建仁四年甲子(1204)八月小
元久元年(1204)八月小三日癸巳。今日。鎌倉中寺社領等事。有其沙汰。左京進仲業補永福寺公文職。且令奉行寺中沙汰。且可明寺領年貢進未之由。被仰付云々。 |
読下し きょう かまくらちう じしゃりょうら こと そ さた あ さきょうのしんなかなり ようふくじ くもんしき ぶ
元久元年(1204)八月小三日癸巳。今日、鎌倉中の寺社領等の事、其の沙汰有り。
左京進仲業、永福寺の公文職に補す。
かつう じちう さた ぶぎょうせし
かつう じりょう ねんぐ いま すす
あきら すべ のよし おお
つ らる うんぬん
且は寺中の沙汰を奉行令め、且は寺領の年貢の未だ進まずを明かに可し之由、仰せ付け被ると云々。
現代語元久元年(1204)八月小三日癸巳。今日、鎌倉中の寺社の領地について、その裁決がありました。左京進中原仲業を、永福寺の事務長に任命しました。一つは、寺の中の規則を采配し、一つは寺の領地の年貢の未納をはっきりとさせるように、命じられました。
元久元年(1204)八月小四日甲午。將軍家御嫁娶事。日來者可爲上総前司息女歟之由。雖有其沙汰。不及御許容。被申京都已訖。仍彼御迎以下用意事。今日有内談。於供奉人者。爲直御計。被定人數。以容儀花麗之壯士。可被撰遣之由云々。 |
読下し きしょうぐんけ
おんよめとり こと ひごろは かずさのぜんじ そくじょたるべ
か のよし
元久元年(1204)八月小四日甲午。將軍家の御嫁娶の事、日來者、上総前司が息女爲可き歟之由、
そ さた あ いへど ごきょよう
およばず
其の沙汰有ると雖も、御許容に及不。
きょうと すで
もうされをはんぬ
よっ か おんむかえいか ようい こと きょう ないだんあ
京都へ已に申被訖。 仍て彼の御迎以下の用意の事、今日内談有り。
ぐぶにん をい は じき おんはか な にんずう
さだ
らる ようぎ かれいの そうし もっ えら つか さる べ のよし うんぬん
供奉人に於て者、直の御計りと爲し、人數を定め被る。容儀花麗之壯士を以て、撰び遣は被る可し之由と云々。
現代語元久元年(1204)八月小四日甲午。将軍実朝様の嫁取りについて、幕府の会議では足利前上総介義兼の娘にしましょうかと決めましたが、気に入りませんでした。京都へすでに申し込んでしまっていました。それなので、そのお迎えの用意について、今日内輪での話し合いがありました。付き添う侍たちについては、将軍直々の希望として人数を決めました。風貌の良い若い勇敢な武士を選ぶようにとの仰せでしたとさ。
元久元年(1204)八月小十五日乙巳。鶴岳放生會。將軍家御輕服之間。付宮寺被行之。入夜。將軍家乘明月。令出由比浦給。粧一兩艘舟船。召六七輩伶人。管絃各盡妙曲。 |
読下し つるがおか ほうじょうえ しょうぐんけ ごきょうぶくのかん ぐうじ ふ これ おこな らる
元久元年(1204)八月小十五日乙巳。鶴岳
の放生會、將軍家御輕服之間、宮寺に付し之を行は被る。
よ
い しょうぐんけ めいげつ じょう
ゆいのうら いでせし たま
夜に入り、將軍家、明月に乘じ、由比浦@へ出令め給ひ、
いちりょう しゅうせん よそお ろくしちやから れいじん
め かんげん おんおの みょうきょく つく
一兩の艘舟船を粧い、六七輩の伶人を召し、管絃 各 妙曲を盡す。
参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
現代語元久元年(1204)八月小十五日乙巳。鶴岡八幡宮の生き物を放つ放生会の儀式です。将軍実朝様は兄の喪中なので、八幡宮に任せました。夜になって将軍実朝様は、中秋の名月に誘われて、由比の浦へお出になられ、一層の船をしつらえて、六・七人の楽団員を呼んで、皆良い音楽を奏でました。
元久元年(1204)八月小廿一日辛亥。石C水八幡寺領河内國高井田事。爲將軍家御祈祷所。被止地頭訖。可爲宮寺沙汰之由。今日被仰遣云々。 |
読下し いわしみずはちまんじりょう かわちのくにたかいど
こと しょうぐんけ ごきとうしょ な ぢとう とめられをはんぬ
元久元年(1204)八月小廿一日辛亥。石C水八幡寺領
河内國高井田@の事、將軍家御祈祷所と爲し、地頭を止被訖。
ぐうじ さた
たるべ のよし きょう おお
つか さる うんぬん
宮寺の沙汰爲可し之由、今日仰せ遣は被ると云々。
参考@高井田は、大阪府東大阪市高井田。
現代語元久元年(1204)八月小二十一日辛亥。石清水八幡宮の領地の河内国高井田について、将軍用の御祈祷料の年貢地にして、地頭を止めさせました。石清水八幡宮の管轄とするようにと、今日伝えさせましたとさ。