生禁断は、仏教戒律の殺生戒に反することになる。ここではわからないが、一般的論理として殺生禁断を設定することにより、漁労権を制限し排他的権利を作る。漁師・猟師など殺生を生活手段としている人民が案外多いので、その見返りはばかにならない。これを利用したのが忍性である。

建久六年(1195)八月小二日甲寅。放生會以後。可有御參信濃國善光寺由。被仰下云々。

読下し                   ほうじょうえ いご   しなののくにぜんこうじ  ぎょさんあ  べ   よし  おお  くださる    うんぬん
建久六年(1195)八月小二日甲寅。放生會以後、信濃國善光寺に御參有る可き由、仰せ下被ると云々。

現代語建久六年(1195)八月小二日甲寅。十五日の放生会が終わったら、信濃国の善光寺へお参りに行くからと、お命じになられましたとさ。

建久六年(1195)八月小六日戊午。丹波國志樂庄并伊祢保領家雜掌解到來。地頭後藤左衛門尉基C致濫妨狼藉之由云々。尋聞子細。事實者。分取地頭職三分一。可注申之。可被補任他人之旨。被仰前掃部頭親能云々。

読下し                   たんばのくにしらくのしょう なら  いねのほう  りょうけ  ざっしょう  げ とうらい
建久六年(1195)八月小六日戊午。丹波國志樂庄@并びに伊祢保Aの領家の雜掌Bの解到來す。

ぢとう ごとうのさえもんのじょうもときよ  らんぼうろうぜき  いた  のよし  うんぬん
地頭後藤左衛門尉基C、濫妨狼藉を致す之由と云々。

しさい  たず  き     ことじつ    ば   ぢとうしき さんぶいち  わ   と     これ  ちう  もう  べ
子細を尋ね聞き、事實たら者、地頭職三分一Cを分け取りD、之を注し申す可し。

ほか  ひと  ぶにんさる  べ   のむね  さきのかもんのかみちかよし  おお  らる    うんぬん
他の人を補任被る可し之旨、 前掃部頭親能 に仰せ被ると云々。

参考@志樂庄は、京都府舞鶴市字小倉に志楽小学校あり。
参考A
伊祢保は、京都府与謝郡伊根町字平田。舟屋群がある港町。
参考B
雑掌は、荘園経営請負人、訴訟や示談・交渉も担当する交渉人・交渉も担当する交渉人であり、預処でもある。
参考C地頭職三分一は、地頭職に付随する得分の三分の一。
参考D分け取りは、没収する。

現代語建久六年(1195)八月小六日戊午。丹波国志楽庄と伊祢保の上級荘園領主(領家)の現地管理者(雑掌)の上申書(解)が届きました。地頭の後藤左衛門尉基清が無理やりに横取りをしたとの事だそうです。詳しく事情を調べて、本当ならば、地頭取り分の三分の一を没収して、これを書き出しなさい。その分は他の人を任命しようと、前掃部頭中原親能に言いつけられましたとさ。

建久六年(1195)八月小九日辛酉。於御臺所御方。爲故稻毛女房。被修佛事。導師行慈法眼云々。

読下し                   みだいどころ  おんかた  をい   こいなげのにょぼう  ため  ぶつじ  しゅう  らる    どうし  ぎょうじほうげん  うんぬん
建久六年(1195)八月小九日辛酉。御臺所の御方に於て、故稻毛女房の爲、佛事を修せ被る。導師は行慈法眼と云々。

現代語建久六年(1195)八月小九日辛酉。御台所政子様の屋敷で、死んだ妹、稲毛の妻のために、法事を行われました。式の指導僧導師は行慈法眼でしたとさ。

建久六年(1195)八月小十日壬戌。熊谷二郎直實法師自京都參向。辞往日之武道。求來世之佛縁以降。偏繋心於西刹。終晦跡於東山。今度將軍家御在京之間。依有所存不參。追凌千程之嶮難。泣述五内之蓄懷。仍召御前。先申厭離穢土欣求浄土旨趣。次奉談兵法用意。干戈故實等。身今雖法躰。心猶兼眞俗。聞者莫不感歎。今日則下向武藏國云々。頻雖被令留之給。稱後日可參之由。退出云々。

読下し                   くまがいのじろうなおざねほっしきょうとよ   さんこう
建久六年(1195)八月小十日壬戌。熊谷二郎直實法師@京都自り參向す。

おうじつの ぶどう   じ     らいせのぶつえん  もと        このかた ひとへ こころをせいさつ  つな    あと  くら   ひがしやま をい  しま
往日之武道を辞し、來世之佛縁を求めるより以降、偏に心於西刹に繋ぎ、跡を晦まし東山に於て終う。

このたび  しょうぐんけだざいきょうのかん  しょぞんあ    よっ  さんざず  おっ  せんていのけんなん しの    ない  ごたいのちくかい  の
今度、將軍家御在京之間、所存有るに依て參不。追て千程之嶮難を凌ぎ、泣て五内A之蓄懷を述ぶ。

よっ  ごぜん  め     ま    おんりえど  ごんぐじょうど   ししゅ  もう    つい  ひょうほう  ようい   かんか   こじつら  だん たてまつ
仍て御前に召し、先ず厭離穢土欣求浄土の旨趣を申す。次で兵法の用意、干戈の故實等を談じ奉る。

み   いまほったい いへど   こころ なおしんぞく かね   き  ものかんたんせざる な    きょう すなは むさしのくに げこう    うんぬん
身は今法躰と雖も、心は猶眞俗を兼る。聞く者感歎不は莫し。今日則ち武藏國へ下向すと云々。

しきり これ  とど  せし  られたま   いへど   ごじつ さん  べ   のよし  しょう    たいしゅつ   うんぬん
頻に之を留ま令め被給ふと雖も、後日參ず可し之由を稱し、退出すと云々。

参考@直實法師は、出家して蓮生坊と名乗る。
参考A五内は、五臓。漢方でいう、五つの内臓。心臓・肝臓・肺臓・脾臓・腎臓。

現代語建久六年(1195)八月小十日壬戌。出家した熊谷次郎直実法師が京都からやって参りました。昔の武家仕えを辞退して、来世には仏様と縁が繋がりたいと願い、ひたすら心を西の国のお寺に求め、行方を告げずに東山(大谷)に落ち着いていました。今回の将軍頼朝様が京都におられた時には、思うところがあっておそばへ参りませんでした。「追いかけて沢山の艱難辛苦を乗り越えて来た」と、五臓に溜まっている思いを云ってます。そこで頼朝様は御前にお呼びになると、浄土教の汚れた国土を嫌い離れ、阿弥陀如来の清浄な世界へと往生すると云う仏法の目的を話し、次いで戦の兵法を話しました。「戦いの作法などの決まりや習わしなどは、今は出家した身の上ではありますが、心の中には清浄な世界と世俗の事とが同居しております」聞いていた人達で感心しない者はおりませんでした。今日、すぐに武蔵国の実家へ出かけましたとさ。頼朝様は、さかんにゆっくりしていけと止めましたが「後日又必ず参りますから」と云って、立ち退きましたとさ。

建久六年(1195)八月小十三日乙丑。北條殿。江間殿自伊豆國歸參云々。

読下し                     ほうじょうどの  えまどの いずのくによ   きさん    うんぬん
建久六年(1195)八月小十三日乙丑。北條殿、江間殿伊豆國自り歸參すと云々。

現代語建久六年(1195)八月小十三日乙丑。北條時政殿と江間殿(北條義時)が、伊豆国から鎌倉へ帰りましたとさ。

建久六年(1195)八月小十四日丙寅。將軍家相率放生會流鏑馬射手等。出由比浦令試面々射藝。被撰定十六騎云々。

読下し                     しょうぐんけほうじょうえ  やぶさめ    いてら   あいひき    ゆいのうら  い   めんめん  しゃげい  こころ せし
建久六年(1195)八月小十四日丙寅。將軍家放生會の流鏑馬の射手等を相率ひ、由比浦@に出で面々の射藝を試み令め、

じうろっき   えら  さだ  らる    うんぬん
十六騎を撰び定め被ると云々。

参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。

現代語建久六年(1195)八月小十四日丙寅。将軍頼朝様は、放生会に奉納する流鏑馬の射手達を引き連れて、由比の浦でメンバーの弓箭の腕前をお試しになられ、十六人を選ばれましたとさ。

建久六年(1195)八月小十五日丁夘。鶴岡放生會也。將軍家御參宮。梶原源太左衛門尉景季持御釼。望月三郎重隆懸御調度。有舞樂。伊豆守義範。豊後守季光。千葉介常胤。三浦介義澄。小山左衛門尉朝政。八田右衛門尉知家。比企右衛門尉能員。足立左衛門尉遠元等依召參候廻廊云々。

読下し                    つるがおか ほうじょうえなり  しょうぐんけ ごさんぐう
建久六年(1195)八月小十五日丁夘。鶴岡の放生會也。將軍家御參宮。

かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ ぎょけん も     もちづきのさぶろうしげたか ごちょうど  か     ぶがく あ
 梶原源太左衛門尉景季 御釼を持ち、 望月三郎重隆 御調度を懸く。舞樂有り。

いずのかみよしのり  ぶんごのかみすえみつ ちばのすけつねたね みうらのすけよしずみ おやまのさえもんのじょうともまさ  はったのうえもんのじょうともいえ
伊豆守義範、 豊後守季光、 千葉介常胤、 三浦介義澄、 小山左衛門尉朝政、 八田右衛門尉知家、

ひきのうえもんのじょうよしかず  あだちのさえもんのじょうとおもと ら めし  よっ  かいろう  まい  そうら   うんぬん
比企右衛門尉能員、 足立左衛門尉遠元 等召に依て廻廊に參り候うと云々。

現代語建久六年(1195)八月小十五日丁卯。鶴岡八幡宮の捕えられた生き物を放つ儀式放生会です。将軍頼朝様は、お参りです。梶原源太左衛門尉景季が太刀持ちで、望月三郎重隆が弓箭を背負ってます。舞楽の奉納がありました。伊豆守山名義範、豊後守毛呂季光、千葉介常胤、三浦介義澄、小山左衛門尉朝政、八田右衛門尉知家、比企右衛門尉能員、足立左衛門尉遠元達が、呼ばれて回廊にお供に来てましたとさ。

建久六年(1195)八月小十六日戊辰。今日又御參宮。有馬塲儀。流鏑馬射手十六騎。皆所被撰堪能也。
一番
 三浦和田五郎
二番
 里見太郎
三番
 武田小五郎
四番
 東平太
五番
 榛谷四郎
六番
 葛西十郎
七番
 海野小太郎
八番
 愛甲三郎
九番
 伊東四郎
十番
 氏家太郎
十一番
 八田三郎
十二番
 結城七郎
十三番
 下河邊四郎
十四番
 小山又四郎
十五番
 江間太郎
十六番
 梶原三郎兵衛尉

読下し                      きょう また ごさんぐう   ばば   ぎ あ     やぶさめ   いて じうろっき  みなたんのう  えらばれ ところなり
建久六年(1195)八月小十六日戊辰。今日又御參宮。馬塲の儀有り。流鏑馬の射手十六騎。皆堪能を撰被る所也。

いちばん
一番

  みうらのわだのごろう
 三浦和田五郎(義長)

にばん
二番

  さとみのたろう
 里見太郎(義成)

さんばん
三番

  たけだのこごろう
 武田小五郎

よんばん
四番

  とうのへいた
 東平太(重胤)

ごばん
五番

  はんがやつのしろう
 榛谷四郎(重朝)

ろくばん
六番

  かさいのじうろう
 葛西十郎

しちばん
七番

  うんののこたろう
 海野小太郎(幸氏)

はちばん
八番

  あいこうのさぶろう
 愛甲三郎(季隆)

くばん
九番

  いとうのしろう
 伊東四郎(家光)

じうばん
十番

  うじいえのたろう
 氏家太郎(公頼)

じういちばん
十一番

  はったのさぶろう
 八田三郎

じうにばん
十二番

  ゆうきのしちろう
 結城七郎(朝光)

じうさんばん
十三番

  しもこうべのしろう
 下河邊四郎(政義)

じうよんばん
十四番

  おやまのまたしろう
 小山又四郎

じうごばん
十五番

  えまのたろう
 江間太郎(泰時)

じうろくばん
十六番

  かじわらのさぶろうひょうえのじょう
 梶原三郎兵衛尉(景茂)

現代語建久六年(1195)八月小十六日戊辰。今日も又八幡宮へお参りです。馬場での行事が有りました。流鏑馬の射手十六騎。皆、上手な人を選ばれました。
一番  三浦和田五郎義長
二番  里見太郎義成
三番  武田小五郎   
(武田五郎信光の五男)
四番  東平太重胤
五番  榛谷四郎重朝
六番  葛西十郎
      (葛西三郎清重の十男)
七番  海野小太郎幸氏
八番  愛甲三郎季隆
九番  伊東四郎家光
十番  氏家太郎公頼
十一番 八田三郎    
(八田四郎知家の三男)
十二番 結城七郎朝光
十三番 下河邊四郎政義
十四番 小山又四郎
   (小山四郎朝政の四男)
十五番 江間太郎泰時
十六番 梶原三郎兵衛尉景茂

建久六年(1195)八月小十七日己巳。御臺所令歸營中給。依御輕服。神事之間。日來御坐他所云々。

読下し                     みだいどころえいちう  かえ  せし  たま    ごきょうぶく  よっ    しんじの かん   ひごろたしょ   おは    うんぬん
建久六年(1195)八月小十七日己巳。御臺所營中に歸ら令め給ふ。御輕服に依て、神事之間、日來他所に御坐すと云々。

現代語建久六年(1195)八月小十七日己巳。御台所政子さまが、御所へお戻りになられました。軽い喪中なので、八幡宮の神事がある間は、穢れるといけないのでよそへ行っておられたのだそうです。

建久六年(1195)八月小十九日辛未。將軍家御齒御勞再發云々。

読下し                     しょうぐんけ おんは  おいたは さいはつ   うんぬん
建久六年(1195)八月小十九日辛未。將軍家御齒の御勞り再發すと云々。

現代語建久六年(1195)八月小十九日辛未。将軍頼朝様は、歯痛が再発しましたとさ。

建久六年(1195)八月小廿三日乙亥。善光寺御參詣事。暫延引。漸令屬寒天者。可爲明春之由。被觸仰御家人等云々。

読下し                     ぜんこうじご さんけい  こと  しばら えんいん
建久六年(1195)八月小廿三日乙亥。善光寺御參詣の事、暫く延引す。

ようや かんてん しょくせし  ば  みょうしゅんた  のよし   ごけにんら   ふ   おお  らる   うんぬん
漸く寒天に屬令め者、明春爲り之由、御家人等に觸れ仰せ被ると云々。

現代語建久六年(1195)八月小二十三日乙亥。善光寺参りは、しばらく延期することにしました。もうじき寒い冬になってしまうので、来春にしようと御家人たちに知らせましたとさ。

建久六年(1195)八月小廿六日戊寅。齒御勞事。聊御平愈之間。自御舟歴海浦。渡御三崎。有御遊覽等。今度自京都御下向之後。未及此儀云々。

読下し                      は   おいたは    こと  いささ  ごへいゆのかん  おんふねよ  かいほ   へ     みさき   とぎょ
建久六年(1195)八月小廿六日戊寅。齒の御勞りの事、聊か御平愈之間、御舟自り海浦を歴て、三崎へ渡御す。

ごゆうらんら あ     このたびきょうとよ   ごげこう の のち  いま  かく  ぎ   およ       うんぬん
御遊覽等有り。今度京都自り御下向之後、未だ此の儀に及ばざると云々。

現代語建久六年(1195)八月小二十六日戊寅。歯の痛みが、いくらか良くなったので、船で海路を取り、三浦三崎へ行かれました。遊覧しました。京都から帰ってきて未だ一度もやっていなかったからです。

建久六年(1195)八月小廿八日庚辰。東國庄園於隱居強竊二盜并博奕等不善輩所々者。召放其所地頭職。可宛賜搦進仁之旨。被仰下陸奥出羽以下國々云々。

読下し                     とうごく  しょうえん  ごうせつにとう なら    ばくちら  ふぜん  やから いんきょ      しょしょ  をい  は
建久六年(1195)八月小廿八日庚辰。東國の庄園、強竊二盜@并びに博奕等の不善の輩を隱居するの所々に於て者、

 そ  ところ  ぢとうしき  めしはな    から  しん  じん  あてたまは べ  のむね   むつ   では  いげ   くにぐに  おお  くださる    うんぬん
其の所の地頭職を召放ち、搦め進ず仁に宛賜る可し之旨、陸奥、出羽以下の國々に仰せ下被ると云々。

参考@強竊二盜は、強盗と窃盗。

現代語建久六年(1195)八月小二十八日庚辰。関東など東側の荘園で、強盗・窃盗の盗人や博打打ちなど、悪いことをする連中が隠れているあちこちでは、そこの地頭職を取り上げて、悪人を捕えて幕府へ連れ出した人に与えるようにと、陸奥・出羽の国々へ命じられましたとさ。

建久六年(1195)八月小廿九日辛巳。鶴岳上下宮常灯油事。爲大名等役。被結番毎月可進之由。日來被定仰之處。間有對捍之聞。仍今日加増人數。結番毎日也。是則就少爲無懈緩也。其内上旬五ケ日者。可爲御分。毎日可令持參宮寺之旨。被書下C常所云々。行政奉行之。

読下し                     つるがおか じょうげぐう  じょうとうゆ  こと  だいみょうら  えき    ため  まいげつけちばん  しん  らる  べ   のよし
建久六年(1195)八月小廿九日辛巳。鶴岳の上下宮の常灯油の事、大名等に役さん爲、毎月結番し進じ被る可し之由、

 ひごろさだ  おお  らる  のところ  ままたいかんのきこ  あ     よっ  きょう にんずう  かぞう    まいにち  けちばん    なり
日來定め仰せ被る之處、間對捍之聞へ有り。仍て今日人數を加増す。毎日に結番する也。

これすなは すくな   つ   けかん な       ためなり
是則ち少きに就き懈緩無からん爲也。

そ  うちじょうじゅん いつかにちは  ごぶんたるべ     まいにち ぐうじ  じさんせし  べ   のむね  きよつね  ところ かきくださる   うんぬん
其の内上旬の五ケ日者、御分爲可し。毎日宮寺へ持參令む可し之旨、C常@の所に書下被ると云々。

ゆきまさこれ ぶぎょう
行政之を奉行す。

参考@C常は、足立で雜色の長。

現代語建久六年(1195)八月小二十九日辛巳。鶴岡八幡宮の上下の宮の常に絶やさない灯明の油代について、大物の御家人の大名に負担させるために、月ごとの順番を組んで差し出させるように、普段決めておりましたが、たまに滞納があると聞いております。そこで、今日から人数を増やすことにして、日ごとの順番に決めました。これなら、一度の負担が少ないので、滞納はないでしょう。その内の月初めの五日間は、頼朝の分として幕府の負担です。毎日八幡宮寺へ持っていくように、足立清常の所属に文書を出すことにしたそうです。二階堂藤原行政が担当します。

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