建仁四年甲子(1204)六月小
元久元年(1204)六月小一日壬辰。爲將軍家御願。今日中被造立愛染明王像三十三躰。即有供養之儀。導師莊嚴房行勇云々。 |
読下し
しょうぐんけ ごがん な きょうちう あいぜんみょうおうぞう さんじうさんたい ぞうりゅうさる
元久元年(1204)六月小一日壬辰。將軍家の御願と爲し、今日中に
愛染明王像 三十三躰を造立被る。
すなは くよう の ぎ あ どうし しょうごんぼうぎょうゆう うんぬん
即ち供養之儀有り。導師は莊嚴房行勇と云々。
現代語元久元年(1204)六月小一日壬辰。将軍実朝様の祈願として、今日中に愛染明王の像を三十三体造らせました。すぐに開眼供養の式を行いました。指導僧は荘厳坊退耕行勇だそうです。
元久元年(1204)六月小八日己亥。伊勢平氏追討賞事。重有其沙汰。先度漏恩之輩光員以下開愁眉。彼亡卒跡散在名田等云々。遠州令下知之給云々。 |
読下し いせへいし ついとう しょう こと かさ
そ さた あ
元久元年(1204)六月小八日己亥。伊勢平氏追討の賞の事、重ねて其の沙汰有り。
せんど おん もる
のやから みつかずいか しゅうび ひら か
ぼうそつ あと さんざい みょうでん ら うんぬん
先度恩に漏る之輩、光員以下愁眉を開く。彼の亡卒の跡は散在の名田@等と云々。
えんしゅうこれ げち
せし たま うんぬん
遠州之を下知令め給ふと云々。
参考@名田は、名字の地である。地方へ行くほど広く一か所に固まっている。しかし、畿内では小さくてばらばらである。
現代語元久元年(1204)六月小八日己亥。伊勢平氏をやっつけた褒美について、追加して決定があり、前回褒美に漏れていた連中の加藤太光員以下が喜びました。亡くなった平氏の領地は散在する彼らの名のついた田んぼだそうです。北條時政殿が命令しましたとさ。
元久元年(1204)六月小廿日辛亥。依爲臨時祭。將軍家〔右少將。去三月一日任給〕御參鶴岳八幡宮。被奉神馬二疋。流鏑馬經供養如例。 |
読下し
りんじさいたる よっ しょうぐんけ 〔うしょうしょう さんぬ さんがつついたちにん たま 〕 つるがおかはちまんぐう ぎょさん
元久元年(1204)六月小廿日辛亥。臨時祭爲に依て、將軍家〔右少將
去る三月一日任じ給ふ〕 鶴岳八幡宮
へ御參す。
しんめ にひき たてまつ らる やぶさめ きょうくろうれい ごと
神馬二疋を奉つ被る。流鏑馬、經供養例の如し。
現代語元久元年(1204)六月小二十日辛亥。臨時のお祭りなので、将軍実朝様〔右少将に先の三月一日に任命されました〕は、鶴岡八幡宮へお参りです。馬を二頭奉納しました。流鏑馬や読経は何時もの通りです。