吾妻鏡入門第十八巻

建仁三年癸亥(1203)十月小

建仁三年(1203)十月小三日戊戌。武藏守朝雅爲京都警固上洛。西國有所領之輩。爲伴黨可令在京之旨。被廻御書云々。

読下し                   むさしのかみともまさ きょうとけいご   ためじょうらく
建仁三年(1203)十月小三日戊戌。武藏守朝雅 京都警固の爲上洛す。

さいごく  しょりょうあ  のやから  ばんとう  な   ざいきょうせし べ   のむね  おんしょ  めぐ  さる    うんぬん
西國に所領有る之輩、伴黨と爲し在京令む可し之旨、御書を廻ら被ると云々。

現代語建仁三年(1203)十月小三日戊戌。平賀武蔵守朝雅は、京都朝廷警備隊長として京都へ上りました。九州に領地のある連中は、同盟者として京都に駐在するように、命令書を回覧しましたとさ。

参考武藏守朝雅は、平賀朝雅で、時政と牧の方の娘婿。

建仁三年(1203)十月小八日癸夘。天霽風靜。今日。將軍家〔年十二〕御元服也。戌刻。於遠州名越亭有其儀。前大膳大夫廣元朝臣。小山左衛門尉朝政。安達九郎左衛門尉景盛。和田左衛門尉義盛。中條右衛門尉家長已下御家人等百餘輩着侍座。江間四郎主。左近大夫將監親廣持參雜具。時尅出御。理髪遠州。加冠前武藏守義信。次渡御休所後進御前物。江間親廣爲陪膳。役送。結城七郎朝光。和田兵衛尉常盛。同三郎重茂。東太郎重胤。波多野次郎經朝。櫻井次郎光高等也〔各近習小官中。被撰父母見存之輩召之云々〕。次奉鎧御釼御馬。佐々木左衛門尉廣綱。千葉平次兵衛尉常秀以下役之。

読下し                   そらはれかぜしずか きょう  しょうぐんけ 〔としじうに〕  ごげんぷくなり  いぬこく  えんしゅう なごえてい  をい  そ   ぎ あ
建仁三年(1203)十月小八日癸夘。天霽風靜。今日、將軍家〔年十二〕御元服也。戌刻@、遠州の名越亭に於て其の儀有り。

さきのだいぜんだいぶひろもとあそん おやまのさえもんのじょうともまさ  あだちのくろうさえもんのじょうかげもり  わだのさえもんのじょうよしもり  ちうじょうのうえもんのじょういえなが
前大膳大夫廣元朝臣、 小山左衛門尉朝政、 安達九郎左衛門尉景盛、和田左衛門尉義盛、 中條右衛門尉家長 

いげ   ごけにんら ひゃくよやから さむらい ざ  つ
已下の御家人等百餘輩  侍の座に着く。

えまのしろうぬし  さこんたいふしょうげんちかひろ  ぞうぐ   じさん     じこく   しゅつご    りはつ  えんしゅう  かかん  さきのむさしのかみよしのぶ
江間四郎主、左近大夫將監親廣 雜具を持參す。時尅に出御す。理髪は遠州。加冠は 前武藏守義信。

つい やすみどころ とぎょ  のち  ごぜん  もの  すす    えま  ちかひろばいぜん  な
次で 休所 に渡御の後、御前の物Aを進む。江間、親廣陪膳を爲す。

えきそう   ゆうきのしちろうともみつ  わだのひょうえのじょうつねもり  どうさぶろうしげもち  とうのたろうしげたね  はたののじろうつねとも  さくらいのじろうみつたから なり
役送は、結城七郎朝光、 和田兵衛尉常盛、 同三郎重茂、 東太郎重胤B、波多野次郎經朝、櫻井次郎光高等也。

〔おのおの きんじゅう  しょうかん  うち   ふぼ  げんそんのやから えらばれこれ  め    うんぬん 〕
〔 各 近習の小官の中、父母見存之輩を撰被之を召すと云々〕

つぎ よろい ぎょけん  おんうま たてまつ  ささきのさえもんのじょうひろつな  ちばのへいじひょうえのじょうつねひで いげ これ  えき
次に鎧、御釼、御馬を奉る。佐々木左衛門尉廣綱、 千葉平次兵衛尉常秀C以下之を役す。

参考@戌刻は、午後8時ごろで、夜の闇が穢れを隠す浄闇。
参考A御前の物は、御膳の物。
参考B東太郎重胤は、千葉氏、東六郎大夫胤頼の子。
参考C千葉平次兵衛尉常秀は、千葉介常胤の孫。千葉介常胤ー千葉新介胤正ー常秀。

現代語建仁三年(1203)十月小八日癸卯。空は晴れ風も静かです。今日、将軍〔十二歳〕の元服式です。戌の刻(午後八時頃)、遠江守北条時政殿の名越の屋敷でその儀式を行いました。大江広元・小山左衛門尉朝政・安達九郎左衛門尉景盛・和田左衛門尉義盛・中條右衛門尉家長を始めとする御家人達が百人以上も侍所の席に着きました。江間四郎義時殿と源右近将監親廣が、道具類を持ってきました。予定時刻に将軍が出てきました。髪切役をしたのは遠江守北条時政殿。冠をかぶせる役は大内前武蔵守義信でした。次に休憩所に行ったうえで、御膳に手を付けました。義時と源親廣が給仕をしました。運び役の人は、結城七郎朝光・和田兵衛尉常盛・和田三郎重茂。東平太重胤・波多野次郎経朝・桜井次郎光高です。〔それぞれ将軍のおそばに仕える身分の低い者の内、両親健在の連中を選んでこの役にしました〕次に、鎧・太刀・馬を献上しました。佐々木左衛門尉廣綱・千葉境平次兵衛尉常秀以下がこの役を果たしました。

建仁三年(1203)十月小九日甲辰。快霽。今日將軍家政所始也。午尅。別當遠州。廣元朝臣已下家司〔各布衣〕等着政所。民部丞行光書吉書。令圖書允C定成返抄。遠州持參吉書於御前給。無出御之儀。於簾中故以覽之。遠州皈着本所之後。有垸飯盃酒之儀。其後始着甲冑。又乘馬給。遠州被奉扶持之。小山左衛門尉朝政。足立左衛門尉遠元等着甲冑母廬等。次第故實。執權悉奉授之云々。及晩有御弓始。北條五郎爲奉行。圖書允C定注矢員。和田左衛門尉義盛献的云々。
  射手
 一番
   和田左衛門尉義盛 海野小太郎幸氏
 二番
   榛谷四郎重朝   望月三郎重隆
 三番
   愛甲三郎季隆   市河五郎行重
 四番
   工藤小次郎行光  藤澤四郎C親
 五番
   小山七郎朝光   和田平太胤長

読下し                   かいせい  きょうしょうぐんけ まんどころはじめ なり
建仁三年(1203)十月小九日甲辰。快霽。今日將軍家 政所始 也。

うまのこく べっとうえんしゅう  ひろもとあそん いか けいし 〔おのおの ほい〕 ら まんどころ  つ
午尅、別當遠州、廣元朝臣已下家司〔 各 布衣〕等政所に着く。

みんぶのじょうゆきみつ きっしょ  か    としょのじょうきよさだへんしょう  な せし   えんしゅうきっしょを ごぜん  じさん  たま
 民部丞行光、 吉書を書く。圖書允C定返抄@成さ令め、遠州吉書於御前に持參し給ふ。

しゅごのぎ な     れんちう  をい ことさら もっ  これ  み
出御之儀無し。簾中に於て故に以て之を覽る。

えんしゅうほんしょ かえ つ   ののち  おうばんはしゅの ぎ あ     そ   ご はじ    かっちゅう き
遠州本所へ皈り着く之後、垸飯盃酒之儀有り。其の後始めて甲冑を着る。

また  じょうば  たま   えんしゅうこれ  ふち たてまつらる
又、乘馬し給ふ。遠州之を扶持し奉被る。

おやまのさえもんのじょうともまさ  あだちのさえもんのじょうとおもとら かっちゅう ほろ ら   つ    しだい  こじつ   しっけん ことごと これ  さず たてまつ  うんぬん
小山左衛門尉朝政、 足立左衛門尉遠元等 甲冑 母廬等を着ける次第の故實、執權 悉く 之を授け奉ると云々。

ばん  およ  おんゆみはじめ あ    ほうじょうのごろうぶぎょう な    としょのじょうきよさだ やかず  ちう    わだのさえもんのじょうよしもり まと  けん    うんぬん
晩に及び 御弓始 有り。北條五郎奉行を爲し、圖書允C定 矢員を注す。和田左衛門尉義盛 的を献ずと云々。

参考@返抄は、返事だが、ここでは返して貰うor受け取るの意味らしい。

      いて
  射手

  いちばん
 一番

      わだのさえもんのじょうよしもり    うんののこたろうゆきうじ
   和田左衛門尉義盛  海野小太郎幸氏

   にばん
 二番

      はんがやつのしろうしげとも     もちづきのさぶろうしげたか
   榛谷四郎重朝    望月三郎重隆

  さんばん
 三番

      あいこうのさぶろうすえたか     いちかわのごろうゆきしげ
   愛甲三郎季隆    市河五郎行重

  よんばん
 四番

      くどうのこじろうゆきみつ       ふじさわのしろうきよちか
   工藤小次郎行光   藤澤四郎C親

   ごばん
 五番

      おやまのしちろうともみつ      わだのへいたたねなが
   小山七郎朝光    和田平太胤長

現代語建仁三年(1203)十月小九日甲辰。快晴です。今日は、新将軍の政務始め式です。午の刻(昼十二時)に、指導職の遠江守北条時政殿・大江広元以下の家政機関の事務官〔それぞれ平服です〕達が、政務事務所の席に着きました。
二階堂民部丞行光が、始め式用の縁起文書を書きました。図書允清定が受け取って、遠江守北条時政殿が将軍の前へ持って行きました。事務所へは出られず、御簾の中でもっぱら見ました。遠江守北条時政殿が元の席へ戻った後で、御馳走と乾杯の儀式をしました。
それから初めて鎧兜を着ました。又、馬にも乗りました。北條時政殿が手助けをしました。小山左衛門尉朝政・足立左衛門尉遠元が、鎧兜や背中にかつぐ大きな袋のホロをつける儀式や、やり方を全てお教えになりましたとさ。

夜になって、将軍になって初めての弓を射る儀式がありました。北条五郎時房が担当して、図書允清定が矢の記録係です。和田左衛門尉義盛が的を献上しましたとさ。
  射手は、
 一番が和田左衛門尉義盛 海野小太郎幸氏。
 二番が榛谷四郎重朝   望月三郎重隆。
 三番が愛甲三郎季隆   市河五郎行重。
 四番が工藤小二郎行光  藤沢二郎清親。
 五番が小山七郎朝光   和田平太胤長。

建仁三年(1203)十月小十日乙巳。昨日御弓始射手十人。被召北面竹御壷。故賜祿。或野劔一腰。或腹巻一領云々。東太郎。和田兵衛尉。足立八郎等傳之。

読下し                   さくじつ おんゆみはじめ いて じうにん  ほくめん  たけのおんつぼ めさる   ことさら ろく  たま
建仁三年(1203)十月小十日乙巳。昨日の御弓始の射手十人、北面の 竹御壷 に召被る。故に祿を賜はる。

ある    のだちひとこし  ある   はらまきいちりょう うんぬん  とうのたろう  わだのひょうえのじょう  あだちのはちろうら これ つた
或ひは野劔一腰、或ひは腹巻一領と云々。東太郎、 和田兵衛尉、 足立八郎等 之を傳う。

現代語建仁三年(1203)十月小十日乙巳。昨日の弓始めの射手十人を、北側の御殿の竹の内庭に呼び出されて、褒美を与えました。ある人には公卿用の飾り太刀。ある人には簡易な鎧の腹巻一両。東平太重胤・和田兵衛尉常盛・足立八郎がこれを手渡しました。

建仁三年(1203)十月小十三日戊申。於法花堂。被修故大將軍御追善。導師眞智坊法橋。將軍家有御參堂。源大夫將監親廣取布施云々。

読下し                      ほけどう   をい    こだいしょうぐん  ごついぜん  しゅうさる    どうし   しんちぼうほっきょう
建仁三年(1203)十月小十三日戊申。法花堂に於て、故大將軍の御追善を修被る。導師は眞智坊法橋。

 しょうぐんけ ごさんどう あ     みなもとのたいふしょうげんちかひろ ふせ   と     うんぬん
將軍家御參堂有り。 源大夫將監親廣@ 布施を取ると云々。

参考@源親廣は、大江広元の子で源通親の養子になったので源と言う。

現代語建仁三年(1203)十月小十三日戊申。頼朝様の墳墓の法華堂で追善供養の法事を行いました。指導僧は真智房法橋。将軍実朝さまもお堂へお参りです。源大夫右近将監親広が布施を与える担当です。

建仁三年(1203)十月小十四日己酉。鶴岳。并二所。三嶋。日光。宇都宮。鷲宮。野木宮以下諸社被奉神馬。是世上無爲御報奉賽云々。

読下し                    つるがおかなら   にしょ   みしま   にこう   うつのみや わしのみや のぎのみや いか  しょしゃ  しんめ  たてまつらる
建仁三年(1203)十月小十四日己酉。鶴岳并びに二所@、三嶋、日光、宇都宮、鷲宮A、野木宮以下の諸社に神馬を奉被る。

これ  せじょう むい   ごほうさい   うんぬん
是、世上無爲の御報賽と云々。

参考@二所は、箱根權現と伊豆山權現。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。
参考A鷲宮は、埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮1丁目6番1号鷲宮神社。

現代語建仁三年(1203)十月小十四日己酉。鶴岡八幡宮と箱根伊豆の二所權現・三島神社・日光山・鷲宮神社・野木宮神社を始めとするあちこちの神社に馬を奉納しました。これは、世の中が無事なように拝む為の奉納品です。

建仁三年(1203)十月小十九日甲寅。佐々木左衛門尉定綱。中條右衛門尉家長爲使節上洛。是將軍御代始也。京畿御家人等。殊挿忠貞。不可存貳之由相觸之。且可召進起請文之趣。所被仰遣武藏守朝雅并掃部頭入道寂忍等之許也。兩人去九日出門云々。

読下し                     ささきのさえもんのじょうさだつな  ちうじょうのうえもんのじょういえなが  しせつ  な   じょうらく
建仁三年(1203)十月小十九日甲寅。佐々木左衛門尉定綱、 中條右衛門尉家長 使節と爲し上洛す。

これ しょうぐん みよはじめなり  けいき    ごけにんら   こと  ちうてい さしはさ  ふたごころ ぞん べからずのよし これ あいふ
是、將軍の御代始也。京畿の御家人等、殊に忠貞を挿み、 貳を存ず不可之由之を相觸れる。

かつう きしょうもん  めししん  べ  のおもむき むさしのかみともまさなら   かもんのかみにゅうどうじゃくにんら のもと  おお  つか  さる ところなり
且は起請文を召進ず可し之趣、 武藏守朝雅 并びに 掃部頭入道寂忍 等之許へ仰せ遣は被る所也。

りょうにんさんぬ ここのかかどで   うんぬん
兩人 去る九日門出すと云々。

現代語建仁三年(1203)十月小十九日甲寅。佐々木左衛門尉定綱・中条右衛門尉家長が、公式の使者として京都へ上りました。これは、新将軍の治世の始めだからです。関西の御家人達は、忠節を守り、謀反の心を持たないように命じました。又、誓詞の文書を差し出させるように、平賀武蔵守朝雅と掃部頭入道寂忍中原親能等へ命令を伝えました。定綱と家長の二人は先日の九日に出発式をしたのだそうです。

建仁三年(1203)十月小廿五日庚申。將軍家招請莊嚴房行勇。令傳受法花經給。近習男女同及此儀云々。

読下し                     しょうぐんけ しょうごんぼうぎょうゆう  しょうせい   ほけきょう  でんじゅせし  たま
建仁三年(1203)十月小廿五日庚申。將軍家、莊嚴房行勇を招請し、法花經を傳受令め給ふ。

きんじゅう なんにょおな    かく  ぎ   およ    うんぬん
近習の男女同じく此の儀に及ぶと云々。

現代語建仁三年(1203)十月小二十五日庚申。将軍実朝様は、荘厳坊退耕行勇を招いて、法華経を教わりました。将軍のおそば近く仕える男女も一緒に聞きましたとさ。

建仁三年(1203)十月小廿六日辛酉。京都飛脚參着。申云。去十日。叡岳堂衆等以八王子山爲城郭群居之間。同十五日差遣官軍。依被攻之。堂衆等退散云々。葛西四郎重元。豊嶋太郎朝經。佐々木太郎重綱以下官軍三百人。爲惡徒被討取訖。伊佐太郎。熊谷三郎等進先登云々。同十九日。仰五畿七道。可召進梟黨等之由宣下云々。其間有可悲事。佐々木中務丞經高。同三郎兵衛尉盛綱。依奉勅定。欲發向山門之處。同四郎左衛門尉高綱入道。〔着黒衣桧笠〕自高野來。謁舎兄等。而高綱入道子息左衛門太郎重綱屬伯父經高出立之間。入道申可見子行粧之由。重綱着甲冑。來于父之前。父暫見之。敢不能瞬。亦不出詞。其後重綱退去于休所。其際經高。盛綱等感重綱云。今度合戰。彰藝擧名。預勳功之賞無其疑云々。高綱入道聞之云。勇士之赴戰塲。以兵具爲先。甲冑者輕薄。弓箭者短小也。是尤爲故實。就中如山上坂本邊。歩立合戰之時。可守此式。而重綱之甲冑太重。弓箭大兮。不相應主之間。更不可免死云々。果而不違其旨。加之彼時吐兵法才學。盛綱等聞之。挿件詞於意端。致合戰之處。一事而莫不苻合之云々。

読下し                     きょうと  ひきゃくさんちゃく    もう    い
建仁三年(1203)十月小廿六日辛酉。京都の飛脚參着し、申して云はく。

さんぬ とおか  えいがく  どうしゅ ら はちおうじやま  もっ じょうかく  な   ぐんきょ    のかん  おな    じうごにち かんぐん  さ   つか
去る十日。叡岳@の堂衆A等八王子山Bを以て城郭と爲し群居する之間、同じく十五日官軍を差し遣はし、

これ  せ   らる    よっ    どうしゅら たいさん   うんぬん
之を攻め被るに依て、堂衆等退散すと云々。

かさいのしろうしげもと  てしまのたろうともつね  ささきのたろうしげつな いか   かんぐんさんびゃくにん  あくと   ため  う   とられをはんぬ
葛西四郎重元、豊嶋太郎朝經、佐々木太郎重綱以下の 官軍三百人 、惡徒の爲に討ち取被訖。

いさのたろう   くまがいのさぶろうら せんと  すす   うんぬん
伊佐太郎、熊谷三郎等先登に進むと云々。

おな    じうくにち   ごきしちどう   おお      きょうとうら  め   しん  べ   のよし せんげ    うんぬん
同じき十九日、五畿七道に仰せて、梟黨等を召し進ず可し之由宣下すと云々。

そ   かんかなし べ   ことあ
其の間悲む可き事有り。

ささきのなかつかさのじょうつねたか おな   さぶろうひょうえのじょうもりつな ちょくじょう たてまつ  よっ    さんもん  はっこう      ほっ    のところ
佐々木中務丞經高 、同じき三郎兵衛尉盛綱 、 勅定を 奉るに依て、山門Cに發向せんと欲する之處、

おな    しろうさえもんのじょうたかつなにゅうどう 〔こくい ひがさ  つ  〕  こうや よ   きた    しゃけいら  えっ
同じき 四郎左衛門尉高綱入道〔黒衣桧笠Dを着く〕高野自り來り、舎兄等に謁す。

しか   たかつなにゅうどう しそく さえもんたろうしげつな  おじ つねたか  ぞく  しゅったつのかん  にゅうどう こ ぎょうしょう  み   べ   のよし  もう
而るに高綱入道が子息左衛門太郎重綱伯父經高に屬し 出立之間、 入道子の行粧を見る可し之由を申す。

しげつなかっちゅう つ   ちちの まえに きた    ちちしばら これ み     あえ  またた   あたはず  またことば いださず そ   ご しげつな やすみどころに たいきょ
重綱甲冑を着け、父之前于來る。父暫く之を見て、敢て瞬くに不能。亦詞を出不。其の後重綱 休所于 退去す。

そ   さいつねたか もりつなら   しげつな  かん    い
其の際經高、盛綱等に重綱に感じて云はく。

このたび  かっせん   げい  あら    な   あ     くんこうの しょう  あず        そ   うたが な    うんぬん
今度の合戰に、藝を彰はし名を擧げ、勳功之賞に預らんこと其の疑ひ無しと云々。

たかつなにゅうどう これ き   い       ゆうしのせんじょう  おもむ     ひょうぐ  もっ  せん  な
 高綱入道 之を聞き云はく。勇士之戰塲に赴くは、兵具を以て先と爲す。

かっちゅうは かる  うす   ゆみやは みじか しょうなり  これ  もっと  こじつ  な
甲冑者輕く薄く。弓箭者短く小也。是、尤も故實と爲す。

なかんづく さんじょう さかもとへん ごと       かち   かっせんのとき  こ   しき  まも  べ
就中に山上、坂本邊の如きは、歩立の合戰之時、此の式を守る可し。

しか   しげつなのかっちゅう はなは おも   ゆみや  だい    て   あるじ そうおうせずのかん  さら  し   まぬか べからず  うんぬん
而るに重綱之甲冑は太だ重く、弓箭は大にし兮、主に相應不之間、更に死を免る不可と云々。

はたして  そ   むね たがはず  これ  くは  か   ときひょうほう さいがく  は
果而、其の旨に違不。之に加へ彼の時兵法の才學を吐く。

もりつなら これ  き    くだん ことばを い  はし さしはさ   かっせんいた のところ ひとつこと  て これ  ふごうせず  な    うんぬん
盛綱等之を聞き、件の詞於意の端に挿み、合戰致す之處、一事とし而之に苻合不は莫しと云々。

参考@叡岳は、比叡山。
参考A堂衆は、僧兵だが、あえて武者僧とよぶ。平安時代最高で三千人いたそうだ。
参考B八王子山は、近江国牛尾山の八王子権現。現牛尾山法厳寺らしい。
参考C山門は、比叡山。寺門といえば三井寺。
参考D桧笠は、経木を網代に編んだ笠で、大峰の修験者がかむったので行者笠とも呼ぶ。

現代語建仁三年(1203)十月小二十六日辛酉。京都からの伝令が到着して、報告しました。

「先日の十日に、比叡山の下働きの武者僧達が八王子権現に群れ立てこもっているので、十五日に朝廷から軍隊を派遣し、攻めさせたので、下働きの僧兵達は引き退いたそうです。この戦いで、葛西四郎重元・豊島太郎朝経・佐々木太郎重綱を始めとする軍隊三百人が僧兵達に殺されてしまいました。伊佐太郎為宗・熊谷三郎直勝等が先頭に立って突撃しました。十九日には全国に命じて、僧兵達を捕まえるように朝廷から命令が出たそうです。

このいきさつの中に、悲しむべきニュースがあります。佐々木二郎仲務丞經高と佐々木三郎兵衛尉盛綱兄弟は、朝廷からの命令を受けて、比叡山へ出発しようとした時に、四男の佐々木四郎左衛門尉高綱入道〔出家して黒い袈裟に桧の行者笠です〕が高野山から降りてきて兄さんたちに会いました。そして、高綱入道の息子の左衛門太郎重綱は、伯父の経高に従って出発するところでした。高綱入道が「わが子の戦仕度をみようぞ。」と云うと重綱は鎧兜を着て父の前に来ました。父はしばらく彼を見ていましたが、特に何とは無く、又言葉も出しませんでした。重綱は休憩所へ行きました。

そしたら、経高・盛綱兄弟は、重綱の立派さに感じて「今度の戦いで、腕前を見せて名をあげ、さぞかしお褒めの褒美を貰うことに間違いないでしょう。」だとさ。高綱入道はそれを聞いて云いました。
「勇敢なる兵士は、身に着ける武具をまず考えるべきである。鎧兜は軽くて薄い物、弓矢は短めで良いのだ。昔からそういわれている。ましてや比叡山の山上や坂本のあたりでは、馬ではなく徒歩での戦いには、その方法を守るべきでしょう。ところが、重綱の鎧兜はとても重い物だし、弓矢は大きなものを持っているが、持ち主に不相応なので、これは死を逃れることはできないでしょう。」とのことです。
結果、この言い分どおりでした。そればかりか、ついでに戦いの学識を披露しました。盛綱はこれを聞いて、この言葉を頭に浮かべ戦ったところ、ひとつとして間違いはなかったそうです。

建仁三年(1203)十月小廿七日壬戌。武藏國諸家之輩。對遠州。不可存貳之旨。殊被仰含之。左衛門尉義盛爲奉行云々。

読下し                     むさしのくにしょけのやから  えんしゅう  たい  ふたごころ ぞん べからずのむね  こと  これ  おお  ふく  らる
建仁三年(1203)十月小廿七日壬戌。武藏國諸家之輩は、遠州に對し、 貳 を存ず不可之旨、殊に之を仰せ含め被る。

さえもんのじょうよしもりぶぎょう  な     うんぬん
左衛門尉義盛奉行を爲すと云々。

現代語建仁三年(1203)十月小二十七日壬戌。武蔵国の多くの武家達は、遠江守北条時政殿に対して背くことの無いように、(将軍から)特に命令を出されました。和田左衛門尉義盛が担当しましたとさ。

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