吾妻鏡入門第十七巻

建仁元年辛酉(1201)九月大

建仁元年(1201)九月大七日甲寅。霽。紀内所行景鞠足。依上皇仰下着。葢是左金吾依被申請也。今日到着于大膳大夫廣元朝臣亭。下向間。彼朝臣所令沙汰驛路雜事等也。

読下し                   はれ きないところのゆきかげまりあし  じょうこう おお    よっ  げちゃく   けだ  これ さきんご しんせい  られ   よっ  なり
建仁元年(1201)九月大七日甲寅。霽。 紀内所行景鞠足。 上皇の仰せに依て下着す。蓋し是左金吾申請せ被るに依て也。

きょう   だいぜんだいぶひろもとあそん ていに とうちゃく    げこう  かん  か   あそん   えきろ   ぞうじら     さた せし ところなり
今日、大膳大夫廣元朝臣の亭于到着す。下向の間、彼の朝臣の駅路の雜事等を沙汰令む所也。

現代語建仁元年(1201)九月大七日甲寅。晴れました。蹴鞠の名人の紀内所行景が、後鳥羽上皇の命令に従って鎌倉へ下って着きました。たぶん、左衛門督頼家様が呼び寄せたのでしょう。今日、大江広元の屋敷に到着しました。下ってくる旅の途中での宿場宿場での面倒を指図してきたからです。

建仁元年(1201)九月大九日丙辰。リ。廣元朝臣始相具行景。參御所。行景〔花田狩衣。襖袴〕先候侍所。次依召廻石壷。參廂御所簀子。頃之左金吾出御〔烏帽子。直衣〕。其後有勸盃之儀。給御盃於行景。此間被仰云。爲蹴鞠師範。招請之處。適迎重陽日。始遂對面。故猶前庭以籬菊浮盃。永可契万年者。行景跪盃。金吾自取銀釼。令与之給。

読下し                   はれ ひろもとあそんはじ    ゆきかげ  あいぐ   ごしょ  まい
建仁元年(1201)九月大九日丙辰。リ。廣元朝臣始めて行景を相具し御所に參る。

ゆきかげ 〔はなだ  かりぎぬ おうばかま〕 ま さむらいどころ こう
行景〔花田@の狩衣A、襖袴B先ず侍所に候ず。

つい  め     よっ  いしつぼ  めぐ    ひさしごしょ  すのこ  まい   しばらく      さきんご  〔 えぼし     のうし 〕  しゅつご
次で召しに依て石壺に廻り、廂御所の簀子に參る。頃之して、左金吾烏帽子、直衣出御す。

 そ  ご かんぱい ぎ あ    おんさかづき ゆきかげ たま    かく  かん  おお  られ  い
其の後勧盃の儀有り。御盃 を行景に給ふ。此の間に仰せ被て云はく、

けまり   しはん  なし  しょうせい   のところ たまたま ちょうよう ひ  むか    はじめ たいめん  と
蹴鞠の師範と爲て召請する之処、適、重陽の日を迎へ、始て対面を遂ぐ。

ことさら  なお まえにわ まがきぎく さかづき う       なが  まんねん  ちぎ  べ
故に猶 前庭の籬菊を 盃 に浮かべ、永く万年を契る可し。

てへれ  ゆきかげさかづき ひざまづ  きんごみづか ぎんけん と   これ  あた  せし  たま
者ば、行景 盃 に跪く。 金吾自ら銀劔を取り之を與え令め給ふ。

参考@花田は、藍色。
参考A
狩衣は、〔もと、狩りなどのときに着たところから〕盤領(まるえり)で脇を縫い合わせず、くくり緒のある袖が後ろ身頃にわずかに付いているだけの衣服。地質は、布(ふ)を用いるので布衣(ほい)とも呼んだが、のちに絹綾(きぬあや)のものもできた。平安時代には公家の平常の略服であったが、鎌倉時代以後は公家・武家ともに正服、または礼服として用いた。現在は、神官の服装に見られる。狩襖(かりあお)。かりごろも。Goo電子辞書から
参考B
襖袴は、狩襖(かりあお)を着るときにはく括(くく)り袴(ばかま)。幅が狭い。狩袴とも。Goo電子辞書から参考直衣は、烏帽子(えぼし)と指貫(さしぬき)の袴(はかま)を用いる。Goo電子辞書から

現代語建仁元年(1201)九月大九日丙辰。晴れです。大江広元様が初めての行景を連れて、御所へ参りました。紀内所行景〔藍色の狩衣に括り袴〕は、まず侍だまりに控えました。次に呼ばれたので中庭の石壺を回って、御所の庇の伸びた下の縁側に座りました。しばらくして左衛門督頼家様〔烏帽子に直衣〕のお出ましです。その後、乾杯の儀式をし、盃を紀内所行景に与えました(親分子分の盃)。そして申されるのには「蹴鞠の先生としてお呼びしましたが、たまたま重陽の節句の日に初対面となった。そこで、わざわざ前庭の柵に咲き乱れる菊の花びらを盃に浮かべて、末永くお願いする。」とおっしゃったので、紀内所行景は頼家様の持った盃に対し跪き礼の形をとりました。喜んだ左衛門督頼家様は自らの手で銀細工の飾りのついた刀をお与えになられました。

建仁元年(1201)九月大十一日戊午。天顏快霽。行景參着之後。始有御鞠。左金吾令立給。北條五郎時連。紀内行景。冨部五郎。比企弥四郎。肥田八郎宗直〔已上布衣〕。大輔房源性。加賀房義印〔已上等身衣〕等參候。

読下し                     てんがんかいせい ゆきかげ さんちゃくののちはじ    おんまりあ     さきんご た  せし  たま
建仁元年(1201)九月大十一日戊午。天顏快霽。 行景、 參着之後始めて御鞠有り。左金吾立た令め給ふ。

ほうじょうのごろうときつら きないゆきかげ  とみべのごろう  ひきのいやしろう  ひたのさちろうむねなお 〔いじょう  ほい  〕
北條五郎時連、紀内行景、冨部五郎、比企彌四郎、肥多八郎宗直已上布衣
参考布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。

たいふぼうげんしょう   かがのぼうぎいん 〔いじょう らしん  ころも 〕 ら さん こう
大輔房源性、加賀房義印已上等身の衣@等參じ候ず。

参考@等身の衣は、体にぴったりと合った着物。

現代語建仁元年(1201)九月大十一日戊午。天高く晴れ上がってます。紀内所行景が来てから初めての蹴鞠です。左衛門督頼家様が立ち、北条五郎時連・紀内所行景・冨部五郎・比企弥四郎時員・肥多八郎宗直〔以上は礼服の狩衣です〕大輔房源性・加賀房義印〔以上はぴったりした着物〕達がお付き合いをしました。

建仁元年(1201)九月大十五日壬戌。リ。早旦。於御所。召行景有御鞠。北條五郎已下五六輩候之。但不及被揚數。」今日被遂行鶴岳放生會。式日依八足門廻廊顛倒所延引也。左金吾出御〔八葉御車〕。山城左衛門尉行村役御劔。江馬四郎殿。大膳大夫廣元朝臣。右近大夫將監親廣。右近將監能廣。新判官能員。右馬大夫右宗。左兵衛尉常盛。左衛門尉章C。源三左衛門尉親長。大田兵衛尉之式。後藤右衛門尉信康。雅樂允景光。前右兵衛尉義村。結城七郎朝光等候御後。無随兵。希代新儀也。近日於事陵癈。如忘先蹤。古老之所愁也。

読下し                     はれ  そうたん  ごしょ  をい  ゆきかげ  め   おんまりあ
建仁元年(1201)九月大十五日壬戌。リ。早旦、御所に於て行景を召し御鞠有り。

ほうじょうのごろう いか ごろくやから これ  こう    ただ  ばかず  およばず
北條五郎已下五六輩 之に候ず。但し揚數に不及。

きょう  つるがおかほうじょうえ  すいこうさる   しきづき  はっそくもん  かいろうてんとう よっ    えんいん   ところなり  さきんご ぎょしゅつ 〔はちよう  おくるま 〕
今日、鶴岳放生会を遂行被る。式月、八足門、廻廊顛倒に依って延引する所也。左金吾御出八葉の御車@

やましろのさえもんのじょうゆきむらぎょけん えき    えまのしろうどの  だいぜんだいぶひろもとあそん うこんたいふしょうげんちかひろ うこんしょうげんよしひろ  しんほうがんよしかず
 山城左衛門尉行村 御劔を役す。江間四郎殿、大膳大夫廣元朝臣、右近大夫将監親廣、右近将監能廣、新判官能員、

うまのたいふこれむね  さひょうえのじょうつねもり  さえもんのじょうあききよ   げんざさえもんのじょうちかなが  おおたのひょうえのじょうゆきのり
右馬大夫右宗、 左兵衛尉常盛、 左衛門尉章清、 源三左衛門尉親長、 太田兵衛尉之式、

ごとうのさえもんのじょうのぶやす  うたのじょうかげみつ  さきのうひょうえのじょうよしむら ゆうきのしちろうともみつら おんうしろ こう    ずいへいな
 後藤左衛門尉信康、 雅楽允景光、 前右兵衛尉義村、 結城七郎朝光等 御後に候ず。随兵無し。

きだい  しんぎ なり  きんじつ  こと  をい  りょうはい   せんしょう わす    ごと     ころうの うれ    ところなり
希代の新儀A也。近日B、事に於て陵廃す。先蹤を忘れる如しC。古老之愁うる所也。

参考@八葉車は、九曜星と同じ形で真ん中に丸星と周りに八つの丸星が取り囲む。真ん中の丸が大きいのは大八と云って三位以上が乗れる。
参考A希代の新儀は、前例を無視している。
参考B近日は、最近は。
参考C
先蹤を忘れる如しは、前例を忘れている。

現代語建仁元年(1201)九月大十五日壬戌。放生会前の早朝に、御所で紀内所行景を呼んで蹴鞠がありました。北条五郎時連以下五六人の連中が付き合いましたが、いくらもやりませんでした。

今日、鶴岡八幡宮の生き物を放して供養する放生会を行われました。本来の式典の月の八月には、八足門や回廊が倒れたので延期したからです。左衛門督頼家様のお出ましです〔八葉の牛車〕。山城左衛門尉二階堂行村が太刀持ち。江間四郎義時様・大江広元・源右近将監親広・源長井右近将監能広・新判官比企能員・安藤右馬大夫右宗・和田兵衛尉常盛・左衛門尉中原章清・源三左衛門尉親長・太田兵衛尉之式・後藤左衛門尉信康・雅楽允景光・三浦平六前右兵衛尉義村・結城七郎朝光などが後ろへ続きました。警護の兵は無です。前例のない驚いた新しいやり方です。最近は、何をするにも荒れ気味で、昔の良い所を忘れてしまっていると、古老が嘆いております。

建仁元年(1201)九月大十六日癸亥。陰。左金吾又以御參宮。流鏑馬已下如例。

読下し                     くもり さきんご またもっ  ごさんぐう    やぶさめ いか れい  ごと
建仁元年(1201)九月大十六日癸亥。陰。左金吾又以て御参宮。流鏑馬巳下例の如し。

現代語建仁元年(1201)九月大十六日癸亥。曇りです。左衛門督頼家様は昨日に続いて八幡宮へお出ましです。流鏑馬などの奉納は何時もの年の通りです。

建仁元年(1201)九月大十八日乙丑。左金吾令飼犬給之間。各被定其飼口。毎日被結番之。皆是爲事狩獵之輩也。件御簡被置石壷。
 一番
  小笠原弥太郎 細野兵衛尉
 二番
  中野五郎   工藤十郎
 三番
  比企弥四郎  本間源太

読下し                      さきんご いぬ  か   せし  たま  のかん おのおの そ  かいくち  さだ  られ  まいにちこれ  けちばん  らる
建仁元年(1201)九月大十八日乙丑。左金吾犬を飼は令め給ふ之間、 各 其の飼口を定め被、毎日之を結番せ被る。

みなこれ こと  しゅりょう  な  のやからなり  くだん おんふだ いしのつぼ お   らる
皆是、事を狩猟と爲す@之輩也。件の御簡を 石壺に置か被る。

  いちばん おがさわらのいやたろう   ほそのひょうえのじょう
 一番 小笠原彌太郎  細野兵衛尉A

  にばん  なかののごろう         くどうのじうろう
 二番 中野五郎    工藤十郎(後に得宗被官になる)

  さんばん ひきのいやしろう        ほんまのげんた
 三番 比企彌四郎   本間源太(後に時房の家来になる)

参考@事を狩猟と爲す之輩は、狩猟の上手な連中。とあるので犬は狩猟用の犬であろう。
参考A細野兵衛尉は、十七巻の五回しか出てこない。

現代語建仁元年(1201)九月大十八日乙丑。左衛門督頼家様は犬をお飼いになられているので、それぞれ、その養い料を負担させ、毎日の順番をお決めになられました。それは皆、狩猟の上手な連中です。その順番の札を中庭の石壺に置かれました。一番は、小笠原弥太郎と細野兵衛尉。二番は、中野五郎能成と工藤十郎。三番は、比企弥四郎時員と本間源太。

建仁元年(1201)九月大廿日丁夘。リ。御所御鞠也。凡此間抛政務。連日被專此藝。人皆赴當道。北條五郎已下參集。但各不着布衣。今日員七百所被揚之也。」今夜及深更。如月星之物自天降。人以莫不恠之。

読下し                   はれ  ごしょ  おんまりなり
建仁元年(1201)九月大廿日丁夘。リ。御所の御鞠也。

およ  こ   かんせいむ  なげう   れんじつ  こ   げい  もっぱ   され  ひとみなとうどう  おもむ
凡そ此の間政務を抛ち、連日の此の藝を專らに被、人皆當道@に赴く。

ほうじょうのごろう いか さんしゅう   ただ  おのおの ほい   き   ず   きょう   かずななひゃくこれ  あげらる ところなり
北條五郎已下參集す。但し 各 布衣Aを着せ不。今日、員七百 之を揚被る所也。」

こんや しんこう  およ   つきほしごと  のものてんよ   ふ     ひともっ  これ  あやしまず な
今夜深更Bに及び、月星如き之物天自り降る。人以て之を恠不は莫し。

考@當道は、芸術的なことを指す。
参考A布衣は、狩衣一般を云う。
参考B
深更は、真夜中。

現代語建仁元年(1201)九月大二十日丁卯。晴れです。御所で蹴鞠です。だいたい最近は、政治向きの事をほっぱらかしで、毎日この蹴鞠の芸に打ち込んでばかりいるので、他の人も皆、これに付き合っています。北条五郎時連以下が集まってます。ただし、皆狩衣を着ていません。今日は、連続七百を数えました。」今夜、真夜中になって月か星の様な物が空から降ってきます。見る人は何か禍の前兆だと怪しまない人はおりません。

建仁元年(1201)九月大廿二日己巳。陰。又御鞠會。人數同前。今日人々多以候見證。其中。江馬太郎殿〔泰|〕密々被談于中野五郎能成云。蹴鞠者幽玄藝也。被賞翫之條所庶幾也。但去八月大風。鶴岳宮門顛倒。國土愁飢饉。此時態以自京都被召下放遊輩。而去廿日變異。非常途之儀。尤被驚思食。被尋仰司天等。非異變者。可及如此御沙汰歟。且幕下御在世建久年中。百ケ日之間。毎日可有御濱出之由。固被定之處。天變出現之由。資允朝臣勘申之間。依御謹愼。止其儀被始世上無爲御祈祷。今次第如何。貴客者昵近之仁也。以事次盍諷諫申哉云々。能成雖有甘心氣。不能發言云々。

読下し                     くも    また  おんまりえ   にんずうまえ おな   きょうひとびとおお  もっ  けんしょう そうろう
建仁元年(1201)九月大廿二日己巳。陰り。又、御鞠會。人數前に同じ。今日人々多く以て見證し候。

そ   なか  えまのたろうどの 〔やすとき〕  みつみつ なかののごろうよしなりに だん  られ  い      けまりは  ゆうげん げいなり
其の中、江馬太郎殿〔泰|〕密々に中野五郎能成于談じ被て云はく、蹴鞠者幽玄の藝也。

しょうがんさる  のじょう しょき    ところなり
賞翫被る之條庶幾@する所也

ただ  さんぬ はちがつ おおかぜ つるがおか みやもんてんとう   こくど ききん   うれ
但し去る八月の大風に、鶴岳の宮門顛倒し、國土飢饉を愁う。

かく  ときわざ  もっ  きょうとよ   ほうゆう  やから めしくださる  しか    さんぬ はつか  いへん   じょうとの ぎ  あらず
此の時態と以て京都自り放遊の輩を召下被る。而るに去る廿日の變異、常途之儀に非。

もっと おどろ おぼ  めされ   してんら   たず  おお  られ  いへん  あらず  ば  かく  ごと      ごさた   およ  べ   か
尤も驚き思し食被、司天B等に尋ね仰せ被、異變に非ん者、此の如きの御沙汰に及ぶ可き歟。

かつう ばっか ございせい けんきゅうねんちう ひゃっかにちのかん まいにちおはまいであ  べ   のよし  かた  さだ  らる  のところ  てんぺんしゅつげんのよし
且は幕下御在世の建久年中、百ケ日之間、毎日御濱出有る可き之由、固く定め被る之處、天變出現之由、

すけただあそんかん もう  のかん   ごきんしん  よっ     そ   ぎ   や   せじょう むい    ごきとう    はじ  らる    いま  しだい  いかん
資允朝臣勘じ申すC之間、御謹愼に依て、其の儀を止め世上無爲の御祈祷を始め被る。今の次第や如何。

ききゃくは じっこんのじんなり  こと  ついで もっ  なん  ふうかん  もう    や   うんぬん
貴客者昵近之仁也。事の次を以て盍ぞ諷諫し申さん哉と云々。

よしなりかんしん け あ    いへど   ことば はっ     あたはず  うんぬん
能成甘心の氣有ると雖も、言を發するに不能と云々。

参考@庶幾は、願わしい。
参考A常途之儀に非は、まともな時ではない。
参考B司天は、天文学者(天文占い師)。
参考C勘じ申すは、勘申する。諫言する。目上の者に注意する。

現代語建仁元年(1201)九月大二十二日己巳。曇りです。又も蹴鞠です。人数は前と同じです。今日は、大勢の人が集まって見学しています。
その中で、江間太郎〔泰時〕が、内緒で中野五郎能成に言い寄りました。
「蹴鞠は、趣が奥深くはかりしれないので、夢中になるものなのでしょう。しかし、先だっての八月の台風で、八幡宮の宮門が倒れたり作物がやられたりして、国中が飢饉に悲しんでいる時です。そんな時にわざわざ京都から遊びの名人を呼び寄せました。しかも二十日の異常現象も、普通ではありませんよ。将軍が一番恐れて、天文学者にお尋ねになるべきでしょう。その上で、悪い予感でないとわかってから、このような蹴鞠を始めるべきではないでしょうか。昔、頼朝様が生きておられた建久年間に、百日の間、毎日浜へ出て(弓矢の遊びを楽しむ)行こうと、固く決心されましたが、天変が現れたと天文博士阿倍資允さんが諫言したので、これは為政者として謹慎するべきだと、それをお止めになり、世情が無事なように御祈祷を始められました。それに比べて今の行いはどうでしょうか。貴方は、将軍のおそば近く勤めている方なので、何かの折にどうかお諫めしては如何でしょうか。」
中野五郎能成は、その言葉にうなづきましたが、言葉を口にすることはありませんでしたとさ。

十月へ

吾妻鏡入門第十七巻

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