吾妻鏡入門第十七巻

建仁二年壬戌(1202)三月小

建仁二年(1202)三月小八日癸丑。御所御鞠。人數如例。此御會連日儀也。其後入御于比企判官能員之宅。庭樹花盛之間。兼啓案内之故也。爰有自京都下向舞女〔号微妙〕。盃酌之際被召出之。歌舞盡曲。金吾頻感給之。廷尉申云。此舞女依有愁訴之旨。凌山河參向。早直可被尋聞食者。金吾令尋其旨給之處。彼女落涙數行。無左右不出詞。恩問及度々之間。申云。去建久年中。父右兵衛尉爲成。依ママ」讒爲官人被禁獄。而以西獄囚人等。爲給奥州夷。被放遣之。將軍家雜色請取下向畢。爲成在其中。母不堪愁歎卒去。其時我七歳也。無兄弟親眤。多年沈孤獨之恨。漸長大之今。戀慕切之故。爲知彼存亡。始慣當道。而赴東路云々。聞之輩悉催悲涙。速遣御使於奥州。可被尋仰之由。有其沙汰。盃酒及終夜。鷄鳴以後令還給。

読下し                    ごしょ  おんまり  にんずうれい ごと    かく  おんかいれんじつ ぎなり
建仁二年(1202)三月小八日癸丑。御所の御鞠。人數例の如し。此の御會連日の儀也。

そ   ご ひきのほうがんよしかずの たくに にゅうぎょ    にわ  き なはざか のかん  かね  あない  もう  のゆえなり
其の後比企判官能員之 宅于 入御す。庭の樹花盛り之間、兼て案内を啓す之故也。

ここ  きょうとよ   げこう  まいひめ 〔みみょう  ごう  〕  あ     はいしゃくのきわ これ  めしいだされ  かぶきょく つく   きんご しきり これ  かん  たま
爰に京都自り下向の舞女〔微妙と号す〕有り。盃酌之際に之を召出被、歌舞曲を盡す。金吾頻に之を感じ給ふ。

ていい もう    い       こ  まいおんな しゅうそのむね あ    よっ    さんが  しの  さんこう    はや  じき  たず  き     めさる   べ   てへ
廷尉申して云はく。此の舞女は愁訴之旨有るに依て、山河を凌ぎ參向す。早く直に尋ね聞こし食被る可し者れば。

きんご そ  むね  たず  せし  たま  のところ  か おんならくるいすうぎょう   そう な  ことば いださず  おんもんたびたび およ  のかん  もう    い
金吾其の旨を尋ね令め給ふ之處、彼の女落涙數行。左右無く詞を出不。恩問度々に及ぶ之間、申して云はく。

さんぬ けんきゅうねんちう  ちちうひょうのじょうためなり そしり よっ  かんじん  ため  きんごくさ
去る 建久年中、 父右兵衛尉爲成、讒に依て官人の爲に禁獄被る。

しか    さいごく  めしうどら   もっ    おうしゅう えびす たま   ため  これ  はな  つか  さる    しょうぐんけ  ぞうしき   う   と   げこう をはんぬ
而るに西獄の囚人等を以て、奥州の夷に給はん爲、之を放ち遣は被る。將軍家の雜色が請け取り下向し畢。

ためなり そ  なか  あ     はは  しゅうたん たえずそっきょ    そ  ときわれななさいなり  きょうだいしんぢつな   たねん こどくのうらみ  しず
爲成其の中に在り。母は愁歎に堪不卒去す。其の時我七歳也。兄弟親眤無く、多年孤獨之恨に沈む。

ようや ちょうだいのいま  れんぼせつ    のゆえ   か   そんぼう  し   ため    はじ    とうどう   なら  て とうろ   おもむ   うんぬん
漸く長大之今、戀慕切なる之故に、彼の存亡を知る爲に、始めて當道を慣い而東路に赴くと云々。

これ  き  やから ことごと ひるい もよお   すみや   おんしを おうしゅう つか      たず  おお  らる  べ   のよし   そ   さた あ
之を聞く輩、悉く悲涙を催す。速かに御使於奥州へ遣はし、尋ね仰せ被る可し之由、其の沙汰有り。

はいしゅよもすがら およ   けいめい いご かえ  せし  たま
盃酒終夜に及び、鷄鳴以後還ら令め給ふ。

現代語建仁二年(1202)三月小八日癸丑。御所での蹴鞠の人数は何時もの通りです。この蹴鞠の会が連日です。その後、比企判官能員の屋敷へ行かれました。庭の桜が満開なので、ぜひお越しくださいと誘われていたからです。そこに京都から下ってきた神様に舞を奉納する舞姫〔微妙〕がおります。宴会の席に呼び出され、歌や踊りを披露しました。左衛門督頼家様は大喜びです。判官能員が申しあげました。「彼女は、つらい事情の訴えがあるので、山川を超えてはるばるやってきたのです。直接お聞きになってあげては如何でしょうか。」といわれて左衛門督頼家様は、その事情を改めて尋ねましたが、彼女は涙を流すばかりで、言葉を発しません。

将軍から何度も質問があったので、やっとのこと言い出しました。「去る建久年間(1190-1199)に、父の右兵衛尉為成は、人からでっち上げて訴えられ、檢非違使に捕えられ牢屋に入れられてしまいました。しかし、京都の西側の監獄の囚人を奥州(東北)のアイヌに奴隷として与えるために監獄から出されました。これを鎌倉の将軍頼朝様の雑用が受取り、しょっ引いていきました。その中に父為成も入っていたのです。母は、悲しみに耐えきれず体を壊して死んでしまいました。その時私は七歳でした。兄弟も親しい親戚もなく、長い間一人ぼっちで暮らしてまいりました。やっと大きくなった今、父への恋しさが切ないので、その生き死にを知りたいので、この踊りの道を習った上で、関東へやってきたのです。」とのことでした。

この話を聞いていた連中は、皆同情の涙を流しました。速やかに使いを奥州へ行かせて、調べさせるように、決められました。宴会は一晩中続き、一番どりが啼いた後で御所へ帰りました。

建仁二年(1202)三月小十四日己未。有御鞠。人數同前。員三百六十。二百五十。」今日。永福寺内多寳塔供養也。尼御臺所并金吾爲御結縁御參。導師榮西律師。是金吾乳母入道武藏守源義信朝臣亡妻追福也。導師施物等。自尼御臺所被調遣之。所右衛門尉朝光爲奉行。

読下し                     おんまりあ     にんずうまえ おな   かずさんぎゃくろくじう にひゃくごじう
建仁二年(1202)三月小十四日己未。御鞠有り。人數前に同じ。員三百六十。二百五十。」

きょう    ようふくじない   たほうとう   くようなり   あまみだいどころなら   きんご ごけちえん  ためぎょさん    どうし   ようさいりっし
今日、永福寺内の多寳塔の供養也。尼御臺所并びに金吾御結縁の爲御參す。導師は榮西律師。

これ  きんご   めのと  にゅうどう むさしのかみ みなもとよしのぶ あそん ぼうさい  ついぶくなり  どうし   せぶつら  あまみだいどころよ  これ  ととの つか  さる
是、金吾が乳母の入道 武藏守 源義信 朝臣の亡妻の追福也。導師の施物等、尼御臺所自り之を調へ遣は被る。

ところのうえもんのじょうともみつ ぶぎょう  な
 所右衛門尉朝光 奉行を爲す。

現代語建仁二年(1202)三月小十四日己未。蹴鞠の人数は何時もの通りです。数は360と250でした。

今日は、永福寺内に建立した多宝塔の完成式です。尼御台所政子様と左衛門督頼家様が仏との縁を結ぶためにお参りです。指導僧は、葉上坊律師栄西。この供養式は、左衛門督頼家様の乳母の入道源大内武藏守義信の亡くなった妻の追善供養です。指導僧へのお布施は、尼御台所政子様が準備しました。所六郎右衛門尉朝光が担当です。

建仁二年(1202)三月小十五日庚申。今日御鞠。及終日。員百廿三。百廿。百廿。二百四十。二百五十也。其後尼御臺所入御左金吾御所。召舞女微妙。覽其藝。是依令感戀父之志給也。藝能頗抜群之間。爲尋彼父存亡。被遣使者於奥州云々。飛脚歸參程者。可候尼御臺所御亭之由被仰。仍還御之時爲御共。

読下し                      きょう   おんまり  しゅうじつ およ   かずひゃくにじうさん ひゃくじう ひゃくにじう にひゃくよんじう  にひゃくごじうなり
建仁二年(1202)三月小十五日庚申。今日の御鞠、終日に及ぶ。員百廿三。 百廿。 百廿。 二百四十。二百五十也。

そ   ご あまみだいどころ さきんご  ごしょ  にゅうぎょ   まいおんなみみょう  め     そ   げい  み
其の後尼御臺所左金吾の御所へ入御す。 舞女 微妙を召し、其の藝を覽る。

これ  れんふのこころざし かん せし  たま    よっ  なり
是、戀父之 志を 感じ令め給ふに依て也。

げいのう すこぶ ばつぐんのかん  か   ちち  そんぼう  たず   ため  ししゃを おうしゅう  つか  さる    うんぬん
藝能 頗る 抜群之間、彼の父の存亡を尋ねん爲、使者於奥州へ遣は被ると云々。

ひきゃく  きさん   ほどは  あまみだいどころ おんてい こう  べ   のよしおお  らる    よっ  かんごのとき おんとも  な
飛脚が歸參の程者、尼御臺所の御亭へ候ず可し之由仰せ被る。仍て還御之時御共を爲す。

現代語建仁二年(1202)三月小十五日庚申。今日の蹴鞠は一日中でした。数が多かったのは、123、120、240、250でした。その後、尼御台所政子様が左衛門督頼家様の御所へ来ました。舞姫微妙を呼んで、その踊りの芸を見ました。それは、彼女の父を慕う心根に感心されたからなのです。芸はそれは大変優れていたので、彼女の父の生き死にを調べるために、使いを奥州へ行かせました。その伝令が帰ってきたときは、尼御台所政子様の屋敷へこらせるように命令されました。それなので、自分の屋敷へお戻りになられる時に、微妙はお供をしてついていきました。

説明頼家の漁色を心配した政子が取上げてしまいましたね。

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