吾妻鏡入門第十八巻

建仁四年甲子(1204)九月大

元久元年(1204)九月大一日丙寅。近習之輩十餘人任官事。被擧申之云々。

読下し                  きんじゅうのやから じうよにん  にんかん  こと  これ  あ   もうさる    うんぬん
元久元年(1204)九月大一日丙寅。近習之輩 十餘人の任官の事、之を擧げ申被ると云々。

現代語元久元年(1204)九月大一日丙寅。将軍のそば近くに仕えている連中十余人の官職を受けることについて、これを推薦されましたとさ。

元久元年(1204)九月大二日丁夘。將軍家以御馬二疋〔河原毛。栗毛駮〕被奉伊勢内外兩宮。新藤二俊長。和泉拯景家等相具之。今朝進發云々。

読下し                    しょうぐんけ  おんうまにひき 〔かわらけ    くりげぶち 〕   もっ   いせ ないがい りょうぐう  たてまつらる
元久元年(1204)九月大二日丁夘。將軍家、御馬二疋〔河原毛。栗毛駮〕を伊勢内外の兩宮へ奉被る。

しんとうじとしなが  いずみのじょうかげいえこれ  あいぐ     けさ しんぱつ    うんぬん
新藤二俊長、和泉拯景家等之を相具し、今朝進發すと云々。

現代語元久元年(1204)九月大二日丁卯。将軍実朝様は、馬二頭〔瓦毛と栗毛のぶち〕を奉納品として伊勢神宮の内宮と外宮に奉納しました。新藤次俊長と和泉掾景家がこれを連れて今朝出発しましたとさ。

元久元年(1204)九月大十三日戊寅。法花堂御佛事訖。秉燭程。盜人入別當大學坊。盜取先考御遺物重寳等。即馳申之間。仰當番衆等。雖被明尋犯人。晦跡不知行方云々。

読下し                     ほけどう   おんぶつじ をはんぬ へいしょく ほど  ぬすっと  べっとうだいがくぼう  い    せんこう おんゆいぶつ ちょうほうら  ぬす  と
元久元年(1204)九月大十三日戊寅。法花堂の御佛事を訖。 秉燭の程、盜人、別當大學坊へ入り、先考の御遺物の重寳等を盜み取る。

すなは は  もう  のかん   とうばんしゅうら  おお      はんにん あか  たず らる    いへど    あと  くら     ゆくえしれず   うんぬん
即ち馳せ申す之間、當番衆等に仰せて、犯人を明し尋ね被ると雖も、跡を晦まし行方知不と云々。

現代語元久元年(1204)九月大十三日戊寅。頼朝法華堂での法事を終えました。灯りを灯す時間になって、泥棒が筆頭の大学房へ入り、頼朝様ゆかりの宝物類を盗みました。すぐに幕府へ走って知らせましたので、留守居当番の連中に命令して、犯人を捜させましたが、逃げ終えて行方が分からないとの事でした。

元久元年(1204)九月大十五日甲戌。霽。將軍家去夜白地入御相州御亭。即欲有還御處。亭主奉抑留給。今夜依爲月蝕。不意亦御逗留。亭主殊入興給。其間。行光候座。申云。京極大閤〔師實〕御時。白河院御幸于宇治。擬有還御。餘興不盡之間。猶被申御逗留。而明日有還御者。自宇治洛陽當于北。可有方忌之憚云々。殿下御遺恨甚之處。行家朝臣引喜撰法師詠歌。今宇治非都南。爲巽之由申之。因茲。其日被止還御云々。今夕月蝕。尤天之所令然也云々。相州殊御感云々。

読下し                     はれ  しょうぐんけさぬ よ あからさま そうしゅう おんてい  にゅうぎょ
元久元年(1204)九月大十五日甲戌。霽。將軍家去る夜白地に相州の御亭へ入御す。

すなは かんご あ      ほっ     ところ  てい あるじよくりゅうたてまつ たま   こんや げっしょくたる よっ    いならずまたごとうりゅう   てい あるじこと  きょう い   たま
即ち還御有らんと欲するの處、亭の主 抑留 奉り給ふ。今夜月蝕爲に依て、意不亦御逗留す。亭の主殊に興に入り給ふ。

 そ  かん  ゆきみつ ざ  そうら   もう    い       きょうごくたいこう 〔もろざね〕   おんとき  しらかわいん うじ に ぎょうこう
其の間、行光座に候ひ、申して云はく。京極大閤〔師實〕の御時、白河院宇治于御幸す。

かんご あ       なぞら   よきょう  つくさずの かん  なおごとうりゅうもうさる
還御有らんと擬い、餘興を盡不之間。猶御逗留申被る。

しか     あす かんご あ  ば    うじ よ   らくようきたに あた   かたいみのはばか あ   べ     うんぬん
而るに明日還御有ら者、宇治自り洛陽北于當る。方忌之憚り有る可しと云々。

でんか ごいこん はなは  のところ  ゆきいえあそん きせんほうし  えいか  ひ     いま うじ みやこ みなみ あらず たつみたるのよし これ  もう
殿下御遺恨甚だし之處、行家朝臣喜撰法師の詠歌を引き、今宇治都の南に非。巽爲之由、之を申す。

ここ  よっ    そ   ひ かんご  やめらる    うんぬん  こんゆうげっしょく  もっと てんのしから  せし ところなり  うんぬん そうしゅうこと ぎょかん   うんぬん
茲に因て、其の日還御を止被ると云々。 今夕月蝕。尤も天之然ら令む所也と云々。相州殊に御感すと云々。

現代語元久元年(1204)九月大十五日甲戌。晴れました。将軍実朝様は、昨夜突然思いついて、相州義時の屋敷へ行きました。すぐに帰ろうとしたら、主人が引き留めました。今夜は月食だと云うことなので、仕方なく泊まりました。主人はことのほか喜びました。その間に、二階堂行光がその場に居て、話すのには「京極太閤藤原師実さんが関白の時、白河院が宇治に出かけました。帰ろうとしましたが、遊びが終わっていなかったので、泊まっていくと言い出しました。そしたら、明日帰るにのは、宇治から京都は北に当たる。方角が悪いので避けて今日帰った方が良いんだそうです。師実がえらくがっかりしていたら、行家が喜撰法師の和歌を引用して、今宇治は都の南ではありません。辰巳(東南)の方角ですと云いました。それなら明日でもよいと、その日のお帰りを止めましたとさ。今日の月食も、天の配慮なんでしょうね。」と云いました。義時はとても感心して喜びましたとさ。

説明行光は、二階堂行光か工藤小次郎行光か分からぬが、京都の公家に詳しいのは文官であろうから二階堂行光としてみた。

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