吾妻鏡入門第十七巻

建仁三年癸亥(1203)四月大

建仁三年(1203)四月大三日辛丑。鶴岳祭如例。將軍家無御參。江馬四郎主爲奉幣御使。

読下し                  つるがおか まつりれい  ごと   しょうぐんけぎょさんな    えまのしろうぬしほうへい  おんしたり
建仁三年(1203)四月大三日辛丑。鶴岳の祭例の如し。將軍家御參無し。江馬四郎主奉幣の御使爲。

現代語建仁三年(1203)四月大三日辛丑。鶴岡八幡宮のお祭りは何時もの通りです。将軍頼家様のお参りは無く、江間四郎北条義時様が代参です。

建仁三年(1203)四月大六日甲辰。伊豫國御家人河野四郎通信。自幕下將軍御時以降。殊抽奉公節之間。不懸當國守護人佐々木三郎兵衛尉盛綱法師奉行。別可致勤厚。兼又如舊可相從國中近親并郎從之由。給御教書。平民部丞盛時奉行之。通信年來有鎌倉之處。適賜身之暇。明日可歸國之間。召御前。給此御教書云々。

読下し                   いよのくに ごけにん こうののしろうみちのぶ  ばっかしょうぐん  おんときよ   いこう  こと  ほうこう  とき  ぬき    のかん
建仁三年(1203)四月大六日甲辰。伊豫國御家人河野四郎通信@、幕下將軍の御時自り以降、殊に奉公の節を抽んづ之間、

とうごくしゅごにん  ささきのさぶろうひょうえのじょうもりつなほっし  ぶぎょう  かからず  べっ    きんこういた  べ
當國守護人の佐々木三郎兵衛尉盛綱法師の奉行に懸不、別して勤厚致す可し。

かね  また  むかし ごと  くにちう  きんしんなら   ろうじゅう あいしたが   べ   のよし  みぎょうしょ たま      へいみんぶのじょうもりとき これ ぶぎょう
兼て又、舊の如く國中の近親并びに郎從を相從へる可し之由、御教書を給はる。平民部丞盛時 之を奉行す。

みちのぶ ねんらいかまくら あ  のところ  たまた みのいとま  たま       あす きこく すべ  のかん  ごぜん  め     かく  みぎょうしょ  たま      うんぬん
通信、年來鎌倉に有る之處、適ま身之暇を賜はり、明日歸國可き之間、御前に召し。此の御教書Aを給はると云々。

参考@河野四郎通信の河野水軍は、平家に味方したので、これまで召し預けになっていたものと思われる。
参考A
御教書には、時限がある。

現代語建仁三年(1203)四月大六日甲辰。伊予国の御家人河野四郎通信は、頼朝様の時代からずうっと、特に仕えて来たので、伊予の守護佐々木三郎兵衛尉盛綱法師の指示に従わなくても良い、特別な御家人として認めます。また同時に、昔のように国中に住む親戚や部下達を(河野水軍として)支配するようにとの、命令書を与えられました。平民部烝盛時が担当します。河野四郎通信は普段鎌倉に居ましたが、たまたま許可を得て明日国へ帰るので、将軍様はお呼びになり、この命令書を与えましたとさ。

建仁三年(1203)四月大廿一日己未。御鞠。伯耆少將。北條五郎。紀内所。比企弥四郎。肥田八郎。源性。義印等候之。

読下し                      おんまり  ほうきしょしょう ほうじょうのごろう  きないところ  ひきのいやしろう  ひたのはちろう げんしょう  ぎいんら これ  そうら
建仁三年(1203)四月大廿一日己未。御鞠。伯耆少將。北條五郎。紀内所。比企弥四郎。肥田八郎。源性。義印等之に候う。

現代語建仁三年(1203)四月大二十一日己未。蹴鞠です。伯耆少将藤原清基・北条五郎時房・紀内所行景・比企弥四郎時員・肥多八郎宗直・大輔房源性・加賀房義印が参加しました。

五月へ

吾妻鏡入門第十七巻

inserted by FC2 system