吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)十月大

建久六年(1195)十月大一日壬子。武藏國以下御分國所課本所乃貢事。可致不日沙汰之旨。有嚴密仰。而今年土民等愁申損亡事等間。定難有合期進濟歟之由。奉行人右衛門尉能員。散位行政等申之云々。

読下し                   むさしのくに いげ    ごぶんこく   しょか   ほんじょ  のうぐ  こと
建久六年(1195)十月大一日壬子。武藏國以下の御分國の所課、本所の乃貢の事、

ふじつ   さた いた  べ   のむね  げんみつ  おお  あ
不日に沙汰致す可し之旨、嚴密の仰せ有り。

しか    ことし   どみんら そんぼう  ことなど  うれ  もう    かん  さだ    ごうご  しんさいあ   がた      かのよし
而るに今年、土民等損亡の事等を愁い申すの間、定めて合期の進濟有り難きこと歟之由、

ぶぎょうにんうえもんのじょうよしかず さんに ゆきまさら これ もう    うんぬん
奉行人右衛門尉能員、散位@行政等之を申すと云々。

参考@散位は、位はあるが官職についていない。

現代語建久六年(1195)十月大一日壬子。武蔵国を始めとする頼朝が管理している関東御分国の税金について、最上級荘園領主の本所への年貢について、日を置かずに処理するように、厳しい命令がありました。それなのに今年は、農民達が飢饉だと嘆いて云うので、おそらく納期までの納付は難しいだろうと、担当の比企右衛門尉能員、散位藤原行政が報告しましたとさ。

建久六年(1195)十月大三日甲寅。天文博士資元朝臣去月十七日書状參着。太白變事。所副進一巻勘文也。

読下し                   てんもんはくじ すけもとあそん  さんぬ つきじうしちにち しょじょうさんちゃく
建久六年(1195)十月大三日甲寅。天文博士@資元朝臣の去る月十七日の書状參着す。

たいはくへん   こと  いっかん  かんもん  そ   しん    ところなり
太白A變ずる事、一巻の勘文を副へ進ずる所也。

参考@天文博士は、律令制で陰陽寮に属し、天文の観測と天文生の教授にあたった。Goo電子辞書から
参考A
太白星(タイハクセイ)は、金星。参考の【1】

現代語建久六年(1195)十月大三日甲寅。京都朝廷の天文博士の資元さんの先月十三日付の手紙が届きました。金星の軌道の変化について、一巻の上申書を添えて送ってきました。

建久六年(1195)十月大七日戊午。鶴岳臨時祭也。將軍家御參宮。江間太郎。北條五郎。伊豆守義範。豊後守季光。江左衛門大夫成季以下供奉云々。有御經供養。導師大學法眼行慈云々。

読下し                   つるがおか りんじさい なり  しょうぐんけごさんぐう
建久六年(1195)十月大七日戊午。鶴岳の臨時祭@也。將軍家御參宮。

 えまのたろう   ほうじょうのごろう  いずのかみよしのり  ぶんごのかみすえみつ  えのさえもんたいふなりすえ いげ  ぐぶ    うんぬん
江間太郎、北條五郎、 伊豆守義範、 豊後守季光、 江左衛門大夫成季以下供奉すと云々。

おきょう   くよう あ     どうし  だいがくほうげんぎょうじ  うんぬん
御經の供養有り。導師は大學法眼行慈と云々。

参考@臨時祭は、天文の異変があったので、ここで臨時祭りをしたらしい。おそらく大般若経であろう。

現代語建久六年(1195)十月大七日戊午。鶴岡八幡宮の臨時の祭事です。将軍頼朝様はお参りです。江間太郎泰時、北条五郎時連、伊豆守山名義範、豊後守毛呂季光、大江左衛門大夫成季以下がお供をしましたとさ。お経(大般若経)をあげました。指導僧は大学法行慈だそうです。

建久六年(1195)十月大八日乙未。貢馬八疋被進京都。和泉大掾國守相具之云々。

読下し                    くめ はっぴききょうと  すす  らる    いずみのだいじょうくにもり これ  あいぐ    うんぬん
建久六年(1195)十月大八日己未。貢馬八疋京都へ進め被る。 和泉大掾國守 之を相具すと云々。

現代語建久六年(1195)十月大八日己未。朝廷へ捧げる馬八頭を京都へ贈りました。和泉大掾国守がこれを連れて行きましたとさ。

建久六年(1195)十月大十一日壬戌。護念上人茲應自越後國參上。佐々木三郎兵衛尉盛綱所執申也。將軍家有御對面。是故六條廷尉禪門末子。幕下叔父也。仍礼節殊甚深云々。遁俗之後。兼學頚密兩宗。剩修驗其徳。近年點越後國加地庄菅谷山。摸天台山無動寺地形。建立一伽藍。安置不動明王尊像。其傍搆草庵居住。練行日新云々。

読下し                     ごねんしょうにんじおう   えちごのくによ   さんじょう   ささきのさぶろうひょうえのじょうもりつな と  もう ところなり
建久六年(1195)十月大十一日壬戌。護念上人茲應、越後國自り參上す。 佐々木三郎兵衛尉盛綱 執り申す所也。

しょうぐんけ ごためん あ     これ  ころくじょうていじょうぜんもん  ばっし   ばっか   おじ なり  よっ  れいせつこと はなは ふか   うんぬん
將軍家御對面有り。是、 故六條廷尉禪門 が末子、幕下の叔父也。仍て礼節殊に甚だ深いと云々。

ぞく  のが    ののち  けんみつりょうしゅう けんがく  あまり   そ   とく  しゅげん
俗を遁るる之後、頚密兩宗を兼學し、剩さへ其の徳を修驗す。

きんねん えちごのくにかぢのしょうすがやさん  てん    てんだいさん むどうじ  ちけい  も     いちがらん  こんりゅう    ふどうみょうおうそんぞう あんち
近年、越後國加地庄@菅谷山Aを點じ、天台山無動寺の地形を摸し、一伽藍を建立し、不動明王尊像を安置す。

 そ かたわら そうあん  かま  きょじゅう   れんぎょう ひ  あらた     うんぬん
其の傍に草庵を搆へ居住す。練行日に新なりと云々。

現代語建久六年(1195)十月大十一日壬戌。護念上人茲応が、越後国からやってまいりました。佐々木三郎兵衛尉盛綱が取り持ちました。頼朝様はお会いになられました。この人は、故六条廷尉禅門為義の末っ子で、頼朝様の叔父にあたります。それなので、礼儀を厚くお迎えしました。世俗を離れて、顕教密教両方の仏法を勉学なされ、そればかりか徳を積む修行も積んでおります。近年、越後国加治庄の菅谷山に比叡山の無動寺の地形をまねて、一つのお堂を建立して、不動明王像を祀りました。その隣に庵を立てて住んでおります。修行は日々新たに積んでおります。

参考@加地庄は、旧北蒲原郡加治川村。現在の新発田市下今泉に「加治駅」あり。佐々木三郎盛綱が地頭。

説明A菅谷寺は、新潟県新発田市菅谷860の菅谷寺(かんこくじ)の菅谷不動。千葉県佐原の荘厳寺の記事の「菅谷不動尊縁起」に、抑も菅谷不動尊は印度の仏師ビシュカツマの作にして三国伝来の尊像にして日本三不動の一なり。比叡山無動寺に安置せられること三百五十年、時に護持の僧頼朝公の叔父君護念上人専心修行の折、一夜の夢に尊像現れ我が首を持ちて廻国修行すべし、吾が住まらん地にぞ至るべしと。即ち上人御首を笈に納めて行脚すること数月、越後国蒲原郡菅谷の里に至りて忽ち霊感を得て庵を結び一宇を建立し尊像を安置し奉る。建久三年弥生の月雷電走りて伽藍悉く焼失す。

建久六年(1195)十月大十三日乙丑。故木曾左馬頭義仲朝臣右筆有大夫房覺明者。元是南都學侶也。義仲朝臣誅罸之後。歸本名。号信救得業。當時住筥根山之由。就聞食及之。山中之外。不可出于鎌倉中并近國之旨。今日被遣御書於別當之許云々。

読下し                      こ きそ さまのかみ よしなかあそん  ゆうひつたいふぼうかくみょう      ものあ     もと  これ なんと  がくりょなり
建久六年(1195)十月大十三日甲子。故木曾左馬頭義仲朝臣が右筆大夫房覺明という者有り。元は是南都の學侶也。

よしなかあそんちうばつののち  ほんみょう かえ   しんぎょうとくごう ごう
義仲朝臣誅罸之後、本名に歸り、信救得業@と号す。

とうじ はこねやま  す    のよし  これ  き     め   およ    つ     さんちうのそと  かまくらちうなら    きんごくに いで  べからずのむね
當時筥根山に住む之由、之を聞こし食し及ぶに就き、山中之外、鎌倉中并びに近國于出る不可之旨、

きょう おんしょを べっとうのもと  つか  さる    うんぬん
今日御書於別當之許へ遣は被ると云々。

参考@得業は、奈良では三会の立義を勤め終えた僧。

現代語建久六年(1195)十月大十三日甲子。故木曽左馬頭義仲の文書代筆担当側近の大夫坊覚明と云う者がおります。元々は奈良の学問を修める僧侶です。木曽義仲が滅ぼされた後、元の奈良の寺へ帰り、信救得業と名乗っていました。今は、箱根山(箱根権現)に住んでいると、お聞きになられたので、箱根山の外や鎌倉の中それに関東へ出てはいけないと、今日、手紙を箱根神社の長に出させましたとさ。

説明@信救得業は、10巻建久1年(1190)5月3日に南御堂での一条能保妻追善の仏事の導師をしている。又、14巻建久5年(1194)10月25日に南御堂での鎌田正C追善で願文を草案している。いつのまにか南御堂から抜け出したのか?

建久六年(1195)十月大十五日丁夘。大姫公日來御病惱。寢食乖例。身心非常。偏邪氣之所致歟。護念上人依仰被奉加持之。仍今日令復本給。縡之嚴重。法之効驗。將軍殊隨喜給。勸賞求其次。爲興隆佛法。可被寄附一庄於不動堂之旨。雖被仰出。稱有存念。敢不被諾申云々。聖者深思。凡愚難測者歟。

読下し                     おおひめぎみひごろびょうのう    ねじき れい  そむ    しんしんつねなら  ひとへ じゃきの いた ところか
建久六年(1195)十月大十五日丙寅。大姫公日來御病惱し、寢食例に乖き、身心常非ず。偏に邪氣之致す所歟。

ごねんしょうにん  おお    よっ  これ   かじ  たてまつらる   よっ  きょうふくほんせし  たま    こんとのげんじゅう ほうのこうけん  しょうぐんこと  ずいき  たま
護念上人、仰せに依て之を加持し奉被る。仍て今日復本令め給ふ。縡之嚴重、法之効驗。將軍殊に隨喜し給ふ。

けんじょうそ ついで もと    ぶっぽうこうりゅう ため    いちしょうを ふどうどう   きふ さる  べ   のむね  おお  いださる   いへど
勸賞其の次を求め、佛法興隆の爲に、一庄於不動堂に寄附被る可き之旨、仰せ出被ると雖も、

ぞんねんあ   しょう   あへ  だく  もうされず   うんぬん  せいじゃ  ふか おも      およ  ぐ   はか  がた  ものか
存念有りと稱し、敢て諾し申被不と云々。聖者の深き思いは、凡ぞ愚の測り難き者歟。

現代語建久六年(1195)十月大十五日丙寅。大姫君(数え年18歳)は普段から病気です。寝食が普通ではなく、心身も通常でなくなっています。邪気が取り付いているからでしょうか。護念上人が頼朝様の命令でこれを加持祈祷しましたので、今日は治ってしまいました。きちんとやったので、すぐその効験が現れたと、将軍頼朝様は特に大喜びをしました。褒美を与え、そのついでに仏法興隆のために庄園を一箇所不動堂に寄付したいと申し出ましたけど、思うところがあるのでとあえて承諾をしませんでしたとさ。えらい聖者が何を考えているのかなんて、一般の凡人にはわかりませんね。

建久六年(1195)十月大十七日己巳。美濃國地頭等所當難濟事。被仰下之間。早可令催進之旨。今日被仰遣相摸守惟義之許云々。

読下し                     みののくに   ぢとうら   しょとう す  がか  こと  おお  くださる  のかん
建久六年(1195)十月大十七日戊辰。美濃國の地頭等が所當濟み難き事、仰せ下被る之間、

はや  もよお しん  せし  べ   むね  きょう さがみのかみこれよしのもと  おお  つか  さる    うんぬん
早く催し進じ令む可し之旨、今日相摸守惟義之許へ仰せ遣は被ると云々。

現代語建久六年(1195)十月大十七日戊辰。美濃国の地頭達が、年貢を滞納していると、朝廷から云ってきたので、早く納めるようにと、今日大内相模守惟義に命令を出しましたとさ。

建久六年(1195)十月大廿日壬申。貢馬三疋重被進京都。今曉進發云々。

読下し                     くめ さんびきかさ    きょうと   しん  らる   こんぎょうしんぱつ   うんぬん
建久六年(1195)十月大廿日辛未。貢馬三疋重ねて京都へ進ぜ被る。今曉進發すと云々。

現代語建久六年(1195)十月大二十日辛未。朝廷へ献納する馬三頭を続けて京都へ贈ります。今朝出発したそうです。

建久六年(1195)十月大廿一日癸酉。御持佛堂造營。有事始。而左近將監能直。左京進仲業等奉行之。將軍家令監臨給云々。

読下し                     おんじぶつどうぞうえい ことはじめあ   しか    さこんしょうげんよしなお さきょうのしんあかなりら これ ぶぎょう
建久六年(1195)十月大廿一日壬申。御持佛堂造營の事始有り。而して左近將監能直、左京進仲業等之を奉行す。

しょうぐんけかんりんせし たま    うんぬん
將軍家監臨令め給ふと云々。

現代語建久六年(1195)十月大二十一日壬申。頼朝様の守り本尊の仏像をお祀りするお堂の造作始めです。そこで、大友左近將監能直と右京進仲業が担当します。将軍頼朝様も見物に来ました。

説明御持佛堂は、頼朝の生年は久安三年四月八日(1147.05.09)なので、四月の本尊は普賢菩薩。或いは久安三年は丁卯なので、卯年は文殊菩薩。なお、幼少時からの持仏の二寸銀の観音は、文治五年の奥州征討の際に堂はできていたものと思われるが、建て直したのかも知れない。いずれにせよわからない。

建久六年(1195)十月大廿六日戊寅。若公御參鶴岳八幡宮并三浦栗濱大明神等給。北條五郎。比企右衛門尉能員以下五十余人供奉云々。

読下し                     わかぎみ つるがおかはちまんぐうなら みうら くりはまだいみょうじんら  ぎょさん  たま
建久六年(1195)十月大廿六日丁丑。若公、鶴岳八幡宮并びに三浦栗濱大明神@等に御參し給ふ。

ほうじょうのごろう ひきのうえもんのじょうよしかず いげ  ごじうよにん  ぐぶ     うんぬん
北條五郎、比企右衛門尉能員以下五十余人供奉すと云々。

参考@栗濱大明~は、神奈川県横須賀市久里浜8丁目29の住吉神社

現代語建久六年(1195)十月大二十六日丁丑。若君万寿様(数えの十四歳)が、鶴岡八幡宮と三浦の久里浜大明神(住吉神社)にお参りです。北条五郎時連、比企右衛門尉能員以下五十人もお供をしました。

建久六年(1195)十月大廿七日己夘。若公自三浦令歸給。介義澄献御引出物。以其次。入御和田左衛門尉義盛宅云々。

読下し                     わかぎみみうらよ   かえ  せし  たま   すけよしずみおんひきでもの けん
建久六年(1195)十月大廿七日戊寅。若公三浦自り歸ら令め給ふ。介義澄御引出物を献ず。

 そ  ついで もっ    わだのさえもんのじょうよしもり  たく  にゅうぎょ   うんぬん
其の次を以て、和田左衛門尉義盛の宅に入御すと云々。

現代語建久六年(1195)十月大二十七日戊寅。若君万寿様(数えの十四歳)が、三浦からお帰りです。三浦介義澄は土産に引き出物を用意しました。その帰りのついでに和田左衛門尉義盛の家へ寄りましたとさ。

建久六年(1195)十月大廿八日庚辰。護念上人歸越後國。雖令留之給。聚落之交不庶畿之由答申。楚忽進發云々。

読下し                     ごねんしょうにんえちごのくに かえ
建久六年(1195)十月大廿八日己卯。護念上人越後國へ歸る。

これ  とど  せし  たま   いへど   じゅらくのまじは   しょきせず のよしこた  もう     そこつ  しんぱつ    うんぬん
之を留め令め給ふと雖も、聚落之交りは庶畿不之由答へ申し、楚忽に進發すと云々。

現代語建久六年(1195)十月大二十八日己卯。護念上人茲応が、越後国へ帰ります。頼朝様は引き留めましたが「人が大勢の所は望む所ではありませんので」と云って、早々に出発をしてしまいましたとさ。

十一月へ

吾妻鏡入門第十五巻

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