吾妻鏡入門第十八巻

建仁四年甲子(1204)正月大

建仁四年(1204)正月大五日己巳。天霽風靜。將軍家〔去年十月廿四日任右兵衛佐御〕始御參鶴岳八幡宮。前後供奉人成墻。朝光持御釼。於宮寺供養法花經。安樂房爲導師。請僧六口也。其後被引御布施。口別帖絹三疋。筑後太郎朝重沙汰之云々。

読下し                   そらはれかぜしずか しょうぐんけ 〔きょねんじうがつにじうよっかうひょうえのすけ  にん  たま  〕  はじ  つるがおかはちまんぐう ぎょさん
建仁四年(1204)正月大五日己巳。天霽風靜。將軍家〔去年十月廿四日右兵衛佐に任じ御う。〕始めて鶴岳八幡宮へ御參す。

ぜんご  ぐぶにん かき  な     ともみつぎょけん  も     ぐうじ   をい  ほけきょう   くよう      あんらくぼう どうし  な    しょうそう  むくちなり
前後の供奉人墻を成す。朝光御釼を持つ。宮寺に於て法花經を供養す。安樂房導師を爲す。請僧は六口也。

そ   ご  おんふせ  ひかる    くべつ  ちょうけんさんびき ちくごのたろうともしげこれ   さた    うんぬん
其の後御布施を引被る。口別に帖絹三疋。筑後太郎朝重@之を沙汰すと云々。

参考@筑後太郎朝重は、八田知家の子。

現代語建仁四年(1204)正月大五日己巳。空は晴れあがって風も静かです。将軍実朝様〔去年の十月二十四日右兵衛佐に任命されました〕今年初めの鶴岡八幡宮へのお参りです。前後に従っている御家人は大勢で人垣になりました。結城七郎朝光が太刀持ちです。神宮寺で法華経を上げました。指導僧は安楽坊でお供の坊さんは六人です。その後、お布施を与えました。一人当たり絹を三匹〔六反分〕で、筑後八田太郎知重が負担しました。

建仁四年(1204)正月大八日壬申。陰。御所心經會。導師眞智房法橋。請僧六口。將軍家出御南面。事訖被牽御馬。

読下し                    くも    ごしょ   しんぎょうえ  どうし  しんちぼうほっきょう  しょうそう  むくち
建仁四年(1204)正月大八日壬申。陰り。御所の心經會。導師は眞智房法橋。請僧は六口。

しょうぐんけなんめん  しゅつご   ことおわ おんうま  ひかれ
將軍家南面に出御す。事訖り御馬を牽被る@

参考@御馬を牽被るは、お布施に馬を上げた。

現代語建仁四年(1204)正月大八日壬申。曇りです。御所で般若心経を唱える法会です。指導僧は真智坊法橋で、お供の坊さんは六人。将軍実朝様は公務用の南の建物にお出になりました。お布施には馬を上げました。

建仁四年(1204)正月大十日甲戌。リ。寒風甚利。及午尅徐休止。有御弓始。將軍家出御。被上御簾。射手六人。各二五度。射終之後。於西廊預祿。行騰沓弓征箭等也。
  射手
 一番
   和田平太胤長 榛谷四郎重朝
 二番
   諏方大夫盛隆 海野小太郎行氏
 三番
   望月三郎重隆 吾妻四郎助光

読下し                   はれ  かんぷう はなは と    うまのこく およ  ようや きゅうし   おんゆみはじめあ
建仁四年(1204)正月大十日甲戌。リ。寒風 甚だ利し@。午尅に及び徐く休止す。御弓始有り。

しょうぐんけしゅつご   おんみす あ   らる
將軍家出御す。御簾を上げ被る。

 いて ろくにん  おのおの ふたごど  いおわ   ののち   さいろう  をい  ろく  あず     むかばき  くつ  ゆみ  そや ら なり
射手六人。 各 二五度A。射終る之後、西廊に於て祿に預かる。行騰、沓、弓、征箭等也。

     いて
  射手

  いちばん
 一番

       わだのへいたたねなが   はんがやつのしろうしげとも
   和田平太胤長  榛谷四郎重朝

   にばん
 二番

       すわのたおふもりたか    うんののこたろうゆきうじ
   諏方大夫盛隆  海野小太郎行氏

  さんばん
 三番

       もちづきのさぶろうしげたか あがつまのしろうすけみつ
   望月三郎重隆  吾妻四郎助光

参考@利しは、厳しい。
参考A
二五度は、二矢づつ五回。

現代語建仁四年(1204)正月大十日甲戌。晴れです。寒風が吹いています。午の刻(昼頃)になってようやく止みました。そこで新年最初の弓を射る「弓始め式」です。将軍実朝様も見学のため御簾を上げました。射手は六人で、それぞれ二度づつ五回射終えて、西の廊下で褒美をもらいました。乗馬用行縢(ローハイド)・乗馬沓・弓・戦闘用の矢などです。
 一番が
  和田平太胤長 榛谷四郎重朝。
 二番が
  諏方大夫盛澄 海野小太郎幸氏。
 三番が
  望月三郎重隆 吾妻四郎助光

建仁四年(1204)正月大十二日丙子。リ。將軍家御讀書〔孝經〕始。相摸權守爲御侍讀。此儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。

読下し                     はれ  しょうぐんけおんどくしょ 〔こうきょう〕 はじ   さがみごんのかみおんじどく な
建仁四年(1204)正月大十二日丙子。リ。將軍家御讀書〔孝經〕始め。相摸權守御侍讀を爲す。

こ   じゅ  こと    もんじょうな    よっ    さいめいのほまれな   いへど   この    しょせき  あつ  つまびら ひゃっけきゅうりゅう つう  うんぬん
此の儒@、殊なる文章無きに依てA、才名之譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通づと云々。

おんよみあわ ののち  さきん ごじうりょう  ぎょけんひとこしをなかあきら たま
御讀合せ之後、砂金五十兩B、御劔一腰於中章に賜はる。

参考@此の儒は、源仲章を指すが儒者の意味であろう。
参考A
殊なる文章無きに依ては、特に文章を発表した訳でもないので。
参考B砂金五十兩は、砂金一両で五匁約18.68g。金1gの相場は、2011.09.07買い取り価格1g4,834円。両は、4,834円×
18.68g×50=4,514,956円。

現代語建仁四年(1204)正月大十二日丙子。晴れです。将軍実朝様の新年のお勉強始めです。〔孝経(教養書)を読む〕相模権守源仲章が、一緒に読む先生です。この儒教の教師は、特に何か文章を発表したわけでもないので、才能があると有名ではありませんが、好きで図書類を集めて、詳しく文章博士百家九流の多方面に通じているそうです。読み合わせを終わって、砂金五十両と刀を一振りお与えになりました。

建仁四年(1204)正月大十四日戊寅。霽。將軍家二所御精進始。

読下し                     はれ  しょうぐんけ にしょ  ごしょうじんはじ
建仁四年(1204)正月大十四日戊寅。霽。將軍家二所の御精進@始め。

現代語建仁四年(1204)正月大十四日戊寅。晴れました。将軍実朝様は、箱根・伊豆両権現へ詣でるための精進潔斎を始めました。

説明精進は、由比ガ浜へ行って海水で沐浴し身を清めるが、イザナギ以来上の潮で三回、中の潮で三回、下の潮で三回身を洗う。

建仁四年(1204)正月大十八日壬午。天顏快リ。辰尅。鶴岳別當阿闍梨尊曉。爲將軍家御祈祷。進發二所。江馬四郎主爲奉幣御使。同參給。先參御所。被跪南庭。〔僮僕皆在門外〕將軍家自南階下御。於庭上。向伊豆筥根三嶋方。廿一反拝給〔各七反〕。次四郎主起其所。參鶴岳宮之後被進發。

読下し                     てんがんかいせい たつのこく つるがおかべっとうあじゃりそんぎょう  しょうぐんけ   ごきとう   ため  にしょ   しんぱつ
建仁四年(1204)正月大十八日壬午。天顏快リ。 辰尅。 鶴岳別當阿闍梨尊曉。 將軍家の御祈祷の爲、二所へ進發す。

えまのしろうぬし ほうへい  おんし   な     おな    さん  たま    ま   ごしょ  まい    なんてい ひざまづかれ  〔 どうぼくみなもんがい   あ  〕
江馬四郎主奉幣の御使と爲し、同じく參じ給ふ。先ず御所へ參り、南庭に跪被る。〔僮僕皆門外に在り〕

しょうぐんけみなみ かいよ  お   たま    ていじょう をい     いず   はこね  みしまかた  むか    にじういっぺんはい  たま  〔おのおの しちへん〕
將軍家南の階自り下り御い、庭上に於て、伊豆、筥根、三嶋方へ向い、廿一反 拝し給ふ。〔 各 七反〕

つぎ  しろうぬし そ  ところ た    つるがおかぐう まい  ののちしんぱつさる
次に四郎主其の所を起ち、鶴岳宮に參る之後進發被る。

現代語建仁四年(1204)正月大十八日壬午。空は晴れ渡っています。辰の刻(午前八時頃)鶴岡八幡宮長官の阿闍梨尊暁が、将軍実朝様の健康などを祈祷するために箱根・伊豆の両権現へ出発です。江間四郎北条義時様が、御幣を捧げる代参として、同様に参ります。まず御所へ来て、公邸の南庭にかしずきました。〔お供は皆門の外で待っています〕将軍実朝様は南側の階段から下りて、庭で伊豆・箱根・三島神社へ向かって二十一度拝みました。〔それぞれ七回です〕それから義時様はそこからお立ちになり、鶴岡八幡宮へお参りをしてから出発されました。

建仁四年(1204)正月大廿二日丙戌。細雨灑。晩鐘之程。江間殿自二所還向。自伊豆山直被參着云々。

読下し                     さいう そそ    ばんしょうのほど  えまどの にしょよ   かんこう     いずさん よ   じき  さんちゃくさる    うんぬん
建仁四年(1204)正月大廿二日丙戌。細雨灑ぐ。晩鐘之程。江間殿二所自り還向す。伊豆山自り直に參着被ると云々。

現代語建仁四年(1204)正月大二十二日丙戌。細かい雨が降り注いでいます。夕方になって江間義時様が伊豆・箱根参りから帰られました。伊豆山走水神社から直接来られたそうです。

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