吾妻鏡入門第十八巻

建仁三年癸亥(1203)九月大

建仁三年(1203)九月大十五日庚辰。霽。幕下大將軍二男若君〔字千幡君〕爲關東長者。去七日。被下從五位下位記并征夷大將軍宣旨。其状。今日到着于鎌倉云々。

読下し                     はれ ばっかだいしょうぐん じなん  わかぎみ 〔あざ せんまんぎみ〕 かんとうちょうじゃ  な
建仁三年(1203)九月大十五日庚辰。霽。幕下大將軍が二男の若君〔字を千幡君〕關東長者と爲す。

さんぬ なぬか  じゅごいのげ  いき なら    せいいたいしょうぐん  せんじ  くだされ    そ   じょう  きょう かまくらに とうちゃく    うんぬん
去る七日、從五位下の位記并びに征夷大將軍の宣旨を下被る。其の状、今日鎌倉于到着すと云々。

現代語建仁三年(1203)九月大十五日庚辰。晴れました。頼朝様の次男の若君〔呼び名は千幡君〕が関東の総代表となりました。先日の七日に従五位下の位を授ける文書と征夷大将軍任命書が発行され、今日鎌倉に届きましたとさ。

建仁三年(1203)九月大十七日壬午。掃部頭入道寂忍註申云。叡山堂衆与學生確執及合戰。謂其起者。去五月之比。西塔釋迦堂衆与學生不合和。惣堂衆始興各列温室。八月一日。學生搆城郭於大納言岡并南谷走井坊。追却堂衆。同六日。堂衆引卒三ケ庄官等勇士。登山攻戰于上件城郭。兩方傷死之者不可勝計。而依被下院宣。堂衆者同七日弃城退散。學生者同十九日出城下洛訖。於今者存靜謐由之處。同廿八日復蜂起。本院學生同心。群居靈山長樂寺。祗園等。重欲及濫行云々。

読下し                     かもんのかみにゅどうじゃくにん ちう  もう    い       えいざん どうしゅと がくしょうかくしつ  かっせん  およ
建仁三年(1203)九月大十七日壬午。 掃部頭入道寂忍 註し申して云はく。叡山の堂衆与學生確執し合戰に及ぶ。

いはん そ  おこ  は   さんぬ ごがつのころ  さいとう  しゃかどうしゅと がくしょうごうわせず  そうどうしゅ  はじ   おのおの おんじゃく なら  おこ
謂や其の起り者、去る五月之比、西塔の釋迦堂衆与學生合和不。惣堂衆は始めて 各 温室を列べ興す。

はちがつついたち がくしょう  じょうかくを だいなごんおか なら   みなみだに はしりいぼう  かま    どうしゅ ついきゃく
八月一日、 學生、 城郭於 大納言岡 并びに 南谷 走井坊に搆へ、堂衆を追却す。

おな    ろくがつ  どうしゅさんかしょうかんら  ゆうし  いんそつ    やま  のぼ  かみ  くだん じょうかくに こうせん   りょうほうしょうしのものあげ  かぞ  べからず
同じき六月、堂衆三ケ庄官等の勇士を引卒し、山に登り上の件の城郭于攻戰す。兩方傷死之者勝て計う不可。

しか    いんぜん  くださる    よっ    どうしゅは おな    なぬかしろ  す   たいさん   がくしょうはおな    じうくにちしろ   い   げらく をはんぬ
而るに院宣を下被るに依て、堂衆者同じき七日城を弃て退散す。學生者同じき十九日城を出で下洛し訖。

いま  をい  は せいひつ  よし  ぞん   のところ  おな   にじうはちにちふたた ほうき
今に於て者靜謐の由を存ずる之處、同じき廿八日復び蜂起す。

ほんいん がくしょうどうしん   りょうざんちょうらくじ  ぎおんら  ぐんきょ    かさ    らんぎょう およ      ほっ    うんぬん
本院の學生同心し、靈山長樂寺、祗園等に群居し、重ねて濫行に及ばんと欲すと云々。

現代語建仁三年(1203)九月大十七日壬午。掃部頭入道中原親能が、文書にして報告しました。比叡山の下働きの僧兵達と、上級僧侶達との間で不和が生じ戦になりました。その原因は、去る五月頃に、西塔の釈迦堂に仕える下働きの僧兵と上級僧侶とが不仲になり、下働きの僧兵達は、上級僧侶とは別の温室(蒸気湯)を造ったからです。八月一日には、上級僧侶は大納言岡や南谷走井房にバリケードを設置して、下働きの僧兵を追い出しました。同じく六日には、下働きの僧兵達が、三か所の荘園管理員の在地武士達を引き連れて、比叡山にのぼり、そのバリケードに戦を仕掛け、双方に大勢の死傷者が出ました。しかし、院から停止命令が出たので、下働きの僧兵達はバリケードをほったらかしにして引き上げました。上級僧侶達もバリケードを出て京の町へ下りました。一旦は、静かに収まったのですが、同じ八月の二十八日に又もや蟻が群がるように集まりました。比叡山本院の上級僧侶達は、一つにまとまって、霊山長楽寺や祗薗八坂神社に群れて、再び騒ぎを起こそうとしているそうです

参考掃部頭入道寂忍は、掃部頭中原親能。
参考
堂衆は、半僧半俗の労働役。
参考惣堂衆は始めて各温室を列べ興すは、学生を除いて独立した温室を別々にした。

建仁三年(1203)九月大十九日甲申。リ。故比企判官能員殘黨中野五郎義成已下事。猶以有其沙汰。被収公所領等云々。

読下し                     はれ  こひきのほうがんよしかず  ざんとう  なかののごろうよしなり いげ   こと  なおもっ  そ   さた あ
建仁三年(1203)九月大十九日甲申。リ。故比企判官能員が殘黨、中野五郎義成@已下の事、猶以て其の沙汰有り。

しょりょうら  しゅうこうさる    うんぬん
所領等を収公被ると云々。

参考@中野五郎義成は、能成とも書かれる。

現代語建仁三年(1203)九月大十九日甲申。亡くなった比企判官能員の残党の中野五郎能成を始めとする連中の処分について採択がありました。領地などは取り上げることにしましたとさ。

建仁三年(1203)九月大廿一日丙戌。リ。遠州。大官令等被經沙汰。入道前將軍不可令坐鎌倉中給之由。被定申之云々。

読下し                     はれ えんしゅう  だいかんれいら さた   へられ  にゅうどうさきのしょうぐん かまくらちう  おはせし  たま  べからずのよし
建仁三年(1203)九月大廿一日丙戌。リ。遠州、大官令等 沙汰を經被、 入道前將軍、 鎌倉中に坐令め給ふ不可之由、

これ  さだ  もうさる    うんぬん
之を定め申被ると云々。

現代語建仁三年(1203)九月大二十一日丙戌。晴れです。遠江守北条時政殿・大江広元たちの検討の結果、入道前将軍頼家を鎌倉に置いておかない方が良いと決めて、将軍に進言しましたとさ。

建仁三年(1203)九月大廿九日甲午。霽。左金吾禪室〔前將軍〕令下向伊豆國修禪寺給。巳尅進發給。先陣随兵百騎。次女騎十五騎。次神輿三帳。次小舎人童一人〔負征箭。騎馬〕。後陣随兵二百餘騎也。

読下し                     はれ  さきんごぜんしつ 〔さきのしょうぐん〕 いずのくにしゅぜんじ  げこう せし  たま
建仁三年(1203)九月大廿九日甲午。霽。左金吾禪室〔前將軍〕伊豆國修禪寺に下向令め給ふ。

みのこく  しんぱつ  たま
巳尅に進發し給ふ。

せんじん ずいへい ひゃっき  つぎ  にょき じうごき    つぎ  みこし みふり
先陣の随兵は百騎。次に女騎@十五騎。次に神輿三帳。

つぎ  ことねりわらわ ひとり  〔 そや  お     きば 〕   こうじん  ずいへい  にひゃくよきなり
次に小舎人童一人〔征箭を負ひ、騎馬〕後陣の随兵は二百餘騎也。

参考@女騎は、女騎馬武者。大山祇神社には、女性用の鎧が寄進されている。右の写真。但し、戦国時代のものだそうだ。

現代語建仁三年(1203)九月大二十九日甲午。晴れました。左衛門督頼家様〔前将軍〕を伊豆国の修善寺へ行かせました。巳の刻(午前十時頃)に出発しました。前を行く武装兵は百騎。次に女騎馬武者十五騎。次に神輿が三台。次に小間使い一人〔戦闘用の矢を背負って馬に乗っている〕。後ろの武装兵は二百騎です。

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