吾妻鏡入門第十七巻

建仁元年辛酉(1201)六月大

建仁元年(1201)六月大一日己夘。陰。寅剋。左金吾御參江嶋明神。以此次。令逍遥相摸河邊給。當國御家人等群參。有狩獵射的之勝遊。今夜到大礒。令止宿給。召遊君等。被盡歌曲。

読下し                   くもり  とら  こく  さきんご えのしまみょうじん おまい      こ ついで もっ  さがみがわへん  しょうようせし たま
建仁元年(1201)六月大一日己卯。陰。寅の刻、左金吾江島明神に御參り。此の次を以て相摸河邊を逍遙令め給う。

とうごく   ごけにんら  ぐんさん    しゅりょう  いまと の しょうゆうあ     こんや おおいそ いた  ししゅくせし  たま     ゆうきみら   め   かきょく  つくされ
當國の御家人等群參し、狩猟、射的之勝遊有り。今夜大磯に到り止宿令め給う。遊君等を召し歌曲を盡被る。

現代語建仁元年(1201)六月大一日己卯。曇りです。寅の刻(午前四時頃)左衛門督頼家様が江の島明神にお参りです。そのついでに相模川のあたりを散策しました。相模国の御家人が大勢集まって、狩や的当ての遊びがてらの勝負をしました。今夜は大磯まで行ってお泊りです。遊女たちを呼んで歌謡宴会です。

建仁元年(1201)六月大二日庚辰。リ。陰。常小雨灑。今朝。金吾令出大礒宿給處。遊君愛壽俄以落餝。是去夜數輩之中。一身依漏恩喚也云々。其顏色太花麗。傍輩等妬之。隱密名字之間。無其召之處。忽遂出家。金吾殊有御歎息。仍雖賜數多纏頭。不領納之。施入高麗寺佛陀。即逐電云々。戌剋金吾御歸着鎌倉。

読下し                    はれ   くもり  つね  こさめ そそ
建仁元年(1201)六月大二日庚辰。リのち陰。常に小雨灑ぐ。

けさ きんご おおいそしゅく いでせし たま  ところ  ゆうきみあいじゅ にはか もっ  らくしょく
今朝金吾大磯宿を出令め給ふ處、 遊君愛壽 俄に以て落餝す。

これ  さんぬ よ すうやからのうち いっしんおんかん もれ    よっ  なり  うんぬん
是、去る夜數輩之中、一身恩喚に漏るに依て也と云々。

そ  かおいろはなは かれい  ぼうはいら これ ねた    みょうじ  おんみつ      かん  そ   めしな   のところ  たちま しゅっけ  と
其の顏色太だ花麗、傍輩等之を妬み、名字を隱密するの間、其の召無き之處、忽ち出家を遂ぐ。

きんご こと  ごたんそくあ
金吾殊に御歎息有り。

よっ  すうた   てんとう   たま    これ  りょうのうせず  こまでら   ぶっだ  せにゅう    たちま ちくてん   うんぬん
仍て數多の纏頭@を賜う。之を領納不、高麗寺Aの佛陀に施入し、即ち逐電すと云々。

いぬ  こく  きんご かまくら  ごきちゃく
戌の刻に金吾鎌倉に御帰着。

参考@纒頭は、本来は芸能のご祝儀として、物々交換の時代に着ている物を脱いで芸人の肩に掛けてやる。この時点では褒美を指しているようだ。
参考A
高麗寺は、は、中郡大磯町高麗2丁目9高来神社の別当寺だったが廃寺。

現代語建仁元年(1201)六月大二日庚辰。晴れのち曇り、針のような小雨が降ったり止んだりです。今朝、左衛門督頼家様は大磯の宿を出立された時、遊女の愛寿が急に思い立って髪を降ろしました。その理由は、夕べ遊女が数名呼ばれましたが、指名されなかったからだそうです。その器量はとても美人なので、仲間がねたんで名前を伏せておき呼ばれなかったので、頭にきて出家をしました。左衛門督頼家様は特にため息をつきました。そこで沢山の褒美を与えられました。ところが彼女はこれを受け取らず、高麗寺の仏様に奉納して、行方をくらましてしまいましたとさ。戌の刻(午後八時頃)に左衛門督頼家様は鎌倉にお帰りになりました。

建仁元年(1201)六月大廿八日丙午。藤澤四郎C親相具囚人資盛姨母〔号坂額女房〕參上。其疵雖未及平減。相搆扶參云々。左金吾可覽其躰之由被仰。仍C親相具參御所。左金吾自簾中覽之。御家人等群參成市。重忠。朝政。義盛。能員。義村已下候侍所。通其座中央。進居于簾下。此間無聊諛氣。凡雖比勇力之丈夫。敢不可耻對揚之粧也。但於顏色。殆可配陵薗妾云々。

読下し                     ふじさわのじろうきよちか めしうどすけもり  しうとぼ 〔はんがく にょぼう  ごう 〕   あいぐ  さんじょう
建仁元年(1201)六月大廿八日丙午。藤澤次郎C親 囚人資盛の姨母坂額@女房と号すを相具し參上す。

 そ   きずいま  へいめつ  およ    いへど  あいかま  たす  さん   うんぬん
其の疵未だ平減に及ばずと雖も相構へ扶け參ずと云々。

さきんご そ   てい  み   べ   よしおお  らる    よっ  きよちかあいぐ   ごしょ   まい    さきんご れんちうよ   これ  み
左金吾其の體を覽る可し由仰せ被る。仍てC親相具し御所へ參る。左金吾簾中自り之を覽る。

 けにんら ぐんさん   いち  な     しげただ  ともまさ  よしもり  よしかず  よしむら いか さむらいどころ そうら
御家人等群參し市を成す。重忠、朝政、義盛、能員、義村巳下 侍所 に候う。

 そ  ざ   ちうおう  とお  みすしたに すす  い     こ   かん  いささ   へつら   け な
其の座の中央を通り簾下于進み居る。此の間、聊かも諛いの氣無し。

およ  ゆうりきの じょうぶ  くら      いへど   あえ  たいよう  はず  べからざるのよそおいなり
凡そ勇力之丈夫を比べると雖も、敢て對揚を耻る不可 之 粧也。

ただ    かおいろ  をい   ほと   りょうえん  しょう はい  べ     うんぬん
但し、顏色に於ては殆んど陵薗の妾A配す可しと云々。

参考@坂額は、元の名を飯角(いいずみ)御前なのを音読みで「はんがく」と云い、同音の「板額」の文字を当ててしまったらしい。
参考A
陵薗の妾は、皇帝の墓守女で美人。

現代語建仁元年(1201)六月大二十八日丙午。藤沢次郎清親が、捕虜にした城資盛の叔母〔坂額女房と云います〕を連れて鎌倉へ参りました。股の矢傷はまだ全快しておりませんが、いたわり助けながら連れてきましたとさ。左衛門督頼家様はその人柄を見ようと言い出しました。そこで、清親が連れて御所へ来ました。左衛門督頼家様は御簾の中からこれをご覧になりました。御家人達が群れ集まって市場が開かれているような状態です。畠山重忠・小山朝政・和田義盛・比企能員・三浦義村以下が侍だまりに控えています。その座の中央を通って御簾の前に進み出ました。この間、少しもこびへつらうところがありません。大勢集まった腕力に自身のある勇敢な武将たちと比べてみても、決して釣り合いを恥じる様子も無い感じでした。ただし、顔は中国の陵薗の妾ほどに美人だそうです。

建仁元年六月大廿九日丁未。阿佐利与一義遠主以女房申云。越州囚女。被定既配所者。態欲申預云々。金吾御返事云。是爲無雙朝敵。殆望申之條有所存云々。阿佐利重申云。全無殊所存。只成同心之契約。生壯力之男子。爲奉護朝廷扶武家也云々。于時金吾。件女面貌雖似宜。思心之武。誰有愛念哉。而義遠所存已非人間之所好由。頻令嘲哢給。而遂以免給。阿佐利得之。下向甲斐國云々。

読下し                      あさりのよいちよしとお ぬし   にょぼう  もっ  もう    い
建仁元年(1201)六月大廿九日丁未。阿佐利与一義遠@主、女房を以て申して云はく。

えつしゅう めしうどすで はいしょ さだ  られ  てへれ   わざ  もう  あず        ほっ    うんぬん
越州の囚女既に配所を定め被る者ば、態と申し預からんと欲すと云々。

きんご ごへんじ  いは    これ むそう ちょうてきたり  ほとん のぞ  もう  のじょうしょぞんあ    うんぬん
金吾御返事に云く、是無雙の朝敵爲。殆ど望み申す之條所存有りと云々。

 あさり  かさ    もう    いは    まった こと    しょぞんな
阿佐利重ねて申して云く、全く殊なる所存無し。

ただどうしん  けいやく  な    そうりきの だんし   う    ちょうてい  まも   ぶけ  たす たつまつ    ためなり  うんぬん
只同心の契約を成し、壯力之男子を生み、朝廷を護り武家を扶け奉らんが爲也と云々。

ときに きんご  くだん おんな めんぼうよろ      に      いへど   こころのぶ  おも      たれ  あいねん  のこ    や
時于金吾、件の女の面貌≠オきに似たりと雖も、心之武を思はば、誰か愛念を遺さん哉。

しか    よしとお  しょぞん  すで  にんげんのこの  ところ あらざ よし  しきり ちょうろう せし たま    しか    つい  もっ  めん  たま
而るに義遠が所存、已に人間之好む所に非る由、頻に嘲哢A令め給ふ。而して遂に以て免じ給ふ。

 あさり  これ  え    かいのくに  げこう    うんぬん
阿佐利之を得て甲斐国に下向すと云々。

参考@阿佐利与一義遠は、淺利義遠。山梨県中央市浅利(旧東八代郡豊富村浅利郷)。
参考A
嘲哢は、馬鹿にして笑う。

現代語建仁元年(1201)六月大二十九日丁未。浅利与一義遠(源氏一族)さんが、官女を通して申しあげるのには「越後からの捕虜の女性の預かり先を決めるのならば、あえて預かりたいと申し出ます」とさ。左衛門督頼家様の返事は「この人は比べるものが無いほどの豪傑の捕虜だぞ。それをわざわざ望むなんぞ、相当なわけがあるのだろう」だとさ。浅利義遠が続いて云うのには「全然特別な意味はありませんよ。ただ、一緒になって力持ちの子を産んで、朝廷を守り、武家の繁栄の一助としたいのですよ」なんだとさ。それを聞いて左衛門督頼家様は「例の女性は、見た目はきれいだけれども、心中の武門の力を考えたら、誰がやさしく愛することが出来ようか。それでも義遠の考えていることは、通常の人が好むことではないじゃないか」ととてもお笑いになりました。それでも、ついに許可をしました。浅利義遠は、彼女を貰って甲斐国へ帰りましたとさ。

七月へ

吾妻鏡入門第十七巻

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