建仁二年壬戌(1202)八月大
建仁二年(1202)八月大二日癸酉。京都使者參。去月廿二日左金吾敍從二位。補征夷大将軍給之由申之。 |
読下し
きょうと
ししゃ まい
建仁二年(1202)八月大二日癸酉。京都の使者參る。
さんぬ つきにじうににち さきんご
じゅにい
じょ せいいたいしょうぐん ぶ たま のよしこれ もう
去る月廿二日左金吾從二位に敍す。征夷大将軍に補し給ふ之由之を申す。
現代語建仁二年(1202)八月大二日癸酉。京都からの使いが来ました。「先月二十二日左衛門督頼家様が従二位を与えられ、征夷大将軍に任命されました。」と伝えました。
建仁二年(1202)八月大五日丙子。所被遣奥州之雜色男歸參。舞女父爲成已亡云々。彼女涕泣悶絶躄地云々。 |
読下し おうしゅう
つか
さる ところのぞうしきおとこきさん
建仁二年(1202)八月大五日丙子。奥州へ遣は被る所之雜色男歸參す。
まいおんな
ちちためなりすで な うんぬん か おんな
ていきゅう もんぜつ びゃくち うんぬん
舞女が父爲成已に亡しと云々。彼の女
涕泣し悶絶 躄地すと云々。
現代語建仁二年(1202)八月大五日丙子。三月に舞姫微妙の父を探しに東北へ派遣された雑用が帰ってきました。舞姫微妙の父の為成はすでに死亡しているとのことでした。それを聞いた彼女は、号泣しながら気を失い倒れ伏したそうです。
建仁二年(1202)八月大十五日丙戌。リ。鶴岳放生會如例。將軍家御參宮。」入夜。舞女微妙於營西律師禪坊遂出家〔号持蓮〕。爲訪父夢後云々。尼御臺所御哀憐之餘。賜居所於深澤里邊。常可參御持佛堂砌之由。被仰含云々。此女。日來古都左衛門尉保忠密通。成比翼連理契之處。保忠下向甲斐國。不待歸來。有此儀。不堪悲歎之故也。 |
読下し
はれ
つるがおか ほうじょうえ れい ごと
しょうぐんけ ごさんぐう
建仁二年(1202)八月大十五日丙戌。リ。鶴岳
放生會 例の如し。將軍家 御參宮。」
よ い まいおんな
びみょう
ようさいりっしぜんぼう をい しゅっけ 〔じれん ごう 〕 と ちち むご とぶ な
うんぬん
夜に入り。舞女
微妙、營西律師禪坊に於て出家〔持蓮と号す〕を遂ぐ。父の夢後を訪らはんと爲すと云々。
あまみだいどころ
ごあいりんの あま
きょしょを ふかざわのさとへん たま つね
おんじぶつどう
みぎり まい べ のよし おお ふく
らる うんぬん
尼御臺所
御哀憐之餘り、居所於 深澤里
邊に賜はる。常に御持佛堂の砌に參る可し之由、仰せ含め被ると云々。
こ おんな ひごろ ふるごおりさえもんのじょうやすただ みっつう
ひよく れんり ちぎ な
のところ やすただ かいのくに げこう
此の女、日來 古都左衛門尉保忠 と密通し、比翼連理の契りを成す之處、保忠甲斐國へ下向す。
かえ きた またず かく ぎ あ
ひかん た ざるのゆえなり
歸り來るを待不に、此の儀有り。悲歎に堪へ不之故也。
現代語建仁二年(1202)八月大十五日丙戌。晴れです。鶴岡八幡宮の生き物を放つ放生会は例年の通りです。将軍頼家もお参りしました。夜になって舞姫微妙が、葉上坊律師栄西の禅宗の宿舎で髪を降ろしました〔法名は持蓮と云います〕。亡き父の死後の霊を慰めるために追善供養をするためだそうです。尼御台所政子様は、同情して住まいを深沢あたりに与えました。いつも私の仏様を祀る持仏堂のそばに居るように、云って聞かせましたとさ。この女は、最近古郡左衛門尉保忠と密かに恋におち、両の翼のようにいつも一緒にいると約束したのに、保忠は自分の領地の甲斐国へ下りました。その帰りを待ちきれずに出家してしまいました。父の死の悲しみに耐えきれなかったからです。
建仁二年(1202)八月大十六日丁亥。リ。將軍家無御參宮。於馬塲棧敷。覽流鏑馬許也。 |
読下し
はれ しょうぐんけ ごさんぐうな
ばば さじき をい やぶさめ み
ばか なり
建仁二年(1202)八月大十六日丁亥。リ。將軍家御參宮無し。馬塲の棧敷に於て、流鏑馬を覽る許り也。
現代語建仁二年(1202)八月大十六日丁亥。晴れです。八幡宮は昨日に続く祭礼の日なのに、将軍頼家はお参りをしません。流鏑馬馬場の臨時席桟敷で流鏑馬を見ているだけでした。
建仁二年(1202)八月大十八日己丑。リ。午剋。鶴岳若宮西廻廊鳩飛來。數剋不立避。仍供僧等恠之。眞智房法橋。大學房等。修門答講一座。令法樂之。將軍家爲見聞參給。遠州大官令等扈從。其外貴賎成市。及酉尅。件鳩指西方飛去云々。 |
読下し
はれ うまのこく つるがおかわかみや にし
かいろう はと と きた
すうこく た さ ず
建仁二年(1202)八月大十八日己丑。リ。午剋。
鶴岳若宮 の西の廻廊に鳩飛び來る。數剋立ち避ら不。
よっ ぐそう ら
これ あやし しんちぼうほっきょう だいがくぼうら もんどうこういちざ しゅう これ ほうらくせし
仍て供僧等之を恠み、眞智房法橋、大學房等、門答講一座を修し、之を法樂令む。
しょうぐんけけんぶん ため
まい たま えんしゅうだいかんれら こしょう そ
ほか きせんいち な
將軍家見聞せんが爲に參り給ふ。遠州大官令等扈從す。其の外貴賎市を成す。
とりのこく およ
くだん はとせいほう さ と さ うんぬん
酉尅に及び、件の鳩西方を指し飛び去ると云々。
現代語建仁二年(1202)八月大十八日己丑。晴れです。午の刻(昼頃)に、鶴岡八幡宮の西の回廊に鳩が飛んできて、何時間も立ち去りません。坊主たちは、これを不思議な現象と思い、真智房法橋・大学房などが、仏教について議論をする問答講を行い、仏法を味わいました。将軍頼家は、これを見学するためにやってきました。遠州北條時政殿と大官令大江広元がお供です。その他にも大勢の群衆が集まりました。酉の刻(午後六時頃)になって、ようやく例の鳩が浄土の西の空へ向かって飛び去りましたとさ。
建仁二年(1202)八月大廿一日壬辰。御鞠。人數如例。員二百五十。百三十。 |
読下し
おんまり にんずうれい
ごと かずにひゃくごじう ひゃくさんじう
建仁二年(1202)八月大廿一日壬辰。御鞠。人數例の如し。員二百五十。百三十。
現代語建仁二年(1202)八月大二十一日壬辰。蹴鞠です。人数はいつも通り。数は250・130でした。
建仁二年(1202)八月大廿三日甲午。江馬太郎殿嫁三浦兵衛尉女子。 |
読下し
えまのたろうどの
みうらのひょうえのじょう おなご か
建仁二年(1202)八月大廿三日甲午。江馬太郎殿、三浦兵衛尉の女子@に嫁す。
参考@三浦兵衛尉の女子は、後の矢部尼。
現代語建仁二年(1202)八月大二十三日甲午。江間太郎泰時様が、三浦平六兵衛尉義村の娘と結婚しました。
説明建久五年(1194)二月二日泰時の元服時に、頼朝が三浦介義澄に孫の婿にと言い、義澄も了解している。
建仁二年(1202)八月大廿四日乙未。入夜。龜谷邊騒動。是古都左衛門尉保忠爲訪舞女微妙出家事。自甲州到着。而彼女屬營西律師門弟祖達房。聞令落餝之由。先至件室。稱可尋問子細誓盟。祖達怖畏之餘。奔參御所門前。此間。保忠難休欝憤兮。打擲從僧等。依之近隣輩雖竸集。非異事之間。即分散。又尼御臺所遣朝光。宥保忠給。 |
読下し
よ い かめがやつへんそうどう
建仁二年(1202)八月大廿四日乙未。夜に入り、
龜谷邊 騒動す。
これ ふるごおりさえもんのじょうやすただ まいおんな
びみょう しゅっけ こと とぶら ため
こうしゅうよ とうちゃく
是、 古都左衛門尉保忠 、 舞女 微妙
出家の事を訪はん爲、甲州自り到着す。
しか か おんな ようさいりっし もんていそだつぼう
ぞく らくしょくせし のよし
き
而るに彼の女、營西律師の門弟祖達房に屬し、落餝令む之由を聞き、
ま くだん しつ いた しさい せいめい たず
と べ しょう
先ず件の室に至りて、子細に誓盟を尋ね問ふ可しと稱す。
そだつ ふい の あま ごしょ もんぜん はし まい
こ かん
やすただうっぷん やす がた て じゅうそうら
だちゃく
祖達怖畏之餘り、御所の門前に奔り參る。此の間、保忠欝憤を休み難くし兮。從僧等を打擲す。
これ よっ
きんりん やからきそ
あつ いへど こと こと あらずのかん
すなは ぶんさん
之に依て近隣の輩竸ひ集まると雖も、異なる事に非之間、即ち分散す。
また
あまみだいどころともみつ つか やすただ なだ
たま
又、尼御臺所朝光を遣はし、保忠を宥め給ふ。
現代語建仁二年(1202)八月大二十四日乙未。夜になって、亀ケ谷のあたりで騒ぎがありました。古郡左衛門尉保忠が、舞姫微妙が出家したと心配して甲州から来ました。それなのに、その舞姫は葉上坊律師栄西の弟子の祖達坊に頼んで、髪を落としたと聞いて、何はともかくその坊主の部屋へ行って、詳しく誓いの言葉を聞きたいと云いました。祖達坊は恐怖のあまり御所の門前へ逃げてきました。その間に保忠は怒りを鎮めようもなく、祖達房に居た部下の坊主達を殴ってしまいました。この騒ぎを聞きつけて、近所の連中が集まってきましたが、大した出来事ではないと、すぐに散ってしまいました。又、尼御台所政子様は結城七郎朝光を派遣して保忠をなだめさせました。
建仁二年(1202)八月大廿七日戊戌。今日保忠蒙御氣色。是去夜打擲祖達房從僧之間。依彼憤也。僧徒之法。以人々歸善爲本意之故。無左右令除髪授戒歟。而理不盡所行奇恠之由。尼御臺所以義盛。朝光等被仰之云々。 |
読下し
きょう やすただ みけしき こうむ
建仁二年(1202)八月大廿七日戊戌。今日、保忠御氣色を蒙る。
これ
さんぬ よ
そだつぼうじゅうそう だちゃく のかん か いかり
よっ なり
是、去る夜、祖達房從僧を打擲する之間、彼の憤に依て也。
そうとの ほう ひとびと もっ ぜん き ほんい な のゆえ そう な
じょはつじゅかいせし か
僧徒之法、人々を以て善に歸する本意と爲す之故、左右無く除髪授戒令むる歟。
しか りふじん しょぎょうきっかいのよし あまみだいどころ よしもり ともみつら もっ
これ おお らる うんぬん
而るに理不盡の所行奇恠之由、尼御臺所
義盛、朝光等を以て之を仰せ被ると云々。
現代語建仁二年(1202)八月大二十七日戊戌。今日、保忠は、将軍様のお怒りをかいました。夕べ、素達坊の部下の坊主を殴ってしまった事へのお怒りからです。「坊さん達の任務は、人々に対して善い行いを教えるのが本意なので、訳もなく髪を降ろして戒律を授けらる訳がないじゃないか。それなのに理屈に合わない行動をとるなんて、とんでもない行いだ。」と、尼御台所政子様が和田左衛門尉義盛や結城七郎朝光を使ってこの仰せを伝えたかだそうです。