吾妻鏡入門第十七巻

建仁三年癸亥(1203)九月大

建仁三年(1203)九月大一日丙寅。將軍家御病惱事。祈療共如無其驗。依之。鎌倉中太物忩。國々御家人竸參。人之所相謂。叔(父)姪戚等不和儀忽出來歟。關東安否。盖斯時也云々。

読下し                               しょうぐんけ ごびょのう  こと  きりょうとも   そ   しるしな    ごと    これ  よつ    かまくらちゅうはなは ぶっそう
建仁三年(1203)九月大一日丙寅。將軍家御病惱の事、祈療@共に其の驗無きが如し。之に依て、鎌倉中太だ物忩A

くにぐに  ごけにん  きそ  まい    ひとの あいい ところ  しゅくふてっせき ら ふわ   ぎ たちま   い   き       か
國々の御家人B竸い參る。人之相謂う所。叔父姪戚C等不和の儀忽ちに出で來たらん歟。

かんとう  あんぴ  けだ  こ   ときなり  うんぬん
關東の安否、盖し斯の時也と云々。

参考@祈療は、祈りと治療。
参考A物忩は、危ないではなく、字のごとく物騒がしい。
参考B國々御家人は、御家人には三種類あるらしく、鎌倉に居る在鎌倉御家人、京都の常駐する在京御家人、国許に居る国御家人である。
参考C叔姪戚は、叔父と甥の仲が。

現代語建仁三年(1203)九月大一日丙寅。将軍頼家様の病気について、祈祷も治療もその効果がありません。だもんで鎌倉中が大騒ぎです。自分の国に居る在国御家人が皆競うように鎌倉へやってきます。人々が考えているのは、叔父(義時)と甥(頼家)の仲に対立が生じて来たのではないか。関東の安否が疑われる時ではないかとのことです。

説明猪熊関白記の九月七日の条に「九月一日付けの鎌倉からの手紙に頼家は死んだと書いてある」と書いてある。(未確認)

建仁三年(1203)九月大二日丁夘。今朝。廷尉能員以息女〔將軍家妾。若君母儀也。元号若狹局〕訴申。北條殿。偏可追討由也。凡家督外。於被相分地頭職。威權分于二。挑爭之條不可疑之。爲子爲弟。雖似靜謐御計。還所招乱國基也。遠州一族被存者。被奪家督世之事。又以無異儀云々。將軍驚而招能員於病床。令談合給。追討之儀。且及許諾。而尼御臺所隔障子。潜令伺聞此密事給。爲被告申。以女房被奉尋遠州。爲修佛事。已歸名越給之由。令申之間。雖非委細之趣。聊載此子細於御書。付美女被進之。彼女奉奔付于路次。捧御書。遠州下馬拝見之。頗落涙。更乘馬之後。止駕暫有思案等之氣。遂廻轡渡御于大膳大夫廣元朝臣亭。々主奉相逢之。遠州被仰合云。近年能員振威蔑如諸人條。世之所知也。剩將軍病疾之今。窺惘然之期。掠而稱將命。欲企逆謀之由。慥聞于告。此上先可征之歟。如何者。大官令答申云。幕下將軍御時以降。有扶政道之号。於兵法者。不弁是非。誅戮否。宜有賢慮云々。遠州聞此詞。即起座給。天野民部入道蓮景。新田四郎忠常等爲御共。於荏柄社前。又扣御駕。被仰件兩人云。能員依企謀叛。今日可追伐。各可爲討手者。蓮景云。不能發軍兵。召寄御前。可被誅之。彼老翁有何事之哉者。令還御亭給之後。此事猶有儀。重爲談合。被召大官令。々々々雖有思慮之氣。憖以欲參向。家人等多以進從之處。稱有存念悉留之。只相具飯冨源太宗長許。路次之間。大官令密語于宗長云。世上之爲躰。尤可怖畏歟。於重事者。今朝被凝細碎評議訖。而又恩喚之條。太難得其意。若有不慮事者。汝先可害予者。爾後至名越殿。遠州御對面良久。此間。宗長在大官令之後。不去座云々。午尅。大官令退出。遠州於此御亭。令供養藥師如來像〔日來奉造之〕給。葉上律師爲導師。尼御臺所爲御結縁。可有入御云々。遠州以工藤五郎爲使。被仰遣能員之許云。依宿願。有佛像供養之儀。御來臨。可被聽聞歟。且又以次可談雜事者。早申可豫參之由。御使退去之後。廷尉子息親類等諌云。日來非無計儀事。若依有風聞之旨。預專使歟。無左右不可被參向。縱雖可被參。令家子郎從等。着甲冑帶弓矢。可被相從云々。能員云。如然之行粧。敢非警固之備。謬可成人疑之因也。當時能員猶召具甲冑兵士者。鎌倉中諸人皆可遽騒。其事不可然。且爲佛事結縁。且就御讓補等事。有可被仰合事哉。忩可參者。遠州着甲冑給。召中野四郎。市河別當五郎。帯弓箭可儲兩方小門之旨下知給。仍取分征箭一腰於二。各手挾之。立件兩門。彼等依爲勝射手。應此仰云々。蓮景。忠常。着腹巻。搆于西南脇戸内。小時廷尉參入。着平礼白水于葛袴。駕黒馬。郎等二人。雜色五人有共。入惣門。昇廊沓脱。通妻戸。擬參北面。于時蓮景。忠常等立向于造合脇戸之砌。取廷尉左右手。引伏于山本竹中。誅戮不廻踵。遠州出於出居見之給云々。廷尉僮僕奔歸宿廬。告事由。仍彼一族郎從等引籠一幡君御舘。〔号小御所〕謀叛之間。未三尅。依尼御臺所之仰。爲追討件輩。被差遣軍兵。所謂。江馬四郎殿。同太郎主。武藏守朝政。小山左衛門尉朝政。同五郎宗政。同七郎朝光。畠山二郎重忠。榛谷四郎重朝。三浦平六兵衛尉義村。和田左衛門尉義盛。同兵衛尉常盛。同小四郎景長。土肥先二郎惟光。後藤左衛門尉信康。所右衛門尉朝光。尾藤次知景。工藤小次郎行光。金窪太郎行親。加藤次景廉。同太郎景朝。仁田四郎忠常已下如雲霞。各襲到彼所。比企三郎。同四郎。同五郎。河原田次郎。〔能員猶子〕笠原十郎左衛門尉親景。中山五郎爲重。糟屋藤太兵衛尉有季〔已上三人能員聟〕等防戰。敢不愁死之間。挑戰及申剋。景朝。景廉。知景。景長等。并郎從數輩被疵頗引退。重忠入替壯力之郎從責攻之。親景等不敵彼武威。放火于舘。各於若君御前自殺。若君同不免此殃給。廷尉嫡男餘一兵衛尉假姿於女人。雖遁出戰塲。於路次。爲景廉被梟首。其後。遠州遣大岳判官時親。被實檢死骸等云々。入夜被誅澁河刑部丞。依爲能員之舅也。

読下し                               けさ   ていい よしかず  そくじょ 〔しょうぐんけ めかけ  わかぎみ  ははぎ なり  もと  わかさのつぼね  ごう  〕  もつ    うった もう
建仁三年(1203)九月大二日丁夘。今朝、廷尉能員は息女〔將軍家が妾。若君が母儀也。元は若狹局と号す〕を以て、訴へ申す。

ほうじょうどの ひとへ ついとうすべ よしなり  およ  かとく  ほか  ぢとうしき  あいわけられ    をい      いけんふたつにわか   のぞ  あらそ のじょう これうたが べからず
北條殿を偏に追討可き由也。凡そ家督の外、地頭職を相分被るに於ては、威權二于分れ、挑み爭う之條 之疑う不可。

こ   ため おとうと ため  せいひつ おんはかり に      いへど   かへ    らんごく  もとい まね ところなり
子の爲、弟の爲、靜謐の 御計に似たりと雖も、還って乱國の基を招く所也。

えんしゅう いちぞくぞんずれば  かとく  よ これ  うばはれ  こと  またもつ  いぎ な         うんぬん
遠州の一族存被者、 家督の世之を奪被る事、又以て異儀無からんと云々。

しょうぐんおどろ て  よしかずを びょうしょう まね    だんごう  せし  たま    ついとうの ぎ  かつう きょだく  およ
將軍驚い而、能員於 病床に招き、談合を令め給ふ。追討之儀、且は許諾に及ぶ。

しか    あまみだいどころ しょうじ へだ   ひそか こ   みつじ  うかが き   せし  たま   つげもうされ  ため  にょぼう  もつ  えんしゅう たず たてまつられ
而るに尼御臺所障子を隔て、潜に此の密事を伺い聞か令め給ひ、告申被ん爲、女房を以て遠州を尋ね奉被る。

ぶつじ  しゅう   ため  すで  なごえ  かえ  たま  のよし  もう  せし  のかん
佛事を修さん爲、已に名越へ歸り給ふ之由、申さ令む之間、

いさいのおもむき あらず いへど  いささ こ   しさいを おんしょ  の     びんじょ  つ   これ  しん  られ
委細之趣に非と雖も、聊か此の子細於御書に載せ、美女に付け之を進ぜ被る。

か  おんな ろじ に はし  つ たてまつ  おんしょ  ささ   えんしゅう げば   これ  はいけん   しきり らくるい
彼の女路次于奔り付け奉り、御書を捧ぐ。遠州下馬し之を拝見し、頗に落涙す。

さら  じょうばの のち  が   と   しばら しあんら の け あ
更に乘馬之後、駕を止め暫く思案等之氣有り。

つい  くつわ めぐ   だいぜんだいぶひろもとあそんていに とぎょ    てい  あるじ これ あいあ たてまつ
遂に轡を廻らし大膳大夫廣元朝臣亭于渡御す。々の主之に相逢い奉る。

えんしゅう おお あ      られ  い      きんねんよしかず い   ふる  しょにん  べつじょ     じょう  よ の し   ところなり
遠州、仰せ合はせ被て云はく、近年能員威を振い諸人を蔑如するの條、世之知る所也。

あまりさ しょうぐん びょうしつのいま ぼうぜんの ご  うかが   かす  て しょう めい  しょう   ぎゃくぼう くはだ   ほつ    のよし  たしか つげに き
剩へ 將軍 病疾之今、惘然之期を窺い、掠め而將の命と稱し、逆謀を企んと欲する之由、慥に告于聞く。

こ   うえ  ま   これ  せい  べ   か   いかに てへ    だいかんれい こた もう  せし    い
此の上は先ず之を征す可き歟、如何者れば、大官令答へ申さ令めて云はく。

ばっかしょうぐん  おんとき いこう  せいどう  たす    のごう あ
幕下將軍の御時以降、政道を扶ける之号有り。

へいほう  をい  は   ぜひ  べんぜず  ちうりく      いな    よろ    けんりょ あ           うんぬん
兵法に於て者、是非を不弁。誅戮するや否や、宜しく賢慮有るべしと云々。

えんしゅう こ  ことば き     すなは ざ   た   たま    あまののみんぶにゅうどうれんぎょう にたんのしろうただつねら おんともたり
遠州、此の詞を聞き、即ち座を起ち給ふ。 天野民部入道蓮景、 新田四郎忠常等 御共爲。

えがらしゃまえ  をい    またおんが  ひか    くだん りょうにん おお  られ  い
荏柄社前に於て、又御駕を扣へ、件の兩人に仰せ被て云はく。

よしかず むほん  くはだ  よつ    きょう ついばつすべ  おのおの うってたるべ   てへ
能員謀叛を企つに依て、今日追伐可し。各、討手爲可し者り。

れんぎょうい     ぐんぴょう はつ     あたはず  ごぜん  め   よ     これ  ちうさる  べ     か   ろうおう なにごと  あ     の や てへ
蓮景云はく、軍兵を發するに不能。御前に召し寄せ、之を誅被る可し。彼の老翁何事に有らん之哉者り。

おんてい  かえ  せし  たま  ののち  こ   こと ゆうぎ あ     かさ    だんごう    ため  だいかんれい めされ
御亭に還ら令め給ふ之後、此の事猶儀有り。重ねて談合せん爲、大官令を召被る。

だいかんれいしりょの け あ     いへど  なまじい もつ さんこう     ほつ
々々々思慮之氣有りと雖も、憖に以て參向せんと欲す。

けにんら おお  もつ  すす  したが のところ  ぞんねん あ    しょう ことごと これ  とど
家人等多く以て進み從う之處、存念有りと稱し悉く之を留める。

ただ いいとみげんたむねながばかり あいぐ    ろじ の かん   だいかんれいひそか むねながに かた   い       せじょうの ていたら   もつと  ふい すべ  か
只、飯冨源太宗長許を相具し、路次之間、 大官令 密に宗長于語りて云はく。世上之躰爲く、尤も怖畏可き歟。

ちょうじ   をい  は    けさ さいさい  ひょうぎ  こ されをはんぬ  しか   またおんかんのじょう はなは そ  い   えがた
重事に於て者、今朝細碎に評議を凝ら被訖。 而るに又恩喚之條、太だ其の意を得難し。

も   ふりょ  こと あ   ば   なんじま  よ   がい  べ  てへれ   そ   のち なごえどの  いた
若し不慮の事有ら者、汝先ず予を害す可し者ば、爾の後名越殿に至る。

えんしゅうごたいめんややひさし    こ   かん  むねなが だいかんれいのうしろ あ       ざ   さらず  うんぬん
遠州御對面良久うす。此の間、宗長 大官令 之後に在りて、座を不去と云々。

うまのこく だいかんれい たいしゅつ
午尅、大官令 退出す。

えんしゅう こ おんてい  をい   やくしにょらいぞう  〔ひごろ これ  つく  たてまつ  〕    くよう せし  たま    ようじょうりっし どうし  な
遠州此の御亭に於て、藥師如來像〔日來之を造り奉る〕を供養令め給ふ。葉上律師導師と爲す。

あまみだいどころ ごけちえん ため  にゅうご あ  べ     うんぬん
尼御臺所 御結縁の爲、入御有る可しと云々。

えんしゅう くどうのごろう  もつ  つかい な     よしかずの もと  おお  つか  され  い
遠州、工藤五郎を以て使と爲し、能員之許へ仰せ遣は被て云はく、

すくがん  より    ぶつぞう くようの ぎ あ     ごらいりん    ちょうもんされ  べ   か   かつう また ついで もつ  ぞうじ  だん  べ   てへ
宿願に依て、佛像供養之儀有り。御來臨し、聽聞被る可き歟。且は又、次を以て雜事を談ず可し者り。

はやばや よさん すべ  のよし  もう    おんつかいたいきょののち ていい   しそくしんるいら いさ    い
早〃と豫參可し之由を申す。御使 退去之後、廷尉が子息親類等諌めて云はく。

ひごろ けいぎ  こと な      あらず  も   ふうぶんの むね あ     よっ    せんし  あずか か   そう な   さんこうされ  べからず
日來計儀の事無きにしも非。若し風聞之旨有るに依て、專使に預る歟。左右無く參向被る不可。

したが まいられ  べ    いへど   いえのころうじゅうら し     かっちゅう つ   ゆみや  たい    あいしたが られ  べ    うんぬん
縱い參被る可しと雖も、家子郎從等を令て、甲冑を着け弓矢を帶し、相從へ被る可しと云々。

よしかず い      しか  ごと  のぎょうしょう  あへ  けいごの そな  あらず  あやま  ひと  うたが   な   べ   のもとなり
能員云はく、然る如き之行粧、敢て警固之備へに非。謬りて人の疑いを成す可き之因也。

とうじ よしかずなおかっちゅう へいし め   ぐ   ば  かまくらじゅう しょにん みなにはか さわ べ     そ   ことしか  べからず
當時能員猶甲冑の兵士を召し具せ者、鎌倉中の諸人 皆遽に騒ぐ可し。其の事然る不可。

かつう ぶつじ  けちえん  ため  かつう  ごじょうぶら  こと  つ     おお  あわされ  べ   こと あ    や   いそ  まい  べ   てへ
且は佛事の結縁の爲、且は御讓補等の事に就き、仰せ合被る可き事有らん哉。忩ぎ參る可し者り。

えんしゅうかっちゅう つ  たま    なかののしろう  いちかわのべっとうごろう  め    きゅうせん たい りょうほう  こもん   もうけ べ   のむね げち  たま
遠州 甲冑を着け給ひ、中野四郎、市河別當五郎を召し、弓箭を帯し兩方の小門に儲る可し之旨下知し給ふ。

よつ   そや ひとこしを ふた    と   わ   おのおの これ  たばさ    くだん りょうもん た

仍て征箭一腰於二つに取り分け、各 之を手挾み、件の兩門に立つ。

かれら  すぐ  たる いて   よつ    こ   おお    おう      うんぬん
彼等は勝れ爲射手に依て、此の仰せに應じると云々。

れんぎょう ただつね   はらまき  つ     せいなん  わきど  うちに かま
蓮景、忠常は、腹巻を着け、西南の脇戸の内于搆へる。

すこし    ていいさんにゅう   ひれ   しろ すいかんくずばかま き    くろうま  が     ろうとうふたり   ぞうしきごにん とも  あ
小時して廷尉參入す。平礼、白い水于葛袴を着て、黒馬に駕し、郎等二人、雜色五人共に有り。

そうもん  い     ろう  くつぬぎ  のぼ    つまど  とお    ほくめん  まい      ぎ
惣門に入り、廊の沓脱に昇り、妻戸@を通り、北面に參らんと擬す。

ときに れんぎょう ただつねらつく あわ   わきど のみぎりに た   むか   ていい  さゆう  て   と     やまもと  たけなかに ひ   ふ    ちゅうりくきびす かえさず
時于蓮景、忠常等造り合せの脇戸之砌于立ち向い、廷尉の左右の手を取り、山本の竹中于引き伏せ、誅戮踵を不廻。

えんしゅう でい  いで  これを み たま    うんぬん
遠州出居に出て之於見給ふと云々。

ていい   どうぼく すくろ   はし  かえ    こと  よし  つ
廷尉が僮僕宿廬へ奔り歸り、事の由を告げる。

よつ  か   いちぞくろうじゅうら いちまんぎみ おんやかた 〔こごしょ   ごう  〕   ひきこも  むほんの かん
仍て彼の一族郎從等 一幡君の御舘 〔小御所と号す〕に引籠り謀叛之間、

ひつじ さんとき  あまみだいどころの おお    よっ   くだん やから ついとう  ため ぐんぴょう さ   つか  され
未の三尅、 尼御臺所 之仰せに依て、件の輩を追討の爲、軍兵を差し遣は被る。

いはゆる  えまのしろうどの  おな    たろうぬし むさしのかみともまさ        おやまのさえもんのじょうともまさ おな    ごろうむねまさ  おな    しちろうともみ
所謂、江馬四郎殿、同じき太郎主、武藏守朝政、小山左衛門尉朝政、同じき五郎宗政、同じき七郎朝光

はたけやまのじろうしげただ  はんがやつのしろうしげとも
 畠山二郎重忠、 榛谷四郎重朝、

みうらのへいろくひょうえのじょうよしむら  わだのさえもんのじょうよしもり  おな  ひょうえのじょうつねもり   おな   こしろうかげなが
 三浦平六兵衛尉義村、 和田左衛門尉義盛、 同じき兵衛尉常盛、 同じき小四郎景長

といのせんじろうこれみつ  ごとうのさえもんのじょうのぶやす  ところのうえもんのじょうともみつ  びとうじともかげ
土肥先二郎惟光、 後藤左衛門尉信康、 所右衛門尉朝光、 尾藤次知景、

 くどうのこじろうゆきみつ  かなくぼのたろうゆきちか  かとうじかげかど  おな    たろうかげとも  にたんのしろうただつね いげ うんか    ごと
工藤小次郎行光、金窪太郎行親、加藤次景廉、同じき太郎景朝、仁田四郎忠常已下雲霞の如し。

おのおの か ところ  おそ  いた
 各 彼の所へ襲い到る。

ひきのさぶろう おな    しろう  おな    ごろう   かわらだのじろう  〔よしかずゆうし〕 
比企三郎、同じき四郎同じき五郎、河原田次郎〔能員猶子〕、

かさはらのじうろうさえもんのじょうちかかげ なかやまのごろうためしげ かすやのとうたひょうえのじょうありすえ 〔いじょうさんにんよしかず  むこ〕  ら ぼうせん
 笠原十郎左衛門尉親景、 中山五郎爲重、 糟屋藤太兵衛尉有季 〔已上三人能員が聟〕等防戰す。

あえ  し   うれへざるのかん  ちょうせんさるのこく およ   かげとも  かげかど  ともかげ  かげなが ら           なら   ろうじゅうすうやから きずされ すこぶ ひ  の
敢て死を不愁之間、挑戰申剋に及び、景朝、景廉、知景、景長等并びに郎從數輩、疵被 頗る引き退く。

しげただ そうりきのろうじゅう  い   かえ これ せ   せ     ちかかげら か    ぶい   かなわず  やかたに ひ  はな  おのおの わかぎみ ごぜん  をい  じさつ
重忠、壯力之郎從を入れ替之を責め攻む。親景等彼の武威に不敵。舘于火を放ち、各、 若君の御前に於て自殺す。

わかぎみおな   こ  わざはい まぬ   たまはず
若君同じく此の殃を免かれ給不。

ていい ちゃくなん よいちひょうえのじょう すがたをにょにん かり    せんじょう のが  いで   いへど    ろじ   をい    かげかど ため  きょうしゅされ
廷尉が嫡男  餘一兵衛尉 姿於女人に假て、戰塲を遁れ出んと雖も、路次に於て、景廉の爲に梟首被る。

そ   ご   えんしゅう おおおかのほうがんときちか つかは   しがいら   じっけんされ    うんぬん
其の後、遠州、 大岳判官時親を 遣し、死骸等を實檢被ると云々。

よ   い  しぶかわのぎょうぶのじょう ちゅうされ  よしかずのしうとたる  よつ  なり
夜に入り 澁河刑部丞A誅被る。能員之舅爲に依て也。

参考@妻戸は扉。他に蔀戸・遣戸。
参考A澁河刑部丞は、愚管抄によると兼忠。

現代語建仁三年(1203)九月大二日丁卯。今朝、比企判官能員は、娘〔将軍頼家様の妾で、若君一幡の母で、以前は若狭局と云う女官でした〕を通じて将軍へ訴えて来ました。「北条時政殿を攻め殺すべきです。将軍の相続の他に、地頭職を分けることは、二つの権威が立つことになり、先へいって互いに覇権争いになることは、疑う余地がありません。子供(一幡)と弟(千幡・実朝)とに気遣って、相続争いを平和裏に治めたように見えますけど、かえって国の乱れの基となることでしょう。北条時政殿の一族が存在すれば、後になって権威を奪われることは、どうにも顕かなことでしょう。」とさ。

将軍頼家様は驚いて、すぐに比企能員を病の枕元に呼びつけて、話し合いをしました。北条時政殿を攻め殺すことについて、許可を与えました。

しかし、尼御台所政子様が障子の陰で、すっかりその秘密を聞いてしまい、それを伝えるために女官に命じて遠州北条時政殿を探させました。「自宅で病気平癒の仏事をするために、すでに名越へ帰られました。」と云われたので、細かいことまで全てと云うわけにはいかないけど、多少この様子を紙に書いて、美女に持たせ届けさせました。その女官は、道を走っていって追いついて、手紙を差し出しました。遠江守北条時政殿は、馬から降りてこの手紙を読んで、とても涙を流されました。そして馬に乗りましたが、しばらく馬を止めて考えておられました。ついに、馬を方向転換させて、大江広元様の屋敷へ行かれ、お会いになられました。

遠江守北条時政殿は向かい合って云いました。「最近、比企能員は、将軍の舅の権威をかさに着て、ほかの御家人を下に見ていることは、世間に知られている通りです。ましてや将軍が病気になっている今は、将軍が区別がつかないのをよいことに、何でも将軍の命令だと云って、我々を弾圧しようとしていると、はっきりした所を聞いています。このままでは危険なので、先手を打って征伐するべきだと思いますが、如何でしょう。」と云うと、大江広元が答えるのには「頼朝様が将軍の時以来、政治を助けて来たとは言われてはいます。しかし、武力については口出しをしません。処刑するかどうかは、良く考えをめぐらしてください。」とのことでした。

遠江守北条時政殿は、この言葉を聞いてすぐに席を立ちました。天野民部入道蓮景(遠景)と新田四郎忠常がお供をしていました。荏柄天神社の前まで来て、又馬を止めて、その二人に云って聞かせました。「比企能員が、謀反を起こそうとしているので、今日処罰してしまおう。それぞれ討手をしてください。」天野蓮景が、「軍隊を出すことはありませんよ。御前に呼び寄せて殺しちまいましょうよ。あんな老人ひとりなんてことは無いですよ。」と云いました。

自分のお屋敷へ帰られてから、このことをなお検討して、もう一度話をしたいと大江広元をお呼になりました。大江広元は思うところがありましたが、仕方なく行くことにしました。家来たちの多くが心配してついていこうとしましたが、「考えていることがあるので。」と、全て留めました。ただ、飯富源太宗長ひとりをつれ、行く途中で大江広元は内緒で飯富宗長に話しました。「現時点での世間の様子では、一番危険な時です。重大な件については、今朝こまごまと話し合いました。それなのに又呼び出されたのは、理解できません。もし思わぬ出来事が起きた時は、お前は何は兎も角私を殺しなさい。」と云った後、名越の屋敷につきました。遠江守北条時政殿との会談は時間がかかりました。その間、飯富宗長は大江広元の後ろに控え、座を立ちませんでした。午の刻(昼頃)に大江広元は立ち去って行きました。

遠江守北条時政殿は、自分の屋敷で、将軍の病気がなおるようにに薬師如来の像〔最近作らせていました〕の開眼供養の式典をします。葉上坊律師栄西が指導僧をします。尼御台所政子様も仏との縁を結ぶため、いらっしゃるとの事です。遠江守北条時政殿は、工藤五郎に使いをさせて、比企能員に伝言をさせました。「深い願いをかけて、仏像の開眼供養をします。お越しになられ、一緒にお経を聞きましょう。また、そのついでに政治向きの事を打ち合わせましょう。」と云えば、「さっそく出かけましょう。」と返事をしました。

使いが帰った後で、判官比企能員に、倅や親類縁者が云いました。「日ごろから、怪しい計画を持っていないとは言えません。もしかして噂の通りの策略があるので、わざわざ使いをよこしたのでしょう。安易に行くべきではないでしょう。それなので、あえて行かれるのなら、一族や家来達に鎧兜をつけさせ、弓矢を持たせてお供にするべきでしょう。」だとさ。

比企能員は言いました。「そのように武装をしていくことは、かえって守りの準備にはならない。間違えてかえって疑いを起こすもとになる。今、能員が鎧兜に身を固めた兵士を連れて行けば、鎌倉中の人々が大騒ぎをすることになるので、それはするべきではない。一つは、仏事に参加し仏との縁を結ぶことであり、一つは、将軍の相続について、話し合うことがあるのであろう。急いでいこう。」とのことです。

一方、遠江守北条時政殿は、鎧兜に身を固め、中野四郎と市河別当五郎行重を呼んで、弓矢を用意して両方の小さな門に構えているように指示をしました。そこで戦闘用の矢一腰(24本)を二つに分けて、それぞれ手に持ったまま、その二つの門に立ちました。彼らは上手な弓の名人なので、この指示に従いましたとさ。天野民部入道蓮景(遠景)と新田四郎忠常は、簡易な鎧の腹巻を着用し、西南の脇の戸の内側に構えていました。

しばらくして比企判官能員がやって参りました。平烏帽子(ひれえぼし)に白い水干(水張りにして干した絹の服)に葛袴(狩袴をやや裾短に仕立て、くくり緒をつけた)を着て、黒馬に乗り、家来二人雑用の下働五人がお供をしてきました。総門を入り、廊下の沓脱石に上がり、扉戸を通って北側へ行こうとしました。その時、蓮景と忠常が、門の脇から出てきて比企能員の左右の手をそれぞれがつかんで、山裾の竹藪へ引きずり込んで伏せ押さえ、躊躇なく殺してしまいました。遠江守北条時政殿は、離れへ出てこれを見ておりましたとさ。

比企能員の厩務員は宿舎へ走って帰って、この様子を報告しました。それを聞いた一族や家来は、嫡男の一幡君の館〔小御所と云う〕に入って防戦の体制を整えていました。未の三刻(午後二時半頃)に、尼御台所政子様の命令で、その連中を攻め滅ぼすように、軍隊を派遣しました。

それは、江間四郎義時・同太郎泰時・平賀武蔵守朝雅、小山左衛門尉朝政・同長沼五郎宗政。同結城七郎朝光、畠山次郎重忠・榛谷四郎重朝、三浦平六兵衛尉義村・和田左衛門尉義盛・同和田兵衛尉常盛・同小四郎景長、土肥先次郎惟光、後藤左衛門尉信康、所六郎右衛門尉朝光、尾藤次知景、工藤小次郎行光・金窪兵衛尉行親・加藤次景廉・同太郎景朝・新田四郎忠常を始めとする軍勢が雲霞の如く大勢で、それぞれその地へ攻めかかって行きました。比企三郎・同四郎・同五郎・川原田次郎〔比企能員の準養子〕・笠原十郎左衛門尉親景・中山五郎爲重・糟谷藤太兵衛尉有季〔以上三人は比企能員の娘婿〕達が防ぎ戦いました。

死を賭して戦ったので、申の刻(午後四時頃)までかかり、加藤太郎景朝・加藤次景廉・知景・景長の加藤一族と家来たち数人は怪我を受けて後退しました。畠山重忠は、力の残っている家来に入れ替えて攻め込みました。笠原親景達は、その威力に敵対できず、屋敷に火をつけてそれぞれ若君の前で自決しました。若君もこの災難を逃れることはできませんでした。比企能員の跡取りの与一兵衛尉は、女性の着物を着て女に化けて、戦場を逃げ出そうとしましたが、道の途中で加藤次景廉に切り殺されてしまいました。
その後、遠江守北条時政殿は大岡判官時親を派遣して、死骸を調べさせましたとさ。

夜になって、渋川刑部丞兼忠が処刑されました。比企能員の舅(妻の父親)だからです。(比企能員の妻って比企尼の娘じゃなかったっけ、二人目か?)

建仁三年(1203)九月大三日戊辰。被搜求能員余黨等。或流刑。或死罪。多以被糺断。妻妾并二藏男子等者。依有好。召預和田左衛門尉義盛。配安房國。今日於小御所跡。大輔房源性〔鞠足〕欲奉拾故一幡君遺骨之處。所燒之死骸。若干相交而無所求。而御乳母云。最後令着染付小袖給。其文菊枝也云々。或死骸。右脇下小袖僅一寸餘焦殘。菊文詳也。仍以之知之奉拾了。源性懸頚。進發高野山。可奉納奥院云々。

読下し                   よしかず   よとうら   さが  もと  られ    あるひ るけい    あるひ しざい    おお  もっ  きゅうだんされ
建仁三年(1203)九月大三日戊辰。能員が余黨等を搜し求め被て、或は流刑に、或は死罪に、多く以て糺断被る。

さいしょうなら   にさい   だんし ら は    よしみあ   よっ    わだのさえもんのじょうよしもり  め   あず    あわのくに  はい
妻妾并びに二歳の男子等者、好有るに依て、和田左衛門尉義盛に召し預け、安房國に配す。

きょう   こごしょ    あと  をい    たいふぼうげんしょう 〔まりあし〕 こいちまんぎみ  ゆいこつ ひろ たてまつ    ほつ    のところ
今日小御所の跡に於て、大輔房源性〔鞠足〕故一幡君の遺骨を拾い奉らんと欲する之處、

 や    ところのしがい  じゃっかんあいまじ て もと      ところな
燒ける所之死骸、若干相交り而求めるに所無し。

しか     めのと い        さいご  そめつけ  こそで  き せし  たま    そ   もん  きくえだなり  うんぬん
而して御乳母云はく、最後に染付の小袖を着令め給ふ。其の文は菊枝也と云々。

ある しがい  みぎわきした こそで  わづか いっすんあま こ   のこ   きく もんつまびら なり よつ これ  もつ  これ  し   ひろ たてまつ をはんぬ
或死骸の右脇下の小袖、僅に一寸餘り焦げ殘り、菊の文詳か也。仍て之を以て之を知り拾い奉り了。

げんしょう くび か     こうやさん  しんぱつ   おくのいん ほうのうすべ   うんぬん
源性 頚に懸け、高野山へ進發す。奥院へ奉納可しと云々。

現代語建仁三年(1203)九月大三日戊辰。比企能員の仲間を探し出して、ある人は流罪に、ある人は死刑にと、多くの人が処分されました。妻や妾と二歳の男の子は、縁故関係の和田左衛門尉義盛に預けられ、安房国へ行かされました。今日、小御所跡において、大輔房源性〔蹴鞠名人〕は、亡くなった一幡君の遺骨を拾おうと考えて、焼け跡の死骸を探しましたが見つかりません。乳母夫が云うのには、最後に着ていた着物は、模様を染めた小袖を着ておられ、その模様は菊花の枝だったそうです。ある死骸の右脇下の小袖が、ほんの一寸(3cm)ばかり焼け残り、菊の模様がはっきりわかりました。そこでこれを拾いました。大輔房源性は頭陀袋に入れて高野山へ出かけました。奥の院に奉納するためだそうです。

建仁三年(1203)九月大四日己巳。被召禁小笠原弥太郎。中野五郎。細野兵衛尉等。此輩恃外祖之威。日來与能員成骨肉之眤。去二日合戰之際。相伴廷尉子息等之故也。嶋津左衛門尉忠久被収公大隅薩摩日向等國守護職。是又依能員縁坐也。加賀房義印束手參遠州侍所云々。

読下し                   おがさはらのいやたろう  なかののごろう  ほそののひょうえのじょうら め きん  られ
建仁三年(1203)九月大四日己巳。小笠原弥太郎、中野五郎、細野兵衛尉等を召し禁ぜ被る。

こ  やからがいその い   たの    ひごろ よしかずと こつにくの むつみ な   さんぬ ふつか  かっせんの さい ていい  しそくら  あいともな のゆえなり
此の輩外祖之威を恃み、日來能員与骨肉之眤を成し、去る二日の合戰之際、廷尉が子息等に相伴う之故也。

しまづさえもんのじょうただひさ  おおすみ  さつま  ひゅうが ら  くに  しゅごしき  しゅうこうされ    これまた  よしかず  えんざ  よっ  なり
嶋津左衛門尉忠久、大隅、薩摩、日向等の國の守護職を収公被る。是又、能員の縁坐に依て也。

かがのぼうぎいん て   つか えんしゅう さむらいどころ まい    うんぬん
加賀房義印手を束ね遠州が 侍所 に參ると云々。

現代語建仁三年(1203)九月大四日己巳。小笠原弥太郎・中野五郎能成・細野兵衛尉達を逮捕監禁しました。この連中は、将軍の縁故の威力を当てにして、普段から比企能員と親しくしていたので、先日の二日の合戦の時、比企能員の息子たちと一緒だったからです。島津左衛門尉忠久は、大隅・薩摩・日向三カ国の守護職を取り上げられました。これも比企能員との連帯責任なのです。加賀房義印は、両手を前に出し、遠江守北条時政殿の武士の控え所に来たとの事です。

建仁三年(1203)九月大五日庚午。將軍家御病痾少減。憖以保壽算給。而令聞若君并能員滅亡事給。不堪其欝陶。可誅遠州由。密々被仰和田左衛門尉義盛及新田四郎忠常等。堀藤次親家爲御使。雖持つ御書。義盛深思慮。以彼御書献遠州。仍虜親家。令工藤小次郎行光誅之。將軍家弥御心勞云々。

読下し                   しょうぐんけ  ごびょうあ しょうげん   なまじい もっ  ちうさん  たも  たま
建仁三年(1203)九月大五日庚午。將軍家の御病痾少減し、憖に以て壽算を保ち給ふ。

しか    わかぎみなら   よしかず  めつぼう  こと  き   せし  たま
而るに若君并びに能員が滅亡の事を聞か令め給ふ。

 そ   うっとう  たまらず  えんしゅう ちゅう べ   よし  みつみつ わだのさえもんのじょうよしもり およ  にたんのしろうただつね ら おお  られ
其の欝陶に不堪、遠州を誅す可し由、密々に和田左衛門尉義盛及び新田四郎忠常等に仰せ被る。

ほりのとうじちかいえ おんし な     おんしょ  も   むか    いへど   よしもり ふか  しりょ    か   おんしょ  もっ  えんしゅう けん
堀藤次親家御使と爲し、御書を持ち向うと雖も、義盛深く思慮し、彼の御書を以て遠州に献ず。

よつ  ちかいえ  とら    くどうのこじろうゆきみつ  して これ ちゅう   しょうぐんけ いよいよごしんろう  うんぬん
仍て親家を虜へ、工藤小次郎行光を令之を誅す。將軍家、弥御心勞と云々。

現代語建仁三年(1203)九月大五日庚午。将軍頼家様の病気は、回復してきて、今頃になって元気になってしまいました。しかし、すでに若君も比企能員も滅び去ってしまったことをお聞きになりました。その怒りを我慢できず、遠江守北条時政殿を殺すように、内々に和田左衛門尉義盛と新田四郎忠常に命令しました。堀藤次親家を使者として文書を持って行かせましたが、和田義盛はよく考えて、その文書を遠江守北条時政殿に渡しました。そこで堀藤次親家を捕まえて、工藤小次郎行光が殺してしまいました。将軍頼家様はますます、お怒りと共にどうしたらよいかと心配になられましたとさ。

建仁三年(1203)九月大六日辛未。及晩。遠州召仁田四郎忠常於名越御亭。是爲被行能員追討之賞也。而忠常參入御亭之後。雖臨昏黒。更不退出。舎人男恠此事。引彼乘馬。歸宅告事由於弟五郎六郎等。而可奉追討遠州之由。將軍家被仰合忠常事。令漏脱之間。已被罪科歟之由。彼輩加推量。忽爲果其憤。欲參江馬殿。々々々折節被候大御所。〔幕下將軍御遺跡。當時尼御臺所御坐〕仍五郎已下輩奔參發矢。江馬殿令御家人等防禦給。五郎者爲波多野次郎忠綱被梟首。六郎者於臺所放火自殺。見件烟。御家人等竸集。又忠常出名越。還私宅之刻。於途中聞之。則稱可弃命。參御所之處。爲加藤次景廉被誅畢。

読下し                   ばん  およ   えんしゅう にたんのしろうただつねを なごえ  おんてい  め
建仁三年(1203)九月大六日辛未。晩に及び、遠州 仁田四郎忠常於 名越の御亭に召す。

これ  よしかずついとうのしょう おこなは   ためなり  しか   ただつねおんてい さんにゅうののち こんこく のぞ   いへど   さら  たいしゅつせず
是、能員追討之賞を行被れん爲也。而るに忠常御亭に參入之後、昏黒に臨むと雖も、更に退出不。

とねり  おとこ こ   こと  あやし   か   じょうば  ひ   きたく   こと  よしを おとうと ごろう  ろくろうら   つ
舎人の男此の事を恠み、彼の乘馬を引き歸宅し事の由於 弟 五郎 六郎等に告げる。

しか   えんしゅう ついとうたてまつ べ のよし  しょうぐんけつねただ おお  あ   され  こと  ろうだつせし のかん  すで  ざいか され  か の よし
而して遠州を追討奉る可し之由、將軍家忠常に仰せ合は被る事、漏脱令む之間、已に罪科被る歟之由、

か  やからすいりょう くは    たちま そ  いか    はた    ため   えまどの   まい      ほつ
彼の輩推量を加へ、忽ち其の憤りを果さん爲、江馬殿へ參らんと欲す。

 えまどの おりふしおおごしょ  〔ばっかしょうぐん  ごゆいせき  とうじ あまみだいどころ  おは 〕     こう  られ
々々々折節大御所〔幕下將軍の御遺跡。當時尼御臺所御坐す〕へ候ぜ被る。

よっ  ごろう いか   やからはし まい  や   はっ    えまどの   ごけにんら    し   ぼうぎょ  たま
仍て五郎已下の輩奔り參り矢を發す。江馬殿が御家人等を令て防禦し給ふ。

ごろう は  はたののじろうただつな   ため  きょうしゅされ ろくろうは だいどころ をい ひ   はな  じさつ    くだん けむり み     ごけにんら きそ  あつ
五郎者波多野次郎忠綱の爲に梟首被、六郎者臺所に於て火を放ち自殺す。件の烟を見て、御家人等竸い集まる。

また  ただつね なごえ  い     したく  かえ  のとき  とちゅう  をい  これ  き
又、忠常名越を出で、私宅へ還る之刻、途中に於て之を聞き、

すなは いのち す    べ     しょう    ごしょ  まい  のところ    かとうじかげかど  ため  ちゅうされをはんぬ
 則ち命を弃てる可しと稱し、御所へ參る之處、加藤次景廉の爲に誅被畢。

現代語建仁三年(1203)九月大六日辛未。夜になって、遠江守北条時政殿は、新田四郎忠常を名越の屋敷へ呼びました。それは、比企能員を滅ぼした褒美を与えるためです。しかし、新田忠常が屋敷に入ったまま、暗くなってもちっとも出てきません。小間使いの男は、これをおかしいと思って、新田忠常の乗馬を引き連れて帰宅し、その様子を弟の五郎・六郎に報告しました。「もしかしたら、遠江守北条時政殿をやっつけるように、将軍頼家様が新田忠常に命令したことが、ばれてしまって処刑されたのだろうか」と、彼らは推測して、その復讐のため、江間北条義時殿のところへ行こうと考えました。江間北条義時殿は、ちょうどその時大御所〔頼朝將軍の御座所。現在は尼御台所政子様がおられます〕へ参っていました。それなので、五郎を始めとする連中は、走って来て矢を放ちました。江間北条義時殿の家来たちにふさがせました。五郎は、波多野小次郎忠綱に殺され、六郎が台所に火をかけて自殺しました。この煙を見て御家人達が急いで集まってきました。又、新田四郎忠常は名越を出て、自分の屋敷へ帰る途中でこのことを聞き、「これじゃ戦って死ぬしか仕方がない」と云って、御所へ行ったところ、加藤次景廉に殺されてしまいました。

建仁三年(1203)九月大七日壬申。霽。亥尅。將軍家令落餝給。御病惱之上。治家門給事。始終尤危之故。尼御臺所依被計仰。不意如此。

読下し                   はれる いのこく  しょうぐんけらくしょくせし たま    ごびょうのうのうえ   かもん   おさ  たま  こと  しじゅうもっと あやう のゆえ
建仁三年(1203)九月大七日壬申。霽。亥尅。將軍家落餝令め給ふ。御病惱之上、家門を治め給ふ事、始終尤も危き之故。

あまみだいどころ はから おお られ    よっ    いならずかく  ごと
 尼御臺所 計い仰せ被るに依て、不意此の如し。

現代語建仁三年(1203)九月大七日壬申。晴れました。亥の刻(午後十時頃)に、将軍頼家様は出家をしました。病気の上、源氏として鎌倉を治める事が危なっかしいからです。尼御台所政子様が、配慮をして命じられましたので、不本意ながらこのような結果となりました。

参考尼御臺所 計い仰せ被るは、すでに味方がいなくなった元将軍の存在は、謀反人に担がれるのを懸念して北条氏に暗殺されかねないので、母の政子は命乞いのために出家をさせた。

建仁三年(1203)九月大十日乙亥。吹擧千幡君。被奉立將軍之間。有沙汰。若君今日自尼御臺所。渡御遠州御亭。被用御輿。女房阿波局參同輿。江馬太郎殿。三浦兵衛尉義村等候御輿寄。」今日。諸御家人等所領如元可領掌之由。多以被下遠州御書。是危世上故也。

読下し                   せんまんぎみ  すいきょ   しょうぐん  た  たてまつられ のかん  さた あ
建仁三年(1203)九月大十日乙亥。千幡君を吹擧し、將軍に立て奉被る之間、沙汰有り。

わかぎみきょう  あまみだいどころ よ    えんしゅう おんてい  とぎょ    おんこし  もち  られ    にょぼうあはのつぼね おな   こし  まい
若君今日、尼御臺所 自り、遠州の御亭へ渡御す。御輿を用い被る。 女房阿波局 同じく輿で參る。

えまのたろうどの   みうらのひょうえのじょうよしむらら おんこしよせ そうら
江馬太郎殿、 三浦兵衛尉義村等 御輿寄に候う。」

 きょう     しょごけにんら    しょりょうもと  ごと  りょうしょうすべ のよし  おお  もつ えんしゅう おんしょ  くだされ   これ  せじょう あや      ゆえなり
今日、諸御家人等、所領元の如く領掌可し之由、多く以て遠州の御書を下被る。是、世上を危ぶむの故也。

現代語建仁三年(1203)九月大十日乙亥。千幡君(実朝)を推薦して、将軍にしましょうとお決めになりました。そこで若君(実朝)は今日、母の尼御台所政子様のもとから、遠江守北条時政殿の屋敷へ移りました。輿を使いました。乳母夫の女官阿波局も同様に輿で従いました。江間太郎泰時殿と三浦平六兵衛尉義村が輿の脇に警護しました。」

今日、将軍交代により、諸御家人に対し、領地を前の通り認めるとの承認文書を、遠江守北条時政殿の名で「将軍の命により」と発行しました。これは、皆将軍交代劇のどさくさを心配しているからです。

建仁三年(1203)九月大十二日丁丑。知康。行景等可上洛之由。被仰下。仍爲廣元朝臣沙汰。今曉各令歸洛云々。

読下し                     ともやす  ゆきかげら じょうらくすべ  のよし  おお  くだされ
建仁三年(1203)九月大十二日丁丑。知康、行景等上洛可し之由、仰せ下被る。

よっ  ひろもとあそん   さた   な    こんぎょう おのおの きらくせし   うんぬん
仍て廣元朝臣が沙汰と爲し、今曉、 各 歸洛令むと云々。

現代語建仁三年(1203)九月大十二日丁丑。鼓判官知康と紀内所行景は、京都へ帰るように命じられました。そこで、大江広元が担当して、今朝の夜明けにそれぞれ出発して行きましたとさ。

建仁三年(1203)九月大十五日庚辰。阿波局參尼御臺所。申云。若君御坐遠州御亭。雖可然。倩見牧御方之躰。於事咲之中挿害心之間。難恃傅母。定勝事出來歟云々。此事兼思慮之内事也。早可奉迎取之由。御返答。即遣江馬四郎殿。三浦兵衛尉義村。結城七郎朝光等。被奉迎取之。遠州不知子細。周章給。以女房駿河局被謝申之處。成人之程。於同所可扶持之由。被仰御返事云々。

読下し                     あわのつぼね あまみだいどころ  まい    もう    い
建仁三年(1203)九月大十五日庚辰。 阿波局 尼御臺所 に參り、申して云はく、

わかぎみえんしゅう おんてい  をは       しか  べ    いへど   つらつら まきのおんかたのてい み
若君 遠州の御亭に御坐すは、然る可しと雖も、 倩、牧御方之躰を見るに、

こと  をか    のなか  をい  がいしん さしはさ のかん   ふぼ   たの  がた    さだ    しょうじしゅつらい   か   うんぬん
事に咲しき之中に於て害心を挿む之間、傅母と恃み難し、定めて勝事出來する歟と云々。

かく  ことかね  しりょ のうち  ことなり  はや  むか  と たてまつ べ   のよし  ごへんとう
此の事兼て思慮之内の事也。早く迎え取り奉る可し之由、御返答す。

すなは えまのしろうどの  みうらのひょうえのじょうよしむら  ゆうきのしちろうともみつら つか      これ  むか  と たてまつられ
即ち江馬四郎殿、 三浦兵衛尉義村、 結城七郎朝光等を遣はし、之を迎へ取り奉被る。

えんしゅう しさい しらず  しゅうしょう たま    にょぼうするがのつぼね もっ  しゃ  もうされ  のところ
遠州子細を不知、周章し給ふ。女房 駿河局 を以て謝し申被る之處、

せいじんの ほど   どうしょ  をい   ふち すべ  のよし   ごへんじ   おお  られ    うんぬん
成人之程は、同所に於て扶持可し之由、御返事を仰せ被ると云々。

現代語建仁三年(1203)九月大十五日庚辰。女官で実朝の乳母夫の阿波局が、尼御台所政子様のもとへ来て、申しあげました。
「若君実朝様を、執権の遠江守北条時政殿の屋敷に置いておくのは、もっともな事ですが、どうも奥さんの牧の方の様子を見ていると、何かにつけて危害を加えようとする心が感じますので、子を守る母心としては宛てになりません。何か不祥事が起こらなければよいのですが。」
このことは前々からの心配事なのです。早く取り返したように。」とお答えになりました。
すぐに江間四郎義時・三浦平六兵衛尉義村・結城七郎朝光を派遣して実朝を迎え取ってきました。
遠江守北条時政殿は、詳しい事情が分からずに戸惑っておりました。女官の駿河局を通して、こわごわ聞いてみると、「成人するまでの間は、母のもとで育てますので。」と、ご返事をなさいましたとさ。

吾妻鏡入門第十七巻

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