正治元年(1199)己未九月大
正治元年(1199)九月大九日戊戌。鶴岳八幡宮神事也。廣元朝臣爲奉幣御使參宮云々。 |
読下し つるがおかはちまんぐう しんじなり ひろもとあそん
ほうへい おんし な さんぐう うんぬん
正治元年(1199)九月大九日戊戌。鶴岳八幡宮の神事也。廣元朝臣奉幣の御使と爲し參宮すと云々。
現代語正治元年(1199)九月大九日戊戌。鶴岡八幡宮の重陽の節句の祭事です。大江広元さんが幣を捧げる代理としてお参りをしましたとさ。
正治元年(1199)九月大十七日丙午。京都大番役。依有懈緩之聞。可加催促之旨。被仰諸國守護人等云々。廣元朝臣并景時等奉行之。 |
読下し きょうとおおばんやく
けかんの きこ あ よっ さいそく
くは べ のむね
正治元年(1199)九月大十七日丙午。京都大番役@、懈緩之聞へ有るに依て、催促を加へる可し之旨、
しょこく しゅごにんら おお らる うんぬん ひろもとあそん
なら かげときら これ ぶぎょう
諸國の守護人等に仰せ被ると云々。廣元朝臣并びに景時等A之を奉行す。
参考@京都大番役は、清盛が関東武士を靡かせる為に決めた制度で、手弁当で3年間京都の警護に当たる制度。これを頼朝は半年にし、時頼は三ヶ月にした。守護が御家人に催促して引率していく。
参考A廣元朝臣并びに景時等は、広元は政所別当、景時は侍所別当だから。
現代語正治元年(1199)九月大十七日丙午。京都御所の警護をする京都大番役を、怠けている連中がいると苦情が来ているので、ちゃんと果たすように催促するように諸国の守護に命令を出しましたとさ。大江広元と梶原平三景時が担当しました。
正治元年(1199)九月大廿三日壬子。自日中至黄昏雨下。雷鳴數反。中將家渡御永福寺。可有御鞠之處。依雨被止訖。入御和田左衛門尉第。依召出壯士等被决相撲云々。 |
読下し にっちゅうよ たそがれ いた
あめふ らいめいすうへん ちうじょうけ ようふくじ とぎょ
正治元年(1199)九月大廿三日壬子。日中自り黄昏に至り雨下る。雷鳴數反。中將家永福寺へ渡御す。
おんまりあ
べ
のところ あめ よっ や られをはんぬ わだのさえもんのじょう だい にゅうぎょ よっ そうしら めしいだ
すまい けっせら うんぬん
御鞠有る可き之處、雨に依て止め被訖。 和田左衛門尉の第へ入御す。依て壯士等を召出し相撲を决被ると云々。
現代語正治元年(1199)九月大二十三日壬子。昼間から夕方にかけて雨が降り、雷が何回か鳴りました。中将家頼家様は、永福寺へ参りました。蹴鞠をしようとしたのですが、雨のため中止して、和田左衛門尉義盛の屋敷へ入りました。勇敢な若者達を呼びつけて、相撲の勝負をさせましたとさ。
正治元年(1199)九月大廿五日甲寅。被奉送神馬〔鹿毛駮。秘藏御馬也。被置白鞍〕於諏方上宮。下宮御分御劔〔金作。文龜甲云々〕。 |
読下し しんめ 〔 かげぶち ひぞう おんうまなり しろ くら おかれ 〕 を すわじょうぐう おくられたてまつ
正治元年(1199)九月大廿五日甲寅。神馬〔鹿毛駮、秘藏の御馬也、白い鞍を置被る〕於諏方上宮へ送被奉る。
げくう ごぶん ぎょけん 〔 こがねづくり きっこう もん うんぬん 〕
下宮の御分は御劔〔金作、龜甲の文と云々〕。
現代語正治元年(1199)九月大二十五日甲寅。神様への奉納の馬〔鹿毛のぶちで、特に大事にしている馬です。白塗りの鞍を乗せています〕を諏訪神社の上宮に送りました。下宮への分は剣です〔黄金造りの亀甲紋だそうです〕。
正治元年(1199)九月大廿六日乙夘。於幕府。被供養不動尊一躰。導師葉上房律師榮西。布施被物五重。裹物五。馬一疋也。是於南都。日來被造立。爲掃部頭親能沙汰。去比奉召下之云々。 |
読下し
ばくふ をい ふどうそんいったい くよう さる
正治元年(1199)九月大廿六日乙夘。幕府に於て、不動尊一躰を供養被る。
どうし ようじょうぼうりっしようさい ふせ かづけものいつえ つつみものいつ うまいっぴきなり
導師は葉上房律師榮西。布施は被物五重。裹物五。馬一疋也。
これ
なんと をい ひごろぞうりゅうされ
かもんのかみちかよしさた
な さんぬ ころこれ
めしくだ たてまつ うんぬん
是南都に於て、日來造立被、掃部頭親能沙汰を爲し、去る比之を召下し奉ると云々。
現代語正治元年(1199)九月大二十六日乙卯。幕府の御所で不動明王像の完成供養式を行いました。指導僧は、葉上房律師栄西です。坊さんへのお布施は、かぶり物五枚、風呂敷包み五つ、馬一頭です。この像は、奈良で造られ、掃部頭中原親能が担当して、先日関東へ運んできたものです。