建仁二年壬戌(1202)五月大
建仁二年(1202)五月大二日乙巳。兄弟相論事。於向後者。付是非可被仰和平之由。今日被定之。 |
読下し きょうだいそうろん こと きょうご をい は ぜひ つ わへい おお
らる べ のよし きょう これ さだ らる
建仁二年(1202)五月大二日乙巳。兄弟相論の事、向後に於て者、是非に付き和平を仰せ被る可き之由、今日之を定め被る。
現代語建仁二年(1202)五月大二日乙巳。兄弟の相続争いについて、今後はその裁判に際し和解を勧告するように、今日お決めになられました。
建仁二年(1202)五月大五日戊申。鶴岳神事如例。北條五郎爲奉幣御使。 |
読下し つるがおか しんじれい ごと ほうじょうのごろうほうへい おんし な
建仁二年(1202)五月大五日戊申。鶴岳の神事例の如し。北條五郎奉幣の御使と爲す。
現代語建仁二年(1202)五月大五日戊申。鶴岡八幡宮の端午の節句の神事は例年の通りです。北条五郎時連が、幣束を捧げる代参をしました。
建仁二年(1202)五月大十日癸丑。左金吾令出三浦海邊給。有例笠懸。十騎。撰射手云々。 |
読下し
さきんご みうら かいへん いでせい たま れい
かさがけあ じっき いて えら うんぬん
建仁二年(1202)五月大十日癸丑。左金吾三浦の海邊に出令め給ふ。例の笠懸有り。十騎。射手を撰ぶと云々。
現代語建仁二年(1202)五月大十日癸丑。左衛門督頼家様は、三浦の海岸へお出かけです。何時もの様に笠懸があり、十騎の射手を選び出されましたとさ。
建仁二年(1202)五月大廿日癸亥。御所御鞠也。六位進盛景。紀内行景。細野四郎兵衛尉。冨部五郎。稻木五郎。比企弥四郎。源性等候之。員二百二十。五百二十。伯耆少將。北條五郎等依煩脚氣候見證。 |
読下し
ごしょ おんまりなり
建仁二年(1202)五月大廿日癸亥。御所の御鞠也。
ろくいのしんもりかげ きないゆきかげ ほそののしろうひょうえのじょう とみべのごろう いなきのごろう ひきのいやしろう げんしょうらこれ こう
六位進盛景、紀内行景、
細野四郎兵衛尉、
冨部五郎、稻木五郎、比企弥四郎、源性等之に候ず。
かずにひゃくにじう ごひゃくにじう
ほうきしょうしょう ほうじょうのごろうら かっけ わずら よっ げんしょう こう
員二百二十。五百二十。伯耆少將、北條五郎等
脚氣を煩うに依て見證に候ず。
現代語建仁二年(1202)五月大二十日癸亥。御所で蹴鞠です。六位進盛景・紀内所行景・細野四郎兵衛尉・冨部五郎・稲木五郎・比企弥四郎時員・大輔房源性が行いました。数は210、520。伯耆少将藤原清基・北条五郎時連達は、脚気にかかっているので、数検査の方をしました。
建仁二年(1202)五月大卅日癸酉。以早河庄令中分云々。田百四十丁六段。停止預所土肥弥太郎遠平。被付筥根山云々。 |
読下し はやかわのしょう もっ ちうぶんせし うんぬん
建仁二年(1202)五月大卅日癸酉。
早河庄を 以て中分令むと云々。
たひゃくよじっちょうろくたん あずかりどころ といのいやたろうとおひら ちょうじ はこねやま つ らる うんぬん
田百四十丁六段。 預所 土肥弥太郎遠平を停止し、筥根山に付け被ると云々。
現代語建仁二年(1202)五月大三十日癸酉。早川庄(神奈川県小田原市早川)を、真半分に分けました。田んぼ146反を、現地管理人の預かり所職土肥弥太郎遠平の支配から外して、箱根権現(箱根神社)へ寄付しましたとさ。