吾妻鏡入門第十六巻

正治元年(1199)己未五月小

正治元年(1199)五月小七日戊戌。雨降。醫師時長昨日自京都參着。左近將監能直相具之。廻伊勢路參向云々。旅舘以下事者。兵庫頭并八田右衛門尉知家等。可致沙汰之由。含御旨者也。今日時長自掃部頭龜谷家。移住于畠山次郎重忠南御門宅。是令候近々。姫君御病惱。爲奉療治也。此事度々雖辞申。去月早可參向關東之旨。被下 院宣之間。如此云々。

読下し                   あめふ     いし ときなが   さくじつきょうとよ  さんちゃく
正治元年(1199)五月小七日戊戌。雨降る。醫師@時長、昨日京都自り參着す。

さこんしょうげんよしなお これ  あいぐ     いせじ   めぐ  さんこう    うんぬん
左近將監能直
A之を相具し、伊勢路を廻りB參向すと云々。

りょかん いげ  ことは  ひょうごのかみなら  はったのうえもんのじょうともいえら   さた いた  べ   のよし  おんむね ふく  ものなり
旅舘以下の事者、兵庫頭并びに八田右衛門尉知家等が沙汰致す可し之由、御旨を含む者也。

きょう    ときなが  かもんのかみ かめがやつ いえよ   はたけやまのじろうしげただ みなみみかど たく  いじゅう
今日、時長、掃部頭の 龜谷の 家自り、畠山次郎重忠の 南御門の宅に移住す。

これ ちかぢか そうら せし    ひめぎみ  ごびょうのう  りょうちたてまつ  ためなり
是、近々に候は令め、姫君の御病惱を療治奉らん爲也。

こ   こと  たびたび じ  もう   いへど   さんぬ つきはや  かんとう  さんこう  べ   のむね  いんぜん  くださる  のかん  かく  ごと   うんぬん
此の事、度々辞し申すと雖も、去る月早く關東に參向す可し之旨、院宣を下被る之間、此の如しと云々。

参考@醫師は、朝廷に典薬寮に典薬師十名。医師十名を毎年選考し、上位十名を置く。
参考A能直は、大友能直で小田原市上下大友。波多野の分家。
参考B伊勢路を廻りは、一部海路を使った。
参考C掃部頭の龜谷の家は、亀谷の岩舟地蔵のあたりと思われる。
参考D
畠山次郎重忠の南御門の宅は、頼朝墓入口の前と思われる。

現代語正治元年(1199)五月小七日戊戌。雨降りです。名医の丹波時長が昨日京都から着きました。左近将監大友能直が、伊勢街道を通ってまいりましたとさ。宿泊所を始め、兵庫頭大江広元と八田右衛門尉知家が手配するようにとの命を受けています。
今日、時長は掃部頭中原親能の亀ケ谷の生活用中屋敷から、畠山次郎重忠の南御門の着替用上屋敷に移りました。これは、御所の近所に居て、乙姫の病気を治療するためです。時長は何度も辞退したので、先月早く關東に行くように、院から命令を出したので、この通りになりましたそうな。

正治元年(1199)五月小八日己亥。陰。時長始献朱砂丸於姫君。仍賜砂金廿兩以下祿云々。

読下し                   くも    ときなが  はじ   しゅしゃがん を ひめぎみ けん    よっ  さきん にじうりょういげ   ろく  たまは   うんぬん
正治元年(1199)五月小八日己亥。陰り。時長、始めて朱砂丸@於姫君に献ず。仍て砂金廿兩以下の禄を賜ると云々。

参考@朱砂丸は、硫化第二水銀。天然に辰砂として算出する黒と赤がある。医薬・顔料につかう。

現代語正治元年(1199)五月小八日己亥。曇りです。時長が初めて朱砂丸(水銀から出来た薬)を乙姫に差し出しました。それによって砂金二十兩などの褒美を与えられましたとさ。

正治元年(1199)五月小十三日甲辰。北條殿。三浦介。同十郎左衛門尉。八田右衛門尉。梶原平三已下結番。日別可令饗應醫師之旨。所被定下也。仍今日北條殿賜垸飯於時長云々。

読下し                     ほうじょうどの みうらのすけ おな   じうろうさえもんのじょう  はったのうえもんのじょう  かじわらのへいざ いげ  けちばん
正治元年(1199)五月小十三日甲辰北條殿、三浦介、同じき十郎左衛門尉、八田右衛門尉、梶原平三已下、結番し@

ひべつ   いし   きょうおうせし べ    むね  さだ  くださる ところなり   よっ  きょう   ほうじょうどの  おうばん を ときなが  たまは   うんぬん
日別に醫師を饗應令む可しの旨、定め下被る所也。仍て今日、北條殿が椀飯
A於時長に賜ると云々。

参考@結番は、番を結ぶで班を決める。
参考A垸飯は、ご馳走を振舞うこと。正月には御家人の権勢順に將軍に振舞う。椀飯振舞いの語源。

現代語正治元年(1199)五月小十三日甲辰。北条時政殿、三浦介義澄。同十郎左衛門尉義連、八田右衛門尉知家、梶原平三景時以下の人々が班を決めて、毎日時長を接待するよう決め、命じられましたので、今日は北条時政殿が時長を接待しました。

正治元年(1199)五月小十六日丁未。丑剋大地震。」今日。以參河國薑御厨并橋良御厨地頭職。令去進太神宮給。兵庫頭廣元奉行之云々。

読下し                     うしのこくおおじしん
正治元年(1199)五月小十六日丁未。丑剋大地震。」

きょう   みかわのくに はじかみのみくりや なら   はしよしのみくりや ぢとうしき もっ    だいじんぐう  さ   しん  せし  たま
今日、參河國 薑御厨@并びに橋良御厨Aの地頭職を以て、太神宮に去り進じ令め給ふ。

ひょうごかみひろもとこれ ぶぎょう   うんぬん
兵庫頭廣元之を奉行すと云々。

参考@薑御厨は、はじかみのみくりや、愛知県豊橋市仁連木町(にれんぎちょう)。
参考A橋良御厨は、はしらのみくりや、愛知県豊橋市柱一番町。

現代語正治元年(1199)五月小十六日丁未。午前二時頃に、大地震がありました。今日、三河国(愛知県)のはじかみの御厨(豊橋市仁連木町)と柱良御厨(豊橋市柱一番町)の地頭職を止めさせて、伊勢神宮へ寄付をしました。兵庫頭大江広元が指令担当をしましたとさ。

正治元年(1199)五月小十七日戊申。勝長壽院別當惠眼房上洛。自中將家賜御馬。又諸人餞送云々。

読下し                     しょうちょうじゅいんべっとう えがんぼう じょうらく   ちうじょうけよ   おんうま  たま      また  しょにんせんそう    うんぬん
正治元年(1199)五月小十七日戊申。勝長壽院別當 惠眼房 上洛す。中將家自り御馬を賜はり。又、諸人餞送すと云々。

現代語正治元年(1199)五月小十七日戊申。勝長寿院の筆頭の恵眼房が京都へ上ります。中将家頼家様から馬が贈られました。又、他の人々も餞別を贈ったんだそうです。

説明惠眼房は、六巻文治二年正月八日とここの二回だけ出演なので、もう帰ってこないのか?

正治元年(1199)五月小廿二日癸丑。丑剋。濱邊燒亡。人屋三十餘家災。平民部大夫。中澤兵衛尉。飯富源太等之家在其中云々。

読下し                     うのこく  はま あたりしょうぼう
正治元年(1199)五月小廿二日癸丑。丑剋。濱の邊燒亡す。

じんおくさんじうよけ わざわ  へいみんぶたいふ  なかざひょうえのじょう いいとみげんたらの いえ そ  なか  あ    うんぬん
人屋三十餘家災い。平民部大夫、中澤兵衛尉
@、飯富源太A等之家其の中に在りと云々。

参考@中澤兵衛尉は、建久元年(1190)十一月大七日、建久六年(1195)三月大十日、とここの三回しか出演が無く、実名が分からない。
参考A飯冨源太は、宗季で上総國飯富庄で、千葉県袖ヶ浦市飯富。

現代語正治元年(1199)五月小廿二日癸丑。午前二時頃に、由比ガ浜の方で火事がありました。人々の家屋三十余が焼けました。平民部大夫盛時、中沢兵衛尉、飯富源太宗季達の家がその中にあったんだとさ。

正治元年(1199)五月小廿九日庚申。今夕。姫君聊有御食事。上下喜悦之外無他云々。

読下し                     こんゆう ひめぎみ いささ おしょくじ あ     じょうげ きえつのほか    た な     うんぬん
正治元年(1199)五月小廿九日庚申。今夕、姫君 聊か御食事有り。上下喜悦之外、他無しと云々。

現代語正治元年(1199)五月小廿九日庚申。今日、夕方になって乙姫は多少食事をとることが出来ました。身分の高いものも低いものも皆喜びました。

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