吾妻鏡入門第十八巻

元久二年乙丑(1205)二月小

元久二年(1205)二月小十一日己亥。將軍家御參鶴岳八幡宮〔年首初度〕如例。

読下し                     しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん〔ねんしょ  しょど 〕 れい  ごと
元久二年(1205)二月小十一日己亥。將軍家、鶴岳八幡宮へ御參〔年首の初度〕例の如し

現代語元久二年(1205)二月小十一日己亥。将軍実朝様は、鶴岡八幡宮へのお参り〔年明け初めて〕は、何時もの通りです。

元久二年(1205)二月小十二日庚子。去月廿九日除書到着。將軍家任右中將。令兼加賀介給。善信持參此聞書於御所。

読下し                      さんぬ つきにじうくにち  じしょ とうちゃく   しょうぐんけ  うちうじゅう  にん    かがのすけ  かねせし  たま
元久二年(1205)二月小十二日庚子。去る月廿九日の除書到着す。將軍家、右中將に任じ、加賀介を兼令め給ふ。

ぜんしん かく ききがき を ごしょ  じさん
善信、此の聞書@於御所へ持參す。

参考@聞書は、人事異動を会議で決定すると、それを廊下で聞いている書記官が記録するので「聞き書き」と云う。

現代語元久二年(1205)二月小十二日庚子。先月二十九日の京都朝廷の辞令が届きました。将軍実朝様は右中将に任命され、加賀国の次官加賀介を兼務されました。大夫属入道三善善信がこの書面を御所へ持ってきました。

元久二年(1205)二月小十七日乙巳。將軍家御參鶴岳。是令用羽林拝賀給。相州。駿河守以下數輩供奉。安達右衛門尉景盛持御劔。

読下し                     しょうぐんけ つるがおか ぎょさん   これ  うりん   はいが  もち  せし  たま
元久二年(1205)二月小十七日乙巳。將軍家、鶴岳へ御參す。是、羽林@の拝賀を用い令め給ふ。

そうしゅう するがのかみ いげ すうやから ぐぶ    あだちのうえもんのじょうかげもり  ぎょけん  も
相州、駿河守以下數輩供奉す。安達右衛門尉景盛、御劔を持つ。

参考@羽林は、近衛将校の唐名。

現代語元久二年(1205)二月小十七日乙巳。将軍実朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。これは、中将を貰ったお礼のためです。相州義時・駿河守中原季時以下の数人がお供をしました。安達右衛門尉景盛が太刀持ちです。

元久二年(1205)二月小廿一日乙夘。武藏國土袋郷乃貢者。所被募永福寺住侶等供料也。遠州下知給云々。

読下し                      むさしのくにつちぶくろごう のうぐは   ようふくじじゅうりょら   くりょう  つのらる ところなり
元久二年(1205)二月小廿一日乙夘。武藏國土袋郷@の乃貢者、永福寺住侶等の供料に募被る所也。

えんしゅう  げち   たま    うんぬん
遠州、下知し給ふと云々。

参考@土袋郷は、埼玉県比企郡川島町。

現代語元久二年(1205)二月小二十一日乙卯。武蔵国土袋郷(埼玉県川島町)の年貢は、永福寺の住職の生活費の領地とする。遠江守北条時政殿が命令を出しましたとさ。

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