吾妻鏡入門第十六巻

正治二年(1200)庚申十二月小

正治二年(1200)十二月小三日乙酉。陰。有大輔房源性〔源進士左衛門尉整子〕者。無双算術者也。加之。見田頭里坪。於眼精之所覃。不違段歩云々。又伺高野大師跡。顯五筆之藝。而陸奥國伊達郡有境相論。爲其實檢。去八月下向。夜前歸着。今日參御所。是被賞右筆并蹴鞠兩藝。日來所奉昵近。仍無左右被召御前。被尋仰奥州事等。源性申云。今度以下向之次。斗藪松嶋。於此所有獨住僧。一宿其庵之間。談法門奥旨。翌朝。僧云。吾爲天下第一算師也。雖隱形算。寧劣龍猛菩薩之術哉云々。而更不可勝源性之由。吐詞之處。彼僧云。不改當座。速可令見勝利云々。源性承諾之。仍取算。置源性座之廻。于時如霞霧之掩而四方太暗。方丈之内忽變大海。所着之圓座爲磐石。松風頻吹。波浪聲急。心惘然難弁存亡也。移剋之後。以亭主僧之聲云。自讃已有後悔哉云々。源性答後悔之由。彼僧重云。然者永可停算術慢心。源性答。早可停止。其後蒙霧漸散。白日已明。欽仰之餘。雖成傳受之望。於末世之機根。稱難授之由。不免之云々。仰云。不伴參其僧。甚越度也云々。

読下し                     くも    だいゆうぼうげんしょう 〔げんしんじ さえもんのじょうひとし  こ 〕        ものあ    さんじゅつ むそう  ものなり
正治二年(1200)十二月小三日乙酉。陰り。大輔房源性〔源進士@左衛門尉整が子〕という者有り。算術の無双の者也。

これ  くは    たがしら  りつぼ  み     げんしょうのおよ ところ をい    たんぶ  たがえず  うんぬん
之に加へ、田頭の里坪を見る。眼精之覃ぶ所に於て、段歩Aを違不と云々。

また  こうやだいし   あと  うかが   ごひつ のげい  あら
又、高野大師Bの跡を伺い、五筆C之藝を顯はす。

しか    むつのくに だてぐん さかいそうろんあ    そ   じっけん  ため  さんぬ はちがつげこう   ぜんやきちゃく    きょう ごしょ    まい
而るに陸奥國伊達郡Dに境相論有り。其の實檢Eの爲、去る八月下向す。前夜歸着し、今日御所へ參る。

これ  ゆうひつなら   けまり  りょうげい  しょうされ  ひごろじっこんたてまつ ところ
是、右筆并びに蹴鞠の兩藝を賞被、日來昵近 奉る所なり。

よっ   そう な    ごぜん   めされ   おうしゅう ことなど  たず  おお  られ
仍て左右無く御前に召被、奥州の事等を尋ね仰せ被る。

げんしょうもう   い       このたびげこうのついで  もっ    まつしま  とそう
源性申して云はく。今度下向之次を以て、松嶋に斗藪Fす。

こ   ところ をい  ひと  す   そうあ     そ   いおり いっしゅくのかん  ほうもん  おうし  だん
此の所に於て獨り住む僧有り。其の庵に一宿之間、法門の奥旨を談ず。

よくちょう そうい       われてんかだいいち さんし   な   なり  おんぎょう さん いへど   いずく  りゅうみょうぼさつ のじゅつ  おと    や   うんぬん
翌朝、僧云はく、吾天下第一の算師を爲す也。隱形の算と雖も、寧んぞ龍猛菩薩G之術に劣らん哉と云々。

しか      さら  げんしょう まさ  べからずのよし  ことば は   のところ  か   そうい
而れども更に源性に勝る不可之由、詞を吐く之處、彼の僧云はく。

とうざ  あらた ず   すみや   しょうり  みせし   べ    うんぬん
當座を改め不、速かに勝利を見令む可しと云々。

げんしょうこれ しょうだく   よっ  さん  と     げんしょう ざ の まわ   お
源性之を承諾す。仍て算を取りH、源性が座之廻りに置く。

ときに かすみきりのおお   ごと    て しほうはなは くら    ほうじょうのうちたちま たいかい  へん    つ  ところのえんざばんじゃく な
時于霞霧之掩うが如くし而四方太だ暗く、方丈之内忽ち大海に變じ、着く所之圓座磐石と爲す。

まつかぜしきり ふ     はろう  こえいそ        こころぼうぜん     そんぼう  わきま がた  なり
松風頻に吹き、波浪の聲急がしく、心惘然とし、存亡を弁へ難き也。

とき  うつ   ののち  てい  あるじ そうのこえ  もっ  い        じさんすで  こうかいあ   や   うんぬん
剋を移す之後、亭の主の僧之聲を以て云はく。自讃已に後悔有り哉と云々。

げんしょうこうかいのよし  こた    か   そうかさ    い       しからば  なが  さんじゅつ まんしん  と     べ
源性後悔之由を答う。彼の僧重ねて云はく。然者、永く算術の慢心を停める可し。

げんしょうこた     はや  ちょうじすべ    そ   ご もうむ ようや さん    はくじつすで あか
源性答へる。早く停止可し。其の後蒙霧I漸く散じ、白日已に明るし。

きんきょう のあま    でんじゅののぞみ な    いへど    まっせのきこん  をい    さず  がた  のよし  しょう    これ  めんぜず  うんぬん
欽仰J之餘り、傳受之望を成すと雖も、末世之機根に於て、授け難し之由を稱し、之を免不と云々。

おお    い       そ   そう  ともな まいらず  はなは おちどなり  うんぬん
仰せて云はく。其の僧を伴い參不。甚だ越度也と云々。

参考@進士は、律令制で官吏登用試験合格者、合格者の文章生。
参考A
段歩は、段が「反」で歩が「ぶ」の広さの単位なので、「ひろさ」。
参考B
高野大師は、弘法大師で書道の名人。
参考C
五筆は、右手、左手、右足、左足、口。
参考D伊達郡は、福島県北部の伊達市・桑折町・国見町・川俣町・福島市の一部。
参考E
實檢は、実地検査。
参考F斗藪は、斗藪は梵語ドゥータ(dhūta)の漢訳。山などにこもり仏道の修行をすること。WikiArcから。又は、犬や鶏が身震いする様で、煩悩を振り払い、迷いや穢れを取り除く修行のこと。恵日寺から。
参考G龍猛菩薩は、大日如来の弟子の金剛薩捶から密教経典を授かり、世に伝えたといわれる。
参考H算を取りは、算木をとり。
参考I
蒙霧は、まとわりつくように立ちこめる濃い霧。
参考J欽仰は、尊び敬うこと。

現代語正治二年(1200)十二月小三日乙酉。曇りです。大輔房源性〔源進士左衛門尉整の子供です〕と云う人がいて、数学全般に長けている人です。そればかりか、田畑の距離や面積を計測します。見ただけでその反数や歩合を間違えることがありません。又、弘法大師の跡を継いだかのように、手足口の五か所で書く書道の芸を見せます。それなのに、陸奥国伊達郡で境界論争がありました。その現地調査のために先だっての八月に現地入りをして、昨夜帰ってきて、今日御所へ出勤しました。この人は、書記官と蹴鞠の先生として、普段おそば近く仕えております。それなので安易に御前へお呼びになり、奥州の結果をお聞きになりました。

源性が云うのには「今度の現地行きのついでに松島でお籠りをしてきました。そこに一人で住んでいる坊さんにあいました。その坊さんの庵に一泊の世話になり、仏道について語り合いました。

翌朝、坊さんが云うのには「私は天下一の算術の先生である。陰形の算術であっても、龍猛菩薩の密教の算術に劣ることがありましょうか。」とのことでした。「しかしながら、源性より優れていることはありますまい。」と言葉を吐いてしまったら、その僧が「じゃあ、このままで算術の勝負に勝って見せましょう」と云いました。源性もこれを承諾しました。そこで算木を取り出して、源性の座っている周りに並べ置きました。とたんに霞か霧が周りを覆ってしまったように辺りが暗くなり、庵の中が大海原に変わってしまい、座っている円座は石となり、松風が吹き抜け、波の音がすさまじく、精神はもうろうとして、生きた心地がしませんでした。時が経ち、庵の主の坊さんの声が「自慢話に後悔していませんか」と問われ、源性は「後悔しております」と答えました。その坊さんは続けて「それならば算術の自慢はお止めになりますか」と云うので、源性が「はい、すぐに止めます」と答えました。

その後、霧は晴れて昼間の明るさになっていました。尊び敬うあまりに「私にその術を伝授してください」とお願いしましたが、「世も末の時代なので伝えるわけにはいかない」と許してはくれませんでした。

頼家様は「その僧侶を連れてこなかったのはざんねんだなあ。」とのことでした。

正治二年(1200)十二月小廿七日己酉。リ。先日上洛澁谷次郎高重。土肥先次郎惟光等歸着。申云。高重等上洛以前。官軍發向彼柏原弥三郎住所近江國柏原庄之刻。三尾谷十郎〃〃襲件居所後面山之間。賊徒逐電畢。今兩使雖伺其行方。依無所據。歸參云々。

読下し                      はれ せんじつじょうらく  しぶやのじろうたかしげ  といのせじろうこれみつら きちゃく    もう    い
正治二年(1200)十二月小廿七日己酉。リ。先日上洛の澁谷次郎高重、土肥先次郎惟光等歸着し、申して云はく。

たかしげら じょうらくいぜん    かんぐん か かしわばらいやさぶろう す ところ  おうみのくに かしわばらのしょう はっこうのとき
高重等上洛以前に、官軍彼の 柏原弥三郎@住む所の 近江國 柏原庄 へ發向之刻、

みおやのじうろうなにがし  くだん きょしょ  こうめん  やま  おそ  のかん  ぞくと ちくてん をはんぬ
三尾谷十郎ゝゝA、件の居所の後面の山を襲う之間、賊徒逐電し畢。

いま りょうし そ   ゆくえ  うかが   いへど   よんどころな  よっ    きさん     うんぬん
今、兩使其の行方を伺うと雖も、據所無き依て、歸參すと云々。

参考@柏原弥三郎は、為永。清和源氏で頼光の弟頼平の系統。近江柏原庄は、滋賀県米原市柏原。
参考A三尾谷十郎は、水尾谷十郎廣徳で、埼玉県比企郡川島町76廣徳寺が館跡と云われ、水堀や空堀が現存。

現代語正治二年(1200)十二月小二十七日己酉。晴れです。先日京都へ上った、渋谷次郎高重と土肥先次郎惟光が帰ってきて報告をしました。高重が京都へ着く前に、政府軍はあの柏原弥三郎為永の住んでいる近江国柏原庄へ出発した時に、三尾谷十郎広徳が、柏原の住まいの後ろの山へ攻めたところ、敵の連中は逃げ失せてしまいました。それから高重と惟光との派遣員は行方を捜しましたが、宛てがないので帰ってきましたとさ。

正治二年(1200)十二月小廿八日庚戌。金吾仰政所。被召出諸國田文等。令源性算勘之。治承養和以後新恩之地。毎人。於過五百町者。召放其餘剩。可賜無足近仕等之由。日來内々及御沙汰。昨日可令施行之旨被仰下廣元朝臣。已珍事也。人之愁。世之謗。何事如之哉之趣。彼朝臣以下宿老殊周章。今日如善信頻盡諷詞之間。憖以被閣之。明春可有御沙汰云々。

読下し                       きんご まんどころ おお      しょこく  たぶみ ら   めしいだされ  げんしょうこれ さんかんせし
正治二年(1200)十二月小廿八日庚戌。金吾@政所に仰せて。諸國の田文A等を召出被、源性之を算勘令む。

じしょう   ようわ  いご   しんおんのち   ひとごと   ごひゃくちょう す     もの  をい      そ   よじょう  めしはな
治承、養和以後Bの新恩之地、人毎に、五百町を過ぐる者に於ては、其の餘剩を召放ち、

むそく   きんじら   たま    べ    のよし   ひごろ ないない   ごさた    およ    さくじつ  せぎょうせし  べ   のむね ひろもとあそん  おお  くださる
無足Cの近仕等に賜はる可し之由、日來内々に御沙汰に及び、昨日、施行令む可し之旨廣元朝臣に仰せ下被る。

すで  ちんじなり  ひとの うれ    よの そし     なにごと  これ  しか  やのおもむき  か   あそん いか   すくろうこと しゅうしょう
已に珍事也。人之愁い。世之謗り。何事か之に如ん哉之趣、 彼の朝臣以下の宿老殊に周章す。

きょう   ぜんしん  ごと    しきり  ふうし   つく  のかん なまじい もっ  これ  さしおか   みょうしゅん ごさた あ   べ     うんぬん
今日、善信の如きが頻に諷詞を盡すD之間。憖に以て之を閣被る。明春御沙汰有る可しと云々。

参考@金吾は、左衛門督の唐名で、ここでは頼家を指す。
参考A
田文は、大田文とも云い、荘園などを書き出したもので、国で一冊になっている。
参考B治承、養和以後は、源平合戦以後。
参考C無足は、地頭職を持っていない。
参考D
諷詞を盡すは、諫言した。

現代語正治二年(1200)十二月小二十八日庚戌。左衛門督頼家様は、政務室に命じて、諸国の国衙にある荘園などを書き出した大田文を取り寄せて、源性にこれを勘定させます。治承、養和の源平合戦以後に与えられた新恩の土地については、一人に付き、五百町(5ha)を超えた連中は、その越えた分を取上げて、地頭職の無い無足の取り巻き連中に与えるように、普段から内々に言っておられましたが、今日実施するように大江広元様に命じられました。このことは、とんでもない珍事です。人々の嘆きや、世間からの批判の的になるのは、これ以上の事はありますまいと、大江広元を始めとする長老たちが困り果てています。今日、大夫属入道三善善信達が、さかんに諫めの言葉を尽くしてみましたので、しぶしぶ一旦取り下げました。しかし来春に決定すると言い放ちましたとさ。

高雄の門覚上人の手紙へ

吾妻鏡入門第十六巻

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