元久二年乙丑(1205)五月小
元久二年(1205)五月小三日庚申。世上物忩頗靜謐。群參御家人依仰大半及歸國云々。 |
読下し
せじょう ものさわ
すこる せいひつ ぐんさん ごけにん おお
よっ たいはん きこく およ うんぬん
元久二年(1205)五月小三日庚申。世上の物忩ぎ頗る靜謐す。群參の御家人仰せに依て大半は歸國に及ぶと云々。
現代語元久二年(1205)五月小三日庚申。世間の物騒がしさもすっかり静まりました。集まって来ていた御家人達は、命令によって殆どが国元へ帰りましたとさ。
元久二年(1205)五月小十二日己巳。美作國神林寺内。奉爲故幕下將軍家追福欲建三重塔婆。仍寺僧等申材木事等。仍今日可採用當國杣山之由。所被仰下也。 |
読下し
みまさかのくに かんばやしじない こばっかしょうぐんけ
ついぶく
おんため さんじう とうば たて ほっ
元久二年(1205)五月小十二日己巳。
美作國 神林寺@内に、故幕下將軍家の追福の奉爲、三重の塔婆Aを建んと欲す。
よっ
じそうら
ざいもく ことら もう よっ きょう
とうごく そまやま と もち べ のよし おお くださる ところなり
仍て寺僧等材木の事等を申す。仍て今日、當國の杣山から採り用いる可し之由、仰せ下被る所也。
参考@神林寺は、岡山県真庭市神66 神林寺 頼朝の命で梶原平三景時が堂塔建立の事蹟あり。
参考A三重の塔婆とは、三重の塔。
現代語元久二年(1205)五月小十二日己巳。美作国(岡山県真庭市神)の神林寺の境内に、故頼朝様の追善供養のため、三重塔を建立しようと思われました。そしたら、寺の坊さん達が材木の調達などを要求しました。それなので今日、美作国内の木材を切り出す山から切り出して使うように、命じられましたとさ。
元久二年(1205)五月小十八日乙亥。鶴岳三嶋等社被加修理。又當宮舞裝束已爲古物之間。依可被新調。被宛催諸御家人等。C定爲奉行書下之云々。 |
読下し
つるがおか みしましゃら しゅうり くは らる
元久二年(1205)五月小十八日乙亥。鶴岳・三嶋等社修理を加へ被る。
また とうぐうまいしょうぞく すで こぶつたるのかん しんちょうさる べ よっ しょごけにんら あてもよ さる
又、當宮舞裝束、已に古物爲之間、新調被る可きに依て、諸御家人等に宛催お被る。
きよさだぶぎょう な これ か くだ うんぬん
C定奉行と爲し之を書き下すと云々。
現代語元久二年(1205)五月小十八日乙亥。鶴岡八幡宮内と三島神社を修理させました。また、鶴岡八幡宮や三島神社のお神楽用の舞装束が、古くなったので、新しく新調しようと、御家人に割り当てました。図書允清定が担当してこの命令書を書いて出しましたとさ。
元久二年(1205)五月小廿四日辛巳。安樂寺領筑後國岩田。田嶋兩庄事。就社僧等愁訴。其沙汰。今日被付地頭職於社家云々。 |
読下し
あんらくじりょう
ちくごのくに
いわた たしま りょうしょう こと しゃそうら しゅうそ つ
元久二年(1205)五月小廿四日辛巳。安樂寺@領筑後國岩田A、田嶋B兩庄の事、社僧等の愁訴に就き、
そ
さた きょう ぢとうしきを
しゃけ ふ れる うんぬん
其の沙汰、今日地頭職於社家に付せ被ると云々。
参考@安樂寺は、筑前大宰府安楽寺天満宮。
参考A岩田庄は、福岡県小郡市上岩田。
参考B田嶋庄は、福岡県朝倉市田島らしい。双方の間は10km程度。
現代語元久二年(1205)五月小二十四日辛巳。太宰府天満宮安楽寺の領地である筑後国(福岡県)岩田庄(小郡市上岩田)と田島庄(同朝倉市田島)については、神社の坊さん達が泣き付いてきたので、その采配は、今日地頭職を神社関係者の社家に与えましたとさ。
元久二年(1205)五月小廿五日壬午。於營中。被供養五字文殊像。導師壽福寺長老云々。 |
読下し
えいちう をい いつじもんじゅぞう くよう
さる どうし じゅふじちょうろう うんぬん
元久二年(1205)五月小廿五日壬午。營中に於て、五字文殊像を供養被る。導師は壽福寺長老と云々。
現代語元久二年(1205)五月小二十五日壬午。御所において、五字文殊(五つの髻で敬愛)のお像を祈りました。指導僧は寿福寺の筆頭葉上坊律師栄西だそうです。
説明五字文殊は、文殊にその姿は一、五、六、八髻の文殊があり、それぞれの真言の字数により一、五、六、八字文殊と称される。一字文殊は増益、五字文殊は敬愛、六字文殊は調伏、八字文殊は息災の修法の本尊として迎えられる。HP「ほとけ」から。文殊祭りは二十五日らしい。そういえば、大船の常楽寺の文殊祭も1月25日だ。