吾妻鏡入門第十八巻

建仁四年甲子(1204)七月大

元久元年(1204)七月大十四日甲戌。未尅。將軍家俄以令患痢病給。諸人群參云々。

読下し                    ひつじのこく しょうぐんけ にはか もっ  りびょう  わずら せし たま    しょにんぐんさん   うんぬん
元久元年(1204)七月大十四日甲戌。未尅。將軍家、俄に以て痢病を患は令め給ふ。諸人群參すと云々。

現代語元久元年(1204)七月大十四日甲戌。未の刻(午後二時頃)将軍実朝様が、急に具合が悪くなって下痢をしました。皆心配して集まってきましたとさ。

元久元年(1204)七月大十五日乙亥。將軍家御不例。猶無御平愈之儀。仍於鶴岳宮。被始行信讀大般若經。當宮供僧等奉仕之。駿河守季時爲御使參宮寺。三ケ日中可結願之由。所被仰下也。

読下し                    しょうぐんけ  ごふれい   なお ごへいゆの ぎ な     よっ つるがおかぐう をい   だいはんやきょう  しんどく  しぎょうさる
元久元年(1204)七月大十五日乙亥。將軍家、御不例。猶御平愈之儀無し。仍て鶴岳宮に於て、大般若經の信讀を始行被る。

とうぐう ぐそうら  これ  ほうし    するがのかみすえとき おんし  な   ぐうじ   まい    みっかびちう  けちがんすべ  のよし  おお  くださる ところなり
當宮供僧等之を奉仕す。 駿河守季時 御使と爲し宮寺へ參る。三ケ日中に結願可し之由、仰せ下被る所也。

現代語元久元年(1204)七月大十五日乙亥。将軍実朝様の病気は、まだ治る気配がりません。そこで鶴岡八幡宮で大般若経をきちんと読み上げる法要を始めました。八幡宮の坊さん達が行いました。駿河守中原季時が、代参として八幡宮寺へお参りしました。三日の内に成就するように命令を出しましたとさ。

元久元年(1204)七月大十九日己夘。酉尅。伊豆國飛脚參着。昨日〔十八日〕左金吾禪閤〔年廿三〕於當國修禪寺薨給之由申之云々。

読下し                     とりのこく いずのくに  ひきゃくさんちゃく
元久元年(1204)七月大十九日己夘。酉尅。伊豆國の飛脚參着す。

さくじつ 〔じうはちにち〕  さきんごぜんこう  〔としにじうさん〕  とうごくしゅぜんじ   をい  こう  たま  のよし これ  もう    うんぬん
昨日〔十八日〕左金吾禪閤〔年廿三〕當國修禪寺に於て薨じ給ふ之由之を申すと云々。

現代語元久元年(1204)七月大十九日己卯。酉の刻(午後六時頃)、伊豆国から伝令が着きました。昨日〔十八日〕左衛門督頼家入道様〔年二十三〕が、伊豆の修禅寺でお亡くなりになりましたと報告しましたとさ。

説明元久元年(1204)七月十八日。[愚管抄]修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞えき。人はいみじくたけきも力及ばぬことなりけり。ひきは其郡に父の党とて、みせやの大夫行時と云う者のむすめを妻にして、一万御前が母をばもうけたるなり。その行時は又兒玉党にしたるなり。

元久元年(1204)七月大廿三日癸酉。快霽。將軍家御病惱平愈之間。沐浴給。

読下し                     かいせい しょうぐんけ  ごびょうのうへいゆの かん  もくよく  たま
元久元年(1204)七月大廿三日癸酉。快霽。將軍家の御病惱平愈之間、沐浴@し給ふ。

参考@沐浴は、穢れを洗い流すための儀式。沐は髪を洗い、浴は体を洗う。

現代語元久元年(1204)七月大二十三日癸酉。将軍実朝様の病気が治ったので、穢れを落とすため沐浴の儀式をしました。

元久元年(1204)七月大廿四日甲申。左金吾禪閤御家人等隱居于片土。企謀叛。縡發覺之間。相州差遣金窪太郎行親已下。忽以被誅戮之。

読下し                      さきんごぜんこう  ごけにんら へんど に いんきょ    むほん  くはだ
元久元年(1204)七月大廿四日甲申。左金吾禪閤の御家人等片土于隱居し、謀叛を企つ。

ことはっかく    のかん  そうしゅう  かなくぼのたろうゆきちか いか   さ   つか      たちま もっ  これ  ちうりくさる
縡發覺する之間、相州、 金窪太郎行親 已下を差し遣はし、忽ち以て之を誅戮被る。

現代語元久元年(1204)七月大二十四日甲申。左金吾頼家入道様の家来が鎌倉の近辺の地に隠れて反乱を起こそうとしている。それがばれたので、相州義時は、金窪太郎行親等部下を派遣して、あっという間にこれを殺させてしまいました。

元久元年(1204)七月大廿六日丙戌。安藝國壬生庄地頭職事。山形五郎爲忠与小代八郎等相論之間。就守護人宗左衛門尉孝親注進状。今日。於御前被一决。遠州并廣元朝臣等被候御前。是將軍家直令聽断政道給之始也。

読下し                     あきのくに みぶのしょう  ぢとうしき  こと  やまがたのごるためただ  と しょうだいのはちろう らそうろんのあいだ
元久元年(1204)七月大廿六日丙戌。安藝國壬生庄@の地頭職の事、 山形五郎爲忠A与小代八郎B等相論之間、

しゅごにん そうさえもんのじょうたかちか  ちうしんじょう  つ     きょう   ごぜん  をい  いっけつさる
守護人 宗左衛門尉孝親 の注進状に就き、今日、御前に於て一决被る。

えんしゅうなら    ひろもとあそんら ごぜん  こう  らる    これ  しょうぐんけじき  せいどう ちょうだんせし たま  のはじ  なり
遠州 并びに廣元朝臣等御前に候じ被る。是、將軍家直に政道を聽断令め給ふ之始め也。

参考@壬生庄は、広島県山県郡北広島町壬生。
参考A山形五郎爲忠は、山県郡らしい。
参考B小代八郎は、広島県福山市松永町2丁目に小代集会所があるが、ちょっと離れているので疑問。埼玉県東松山市出身。

現代語元久元年(1204)七月大二十六日丙戌。安芸国壬生庄(広島県)の地頭職について、山形五郎為忠と小代八郎行平とが訴訟しており、守護の宗左衛門尉孝親の提出した文書に基づいて、今日将軍の前で採決をしました。遠江守北条時政殿と大江広元さんが御前に参りました。それは、将軍が直接政治向きについて内容をお聞きになった始めだからです。

八月へ

吾妻鏡入門第十八巻

inserted by FC2 system