建仁三年癸亥(1203)正月小
建仁三年(1203)正月小一日辛未。天霽風靜。午尅。將軍家御參鶴岳宮。和田兵衛尉常盛役御釼。於廻廊。御遥拝後還御。 |
読下し そらはれかぜしずか うまのこく
しょうぐんけ つるがおかぐう ぎょさん わだのひょうえのじょうつねもり ぎょけん
えき
建仁三年(1203)正月小一日辛未。
天霽風靜。 午尅。將軍家、鶴岳宮へ御參す。
和田兵衛尉常盛 御釼を役す。
かいろう をい
おんようはい のち かんご
廻廊に於て、御遥拝@の後還御す。
参考@遥拝は、神殿から離れた場所でお参りをすること。回廊でさえそう云う事は、通常は神殿に入ってお参りをしているのであろう。
現代語建仁三年(1203)正月小一日辛未。空は晴れて風もありません。午の刻(正午頃)に将軍頼家様は鶴岡八幡宮へお参りです。和田兵衛尉常盛が太刀持ちです。回廊から遥かにお参りをしてお帰りになりました。
建仁三年(1203)正月小二日壬申。リ。將軍若君〔一万君〕御奉幣鶴岳宮。被奉神馬二疋。被行御神樂之處。大菩薩詑巫女給曰。今年中。關東可有事。若君不可繼家督。岸上樹。其根已枯。人不知之。而恃梢緑云々。其後。將軍家御行始隼人入道宅。於此所有御鞠始。伯耆少將。北條五郎。六位進。冨部五郎。比企弥四郎。細野兵衛尉〔以上布衣〕等參會。今夜御逗留。 |
読下し はれ しょうぐん わかぎみ〔いちまんぎみ〕 つるがおかぐう ごほうへい
しんめにひき たてまつらる
建仁三年(1203)正月小二日壬申。リ。將軍
若君〔一万君〕 鶴岳宮
へ御奉幣。神馬二疋を 奉 被る。
おかぐら おこなはる のところ
だいぼさつ みこ つ たま い
御神樂を行被る之處、大菩薩巫女に詑き給ひて曰はく。
ことしちう かんとう ことあ べ わかぎみ
かとく つ
べからず きし うえ き そ ね すで かれ
今年中に、關東で事有る可し。若君家督を繼ぐ不可。岸の上の樹、其の根已に枯る。
ひとこれ
しらず て こずえ みどり たの うんぬん
人之を知不し而梢の緑を恃むと云々。
そ ご しょうぐんけ
はやとにゅうどう たく みゆきはじめ こ ところ をい おんまりはじめあ
其の後、將軍家隼人入道@が宅へ御行始。此の所に於て御鞠始有り。
ほうきのしょうしょう ほうじょうのごろう ろくいのしん とみべのごろう ひきのいやしろう ほそののひょうえのじょう 〔いじょう ほい〕
ら さんかい こんやごとうりゅう
伯耆少將、
北條五郎、六位進、冨部五郎、比企弥四郎、 細野兵衛尉 〔以上布衣〕等參會す。今夜御逗留す。
参考@隼人入道は、三善康C。建仁2年10月8日条に、庭の木々紅葉の記事あり。
現代語建仁三年(1203)正月小二日壬申。晴れです。将軍頼家様の嫡男の若君〔一万君〕が、鶴岡八幡宮へ幣を奉納し、馬を二頭奉納しました。お神楽を奉納していたら、八幡大菩薩が巫女に乗り移って言いました。「今年中に関東で出来事があるでしょう。若君は将軍を継ぐことはできません。岸に生えている樹木が、すでに根っこは枯れてしまっている。人々はそれを知らず、こずえの緑を当てにしている。」とのことでした。
その後、将軍頼家様は、隼人入道三善康Cの屋敷へ今年初めての外出式「御行始め」をしました。その出先で、蹴鞠がありました。伯耆少将藤原清基・北条五郎時房・六位進盛景・冨部五郎・比企弥四郎時員・細野兵衛尉〔以上は狩衣です〕等がお付き合いしました。今夜はお泊りです。
建仁三年(1203)正月小三日癸酉。リ。將軍家自隼人入道宅還御。於御所。有御的始。 |
読下し はれ しょうぐんけ はやとにゅうどうたくよ かんご ごしょ
をい おんまとはじめ あ
建仁三年(1203)正月小三日癸酉。リ。將軍家隼人入道宅自り、還御。御所に於て、御的始
有り。
いて
射手
いちばん
一番
うんののこたろうゆきうじ わだのひょうえのじょうつねもり
海野小太郎幸氏 和田兵衛尉常盛
にばん
二番
ちくごのろくろうともひさ わだのへいたたねなが
筑後六郎知尚 和田平太胤長
さんばん
三番
すわのたいふもりずみ もちづきのさぶろうしげずみ
諏訪大夫盛澄 望月三郎重澄
参考望月三郎重澄は、望月三郎重隆が正しいかもしれない。11941009重澄,11950815重隆,12010112重隆,12020921重隆,12030103重澄,12031009重隆,12040110重隆,12090106重隆、殆ど的始めなどでで出演しているので同一人と思われる。
現代語建仁三年(1203)正月小三日癸酉。晴れです。将軍頼家様は、隼人入道三善康Cの家から帰りました。御所で、年明け初めての弓矢の行事「的始め」がありました。
射手は、
一番が海野小太郎幸氏 和田兵衛尉常盛。
二番が筑後六郎八田知尚 和田平太胤長。
三番が諏訪大夫盛澄 望月三郎重澄(望月三郎重隆かも)。
建仁三年(1203)正月小廿日庚寅。將軍家又入御善隼人入道宅。有御鞠。北條五郎已下人數如例。員二百五十。百廿。 |
読下し しょうぐんけ また
はやとにゅうどう
たく にゅうぎょ おんまりあ
建仁三年(1203)正月小廿日庚寅。將軍家、又善隼人入道宅へ入御し、御鞠有り。
ほうじょうのどろう
いげ にんずう
れい ごと かずにひゃくごじう ひゃくにじう
北條五郎已下人數
例の如し。員二百五十。百廿。
現代語建仁三年(1203)正月小二十日庚寅。将軍頼家様は、又もや隼人入道三善康Cの屋敷へ行って蹴鞠です。北条五郎時房以下の人数は何時もの通りです。数は250.120でした。