吾妻鏡入門第十六巻

吾妻鏡第十六巻序文

建久十年四月廿七日爲正治元年(1199)己未・正治二年(1200)庚申

けんきゅう             しょうじがんねん   つちのとひつじ な    しょうじ          かのえさる
建久十年四月廿七日正治元年(1199)己未と爲す・正治二年(1200)庚申

土御門院。諱爲ー〔仁〕。後鳥羽院第一皇子。御母承明門院〔内大臣通親公女。實法印能圓女〕
 建久九年(1198)十一月受禪。同三月御即位〔春秋四歳〕。元久二年(1205)正月三日御元服〔十一〕。承元四年(1210)十一月廿五日御脱屣。承久三年(1221)十一月一日遷御土佐國。後日阿波國。寛喜三年(1231)月日落御餝。同十一月十一日崩〔三十七〕。

つちみかどいん いみなため 〔ひと〕    ごとばいん    だいいちみこ  おんはは しょうめいもんいん 〔ないだいじんみちちかこう むすめ  じつ ほういんのうえん むすめ〕
土御門院。諱爲ー〔仁〕。後鳥羽院の第一皇子。御母は 承明門院@〔内大臣通親公の女。 實は法印能圓の女。〕

                     じゅぜん   おな    さんがつ ごそくい  〔しゅんじゅうよんさい〕                      ごげんぷく  〔じういち〕
 建久九年(1198)十一月受禪A。同じき三月御即位〔春秋四歳〕元久二年(1205)正月三日御元服〔十一〕

                            ごだっし
 承元四年(1210)十一月廿五日御脱屣B

                          とさのくに  せんご   ごじつあわのくに                      おんかざり おと                 ほう   〔さんじうしち〕
 承久三年(1221)十一月一日土佐國へ遷御C。後日阿波國へ。寛喜三年(1231)月日御餝を落すD同十一月十一日崩ず〔三十七〕。

参考@承明門院は、在子。
参考A受禪は、位を譲り受ける。
参考B
脱屣は、天皇が靴を脱ぐで退位する。
参考C
遷御は、承久の乱後流罪になった。
参考D御餝を落すは、病のため又は死に望み出家する。

攝政内大臣〔基通、普賢寺〕京極攝政殿一男。母從三位藤〔忠隆卿女〕。
 治承三年(1779)十一月十六日任内大臣〔元二位中將〕
爲關白氏長者。十七日敍正二位。勅授牛車。給随身兵杖。并可列左右大臣上之由 宣下。四年二月廿一日改關白爲攝政〔依踐祚也〕 勅授兵杖如故之由 宣下。四月廿一日敍從一位〔御即位次〕壽永元年(1182)四月廿四日賜内舎人二人。爲随身。六月廿七日上表内大臣。勅許。二年(1183)八月廿日更爲攝政〔法皇詔〕十一月廿一日停攝政。元暦元年(1184)正月廿二日如元爲攝政〔第二度〕文治二年(1186)三月十二日停攝政。三年三月一日給随身兵杖。建久七年(1196)十一月廿五日更爲關白〔第三度〕九年(1198)正月十一日改關白爲攝政。建仁二年(1202)十一月廿七日停攝政。建永元年(1206)三月十九日賜兵杖随身。承元二年(1208)十一月五日出家。〔法名行理〕天福元年(1233)五月廿九日薨〔年七十四〕

せっしょうないだいじん 〔もとみち ふけんじ〕   きょうごくせっしょうどの いちなん  はは  じゅさんみとう  〔ただたかきょう むすめ〕
攝政内大臣〔基通@、普賢寺〕。京極攝政殿が一男。母は從三位藤〔忠隆卿の女〕

                           ないだいじん 〔もと  にいのちうじょう〕   にん   かんぱくうじのちょうじゃ な
 治承三年(1779)十一月十六日内大臣〔元は二位中將〕に任ず。關白氏長者と爲す。

       しょうにい   じょ    ぎっしゃ  ちょくじゅ    ずいしんへいじょう  たま      なら    さゆうだいじん  うえ  れっ  べ   のよしせんげ
 十七日正二位に敍す。牛車を勅授し。随身兵杖を給はる。并びに左右大臣の上に列す可し之由宣下す。

               かんぱく あらた せっしょう な    〔せんそ  よっ  なり 〕    ちょくじゅへいじょう もと  ごと  のよしせんげ
 四年二月廿一日關白を改め攝政と爲す〔踐祚に依て也A。勅授 兵杖 故の如き之由宣下す。

           じゅいちい   じょ   〔ごそくい  ついで〕                         うちのとねりふたり  たま      ずいしんたり
 四月廿一日從一位に敍す〔御即位の次〕壽永元年(1182)四月廿四日内舎人二人を賜はる。随身爲。

            ないだいじん じょうひょう  ちょっきょ                      さら  せっしょう  な    〔ほうおう みことのり〕              せっしょう  と
 六月廿七日内大臣を上表す。勅許さる。二年(1183)八月廿日更に攝政と爲す〔法皇の詔り〕、十一月廿一日攝政を停めらる。

                         もと  ごと  せっしょうたり 〔だいにど〕    
 元暦元年(1184)正月廿二日元の如く攝政爲〔第二度〕

                        せっしょう  と                          ずいしんへいじょう  たま
 文治二年(1186)三月十二日攝政を停めらる。三年(1187)三月一日随身兵杖を給はる。

                           さら  かんぱく  な    〔だいさんど〕                      かんぱく  あらた せっしょう な
 建久七年(1196)十一月廿五日更に關白と爲す〔第三度〕。九年(1198)正月十一日關白を改め攝政と爲す

                          せっしょう  と                                ずいしんへいじょう  たま
 建仁二年(1202)十一月廿七日攝政を停めらる。建永元年(1206)三月十九日随身兵杖を給はる。

                         しゅっけ   〔ほうみょうぎょうり〕                          こう    〔とししちじうし〕
 承元二年(1208)十一月五日出家す〔法名行理〕。天福元年(1233)五月廿九日薨ず〔年七十四〕。

参考@基通は、近衛基通。
参考A踐祚に依て也は、高倉天皇が清盛の圧力で譲り安徳天皇の即位によって降ろされた。

攝政左大臣〔良經〕月輪關白殿二男。
 建仁二年(1202)十一月廿七日爲氏長者。蒙内覽 宣旨。十二月廿五日蒙攝政詔。可列太政大臣〔頼實〕上之由宣下。元久元年(1204)正月五日敍從一位。十二月十四日轉任太政大臣。二年(1205)四月廿七日上太政大臣表。建永元年(1206)三月七日薨〔年卅八〕

せっしょうないだいじん 〔よしつね〕 つきのわかんぱくどのじなん
攝政左大臣@〔良經〕月輪關白殿A二男。

                           うじのちょうじゃ な    ないらん せんじ  こうむ              せっしょう みことの こうむ
 建仁二年(1202)十一月廿七日氏長者と爲す。内覽の宣旨を蒙る。十二月廿五日攝政の詔りを蒙る。

  だじょうだいじん 〔よりざね〕  うえ  れっ  べ   のよしせんげ
 太政大臣〔頼實〕の上に列す可し之由宣下。

                       じゅいちい   じょい              だじょうだいじん てんにん                    だじょうだいじん じょうひょう
 元久元年(1204)正月五日從一位に敍す。十二月十四日太政大臣に轉任。二年(1205)四月廿七日太政大臣を上表す。

                       こう      〔としさんじうはち〕
 建永元年(1206)三月七日薨ず。〔年卅八〕

参考@攝政左大臣は、後京極。
参考A月輪關白殿は、九条兼実。

参考義経は謀反人とされた時、彼と同音だったので、義行と変えられ義顕とも変えられた。

 已上當將軍一代〔自正治元年(1199)二月。至建仁三年(1203)九月〕帝王攝關奉載一處也。

  いじょう とうしょうぐんいちだい  〔                     よ                           いた        〕  ていおうせっかん いっしょ の たてまつ なり
 已上當將軍一代。〔正治元年(1199)二月自り。建仁三年(1203)九月に至る。〕帝王攝關 一處の載せ奉る也。

建久十年(1199)二月へ

吾妻鏡入門第十六巻

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