吾妻鏡入門第十六巻

正治二年(1200)庚申七月小

正治二年(1200)七月小一日乙夘。羽林爲覽鵜船。令赴相摸河邊給。畠山次郎。葛西兵衛尉以下愛鵜之輩。依別仰令供奉云々。

読下し                    うりん うぶね  み   ため  さがみがわへん おもむ せし  たま
正治二年(1200)七月小一日乙夘。羽林鵜船を覽ん爲、相摸河邊に赴か令め給ふ。

はたけやまのじろう  かさいのひょうえのじょう いか う   めで  のやから  べっ    おお    よっ   ぐぶ せし    うんぬん
 畠山次郎、 葛西兵衛尉 以下の鵜を愛る之輩、別した仰せに依て供奉令むと云々。

現代語正治二年(1200)七月小一日乙卯。中将頼家様は、鵜飼を見るために、相模川へ出かけられました。畠山次郎重忠・葛西兵衛尉清重等鵜飼を好きな連中が、特別に名指しでお供をしましたとさ。

正治二年(1200)七月小六日庚申。尼御臺所於京都被圖十六羅漢像。佐々木左衛門尉定綱調進之。今日到來。御拝見之後。令奉送葉上坊之寺給云々。

読下し                    あまみだいどころ きょうと  をい  じうろくらかんぞう  ず され    ささきのさえもんのじょうさだつな これ ちょうしん
正治二年(1200)七月小六日庚申。尼御臺所、京都に於て十六羅漢像を圖被る。佐々木左衛門尉定綱、之を調進す。

きょう とうらい    ごはいけんののち  ようじょうぼうのてら  おく たてまつ せし  たま   うんぬん
今日到來し、御拝見之後、葉上坊之寺に送り奉ら令め給ふと云々。

現代語正治二年(1200)七月小六日庚申。尼御台所政子さまが、京都で十六羅漢像を作画させました。佐々木左衛門尉定綱がこれを調達しました。今日、届いたので拝見された後に、葉上坊律師栄西の寺(寿福寺)へ送らせましたとさ。

正治二年(1200)七月小八日壬戌。羽林自相摸河令歸給。其間工藤小四郎行光駕惡馬依馳嶮岨。賜祿云々。

読下し                    うりん さがみがわ よ  かえ  せし  たま
正治二年(1200)七月小八日壬戌。羽林相摸河自り歸り令め給ふ。

そ   かん  くどうのこしろうゆきみつ あくば   が   けんそ   は      よっ    ろく  たま      うんぬん
其の間、工藤小四郎行光惡馬に駕し嶮岨を馳せるに依て、祿を賜はると云々。

現代語正治二年(1200)七月小八日壬戌。中将頼家様が、相模川から帰られました。その途中で、工藤小次郎行光が癖の悪い馬に乗って、険しい場所を走ったので、その馬術に感心して褒美を与えられましたとさ。

説明工藤小四郎行光は、小次郎の間違い。

正治二年(1200)七月小十五日己巳。於金剛壽福寺。新圖十六羅漢像。被遂開眼供養。導師當寺長老葉上坊律師榮西也。尼御臺所爲御聽聞。有參堂云々。

読下し                      こんごうじゅふくじ  をい    あたら    ず   じうろくらかんぞう   かいがんくよう   と   らる
正治二年(1200)七月小十五日己巳。金剛壽福寺に於て、新しい圖の十六羅漢像、開眼供養を遂げ被る。

どうし   とうじちょうろう ようじょうぼうりっしようさいなり   あまみだいどころ ごちょうもん  ため  さんどうあ     うんぬん
導師は當寺長老 葉上坊律師榮西也。尼御臺所 御聽聞の爲、參堂有りと云々。

現代語正治二年(1200)七月小十五日己巳。金剛寿福寺で、先日京都から来て政子さまが寄付した十六羅漢の絵に、魂を吹き込める開眼供養の儀式を行いました。指導僧は、寿福寺長老の葉上坊律師栄西です。尼御台所政子さまもお経を聞くために、お堂を参られたそうです。

正治二年(1200)七月小廿七日辛巳。六波羅書状等到來。佐々木中務丞經高乍爲 帝都警衛人數。奉輕 朝威條々也。是於洛中稱生虜強盜人。以其次追捕近隣民居等。加之。令守護淡路國之間。蔑如國司命。妨國務之上。去九日。催聚淡路阿波土佐等國軍勢。各着甲冑令馳騒。依奉驚天聽。被尋問濫觴之處。爲敵欲被襲之由雖申之。更無實證。所行之企。奇怪非一。早可達關東之旨。及 勅命云々。上皇頻逆鱗云々。

読下し                      ろくはら   しょじょうらとうらい
正治二年(1200)七月小廿七日辛巳。六波羅の書状等到來す。

ささきのなかつかのじょうつねたか  ていとけいえい  にんじゅたりなが   ちょうい  かろ   たてまつ  じょうじょうなり
佐々木中務丞經高、 帝都警衛の人數爲乍ら。朝威を輕んじ奉るの條々也。

これ  らくちう  をい  ごうせつにん  いけど    しょう    そ  ついで もっ  きんりん  みんきょら  ついぶ
是、洛中に於て強盜人を生虜ると稱し、其の次を以て近隣の民居等を追捕す。

これ  くは    あはじのくに  しゅごせし  のかん  こくし  めい  べっじょ    こくむ  さまた  のうえ
之に加へ、淡路國を守護令む之間、國司の命を蔑如し、國務を妨ぐ之上、

さんぬ ここのか  あわじ   あわ   とさ ら  くに  ぐんぜい  もよお あつ
去る九日、淡路、阿波、土佐@等の國の軍勢を催し聚め、

おのおの かっちゅう つ  は   さわ  せし    てんちょう おどろ  たてまつ  よっ
 各 甲冑を着け馳せ騒が令め、天聽を驚かし奉るに依て、

らんしょう たず  と   れるのところ  てき  ためおそはれ   ほっ     のよし  これ  もう    いへど   さら  じっしょうな
濫觴を尋ね問は被之處、敵の爲襲被んと欲する之由、之を申すと雖も、更に實證無し。

しょぎょうのくはだ  きっかひとつ あらず  はや かんとう  たっ    べ   のむね  ちょくめい およ   うんぬん  じょうこうしきり げきりん   うんぬん
所行之企て、奇怪一に非。早く關東に達する可し之旨、勅命に及ぶと云々。上皇頻に逆鱗すと云々。

参考@淡路・阿波・土佐三カ国の軍勢は、17巻建仁1年5月6日条にて御家人とわかるので、軍勢催促をしたものであろう。

現代語正治二年(1200)七月小二十七日辛巳。六波羅から手紙が届きました。佐々木仲務丞経高は、京都市中の警備の一員であるのに、朝廷の権威を重んじていないとの苦情です。それは、京都市中で「強盗などを捕まえるのだ」と云って、そのどさくさに近所の庶民の住宅を荒らし略奪してます。そればかりか、淡路国の守護をしているので、国司の命令を聞かず、国衙の分を横取りしたうえ、先日の九日、淡路・阿波・土佐の軍隊を呼び寄せて、それぞれに鎧兜を着させて、京都市中を威嚇して騒ぎまくり、天皇や上皇を驚かせました。その無茶な行動の理由を尋ねたところ、「敵に襲われそうになったので」と云ってますが、その事実はありません。これらの行動の内容は、非常識な事ばかりです。早く関東へ知らせるようにと朝廷から命じられましたとさ。後鳥羽上皇がとても怒っているそうです。

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