吾妻鏡入門第十七巻

建仁二年壬戌(1202)四月小

建仁二年(1202)四月小三日丁丑。霽。鶴岳臨時祭如例。但金吾無御出。遠州爲御使令神拝給。

読下し                   はれ  つるがおか りんじさい れい  ごと    ただ  きんご ぎょしゅつな   えんしゅうおんし  な  しんぱいせし たま
建仁二年(1202)四月小三日丁丑。霽。鶴岳の臨時祭例の如し。但し金吾御出無し。遠州御使と爲し神拝令め給ふ。

現代語建仁二年(1202)四月小三日丁丑。晴れました。鶴岡八幡宮の臨時のお祭りは何時もの通りです。但し、左衛門督頼家様の参加はありません。遠江守北条時政殿が代参をしました。

建仁二年(1202)四月小十三日丁亥。リ。風烈。左金吾渡御掃部頭親能入道龜谷家。於彼持佛堂庭樹下有御鞠。金吾令立給。伯者少將。北條五郎。紀内行景。比企弥四郎。冨部五郎。肥田八郎。源性。義印等候之。南風頻扇不員上。

読下し                     はれ  かげはげ    さきんご かもんのかみちかよしにゅうどう かめがやつ いえ  とぎょ
建仁二年(1202)四月小十三日丁亥。リ。風烈し。左金吾 掃部頭親能入道 が 龜谷 の家へ渡御す。

か   じぶつどう   にわ  きのした  をい  おんまりあ     きんごたたせし  たま
彼の持佛堂の庭の樹下に於て御鞠有り。金吾立令め給ふ。

ほうきのしょうしょう ほうじょうのごろう  きないゆきかげ  ひきのいやしろう   とみべのごろう  ひたのはちろう げんしょう  ぎいんら これ  こう
伯者少將、 北條五郎、 紀内行景、比企弥四郎、冨部五郎、肥田八郎、源性、義印等之に候ず。

なんぷうしきり あお  かず  あが  ず
南風頻に扇ぎ員は上ら不。

現代語建仁二年(1202)四月小十三日丁亥。晴れです。風が激しい。左衛門督頼家様は掃部入道中原親能の亀ケ谷んお屋敷へ行かれました。その庭の親能のお守りのお堂の庭の木の下で蹴鞠をしました。左衛門督頼家様が立ち、伯耆少将藤原清基・北条五郎時連・紀内所行景・比企弥四郎時員・冨部五郎・肥多八郎宗直・大輔房源性・加賀房義印などがお付き合いをしました。南風が吹くので数は続きませんでした。

建仁二年(1202)四月小廿七日辛丑。有御鞠。人數如例。秉燭之程。左金吾召寄小鞠。令揚數百廿給。行景傍奉見。得天骨給之由。頻以感申之。

読下し                     おんまりあ   にんずうれい ごと    へいしょくのほど  さきんご こまり   めしよ    すうひゃくにじう あげせし たま
建仁二年(1202)四月小廿七日辛丑。御鞠有。人數例の如し。秉燭之程、左金吾小鞠を召寄せ、數百廿を揚令め給ふ。

ゆきかげ かたわら みたてまつ  てんこつ  え たま  のよし  しきり  もっ  これ  かん  もう
行景 傍に 見奉る。天骨を得給ふ之由、頻に以て之を感じ申す。

現代語建仁二年(1202)四月小二十七日辛丑。蹴鞠があり、人数は何時もの連中です。夕暮れになって頼家は小さい鞠を持ってこさせ、数を数百二十も続けました。紀内所行景はそばで見ていて、「天分を獲得しましたね。」と、盛んに感心しておべっかを使っていました。

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