吾妻鏡入門第十六巻

正治元年(1199)己未十一月大

正治元年(1199)十一月小八日丙申。右近將監多好方。去建久四年。依宮人曲賞。自故右大將軍。賜飛騨國荒木郷訖。而於今者。可讓補子息好節之由申之。仍今日被經其沙汰。有御許容。且於彼地不可守護使入部之旨。所被仰下也。北條殿令奉行之給云々。

読下し
正治元年(1199)十一月小八日丙申。

うこんしょうげんおおののよしかた さんぬ けんきゅうよねん  みやびときょく しょう  よっ   こうだいしょうぐん よ     ひだのくに あらきごう  たま   をはんぬ
 右近將監多好方、 去る建久四年@、宮人曲の賞に依て、故右大將軍自り、飛騨國荒木郷Aを賜はり訖。

しか    いま  をい  は   しそくよしとし  ゆず  ぶ   べ   のよしこれ  もう    よっ  きょう そ    さた   へらる     ごきょよう あ
而るに今に於て者、子息好節に讓り補す可き之由之を申す。仍て今日其の沙汰を經被る。御許容有り。

かつう か   ち   をい  しゅごし にゅうぶ べからずのむね  おお  くださる ところなり  ほうじょうどのこれ ぶぎょうせし  たま    うんぬん
且は彼の地に於て守護使入部す不可之旨、仰せ下被る所也。 北條殿之を奉行令め給ふと云々。

参考@去る建久四年は、十三巻建久四年(1193)十一月十二日条にて与えられた。
参考A飛騨國荒木郷は、岐阜県高山市丹生川町折敷地。

現代語正治元年(1199)十一月小八日丙申。京都在住の楽人右近将監多好方は、去る建久四年(1193)に、宮人曲を御家人の子供達に教えたので、命じた故右大将軍頼朝様から、飛騨国荒木郷を与えられました。しかし今となって、倅の好節に譲渡するので、任命して欲しいと云ってきました。そこで今日、その審議をし、許可されました。なお、その土地については、守護は干渉してはいけないと、命じてくれました。北條時政殿が担当指示しましたとさ。

説明A荒木郷は、旧大野郡丹生川村折敷地。荒城川の上流右岸の山間部に位置する。地名の由来は、当地山中の檜、ヒバ、姫子などを、木地師が折敷などの木製品を産出した事による。(斐太後風土記) 1605年(慶長10年)飛騨国郷帳の荒木郷に「玉敷地」とある。 1613年の郷帳では、「折敷地村」として記されている。

正治元年(1199)十一月小十日戊戌。リ。兵庫頭廣元朝臣雖請取連署状。〔訴申景時状。〕心中獨周章。於景時讒侫者雖不能左右。右大將軍御時親致昵近奉公者也。忽以被罪科。尤以不便條。密可廻和平儀歟之由。猶豫之間。未披露之。而今日。和田左衛門尉与廣元朝臣。參會御所。義盛云。彼状定披露歟。御氣色如何云々。答未申之由。義盛瞋眼云。貴客者爲關東之爪牙耳目。已歴多年也。怖景時一身之權威。閣諸人之欝陶。寧叶憲法哉云々。廣元云。全非怖畏之儀。只痛彼損亡許也云々。義盛居寄件朝臣之座邊。不恐者爭可送數日乎。可被披露否。今可承切之云々。殆及呵責。廣元稱可申之由。起坐畢。

読下し                     はれ ひょうごのかみひろもとあそん れんしょじょう 〔かげとき  うった  もう  じょう 〕    う   と    いへど しんちうひと しょうしょう
正治元年(1199)十一月小十日戊戌。リ。 兵庫頭廣元朝臣、連署状〔景時を訴へ申すの状〕を請け取ると雖も心中獨り周章す。

かげとき  ざんねい をい  は  そう   あたはず いへど  うだいしょうぐん  おんときした    じっこん  ほうこういた  ものなり  たちま もっ  ざいか  さる
景時の讒侫に於て者左右に不能と雖も、右大將軍の御時親しく昵近の奉公致す者也。忽ち以て罪科に被。

もっと もっ  ふびん  じょう  ひそか わへい  めぐ   べ   か  のよし   `ゆうよのかん   いま  これ  ひろう
尤も以て不便の條、密に和平を廻らす可き歟之由、猶豫之間、未だ之を披露せず。

しか    きょう    わださえもんのじょう   ひろもとあそんと   ごしょ   さんかい
而るに今日、和田左衛門尉、廣元朝臣与、御所で參會す。

よしもり い        か  じょうさだ    ひろう     か   みけしき   いかん  うんぬん  こた  いま  もう      のよし  よしもり め  いから   い
義盛云はく。彼の状定めて披露する歟。御氣色は如何と云々。答へ未だ申さず之由、義盛眼を瞋して云はく。

ききゃくは かんとうのそうが じもく   な     すで たねん  へ   なり
貴客者關東之爪牙耳目と爲し、已に多年を歴る也。

かげときいっしんのけんい  おそ    しょにんのうっとう   さしお   なん  けんぽう  かな  や   うんぬん
景時一身之權威を怖れ、諸人之欝陶を閣く。寧ぞ憲法に叶う哉と云々。

ひろもと い       まった  ふい の ぎ  あらず  ただ か   そんぼう  いた  ばか  なり  うんぬん
廣元云はく。全く怖畏之儀に非。只彼の損亡を痛む許り也と云々。

よしもりくだん あそんの ざ へん   い よ    おそれず ばいかで すうじつ  おく  べ   や
義盛件の朝臣之座邊に居寄せ、恐不ん者爭か數日を送る可き乎。

ひろうさる  べ     いな    いまこれ うけたまは き   べ     うんぬん
披露被る可きや否や。今之を 承り切る可しと云々。

ほと    かしゃく  およ    ひろもともう  べ    のよし  しょう    ざ   た  をはんぬ
殆んど呵責に及ぶ。廣元申す可し之由を稱し、坐を起ち畢。

現代語正治元年(1199)十一月小十日戊戌。晴れです。兵庫頭大江広元は、連判状〔梶原景時を弾劾する訴えの内容です〕を受け取りましたが、一人心を悩ませておりました。梶原景時が告げ口で他人の足を引っ張ってることについては、どうこうするつもりはありません。でも、頼朝様の時代には、とても親しく打ち解けて仕えていた人でした。それが簡単に罪に落とされるのは、とても気の毒な事なので、内緒で平和的に和解するように出来ないかと、考えて引き延ばして、まだ将軍頼家には見せてはおりません。それなのに今日、和田左衛門尉義盛が大江広元と御所で出会いました。

和田義盛は言いました。「あの連判状をお見せしましたか。将軍の反応はどんなものですか。」と。答えは、「まだ云ってません」とのこと。和田左衛門尉義盛は怒って言いました。「貴方は関東の参謀・相談役として、すでに何年もたっているじゃありませんか。梶原平三景時個人の権威を恐れて、皆の鬱積した感情をないがしろにするのは、道理にかなわない事でしょう」だとさ。

大江広元は答えました。「全然おびえているわけではありません。ただ、彼の滅びゆくのが惜しいのですよ」だとさ。

和田左衛門尉義盛は、大江広元の座にいざりよって、「恐れていないのなら、なんで日延べをしているのですか。お見せするか否か、今この場で返答願いたい」とのことです。その態度は、まるっきり怒りをぶちまけております。大江広元は「申しあげましょう」と云って座を立ちました。

正治元年(1199)十一月小十二日庚子。リ。廣元朝臣持參件連署申状。中將家覽之。即被下景時。可陳是非之由被仰云々。

読下し                      はれ  ひろもとあそんくだん れんしょもう  じょう じさん    ちうじょうけこれ  み     すなは かげとき  くださる
正治元年(1199)十一月小十二日庚子。リ。廣元朝臣件の連署申し状を持參す。中將家之を覽て、即ち景時に下被る。

 ぜひ   ちん  べ   のよし  おお  らる    うんぬん
是非を陳ず可し之由、仰せ被ると云々。

現代語正治元年(1199)十一月小十二日庚子。晴れです。大江広元は例の連判状を御所へ持って行きました。中将頼家はこれを見て、すぐに梶原平三景時にくれてしまいました。内容の是非について弁解するように、おっしゃられましたとさ。

正治元年(1199)十一月小十三日辛丑。陰。梶原平三景時雖下給彼状〔訴状〕。不能陳謝。相卒子息親類等。下向于相摸國一宮。但於三郎兵衛尉景茂。暫留鎌倉云々。

読下し                       くも    かじわらのへいざかげとき か  じょう 〔そじょう〕   くだ  たま   いへど   ちんしゃ  あたはず
正治元年(1199)十一月小十三日辛丑。陰り。梶原平三景時の彼の状〔訴状〕を下し給ふと雖も、陳謝に不能。

しそく しんるいら   あいひき   さがみのくに いちのみやに  げこう    ただ  さぶろうひょうえのじょうかげもち をい      かまくら  ざんりゅう   うんぬん
子息親類等を相卒い、相摸國 一宮于 下向す。但し 三郎兵衛尉景茂 に於ては、鎌倉に暫留すと云々。

現代語正治元年(1199)十一月小十三日辛丑。曇りです。梶原平三景時は例の文書〔弾劾状〕を頼家將軍から下げ渡されましたが、何も弁解をしませんでした。子供達や親類を連れて、相摸国一宮の寒川神社へ引き下がりました。ただし、三男の梶原三郎兵衛尉景茂だけは、鎌倉に残留しましたとさ。

正治元年(1199)十一月小十八日丙午。リ。中將家渡御比企右衛門尉能員宅。於南庭有御鞠。北條五郎時連。比企弥四郎。冨部五郎。細野四郎。大輔房源性等候之。其後御酒宴之間。梶原三郎兵衛尉景茂候御前。又右京進仲業取銚子同候。 羽林召景茂。仰云。近日景時振權威之餘。有傍若無人之形勢。仍上諸人一同訴状。仲業即爲訴状執筆也云々。景茂申云。景時。先君之寵愛。殆雖越傍人。於今無其芳躅之上者。以何次可行非儀乎。而愼仲業之翰墨。軼怖諸人之弓箭云々。列坐傍輩。景茂御返事趣神妙之由。密談云々。羽林今夜御逗留也。

読下し                       はれ  ちうじょうけ  ひきのうえもんのじょうよしかず  たく  とぎょ    なんてい  をい  おんまりあ
正治元年(1199)十一月小十八日丙午。リ。中將家、比企右衛門尉能員の宅へ渡御す。南庭に於て御鞠有り。

 ほうじょうごろうときつら  ひきのいやしろう  とみべのごろう   ほそののしろう  だいふぼうへんじょうら これ そうら
北條五郎時連、比企弥四郎、冨部五郎、細野四郎、大輔房源性等之に候う。

そ   ご ごしゅえんのかん  かじわらのさぶろうひょうえのじょうかげもち ごぜん  そうら   また  うきょうのしんなかなり ちょうし  と   おな   そうら
其の後御酒宴之間、 梶原三郎兵衛尉景茂 御前に候う。又、 右京進仲業 銚子を取り同じく候う。

うりん かげもち  め     おお   い       きんじつかげときけんい  ふる  のあま    ぼうじゃくぶじんのけいせいあ    よっ  しょにんいちどうそじょう  あ
羽林景茂を召し、仰せて云はく。近日景時權威を振う之餘り、傍若無人之形勢有り。仍て諸人一同訴状を上ぐ。

なかなり すなは そじょう しっぴつたるなり うんぬん  かげもちもう   い
仲業 即ち訴状の執筆爲也と云々。景茂申して云はく。

かげとき  せんくんのちょうあい ほと    ぼうじん   こ       いへど   いま  をい    そ   ほうしょくな  のうえは   なん ついで もっ   ひぎ  おこな べ  や
景時、先君之寵愛、殆んど傍人を越えると雖も、今に於ては其の芳躅無き之上者、何の次を以て非儀を行う可き乎。

しか    なかなりのかんぼく  つつし  いつ しょにんの ゆみや  おそ   うんぬん  れつざ  ぼうはい  かげもち  ごへんじ おもむき しんみょうのよし  みつだん   うんぬん
而るに仲業之翰墨を愼み。軼に諸人之弓箭を怖ると云々。列坐の傍輩、景茂が御返事の 趣 神妙之由、密談すと云々。

うりん こんや ごとうりゅうなり
羽林今夜御逗留也。

現代語正治元年(1199)十一月小十八日丙午。晴れです。中将家頼家將軍は、比企右衛門尉能員の屋敷へお渡りです。南庭で蹴鞠がありました。北条五郎時連、比企弥四郎時員、冨部五郎、細野四郎、大輔房源性などがこれを行いました。
その後、宴会になりましたが、梶原三郎兵衛尉景茂が頼家様の宴会に同席しました。同様に右京進中原仲業もお銚子を持って同席しました。

頼家様は、梶原景茂をお呼びになって申されました。
「最近、梶原景時は権威を振りかざして、わがまま勝手なふるまいがあった。だから、皆が一同に集まり、弾劾状を提出してきた。そこにいる右京進仲業がその訴え状を書いたんだぞ。」とのことです。
梶原景茂は申しあげました。
「梶原平三景時は、先君頼朝様から可愛がられたのは同僚を超えていましたけど、今ではその特別な扱いもなければ、何をたよりに無道を出来ましょうか。それなので右京進中原仲業の書いた文章に遠慮しているのは、連名で署名した優れた皆様方の弓矢を恐れているからですよ。」だとさ。同席していた連中は、梶原三郎兵衛尉景茂の返事の内容は中々のものだとひそかに密談していました。頼家様は、今日はお泊りです。

正治元年(1199)十一月小十九日丁未。陰。早旦。於能員宅。有御鞠。人數同昨日。但若宮三位房。并僧義印等參加之。午剋還御。能員故献御引出物。御劔一腰。北條五郎時連持參之。御馬一疋〔鴾毛。蛛丸貝鞍〕。比企三郎。同四郎引之。

読下し                       くも    そうたん  よしかず  たく  をい    おんまりあ     にんずうさくじつ  おな
正治元年(1199)十一月小十九日丁未。陰り。早旦、能員の宅に於て、御鞠有り。人數昨日に同じ。

ただ  わかみさんみぼうなら    そうぎいんら これ  さんか     うまのこくかんご    よしかず ことさら おんひきでもの  けん
但し若宮三位房并びに僧義印等之に參加す。午剋還御す。能員 故に御引出物を献ず。

ぎょけんひとこし ほうじょうごろうときつらこれ  じさん    おんうまいっぴき 〔つきげ   くもまるがい   くら 〕    ひきのさぶろう   おな    しろう これ  ひ
御劔一腰。北條五郎時連之を持參す。御馬一疋〔鴾毛 蛛丸貝の鞍〕。比企三郎、同じき四郎之を引く。

現代語正治元年(1199)十一月小十九日丁未。曇りです。早朝に比企能員の屋敷で蹴鞠を行いました。人数は昨日と同じです。但し、若宮三位坊と坊さんの義印がまざりました。昼頃にお帰りです。比企能員は格別に引き出物を差し上げました。太刀一腰を北條五郎時連が持って来て、馬〔月毛、蜘蛛丸貝の鞍つき〕を比企三郎と比企四郎が引いてきました。

正治元年(1199)十一月小卅日戊午。武藏國田文被整之。是故將軍御時。被遂惣檢之後。未及田文沙汰云々。

読下し                     むさしのくに たぶみ これ  ととの らる
正治元年(1199)十一月小卅日戊午。武藏國 田文之を整へ被る。

これ  こしょうぐん  おんとき  そうけん  と   らる  ののち  いま  たぶみ   さた   およ      うんぬん
是、故將軍の御時、惣檢を遂げ被る之後、未だ田文の沙汰に及ばずと云々。

現代語正治元年(1199)十一月小三十日戊午。武蔵国の田畑を書き出した納税台帳をそろえました。これは、前将軍頼朝様の時代に、全ての検地を済ませたのですが、納税台帳として整理するところまで行っていなかったのだそうです。

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吾妻鏡入門第十六巻

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