吾妻鏡入門第十六巻

正治二年(1200)庚申五月大

正治二年(1200)五月大五日己未。小雨降。鶴岡臨時祭。羽林無御參宮。大膳大夫廣元朝臣〔束帶〕爲奉幣御使。流鏑馬之時。於馬塲見物輩之中有喧嘩。一兩人被殺害。長江四郎明義僕從等云々。

読下し                     こさめふ    つるがおか りんじさい   うりん ごさんぐう な
正治二年(1200)五月大五日己未。小雨降る。鶴岡の臨時祭。羽林御參宮無し。

だいぜんだいぶひろもとあそん 〔そくたい〕 ほうへい  おんし  な
大膳大夫廣元朝臣〔束帶〕奉幣の御使と爲す。

やぶさめ の とき   ばば   をい  けんぶつ やからのなか けんか あ    いちりょうにんせつがいされ  ながえのしろうあきよし  ぼくじゅうら  うんぬん
流鏑馬之時、馬塲に於て見物の輩之中に喧嘩有り。一兩人殺害被る。長江四郎明義が僕從等と云々。

現代語正治二年(1200)五月大五日己未。小雨が降ってます。鶴岡八幡宮の端午の節句の臨時祭です。中将頼家様のお参りは無く、大江広元様が〔束帯〕で幣を捧げる代参でした。
流鏑馬の奉納の際に、馬場での見物の連中に喧嘩をしたものがおり、一人か二人殺されました。長江四郎明義の下働きだそうです。

正治二年(1200)五月大十二日丙寅。羽林令禁断念佛名僧等給。是令惡黒衣給之故云々。仍今日召聚件僧等十四人。應恩喚云々。然間。比企弥四郎奉仰相具之。行向政所橋邊。剥取袈裟被燒之。見者如堵。皆莫不彈指。僧之中有伊勢稱念者。進于御使之前。申云。俗之束帶。僧之黒衣。各爲同色。所用來也。何可令禁之給哉。凡當時案御釐務之体。佛法世法。共以可謂滅亡之期。於稱念衣者。更不可燒云々。而至彼分衣。其火自消不燒。則取之如元着。逐電云々。

読下し                      うりん  ねんぶつめいそうら きんだんせし たま    これ  こくい  にく  せし  たま  のゆえ  うんぬん
正治二年(1200)五月大十二日丙寅。羽林、念佛名僧等 禁断令め給ふ。是、黒衣を惡ま令め給ふ之故と云々。

よっ  きょう  くだん  そうら じうよにん   めしあつ       おんかん  おう    うんぬん
仍て今日、件の僧等十四人を召聚めるに、恩喚に應ずと云々。

しか  かん  ひきのいやしろう おお  うけたま   これ  あいぐ    まんどころ はしへん  いきむか    けさ   は   と   これ  やかれ
然る間、比企弥四郎仰せを奉はり之を相具し、政所の橋邊@へ行向い、袈裟を剥ぎ取り之を燒被る。

 み  ものかき  ごと    みなゆび  はじかず な     そうの なか  いせのしょうねん     ものあ     おんしの まえに すす    もう     い
見る者堵の如し。皆指を彈不は莫し。僧之中に伊勢稱念という者有り。御使之前于進み、申して云はく。

ぞくの そくたい  そうの こくえ   おのおの どうしき  な     もち  きた ところなり  なん  これ  きん  せし  たま  べ   や
俗之束帶、僧之黒衣、 各 同色と爲し、用い來る所也。何ぞ之を禁じ令め給ふ可き哉。

およ  とうじ     ごりむ  の てい  あん        ぶっぽう せほう  とも  もっ  めつぼうの ご  い   べ
凡そ當時の御釐務A之体を案ずるに、佛法世法、共に以て滅亡之期と謂う可し。

しょうねん ころも をい  は   さら  や   べからず  うんぬん
稱念の衣に於て者、更に燒く不可と云々。

しか    か   ぶん  ころも いた    そ   ひ おの    き   やけず  すなは これ  と   もと  ごと  き     ちくてん    うんぬん
而して彼の分の衣に至り。其の火自づと消え燒不。則ち之をり元の如く着て、逐電すと云々。

参考@政所の橋邊は、政所は八幡宮の東南「重忠邸石碑・筋替橋・宝戒寺・八幡宮裏正一位稲荷」に囲まれた一角と指定されるので「筋替橋」。
参考A釐務は、国司などの執務。この場合は、政治。

現代語正治二年(1200)五月大十二日丙寅。中将頼家様は、念仏称名坊主の活動を禁止しました。それは、自分が四位で黒色を許可されているのに、念仏私度僧は同じ黒の衣を着ているのが、とても憎くて仕方ないのです。それなので今日、それらの僧十四人を呼び集めましたが、云うことを聞かず集まりません。それならと、比企弥四郎時員が命令に従って、この坊さん達を連れて、政所の橋(筋替橋)のあたりへ来て、袈裟をはぎ取って燃やしました。見物人が垣根のように集まってます。皆、縁起を払って指を鳴らさない者はおりませんでした。坊さんの中に伊勢称念と云う者がおりまして、比企時員の前へ出て告げました。「俗人の束帯と坊主の黒衣は、それぞれ同じ色を使っている。それをどうして禁止するのですか。だいたい現在の政治向きを考えてみると、仏法も世間の方策も、どちらも滅亡が近いと云えましょうが、称念の袈裟は燃えることはないでしょう。」だとさ。本当に彼の衣の順番になっても、その火は自然に消えてしまい、燃えることはありませんでした。すぐにこの袈裟を手に取って、元の通りに着るとどこかへ立ち去ってしまいましたとさ。

正治二年(1200)五月大廿五日己夘。江間殿妾男子平産云々。爲加持。若宮別當自去夜被坐于彼大倉亭。今朝。羽林被遣御馬。尼御臺所給産衣云々。

読下し                      えまどの  めかけ だんし  へいさん   うんぬん
正治二年(1200)五月大廿五日己夘。江間殿が妾@男子Aを平産すと云々。

  かじ   ため  わかみやべっとう さんぬ よ よ   か   おおくらていに ござ
加持の爲、若宮別當 去る夜自り彼の大倉亭于坐被る。

 けさ   うりん おんうま  つか  さる   あまみだいどころ うぶぎ  たま      うんぬん
今朝、羽林御馬を遣は被る。尼御臺所産衣を給はると云々。

参考@は、伊佐の女。
参考A
男子は、後の有時。

現代語正治二年(1200)五月大二十五日己卯。江間北条義時さんの妾が男の子を安産しました。出産の加持祈祷のため、八幡宮筆頭は昨夜から大倉屋敷におりました。今朝、中将頼家様は、(叔父の祝い事なので)馬を与えました。尼御台所政子さまは、産着をよこしましたとさ。

正治二年(1200)五月大廿八日壬午。陸奥國葛岡郡新熊野社僧論坊領境。兩方帶文書。望惣地頭畠山次郎重忠成敗。重忠辞云。當社雖在領内。秀衡管領之時。令致公家御祈祷。今又奉祈武門繁榮之上。重忠難自專者。則付大夫属入道善信擧申之。仍今日羽林召覽彼所進境繪圖。染御自筆。令曳墨於其繪圖中央給訖。所之廣狹。可任其身運否。費使節之暇。不能令實檢地下。向後於境相論事者。如此可有御成敗。若於存未盡由之族者。不可致其相論之旨。被仰下云々。

読下し                      むつのくにくずおかぐんいまくまのしゃそう ぼうりょう さかい ろん   りょうほう  もんじょ  お
正治二年(1200)五月大廿八日壬午。陸奥國葛岡郡新熊野社僧、坊領の境を論じ、兩方の文書を帶び、

そうぢとう はたけやまのじろうしげただ せいばい  のぞ
惣地頭 畠山次郎重忠の成敗を望む。

しげただじ    い       とうしゃりょうない あ    いへど   ひでひらかんりょうのとき  こうけ    ごきとう  いたせし
重忠辞して云はく。當社領内に在ると雖も、秀衡管領之時、公家の御祈祷を致令む。

いままた  ぶもん  はんえい いの たてまつ のうえ  しげただじせん がた  てへ     すなは たいふさかんにゅうどうぜんしん ふ   これ  あ   もう
今又、武門の繁榮を祈り奉る之上、重忠自專し難し者れば、則ち大夫属入道善信に付し之を擧げ申す。

よっ  きょう  うりん   か   しん   ところ さかい  えず  しょうらん    おんじひつ  そ       すみを そ   えず   ちうおう  ひ   せし  たま をはんぬ
仍て今日羽林、彼の進ずる所の境の繪圖を召覽し、御自筆を染めて、墨於其の繪圖の中央に曳か令め給ひ訖。

ところのこうきょう   そ   み    うんぴ  まか  べ    しせつのいとま ついや    ぢげ   じっけんせし   あたはず
所之廣狹は、其の身の運否に任す可し。使節之暇を費し。地下を實檢令むに不能。

きょうご  をい さかいそうろん ことは   かく  ごと  ごせいばいあ  べ
向後に於て境相論の事者、此の如く御成敗有る可し。

も   みじん  よし  ぞん    のやから  をい  は   そ   そうろん  いた  べからずのむね  おお  くださる    うんぬん
若し未盡の由を存ずる之族に於て者、其の相論を致す不可之旨、仰せ下被ると云々。

現代語正治二年(1200)五月大二十八日壬午。陸奥国葛岡の新熊野神社の坊さんが、自分の坊領地と他領地との境界線を訴えて、双方の文書を持ち、一帯の管理権をもつ惣領地頭の畠山次郎重忠の結審を望んできました。
畠山重忠が辞退していうのに「当神社は、私の管理地内にあるけれども、藤原秀衡が管理していた時に、京都朝廷の安泰を祈祷していたところです。今は、鎌倉幕府の繁栄を祈ってもらっているので、(神社へ贔屓するといけないので)重忠は自分で裁決するわけにいかない」と大夫属入道三善善信を通して、将軍へ話を上げました。
それなので今日、
中将頼家様は差し出されてきた境界付近の絵図を見て、自分で筆をとって、墨でその絵図の真ん中に線を引いてしまいました。「土地の狭い広いは、その人の運不運だと思ってあきらめなさい。わざわざ使いを出して、現地を調査る必要はない。今後の境界争いは、このように結審するので、そのつもりでいるように。それを理を尽くしていないと思う奴は、裁判を起こさないにしろ」とおっしゃられましたとさ。

説明葛岡郡は、宮城県大崎市岩出山葛岡とも仙台市青葉区郷六字葛岡ともあり不明。仙台市に仙山線の駅名もあり。又、宮城県柴田郡柴田町槻木葛岡もある。他に新熊野社では、宮城県仙台市太白区茂庭新熊野もある。
なお、19巻建暦元年(1211)4月2日条には、陸奥國長岡郡小林新熊野社と出て来る。これだと長岡郡になる。宮城県大崎市古川小林。

ウィキペディアでも「奥州合戦の功により、陸奥国葛岡郡地頭職に任ぜられた。葛岡郡は狭小の地だが、 重忠は異を唱えなかった。と『吾妻鏡』にあるが、陸奥国に「葛岡」なる郡はない。玉造郡 の「葛岡」なる地名にあてたり、「長岡郡」の誤写と見る説などがあるが、不明である。」

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