吾妻鏡入門第十八巻

建仁三年癸亥(1203)

土御門院〔諱爲仁〕。後鳥羽院第一皇子。御母承明門院〔内大臣源通親公女。實法印能圓女〕
 建久九年十一月受禪。同三月御即位〔春秋四歳〕元久二年正月三日御元服〔十一〕承元四年十一月廿五日御脱屣。

つちみかどいん 〔いみなためひと〕  ごとばいん だいいちみこ   おんはは  しょうめいもんいん 〔ないだいじんみなもとみちちかこう むすめ  じつ  ほういんのうえん むすめ〕
土御門院〔諱爲仁〕。後鳥羽院第一皇子。御母は 承明門院 〔内大臣 源通親公の女。實は法印能圓が女〕

  けんきゅうくねんじういちがつじゅぜん  どうさんがつ ごそくい 〔しゅんじゅうよんさい〕げんきゅうにねんしょうがつみっかごげんぷく 〔じういち〕 じょうげんよねんじういちがつにじうごにち ごだっし
 建久九年十一月 受禪。 同三月御即位〔春秋四歳〕 元久二年正月三日 御元服〔十一〕 承元四年十一月廿五日 御脱屣。

参考建久九年は、1198。元久二年は、1205。承元四年は、1210。

攝政左大臣〔良經〕後法性寺入道前關白男。
 建仁二年十一月廿五日爲氏長者。蒙内覽 宣旨。十二月廿五日蒙攝政 詔。可列太政大臣上由〔頼實〕宣下。元久元年正月五日敍從一位。十二月十四日轉任太政大臣。二年四月廿七日上太政大臣表。建永元年三月廿七日薨〔年卅八〕。

せっしょうさだいじん 〔よしつね〕 ごほっしょうじにゅうどうさきのかんぱく だん
攝政左大臣〔良經〕後法性寺入道 前關白が男。

  けんにんにねんじういちがつにじうごにち うじ ちょうじゃ  な     ないらん  せんじ  こうむ    じうにがつにじうごにちせっしょう みことのり  こうむ
 建仁二年十一月廿五日  氏の長者と爲す。内覽の宣旨を蒙る。十二月廿五日攝政の 詔 を蒙る。

  だじょうだいじん 〔よりざね〕   かみ  れっすべ  よしせんげ    がんきゅうがんねんしょうがついつか じゅいちい  じょ    じうにがつじうよっかだじょうだいじん  てんにん
 太政大臣〔頼實〕の上に列可し由宣下す。 元久元年正月五日 從一位に敍す。十二月十四日太政大臣に轉任す。

  にねんしがつにじうしちにち だじょうだいじん じょうひょう   けんえいがんねんさんがつにじうしちにち こう  〔としさんじうはち〕
 二年四月廿七日 太政大臣を上表す。 建永元年 三月 廿七日 薨ず〔年卅八〕。

参考建仁二年は、1202。元久元年は、1204。元久二年は、1205。建永元年は、1206。

攝政左大臣。家〔實〕普賢寺入道前攝政男。
 建永元年三月十日蒙攝政詔。爲氏長者。廿八日辞大將。賜兵杖随身。聽牛車。可列皇太弟傅上由宣下。十二月八日改攝政爲關白。

せっしょうさだいじん いえ〔ざね〕 ふけんじにゅうどうさきのせっしょう だん
攝政左大臣 家〔實〕普賢寺入道前攝政が 男

  けんえいがんねんさんがつとおか せっしょう みことのり  こうむ    うじ ちょうじゃ  な
  建永元年三月十日 攝政の 詔 を蒙る。氏の長者と爲す。

   にじうはちにちたいしょう じ     へいじょう ずいしん たま      ぎっしゃ  ゆる
 廿八日 大將を辞す。兵杖、随身を賜はる。牛車を聽さる@

  こうたいていふ   かみ  れっすべ よしせんげ    じうにがつようか せっしょう あらた かんぱく  な
 皇太弟傅Aの上に列可し由宣下す。十二月八日攝政を改め關白と爲す。

参考@牛車を聴さるは、牛車に乗ったまま大内裏に入ることを許可される。許可前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。  
参考Aは、皇太子の輔佐・補導をする役。家庭教師。

順徳院〔諱守成〕。同第四皇子。御母修明門院〔贈左大臣藤範季女〕
 正治二年四月十五日爲太子〔春秋四歳〕承元二年十月廿五日御元服〔十二〕四年十一月廿五日受禪。十二月廿八日即位〔十四〕承久三年四月廿日御脱屣。

じゅんとくいん〔いみなもりなり〕   どうだいよんみこ   おんはは しゅうめいもんいん 〔ぞうさだいじん とうののりすえ むすめ〕
順徳院〔諱 守成〕。同第四皇子。御母は修明門院 〔贈 左大臣 藤範季の女〕

  しょうじにねんしがつじうごにち  たいし 〔しゅんじゅうよんさい〕  な       じょうげんにねnじうがつにじうごにち ごげんぷく 〔 じうに 〕
 正治二年四月十五日太子〔春秋四歳〕と爲す。 承元二年十月廿五日 御元服〔十二〕

   よねんじういちがつにじうごにちじゅぜん
 四年(1210)十一月廿五日受禪す。

  じうにがつにじうはちにち そくい 〔じうし〕   じょうきゅうさんねんしがつはつか ごだっし
  十二月廿八日 即位〔十四〕。 承久三年四月廿日 御脱屣。

参考正治二年は、1200。承元二年は、1208。承元四年は、1210承久三年は、1221

關白左大臣〔家實〕
 承久元年正月五日敍從一位。卅日辞左大臣。三年四月廿日停關白。

かんぱくさだいじん 〔いえざね〕
關白左大臣〔家實〕(近衛)

  じょうきゅうがんねんしょうがついつか じゅいちい じょ   さんじうにち さだいじん  じ     さんねんしがつはつか かんぱく  とど
  承久元年正月五日 從一位に敍す。卅日 左大臣を辞す。三年四月廿日 關白を停む。

 已上當將軍一代〔自建仁三年九月。至建保七年正月〕。帝王攝關奉載一處也。

  いじょうとうしょうぐん いちだい 〔けんにんさんねんくがつよ     けんぽうしちねんしょうがつ  いた   〕   ていおうせっかんいっしょ  の たてまつ なり
 已上當將軍@一代〔建仁三年九月自り。建保七年正月に至る。〕。帝王攝關一處に載せ奉る也。

参考@當將軍は、実朝。

建仁三年(1203)〔癸亥〕
征夷大將軍右大臣正二位兼行左近衛大將源朝臣〔實ー。于時從五位下〕
 前右大將頼ー卿二男。母從二位平政子〔遠江守時政女〕
 建久三年〔壬子〕八月九日誕生。

けんにんさんねん       〔みずのとい〕
建仁三年(1203)〔癸亥〕

せいいたいしょうぐん  うだいじん しょうにいけんぎょう さこのえのたいしょう みなもとのあそん 〔さね   〔とも〕    ときに  じゅごいげ 〕
征夷大將軍 右大臣 正二位兼行@ 左近衛大將 源朝臣 〔實A(朝)。時于從五位下〕

  さきのうだいしょうより  〔とも〕 きょうじなん  はは じゅにい たいらのまさこ 〔とおとうみのかみときまさ むすめ〕
 前右大將頼(朝)卿二男。母は從二位平政子 〔 遠江守時政 の 女〕

  けんきゅうさんねん〔みずのえね〕はちがつここのかたんじょう
 建久三年〔壬子〕 八月九日 誕生。

参考@は、高位低官。参考Aは、欠字。朝廷に遠慮して朝の文字を欠字にしている。

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